ブレ−ク
われに心の悦びと
心のすこやかさあり
われの愛する妻ありて、われを愛す
わが身体 これすべて実なり

おのれを愛するほどに他を愛し
他をあがむるものはなく
おのれほど偉大なるものを
知ることあたわず

ブレーク
人は全て各自の妖怪に支配さる
時至りて人間として目覚め
湖の中へ妖怪を投げ捨てるまで

イェ−ツ
我々が真に生き始めるのは、人生を悲劇と感じてからである。

谷川俊太郎
黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら

「秘せずは花なるべからず」(世阿弥)
 ゆとりは生活の花であり、これは秘密の価値なくしては咲かすことができない。 心というものは言葉に到底尽くし得ないことを彼(良寛)は知っていたので、言葉を殊の他慎んだのであろう。
全て言葉をしみじみ言ふべし。
外からは窺い知れない内面を有することとなつかしい感情をひき起こすことが魅力ある人間の本質である。
愛は本来心の秘密であり、秘密を告白するようにしか愛は告白できない。先を見届けようとすることを止めること。存在の根拠には秘密がある。裏は分からぬ、先は見えぬということでストーリーははじめて発展する。

C・ウィルソン「宗教と反抗人」
仏陀もまた人間は自己の道徳的福祉に関しては唯自分一人が責任を持つと考え、さらに彼仏陀を神託として受け取るな、唯、己自身の道を見出すための先達として仏陀を利用せよと警告している。
人間にまつわる最も重大な事実は自己を変える能力である。アウトサイダーとは、おのが自身の複雑性と、彼を条件付け、彼の同一性を歪めようとする文明とに対する支配力を獲得しようと悪戦苦闘する人である。
人間は天使と同様に神のあらゆる能力、神の七つの霊全てから造られたものなり。しかしながら人間は現在腐敗せるがゆえに神的なる働きは常にその力を開示せず、人間のうちに活動することもない。それは人間のうちに湧き起こり、仮に照り輝くことがあろうとも、腐敗せる性質には不可知のものなり。
人生は戦いだ。絶えまない精神的戦闘である。
アウトサイダーは尨大な精神的努力によって神秘家へと成長する。これは自己の人生を戦闘状態と化せしめ、戦闘に必要な頭脳の緊張を保って生きることによって為される。神秘家とは高度の知識と活力を持つ人間にすぎない。
おのが自身の直接の洞察によって証明したものでなければ何ものをも認容しない。
詩人は誰でも人間の真価は当人の感情的体験の深さによって決められるということを知っている。自分自身と次には世界とに対する支配力を人間に本当に与えてくれるのは自分自身に対する深い洞察に他ならぬ。
アウトサイダーは神の存在を認めた。その神とは人間のうち自然のうちに作用している或る力であり、意識をもった如何なる個人の目的より大きな或る目的である。
脳の活動は心臓の鼓動や血液の動きとではなく呼吸と調子を合わせたものである。
真理とはそれを把握している人間の精神的強烈さなのだ。
宗教は到達点ではなく途上の休憩所にすぎない。
精神は神による物質の完全な征服をめざして苦闘する。
神々と英雄の行動はある不変の法則によって予め決定されている。
如何にしたら自分のために精神的力を獲得できるか。社会の背後にあって社会を動かす力となるべく勤めること。他人の中で一つの力となることによって他人のために力を獲得してやること。
アウトサイダーは時節が到来したならば自分の象牙の塔から出てゆかねばならない。その時機が熟するのは自己に対する精神の支配力を勝ち得たときである。
真理は主体性なのであり、従って自己に集中することによって真理は達成される。
文明はその死活問題として宗教を必要としている。人間の能力が人間の宗教に勝るようになったとき文明は崩壊する。
何事かを為そうとする意志は、それがどうしても必要であるという確信によってもたらされた或る強烈度に達すれば、その何事かを為すための新しい組織を作り出し編み出すものなのである。
自分一個の人格よりも大きな何ものかによって駆り立てられている人。
真の宗教とはあらゆる人間のための標準として、詩人や賢者の最も深遠な洞察を認めることに他ならぬ。
どんな夢でもそれを真実と信ずるほど強い人達の手にかかれば意志でそれを創造に変えることができる。
人間は神の意志を表現するかぎりにおいて偉大となるのであり、そうすることこそ生における永遠の把握行為なのである。
全てのものは崩れまた築かれる。また築く者は朗らかなり。

ショ−ペンハウア−
概念は真に本質的なものを与えてはくれない。本質的なものすなわち全て認識の基本になる純粋の実質内容は世界の直観的な把握にある。ところが直観的な把握は我々が自分でこれを得るほかに道はなくどんな方法を用いてもこれを教え込むことはできない。だから我々人間の道徳的価値と同じく、知性的な価値も、外部から我々の内部に入りきたるものではなく、我々自身の本質性格の深みから発するのである。

田中美知太郎「人間であること」
精神的な発展は自然に放っておけばそこに到達するというのではなくて、絶えず努力蓄積することによってその最高の立場が得られる。
真の自己同一性は我が我を知るという精神の自覚においてだけ考えられる。
我々の歴史の背後は無限の深淵であってこの文明はいつ深淵にのみこまれてしまって滅びるかもしれない(P・ヴァレリィ)。
人類の進歩などというものはない。人のために己の生命を棄てるという行為をする人間が現れたとき、人類の歴史における道徳的進歩は最高の立場に達するのであって、それ以上の進歩などありえない(ヤコブ・ブルクハルト)。
科学知識は教えることができるが発見を教えることはできない。
そのために命を投げ出してもいいと考えるようなつまり生命を超えた一つの絶対的価値というものがあるから、それが人生の目的となる。その為に死ぬることができるものが初めてそのために生きることができるものであって、そういうものは生命を超えたものである。よき人と思われることよりもよき人であることを願う。

「ヘルダ−リン」
すなわち尊敬する人物に対して自分が真に価値あるものであろうとするおのが努力は、根底においては真と善と美におのが個性をもって近付こうとする正当な願いに他ならない。
安住のないことは真の愛を生かすための必然である。

ゲーテ
私は知っている。何ものも私のものではなく、ただ私の魂から流れ出る思想のみがあることを。そして愛に満ちた運命が心底から私を楽しませてくれる全てのありがたい瞬間があることを。

E・フロム
子供は成長する子供に努力を期待しながら、自分はその努力をしていないことを自らの行動によって示す人々からの圧力や放任や過保護には反抗するのである。
神は本来私達が自分の内部に経験することのできる最高の価値の象徴である。
あえて自分で探そうとはせずに人生への答えを欲する人々。
神の概念はそもそものはじめからそれ自身を超越している。
生産的な人物は彼等が触れる全てのものを活気づける。彼等は自己の能力を生み出し、他の人々や物に生命を与える。
心からの愛は愛する能力と、他人に与える能力とを増大する。真に愛する人は特定の人物に対する彼もしくは彼女の愛によって全世界を愛する。
愛する殉教者:生を愛するがゆえに生きることを望み、自分を裏切らないために死ななければならないときにのみ死を受け入れる人々。
 理性、愛、芸術的創造の力、全ての本質的な力は、表現される過程において成長する。
愛することの喜びの真理を把握することの経験は時の中に起こるのではなく今ここで起こる。この今こそは永遠である。

「中村元の世界」
哲学研究の究極の目標は結局自分なりの考えを持つということではないだろうか。
世界観がその人の言動を決定する。
人は全宇宙に生かされているのである。自分が真理を悟るのだと考えることはできない。全宇宙が自分をして真理を悟らせてくれるのである。
呼吸・息である生命が人間の最も内奥にあり人間にとって最も本質的なものである。
喪失した自己の回復、自己が自己になること、本来の自己の追求が人生における苦悩の超克に他ならない。仏道を習うは自己を習うなり。
言葉や論理には非完全性が秘められている。
真理を求める心がその基本にあればよい。この真理はあらゆる思想・宗教を超越するものである。真理を見る立場に立つと既成宗教のどれにもこだわらなくなる。どの宗教に属してもよい。所詮は真理を見ればよいのである。
あらゆるものは壊滅をその本質的契機としている。この世の中には永遠に自己同一性を保つ不変なるものは何も存在しない。
真の修行者は「慈悲」と「不傷害」の徳を具現している人であると言われている。生きとし生けるものに対し柔和な態度をもち決して傷つけたり殺したりしない人である。
個々の場合に自己を棄てて他人を生かすこと。己が渡る前に一切衆生を渡せ。いかにたどたどしくとも光を求めて微々たる歩みを進めることは人生に真の喜びをもたらす。
修行者は生を欲しない。また死を喜ぶのでもない。ただ平静な心境で死時の来るのを待つ。
生死とは苦悩をともなった迷いの生活あるいは人生である。
いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。
仏となるにいとたやすき道あり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためあわれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあわれみ、よろずをいとふことなく、ねがふことなく、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく(道元)。
とらわれることがなくなった境地に達すれば、行いはおのずから善に合致し、そこに対立をのこさない。努力しなくても行いはおのずから正しくなる。
愛はそれが激しければ激しいほど、純粋であれば純粋であるほど危険と哀しさを内包している。
変化するものを変わらないで欲しいと希うから苦しみや悩みが生ずる。
求めることのない愛。
慈悲:同胞の利益と安楽とをもたらそうと望むこと
    同胞から不利益と苦悩とを除去しようと欲すること
慈悲の実践は人が自他不二の方向に向かって行為的に動くことのうちに存する。
賢者は今世をも来世をも希わない。淡々として生き従容として死んでいく。
愛は愛欲に増幅されついには心に憂いと苦しみとを生ぜしめるものである。
人間としての美徳は心の美しさ・清らかさに由来する。真実の平和は我々の心の中から現れる。
法をよるべとし自己をよるべとして他者ともども心の安らぎに赴きたいものである。
人間が利己的なものであるという厳しい現実を承認することによって、同情も愛も成立する。

開口健
ヒトには個性があり癖があり好みがあって、そこにこめられた心は不可侵であり小さな聖域であって、どうしようもない性質のものである。
細部を無視すると遅かれ早かれ全体に復仇されるものである。

エ−コ
その言語もまた状況から生まれたものである。

E・ミンコフスキ−
生命の自然な力動性
躍動そのものである自己
善の精神性と悪の物質性
ものを破壊する時間の砂漠

大拙
無知とエゴイズムの雲が一切払いのけられると、普遍の慈悲と知恵との光明が、栄光に満ちて、輝きわたるようになる。
法身の意志の中で我々は生き働き存在を保つ。
涅槃:煩悩の撲滅、慈悲の実践。
一言にして言うならば、法身の一切を包摂する愛と全能の知のこの世における実現である。
衆生の人生においては存在理由は無知とエゴイズムの影によって多少の違いこそあれおおいかくされてしまっている。それは仏陀によって残された道徳的教訓の単なる遵法のうちに存するものではない。また八正道への盲目的追従や俗世を離れた抽象的な瞑想への没入のうちにも存しない。大乗仏教における涅槃は法身の一切を包摂する愛より生じるエネルギ−と活動性に満ちあふれているものなのである。そこには受動性は全く見られない。またそれは俗世の騒擾から遠く離れて存するものでもない。このような涅槃のうちにある人は人間の諸々の願望を滅し去ることのうちに安らぎを求めるようなことはしない。また永劫の輪廻に直面
しても少しもひるむところがない。それどころか彼は急奔する生死の潮流に身を投じその流れのうちで永遠に浮沈する衆生を救い出さんが為に自らを犠牲に供するのである。
苦楽のスリルに満ちるこの世こそは涅槃そのものに他ならない。
この世の人生は法身の顕現であり、人間としての存在の理想は自らの心と身体のあらゆる可能性を尽くして、法身について考え得る限りの一切を実現するところにある。
愛知:知は眼であり愛は手足である。
涅槃の中道は般若と慈悲、菩提と方便、知識と愛情、知性と感情の真の調和のうちに存する。
愛こそは人間を鼓舞して彼一個人の利害を超越せしめる。
彼等は自己一人の解脱のうちに安らぎを得ようとはしない。
菩薩が現世に再度生を享けるに至ったとき喜ぶのは他人に利益する機会がもう一度与えられるからなのである。菩薩は衆生の一切の苦悩を自分の苦悩と感じる。
真の涅槃は他人の幸福を喜ぶところにある。生死はそういう喜びを感じないところにある。苦悩とはまさに利己的な幸福追求のうちに存し、涅槃とは他の人々のために自分の幸福を犠牲にするところに見出されるものである。愛の心を持つ人は、他の人々をこの世の惨苦から救うことに解脱を見出している。愛という生命躍動のエネルギーがなければ宗教は存続しない。
自愛は他に対する愛によって浄化されないかぎり何らの意味を持ちえない。
衆生のためにどこまでも尽くす。法身の意志は一切の衆生をあまねく解脱せしめるところにある。
悟りは中心のない円である。それゆえ中心はどこにでもある。いたるところが中心だ。天上天下唯我独尊はこれをいう。
慈悲を根本原理とし究極の目的である救世の方便実践道に到達する。

無文
命を大切にするということは長く生きることではなく、短い命を充実して生きること、生命のありったけを燃焼するということである。

スマイルズ
優れた人間は他人の評価などに余り重きを置かない。自分の本分を誠心誠意果たして良心が満足すればそれが彼にとっては無上の喜びとなるのだ。
どんな分野であれ成功に必要なのは秀でた才能ではなく決意だ。
人間の成長はひとえに困難と戦おうとする意思すなわち努力いかんにかかわっている。
強い願望は我々が何かを成し遂げるための先触れとなる。
人生の最高の目的は人格を強く鍛えあげ、可能なかぎり心身を発展向上させていくことである。これこそ唯一の目標であり、それ以外のものはこのための手段に過ぎない。最高の人間性を獲得し、他人に役立つ仕事に打ち込み、人間としての義務を果たしていくことこそ一番立派な生き方なのだ。
人間の美徳は自分の力で精一杯努力して学んだ時に初めて目覚める。
人間の行動は完全に滅びたりはしない。喩え肉体は露のごとく消え去っても善悪の行動はそれぞれに相応の実を結び将来の世代に感化を与えていくだろう。人間が生きていくことの大きな責任と危険とはまさに重大かつ厳粛なこの事実から生じるのである。
行動によって人を説き伏せられる人間。
人格教育の正否は誰を模範にするかによって決まる。
希望に燃えている人の心は健全で幸福そのものである。
仕事こそが人間の生き甲斐であり、全能力をそこに傾注すれば人格は向上し進歩も勝ち取れる。
常に良心が命じる義務を果たし結果は天に任せよ。
ものごとの始まりはすでにその中に結末をも含んでいるが、人生という旅においても第一歩を踏み出せばその方向と目的地は自ずと決まるのだ。
心の中の鏡に自分が正しく映ることを望んでいる。

アウレリウス
日々考えていることがあなたの精神を作っていく。何故なら魂は思索の色合いに染め上げられてしまうものだから。
自己を掘り下げてみよ。そこには善の泉が流れている。掘り続けたまえ。そうすれば尽きることなく湧いてくるだろう。
進むべき道がそこに横たわっているのにいつまでも勘ぐっている必要がどこにあるのか。道がはっきり見えるなら意気高らかに前進し、決して引き返すな。道がはっきりと分からないなら優れた助言を仰ぐまでそこで待っているがいい。
善い人間とはいかにあるべきかなどという時間つぶしの議論はもう止めたほうがいい。それより自分がまず善い人間になることだ。
誠実になるのに前口上など必要としない。自ずと明かになるものなのだ。本当に誠実な人ならその事実は額に刻まれ、声の調子にも現れるだろう。さながら愛されている人の一瞬の眼差しの中に愛する人への全てが語り尽くされるように。誠実さも一瞬にして瞳から輝き出るはずだ。
誠実さや善良さというものは紛れもなく固有の香りを備えていて、近付いた人は否応なくそれを気付かされてしまう。
不幸は自分の心の持ちようによって生まれる。

鈴木大拙
全てを知る人は全てを許すなり。
自分をむなしうするという工夫は積極的に他のために働くことです。

クリシュナムルティ
無であることへの恐怖が所有を助長する。

中沢治樹
顔は心の表れであり、内と外は一如ですから、内に深く蔵せられた知恵=生命も自ずから外に輝き出るはずです。

吉田健一
人間が一人むきになって何かやってゐればそのうちにその人間にとってはその何かの適量に達する。人間は誰でもその真実であることを知ったときに声を大きくしてそれを言ふ必要がない。
まだ異常を何か珍重すべきことに思って深淵を覗くといふ種類のことを言ってゐるものは地獄を知らないのである。
正常な言葉といふのは必ず静かに働き掛ける。
我々が本当に何か言ひたければ言葉そのものの性質に従ふ他ないのである。

「新釈現代文」
ことごとく書を信じるならばむしろ読まないほうがよい。何でもかんでも読んだものを全部自分の心に収めようとしたりすれば、我々の精神は混乱するばかりである。どうしてもそこに批判の必要がある。静かな黙読を続けてゆくことにしたがって、我々の目の前に立ち現れては消え去ってゆく言葉の流れから、自然に、明瞭に、ある思想や感情が我々の心に伝わってくるという状態が読書の一番望ましい状態である。
書物が書物と見えず、それを書いた人間に見えてくるのには相当な時間と努力とを必要とする。

「菜根譚」
耳に入るは谷に吹く風の音、心に浮かぶは池に映る月影と思えば悩みはのこらず執着も起こることはない。
道義を学んで偏狭に陥らず、風流を楽しんで放縦に流れず、才と徳を統一させて中道をいく人格。

《達人とは正直にしてしかも臨機応変、人の言語や顔色を見抜く聡明さをもち、思慮深く、その態度の謙虚な人物をいう。》
《士とは自分の行動に対して恥を知るものである。》
《善い人からは好かれ悪人からは憎まれる。それが正しい人間である。》
《心は自ずからその態度に現れる。君子というものは、自分に修めるところ深く、信じるところ厚く、従って、たくまずして悠然としており、しかも傲慢な態度がない。》
《仁者は心に患いがなく自信があるから必ず義を見ればそれを行う勇気がある。》
《君子たるもの実践すべき道は、仁、知、勇の三つである。仁者はかえりみてやましさがなく、知者は道理をわきまえ、勇者は信じることに突進する。だからそれぞれそのたちいふるまいにおいて、憂えず、惑わず、懼れないのである。》

辻邦生「季節の宴」
日本人は「優しさ」に向かって開く花のようだった。
単純に地上にいるということだけで、私達は十分に恵まれている。私達がそう感じられないのはあくまで「自分」に捉われているからではないか。もし我執というものを真に離れることができたら、天地自然は、光とか青空とか雲とか風とか雨とか季節とかという、あり余る美しいもので飾られて見えるのではないか。そしてそのことだけで私達は十分に恵まれているのではないか。
自分を含めた一切を放棄すること。一切の所有を超えること。
その事自体に悲劇的相貌のあることを自覚した魂だけが、ファンタジーの求めるものが〈生の喜び〉であることを忘れないだろう。
芸術──いつか不思議と人間の宿命に共感し、心が軽やかに澄んでくるのを感じる。
パリのノートルダムの場合もそうであったが、性急にそれをわかろうとする意志を放棄し、自然と対象の美が映ってくるのを待つほかないと思った。事実、そのようにしてしか現れぬ種類の美はあるのである。そういうものの前では、自らの成熟を待つ以外に手段がないように感じた。
ある価値基準が揺らいでいるとき、それを内部から支えうるのは、その価値を、時代や環境などの外的条件から超越したものと信じられる力である。
それを実現するための沈黙と実践。
自己を正当に扱う態度は、多く、自己の信じる価値がそれを超えたところにある。
その基本的価値においてはいかなる傷も受けていないと信じられるとき、人は自己をありのままに取り扱うことができる。
それは事に先だって逃げを打つ怯懦な態度ではなく、現実の内部構造を透視することによって、そこでの最も本来的な姿を先取りしようとする姿勢である。
自分に対して無意識、無私な態度。
あらゆるものが彼の中でなり響く。
自己を透明にして一切を受容しながら、そこにどうすることもできない自己の調音を響かす。作為の痕跡はまったくなく、ただ自然の経過がそうであるがゆえにそうなった、無垢な純粋な感じ(モーツァルト、シェ−クスピア)。
作品の中に人間の歌を持ち込んだ率直な感性。
人間の真実の一切を見たにちがいない。
透明な悲しみとは何か在るものへの悲しみではない。それは有限な存在が無限の中を走りぬけてゆくときの調音のようなものである。
精神が地上を疾走してゆく。
花が咲き散るように、星が夜空を走るように、そのように人間は地上を過ぎてゆくべきもの。こういう自然な無垢な眼だけが真実の一切を見る。一切を見て、しかもその見たことを明晰に保ちつづけるのだ。
美とは官能を通って精神にゆく道だ。
生きることとは一つの必然を生きること。
もともと芸術作品は困難な条件のもとで、それに抵抗し、頑張りながら作られる場合のほうが多い。
〈知ること〉の楽しみは事物そのものの肌に触れる喜びということができる。

小林秀雄「本居宣長」
人生が生きられ、味ははれる私達の経験が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもある。
誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。
読書に習熟するとは、耳を使はずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。文字の扱ひに慣れるのは、黙して自問自答が出来るといふ道を開いていく事だと言へよう。

人が人と心を分かって生きて行かねばならぬ深い理由。
根本には個人の力量を越えた普遍的な生命の流れがあるといふ自覚。
分に過ぎんとしても過ぎる事が出来ず、飛ばんとしても飛ぶ事の出来ぬものの自覚に達することが「あはれを知る事の深さ」であり、「歌の道の味を知る事」である。

小林秀雄「補記」
詠歌の第一義は心をしづめて妄念をやむるにあり。

《年若き日、果たして自分自身がよく分かる人が何人いるだろうか。大半はその時置かれた環境の中で一応道を選びながらあちこちでもまれ鍛えられ次第に人間も練れ、方向も決まっていくものである。》
《人間努力の外の運はある。これは如何ともしがたい。しかし与えられた運の中で尚運命を好転させていけるのはそこにおかれた人間の心がけと精進による。》
《相手のためを思う心情の豊かさとしみ入るような親切さ。 》
《やさしさとは相手の足りぬところを補ってやること。相互補完こそやさしさである。》
《利だけで結ばれた者は利なければ去る。》
《だましにかかる相手のウソにだまされぬための方便としてのウソ。》
《競争相手に負けぬために時に奇手、奇策を演じて見せること。》
《正道を目指すのが人格であり、商略、商策を展開してみせるのが才能。》
《本当の学問は、自分の身体で厳しく体験し、実践するもの。》
《学問というものは体験を貴しとなし、その体験を練磨すること。》
《ただ大切なことは自分の好きな人が優れた人、立派な人であることである。》
《自分から好んで学問をし、それを実行に移して、少しも矛盾したところのない人物になれば、徳はその人に備わったことになる。》
《少しの私心ももたないところに人々が敬う秘密がある。》
《識:知識、見識、胆識》
《道:自己自身の中に律法をもった真の自由な創造活動》
《温:おだやか、良:すなお、恭:うやうやしい、倹:質素、譲:謙遜》
《心がいつも平静であって、波風に立ちさわぐことのないようにするのが学問。》
《自分を立てる前に人を立て、自分が達する前に人を達せしむるだけの余裕があれば、己に克つことができる。》
《天の道を自分の身に体得して、真実にたがうことなく人生に実践していくのが人の道。》
《無欲なるがゆえに静なり。》
《信じて信じて信じぬいてこそ人は動く。》
《人間と人間との歯車がかみ合うということは、お互いにどんな欠点があっても、それが苦にならないことである。》
《両忘:憤を発して食を忘れ、楽しんで以って憂を忘れる。》
《1.心中常に喜神を含むこと 2.心中絶えず感謝の念を含むこと 3.常に陰徳を志すこと》
《国の四患:偽、私、放、奢。》
《独善:世間が如何にあれ自分一人があくまでもよくするということ。》
《何事があっても臨機応変、自由自在に雄々しくたくましく善処していけるというのは、やっぱり精神的根底、人物の養成、立派な風俗というものを振興するにある。》

保臣 『何傷録』
「人と生まれては高きも賎しきもせねばならぬものは学問なり。学問せねば吾身に生まれつきたる善あることもえ知らず、まして他の人の徳あるも、なきも、弁へず、また昔を盛んなりとも、今を衰えたりとも知らず、いたずらに五穀を食ひて、前むきて歩むばかりのわざにて、犬猫といはんも同じことなり。」

《道徳はつねに自分を新しくすること。》
《造化の心そのままに理想に向かって限りなく進歩向上してゆく。》
《人格ができてきますと、すなわち人物になってまいりますと、どこかしっとり落ち着いて、和らかく、なごやかに、声もどことなく含み・潤い・響きがあって、その人ぜんたいがリズミカルになる。》
《人間は本当に人間に立ち返れば立ち返るほど、良心的になればなるほど、偏見・偏心を捨て去って、己を空しうして謙虚に学ばなければならない。》
《知らず識らずのうちに物を変えてゆく、化してゆく、作用を及ぼしてゆく、これを「造化」という。「徳」というものは自然に人の手本になる。》
《「功」というのはそれによっていろいろの生活活動を促進してゆくことができる。これを「利」という。》
《日新の工夫は間断あるべからず(中江藤樹)。》
《人格の情熱、理想の情熱の焔に燃え出てくる知慧でなければ、人間を救うことはできない。》
《徳とは自然が物を生み育てるように、我々の中に在る凡そ物を抱擁し育成する能力をいう。》
《平常心これ道:人間はいかなることがあっても平常と変わらぬ、平常からちゃんと覚悟ができておることが大切。》
《信仰とか宗教とかいうことは日常の実践なのだ。つまり道徳なのだ。》
《天に対して敬虔であり、常に何事に対しても真剣に、まことに、無我になって学んでいく。》
《造化の生成化成、物を包容し育成する道、それが人間に現れたものが「徳」、その代表的なものが「仁」。》
《仁とは包容し育成する力。》
《温かい心の持ち主は、その温かさがおのずから顔や態度ににじみ出てきて、温かい雰囲気をかもし出す。それが部下やまわりの人々の心を魅きつける。》

人間は哲学的・実践的に日々生まれ変わっていく。
造化の理法に従って、自分を日々夜々造化してゆく。
陰徳・陰功は、憐みの心で人を恵み救うより大きいことはない。
真の智は物自体から発する光でなければならない。
自我の深層から、潜在意識から発生する自覚でなければならない。これを「悟る」という。
「悟らせる」「教える」の真義は、頭の中に記憶したり、紙の上に書きつけたものを伝達することではない。生きた人格と人格との接触・触発をいう。撃石火の如く、閃電光にひとしい。これを覿面提示と名づける。
これあるを得て、初めて真の霊活な人物ができるのである。つまり全生命を打ち込んで学問する、身体で学問すると、人間が学問・叡智そのものになってくる。
真の教育者:学問にて練りつめて徳を成したる人。
自分自身をその対象に没入し深潜する。
他の人々や環境を薫化し改善する力。
魂の感動に基づかねば真の生命を得ることはできない。

「自分を鍛える」
我々の精神が、交わる人の色に、無意識のうちに染まるのは自然の法則である。自分の生活様式を堕落させるような友達とは付き合わないようにするのと同じく、自分の文体を損なうような本は注意深く読まないようにすることである。
「自分を最高に生きる」
本物の野心の芽ならば何をされようと芽を出す。
母性愛には安心して甘えられるが、夫婦愛に甘えは許されない。

「探求心」
恐らく男が伴侶を選ぶ場合は、心の友として選ぶのが最も安全な道であろう。
何よりも美しいのは優雅でやさしい表情である。

中沢治樹
心の片隅でも王を呪ってはならぬ。
寝室の中でも金持ちを呪ってはならぬ。
空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを洩らすから。

「トランスパーソナル宣言」
進化とは自己超越を通しての自己実現。
全ての潜在性が実現されればその結果は神である(アリストテレス)。
大人は自分が心をもっていることを悟った時点で、もはや単なる心ではなくなる。現に心を超えた微細領域から心を知覚しはじめるのである。
超時間的無時間性、愛、無回避、無執着、全的受容、主客合一原理的には多大な潜在的可能性を内に秘めている。
心が極めて健康的な人は、わたしたち普通の人々に、ときに神秘的、または奇怪に映ることがある。
最高度に健康な人は随意的コントロールの幅が広い人。
意のままに幅広い意識状態に入る能力のある人。
自己実現とは人が人であることの全てを実現すること。
欲求の満足への執着が苦悩の原因であり、徳の高い人は他者への寄与および奉仕によって動機づけられる傾向にある。
愛、慈悲、共感、寛容 → 他者への思いやり尊敬、感謝、脅威の態度、エコロジー意識 → 畏怖の念、生命の神秘行動、思考、愛情、パーソナリティの変化はそれ自体が目標ではなく、存在の超越的次元に目覚めるための手段である。
十全に開花した人々もまたひたすらに快楽、すなわちメタ快楽を求めている。真、善、美は最高の快楽である。自己にとっての善は全ての人にとっての善である。
真、善、完全、統合、生命観、法則性、美「現実描写」の言葉がそのままそれまで「価値ある言葉」と呼ばれていたものと同一になる。
事実と価値は溶け合って一つになる。
「内在する価値」への愛は「究極的なリアリティへの愛」。
事実に対する強い関心は、強い愛に変わる。
究極的な価値を熟考することが世界の本質を熟考することである。
真理を求めることが、美、秩序、全一、完全性、正義を求めることと同じになる。
善きもの、美しきもの、愛すべきもの。
この世界が、この宇宙が、自己と同一で自己の特質そのものである。
個人の自己性が全体に融合して消える。
自然一般と同一構造をもつ自己。
その人の自己の特性を定義づけるものとしてその人と一体になっていた価値は、その人の死後も生き続ける。
人間は信仰によってみずからの現実を造る。
自由はそれを信じたときに現実のものとなる。
人が他人に提供できるものは自分自身にほかならない。それ以上でもそれ以下でもない。
あらゆる知識が本質的には同種の構造をもっている。

ケイシ−
憎しみを拒んで愛を選ぶためにおのれの自由意思を用いるということ。
このような意識された上での実践された愛は万人の中の善を固く信じる態度であり、謙虚さを基本的な徳と見なすものである。
愛の法則が人を覚醒させ、エゴに根ざす感情を退け、魂と神との直接的な繋がりによって普遍的な愛へと導く。
人間の持つ主観的自己意識という要素が神の現れ。
宇宙のなぞを解く鍵は探求者であると同時に探求材料でもある人間の性質の中に存在する。
人生の目的とは真の知識と愛の奉仕の道を通して神を求めることである。
バガバッド・ギ−タ−はあらゆる思い、気持ち、行動を神と人との愛に従わせることによって、魂を最高の可能性に向かって進歩させるよう説いている。
自分が完全に神に捧げられ、神の光があらゆる被造物の中に映し出されているのを見ることができる段階に至ったとき、人は放縦や執着なしに神を完全に意識した状態で生活の義務を果たし続けることができる。
目標に至り、他の人々の歩みに加わって、彼等が正しい道に沿う手助けをする進歩した魂もいる。
倫理的エネルギーと道徳的因果律の保存法則。
自分とは違う人々との接触に神の光を見、その時にのみ、「汝の隣人を愛せ」という戒めの真意を理解できるであろう。
人はどのような違いがあっても、絶えず、愛と敬意と自制の態度を保つようになる。その時のみ人は自己実現の段階へ至り、神からの放射である魂が常に神との繋がりをもっていることを知るのである。
無我の愛と奉仕の姿勢、憎しみならぬ愛、怒りならぬ寛容汝の兄弟に為したるそのことは汝の内なる神に為したればなり。
慈悲深い行いを自発的に選ぶことによって、人は神に至る速度を早め、自分を転生の周期から外して自由を得ることができる。
自我のない行い、聖なる愛、そして、理想を深く愛することの中で、自分を宇宙意識に同調させることによって、自ら恵みを受けることが転生という相対的世界から魂を解き放つ。
相手のあらゆる欠点、弱さを見過ごす普遍的な非利己的な愛は覚醒の結果起きてくる。
高く進歩した魂さえ、聖なる愛の高みにはゆっくりと昇っていく。
慈悲と正義と平和と調和。
真理は義務と中庸、悟り、愛の実践を通して求める。
人間の本質は純粋。転生は目的ではなく手段である。
宗教の唯一の目的は、不滅の統一の我であるその魂に人を気付かせ、世俗生活を霊化するよう人を導き、その肉的動物的性質を聖化することにある。
現代人の心の空しさは魂の存在とその癒しと愛と知恵、調和の力を無視することから起きてくる。
転生してきて今地上にいるという事実が、救われずにいることを証している。
個人意識の現れの阻止、停止。瞑想は霊的本源との同調である。
歩みはゆっくりでも確実である。求める者だけが見出す。
地球もその中間の教育世界も、人間の魂が究極的に唯一つのもの、すなわち「愛」、自己中心的で偏狭なそれではなく、全てを包みおおうほどの宇宙的、普遍的愛を自己に「在ら」しめる為に存在する霊魂の進化にとって不可欠な場なのである。

ヘッセ
内面への道を見つけたものには
燃える自己沈潜の中で かつて
自分の心が 神と世界を ただ
形象 比喩として 選ぶのを
知恵の核心をおぼろに感じたものには
すべての行為と思考が
世界と神を含んでいる
自分の魂との対話になる

クリシュナムルティ「英知の教育」
注意は精神集中とは違う。集中しているときには何も見えていない。だが、注意を払っているときには実に多くのものが見えている。
〈見る〉ことそれ自体が変化をひき起こす。
面倒を見る気持ちが愛情の始まりである。
愛情、優しさ、親切心、寛大さ。
愛は憎悪、羨望、野心がないときにのみ存在する。
人が自分自身に無関心なとき、彼は真に自由な存在である。
愛するからこそ君はものごとをする。
愛はその中に優しさ、親切、思いやり、そして美がある感情である。愛には何の野心も嫉妬もない。
他人に対し非常に優しく親切にし、傷つけないこと。人を見つめ、助け、寛大で思いやり深く。
非常に静かな精神、おしゃべりでない精神。
競争をあおる教育や競争を通じての生徒の成長がきわめて破壊的であることはまったく明白だと思われる。
単に技術的に優れた人間ではなく、全体的人間であるべきだということ。
全体的人間とは、内面的理解力をもち、自らの内なる在り方、内なる状態を探求し、吟味することのできる力、さらにそれらを超えていく力をもった人間だというだけでなく、また、外面的にも善き行いを示す人間を意味する。内と外はあいともなわなければならない。
偉大なる社会は必ずしもよい社会ではない。よい社会は秩序を含んでいる。人間にとって秩序とは自分自身の内なる秩序を意味する。
英知の本質は鋭敏な感受性である。生徒は自由でなければならない。さもなければ感受性豊かではありえない。伸び伸びと学び楽しむ、それが自由である。自由は秩序を含蓄している。自由が必要不可欠であり、かつ自由とは好き放題にすることではない。生徒は自由でかつ規律正しくなければならない。
皆さんの応じ方が意識的であろうが無意識的であろうが、その結果は心に刻まれる。
生は破壊であり愛であり創造である。
知識は人生の目的ではない。木々や美しいものに感動し、愛するとは何か、親切とは寛容とは何かを知ることが必要である。
調和と自由と愛情。
教えと学びは同じこと。
感情と行動は二つの別々のものではない。彼の内部に非難や反発心を起こさないよう生徒がごくはっきりと物事を見るよう助けること、感じ取ることが急務。無理に納得させようとしたり、感化を及ぼそうとしたり、是非の判断や信念を押しつけようとしたりしては駄目である。ひたすらに事実を示すようにすることである。精神が思考を空しくしないかぎり事実を見ることはできない。
動機無しに何かをすることは好きでそれをすることであり、その過程においては思考は機械的ではない。そのとき脳は不断の学びの状態にあり、かたくなでもなく、知識から知識へ移ることもしない。それは事実から事実へと動く精神である。
教える者と教えられる者が共に学びかつ教える情熱を持つとき、そこに注意が起こる。教室の中にある感情、ある雰囲気を生み出す。
本質的な事実はなく、あるのはたんなる事実である。
どんな種類の理想も危険だ。理想は事実を見ることを妨げる。
自分は自由なのだ。但し何でも好き放題にするのではなく、ただ自由なのだ。
もし生徒が教師に本当に面倒を見てくれている、思いやりがある、完全に打ち解けていられる、恐がらなくてもいいのだと感じれば、彼は教師を敬い、言うことを聞く。完全な信頼。
生徒が恐れずにいられるよう交流のドアを開き完全に気楽で安心していられる状態。
生徒は彼の全人生が達成、成功に合わせられ、そして恐怖と競争の背景をそっくり負っている。
教えというものは創造的なものである。学科に興味を持たせること。
何の恐怖もないときにのみ学ぶことができる。
生徒は教師を信頼すると学ぶようになる。生徒が教師を信頼するとき、生徒は教師の望むように学び始める。関係を築くこと。
精神はすなわち言葉である。
健やかな身体と良い精神をもち、自然を享受し、不幸や愛や悲しみの全体を見、世界の美しさを見ることができる人間として生きる。
英知:単に論理的に思考するだけでなく、むしろ物事の真偽を知覚し、理解する力。
見るためには、身体全体が静かでくつろいでおり、鋭敏でなければならない。
思考が死ぬためにはそれは花を咲かせ実を結ばなければならない。
言葉によらない意思疎通、自由と秩序の中での開花。
懲罰やおだては何ものも生み出さない。観念からではなくその自由から語りかける。教師として自由で規律正しければ、言葉の上だけでなく、言外でもこの真実を伝えつつある。生徒はすぐにそれに気付く。

ケン・ウィルバ−
出来事と観測者は切り離しえない。
物を何と呼ぼうとそれは物ではない。
その性質が知る者から区別されない知の様式。
突然、直観的に何ものも媒介とせずに到達される。
直接的あるいは直観的に知ることは、精神的内容と対象とが同一であることを示す。
証明は論理的な証明ではなく、実体験的な事実。
世界を一つのまとまった全体として捉える。
心が絶対的実在である。
観測者が観測されるものである。
知るものは知られるもの全てと一つである。
リアリティは言語によっては伝達されない。
知るものは言わず、言うものは知らない(タオイスト)。
自分自身でリアリティを発見する。
タオは物質的存在を超えた何かである。それは言葉によっても沈黙によっても伝えることはできない。
個々の心の多様性は見かけだけのものにすぎず、真実は一つの心しか存在しない。
話すことによって人は真理に入ることができるが、言語自体は真理ではない。
世界は心以外の何ものでもない。全てが心である。心の偽りの投影により、あらゆる現象のいろいろな形が作られる。
唯心は理論というより、生き生きとした生きた体験である。
心には始まりがなく、不生、不滅である。
ただ一つの心に目覚めればよい。
仏陀は道を示す以外のことはしない。
一人の絶対者を様々な形で呼んでいるだけである。
リアリティそのものに適用できる観念など存在しない。
宇宙はメビウスの輪のようにねじれて自らに戻ってくる。
弁証法とは情報を得る道ではなく、一つの浄化である。つまり、もっぱら知性を純化するための方法なのである。
自らの性質の内なる命令。
対象化は全て幻想である。
類推的かつ肯定的なアプローチから入り、全知全能の絶対的実在が存在し、その発見が無類の心の平和を授ける。
人はそれまで学んだ全てを忘れなければならないときがくる。
たとえリアリティを表現できなくても、体験はできる。
主体と客体とが二つのものでないことを存分に理解した暁には、概念化に戻ってもよい。もはやその報告に欺かれることはない。
神の光の中に住む者は、過ぎ去った時も、来るべき時も意識せず、ただ、永遠のみを意識している。
自己は今ここにしか存在しない。
永遠なる現在に目覚めること。
心が永遠であることを自覚することが究極の悟りと呼ばれる。
絶対的瞬間の把握の仕方を知ってさえいれば、究極のリアリティは日々の体験の核心に横たわっている。
自然発生的な行為のみが過去や未来から自由である。
順番に少しずつ取り入れていかなければならない。
自然はその存在の全てを同時にもっている。
この現在の瞬間は全ての瞬間を包括し、そのため、それ自体時間をもたない。よって、この時間のない現在は永遠そのものである。
神は今現在、世界と全てのものを創っている。
世界を正しく見ること、絶対的主体性を体験すること、それを無限や永遠として知ること。
記憶と期待はいずれも現在の事実である。
今、この瞬間の意識状態そのものが、常に、究極的なるものと同一である。
真の知る者はその知の宇宙と一つである。
自分と宇宙が分離した実体ではない。
あなたは母なる大地に身を投げだし、自分が彼女と一つであり、彼女が自分と一つであることを確信することができる。
存在するのは唯心のみである。
万物と自己同一化しており、宇宙の基本的エネルギーと一つである。
宇宙が心である。
時間を超えた現在の中で、自然とともに生きるまでは、人は幸せにもなれなければ強くもなれない。
自分自身の一部であるはずの環境。
自分自身は愚かな動物的身体から切り離された知的魂である。
余分な刺激のない静かな場所で、自分自身に関して形成してきた観念や概念を全て追い払えば、自分で自己の実存のレベルをつきとめることができる。
何らかの理由で自分が存在し、この瞬間、生きているという核心的感覚。
自分の存在が宇宙の存在と同一であるという閃き。
言語の現象は背景の現象であり、話し手はそのことに気づいていないか、せいぜいおぼろげに気づいているに過ぎない。
ある人物の思考形態は不変の諸法則のパターンによって支配されているが、当人はそれに関して無意識である。
現在の瞬間にしかない喜びを、自我は決して満喫できない。
特定の無意識はそれぞれ、我々が自分自身から切り離した宇宙の側面を表している。
対立するものはことごとく相互に依存しあっており、不可分で非二元的、対立の一致である。
あるがままの自分が心である。
唯心の体験は常に現存する。事実、それは永遠の現在における唯一の体験である。
意識的に心として生きること。
心であることによって心を知る。他の方法では知りえない。
純粋な有機体的意識。内に湧き上がり、原初の二元論を知らず、非時間的なために無限なこの生命エネルギーが、宇宙意識ないし心に全面的に参与している。その自覚が解脱。
絶対的な今を知ることで全時間を知り、絶対的なことを知ることで全空間を知る。
全ての現象的な顕れとの至高のアイデンティティを発見すること。
心のレベルで生起するエネルギーは純粋で形を持たない。
もしお望みとあれば、歓びと光輝の世界に住まわせること、それが唯一の関心事なのだ。
そう言った実験が存在し、それをすでになした者が存在する可能性はおそらくあるであろう。
日々の日常的な意識それがタオである。
あらゆる場所、あらゆる物の中に神を見出す(菩薩)。
我々は一瞬たりとも道を外れない。外れることができるものは道ではない。
神と私は、私が神を知覚する行為の中で一つなのである。
あなたが自己なのである。あなたはすでに〈それ〉なのだ。この瞬間、到達しうるものは何もないことを確信できれば、あなたはすでに悟りの中にいる。
全ての探索は失敗をまぬがれない。
完璧な注意と解放の状態。
自分の活動が世界の活動である。
現在の瞬間にあるのは、絶対的な静けさである。ここには永遠の歓喜がある。
真実は身近にある。捜し求める必要はない。真理を捜す者は決してそれを見出すことはない。真理はあるがままの内にある。
もし自分の背景の全体の意味を探求すれば、その背景から意味が生じ、一挙に真理を発見し、自らの問題を理解する。
神あるいは真理は考えることができない。考えられるものなら、それは真理ではない。
苦痛にしろ、恐怖にしろ、それを回避することによって解決されない。
自分が、苦痛とか恐怖であることを自覚することによって初めて解決される。
完全な注意を向けられたものは理解され、解消される。
自覚とは、いかなる選択もせず、ただ見つめ、気づくことである。
観察することは、そのイメージをもたずに眺めることである。イメージを作り上げるのは不注意である。
精神的利他主義は精神的偽善である。
「私は誰か」と尋ねることによってのみ心は静まる。
公案の瞑想は、公案を分析することではなく、それと完全に一体化することで、謎は自ずから解ける。
得られる悟りの深さは探求心の強さに比例する。
全ての思考が停止すると、いささかの汚れもない透明で晴れ渡った静穏さを体験する。
沈黙は最後の言葉である。
張りつめているがリラックスした注意深い状態におく。
道と一つになれば好悪の余地はない。

吉田健一「思ひ出すままに」
一般の無智をなしている人間の銘々が何かの専門家であるといふ不思議な状態。
宣伝や煽動は先づ文章にならない。
言葉を楽しむということ。
我々は不満を覚えるために本を読むのではない。
絶望は我々自身の責任で処理することで心を動かす材料にならず、白鳥の歌も悲しいのではなくて冴えて響くのでなければやはり人に働きかけることがない。
言葉が伝える一つの充足。
先づ本があってそれを開けてみて気に入れば読み、気に入らなければ止める。
本を読む楽しみを覚えてから自分も書くことになるのが普通だからこうして読書人といふものとそのために書く文士といふものが作られる。
四方八方に注意しながら、ただ推理と言ったことにだけ気を配って一冊の本を読むのではない。
上の空で生きているのと人間としてただ生きているのとがある。
先づその暮らしがあってヨオロッパでは本を書くことその他が発達した。
誰もが人間の世界で生きてゐる時に人生を何ぞやと考へて字を知ってゐればだれでも本が読めるのにその前に文学とは何ぞやと考へるといふことから始めるのはそれだけでその異常が解る。
無駄がなくなるといふのは必要なものを残してまた更に作り出すことでもあるから澱んだものの代りに清流が生じる。
若いうちはどういふ結果に恵まれるにもその為の努力が必要だと考へるものらしい。何か解ったことがあってもそれが自分の内外にある全体とどういふ関係にあるものが見当も付かないといふことが若いうちのちぐはぐの大きな原因となってゐるものと思はれる。
完璧といふのは脆いもの或るいは少なくともそれを認めた瞬間だけのものでそれは世界を支へるに至らず従ってそれがあって朝になって日が昇るのでも夜空に星が出るのでもない。人間だけでなく世の中にあるものは凡て不完全であると言へば不完全でありそれは結局有限であるといふやうなことになる。
五里霧中の人間に幸福も不幸もない。
子供の方が少年よりも仕合せであるかどうかは疑問であっても自分が責任を取らなければならない範囲が狭いことは確かである。
若いうちはただ模索する他ない。
我々が若いうちは何かに取りつかれてゐてそこから抜け道があることが全く頭にないためにさうした抜け道が一切封じられてゐるとも言ヘる。
人間といふのは仕事をする為のものでそれが不満でもそれ以外のことに満足を求めても適へられる訳がない。
人間には成熟すること自体の他に目的がない。
文章の力は我々に真実を語ってそれを覚らせることにある。
我々に正確に物を見させてくれるものがある時にその働きによって我々は夢見心地になる。正確に眼に映るものが一本調子といふような形をとらない。眼が冴えた人間が言葉を選び或るいは言葉を選ぶ仕事がその人間の眼を冴えさせてその言葉が我々を酔はせる。或るいはその人間と同様に我々に正確にものを見させる。
これからどういふことが起こるか解らないといふ期待で精神の束縛を解くことで我々は御伽話の世界に遊ぶことを許されるのみならず考へるといふことをするのに向かって一歩を踏み出す。
解るとか解らないとかの区別を越えて楽しむ経験をなるべく広くして置けば解る為の無駄が省ける。夢が多いといふことは心の弾みといふものを知ることでありその心の弾みを与えたものが多ければ簡単に言って心は弾み易くなる。それは心が柔軟であることを増す。夢は我々の心が示す動きにある。
画家は視覚の働きを通してこれを精神の遊戯の方へ進めていくといふことに辿り着く。思索に耽るといふのも遊戯である。
どのようなものでもそれを分析することはそのもの自体から離れることである。
絵はこれを自分の傍らに置いて眺めるものである。見ているうちに絵は絵になる。絵が絵であることの証拠は絵を見て考へる必要がないことである。絵は視覚を通して精神に働きかけるものでなければならない。
その上で精神が働きかけられた結果に就いて言葉を見出す。
詩の方はその奥に向かって更に考へ誘うものがあるが絵はコロオのでも誰のでも更にその奥といふものがない。
我々が物をよく見てゐる時にその状態は拝むのに区別し難くて拝む時の虚心に達するのでなければ我々に物は見えない。
一つの世界に遊ぶのを楽しむといふのは解るといふことと少しも矛盾するものではなくて解れば楽しむことになり既に楽しんだならばそこから解るといふことまでは一歩である。
心の動きはそのまま生命につながるものであり、人間が人間の仕事をしてゐるのではなくてそれが機械的に行われるときにその人間は既に死んでゐる。
場所の感覚がないことは無智と変わるところがない。
我々があることを知るにはそれに馴染まなければならない。
複雑怪奇な現象は正常な人間の埒外に属することでただその行く末を見守る他ない。
ゐたい場所が適へられないのなら自分でそれを作っていくことになる。
人間でなくても実力があればこれに或る程度まで譲歩する他なくてそれで自分が望む結果が得られるならなほ更である。又更に相手を人間と見る必要がなければ誇りを傷つけられる心配もなくて人間は相手を人間と思ふときだけその前に自分を屈することを望まない。
学ぶといふのは少なくとも相手を自分と対等と認めることから始める他ないことである。
魅力といふのはその働きを受けることであり、内密なものがそこに働く。
人間は自分と向き合って始めて人間になる。
例へば樹液の匂ひが解らなければ詩を作ることも出来ない。
生きてゐるといふのはひっそりとしたものであり、魅力といふのも源泉がそこにあるのだから魅力といふのもさうしたひっそりとしたものなのである。又さうでなければ心は躍動しない。
風潮が本末を転倒する性質のものであるときにその方から積極的に眼を背ける必要がある。或るいは寧ろ背けざるを得ないから風潮は風潮で受け入れて置いて古風とか心温まるとかいふことで自分の本当の気持ちを糊塗することになるのであっても自分の気持ちを自分に対して偽ってまで風潮に義理立てすることはない。
天才であっても人間ではある。自分が天才であることを知ってそれが何でもないことに気付く。
無智に閉ざされた暗さを脱することが大人になることである。
子供も大人も同じ一つの世界に住んでゐてその世界に就いて知っていく程度に応じて子供が大人になりそれは汚濁の世界でなくて人間の世界である。
解らないことが多すぎるのが子供であってそれ故に解ったことは解っただけのことがあったのでその点からすると五感を通して解ること、解ることが楽しめることに恵まれた子供は確かに幸福である。
人間の世界は陰惨なものでも血塗れのものでもなくて静かにそこに住めるものなのでそれをさう思はないのは風潮に煽られて新聞の記事に取り付くからである。
我々が怒るといふのは何かの必要から常軌を逸してゐることなのでその必要もないのに怒りを振り回すことはその人間の暮らし方を疑はせる。
木の成長を見ても分かることだがそれを促す事情は色々あっても現に残るものはその成長した木とその中身を成してゐる年輪である。
新鮮なものには常に驚きが伴ふ。
詩が作れるならば成熟した人間である。
大人でも汚れてゐれば使ひものにならず子供はその状態からして汚れてゐることを免れない。
子供は純真無垢といったものでなくてむしろその見地からすれば邪悪の塊である。これは本能と判断力の区別が明確になってゐないからでこの原始的な状態で子供が見るときには実際に見て知るときには知る。邪念は得てゐないから。見るとか知るとかいふことに掛けて子供と大人で違ひはない。
不安や恐怖といふのはもともとがただ除去すればすむ性質のもので子供の中心をなすものは大人の中心もなしてゐてこれは人間の基本が子供から大人まで一貫してゐることによる。
想ひ出すのは自分に即して自分であるために努力したことの数々である。自分が自分であるための努力は大人もしなければならない。
大勢は子供である間に決まる。
どういふ人間もその人間の性格があって子供の原始的で従って正確な眼で見るものの中には自分の性格も入る。人間は生まれたときにその凡てが決まると考ヘられるのであるが一層のことそれならば一人の人間がまだ子供である時と大人になった時は一体をなしてゐる。
成長するといふのはもとのものが一層そのもとのものになるので後は子供が成長するに従って身に付けて行くものであり、それがギリシャ語の知識でも政界の駈け引きでもそれを身につけたのはそのもとのものであってその為に世界を見る眼が変わったりすることはない。或るいはもしそれがあるならばそれはその人間をそれまで待ってゐた一つの成長である。
苦労とは他人の中にあって自分の責任で何かするといふことである。
苦労もそれを処理するだけのものであり、これを自分との親密な対話の厳しさに比べるならば子供の頃は苦労を知らなかったといふことが子供であることのそれ程の取り柄とならない。
文士はその最初に書いたものに向かって書き続けるといふ説があるように我々は子供の頃に向かって成長を重ねるといふ見方も成立する。我々は既に大人であってその経験、知識、又成し遂げた仕事からすればまだ子供だった我々は何ものでもない。併しその経験その他に迷はされるならば挫折であって我々が知識を得たのも仕事をしたのも我々が子供だったときから親しんできた自分である為だった筈であり、ここに至って子供の頃といふのが出発点でなくて目標になる。併し文士が自分が最初に書いたものに向かって意識して書く努力を続けるといふことはない。我々が子供だった頃を目指すのは徒労であって子供のときと同時に自分に背かないことを願ふだけなのでそれが何かと子供の間は知られなかったことを我々に教へてくれてゐるうちにある瞬間に子供の頃を振り返って見るとそこに自分がゐる。
擦れっ枯らしになった人間は人間であることを放棄してゐるので話にならない。
語るのに謙遜は余計であり、自慢するのでも謙遜するのでもなくてただありのままに自分が見てゐるとおりに語ること。
世界は物質だけで出来てゐるのではない。従って我々が親近し愛着を覚へる魅力は精神の世界のものであってこの世界に至って我々はただ違ひがあるだけで同一である人間の世界を見出す。

山田無文
生まれた以上は人間は必ず生きられるに決まっておる。働いたら儲かるに決まっておる。
天を信ずるというか、大自然の摂理を信ずるというか、全て一切を神仏のみ心に任せてしまって、生きるという問題にあくせくせんことであります。
生まれた以上は必ず生きられるもの、生きられなければ死んだらいいじゃないか、バタバタすることはない。
一切は空なりと達観して大自在を得られるのが文殊の智慧で、森羅万象そのままを実相と観察して、遍く衆生を済度されるのが弥勒の慈悲であります。
般若の智慧がわかるとは全ての対立的現象から解放されることです。

鈴木大拙
自己というものがないときは、人間はくたびれるということがなくなる。
心を一処に制すれば事として弁ぜざるはなし。
感情は豊富でなくてはならぬ。豊富な感情と、盤根錯節を切り開く理智分別をもちながら、しかもその奥に嬰孩性、即ち無功徳なものを、深く蔵していなくてはならぬ。
自分を無にして、客を主にすると、道元禅師が、『万法来たって我を証する』と言われたように、自然に無所得が得られる。即ち無功徳で、無所住で、そして活溌溌地の働きがそこから湧いて出る。
無所住の境地にいないと大悲は分からぬ。
因果に落ちずでもなく、因果を昧まさずでもなく、因果ということそのことに心を煩わさずということである。因果は因果で、それ自身の道を踏んでいくのであるが、因果の中で働いている我々は、因果そのことには関心しないで、働くそのことに、意識の全力を傾注すればよいのである。それが客観的にどういう結果になろうが、そういうことには頓着しないのである。これが跡を残さぬ義である。遊戯三昧の境地である。
客観的に結果をかまわぬというのは、他人に迷惑がかかってもかまわぬということではないのである。ただ、その結果なるものが、自分にとって、どういうことになるかということをかまわぬというのである。
報いを求めない、無功徳的に行動する。
悟る前には善悪があるが、悟った後は、善も悪もことごとくが善である。
さされて見るべき月はないのである。そして、その指ももとよりないものである。
禅には自覚がなくてはならぬ。
動いているものを動いているままに看取し道破する機を掴むとき、それが霊性的直覚を形成する。
無念が絶対の現在である。
この無心の無念が体得されたときに、仏教はことごとくわかるのである。
絶対の現在そのものが働くところを踏み滑らないようにする、これが正念相続の意味である。
妄想がなければ、それが正受で、三昧で、一念で、無念である。
なんでもすべきこと、そのことに成りきれば、無心である。無心であれば無事である。それが平常心である。
非常時もなく平時もなく、いつも坦坦如として、また淡々如として、行くところ適わざるはなしということでなくてはならない。それで初めて、本当の安心が出るわけだ。これが莫妄想である。

鈴木大拙「信仰の確立」
存在の理由に徹して信仰を確立した人は、自分がいつもこの世界の中心となり主人公となる。(中略)自分の存在はいつも宇宙の中心となっていることを自覚したからである。事実は事実としても、自覚がないと、その事実が死んだ事実となってしまう。これが妙である。自覚にそんな力があるとも思えぬが、あるから妙ではないか。こうなってくると、天地開闢以前の神の心地が自分の心地になると言うても、さして誇張の言葉とも思えぬ。

到り得、帰り来れば別事なし。廬山は烟雨、浙江は潮。
丈(百丈)、この金剛宝剣を、軽々しく人に示さなかった。祖は、矢をみだりに発せず、一毫の力といえども軽々しく用いなかった。祖は、潦を一蹴するに千斤の力をもってした。故に、潦もまた、千斤の勢いをもって、悟り去ったのである。師、勇快なれば、弟子もまた勇快なり。古人は艱難をもって道を得た。故に艱難をもってこれを守るがために人を避くること、あたかも仇を避くるがごとくしたのである。修行の念に燃えておれば、見るもの聞くもの、悟りの因縁ならざるはない。頂門の眼を開いて見れば、草木瓦礫ことごとく光りを放っているのみでなく、雪隠からも後光がさしてくる。獅子は兎を打つにも全力を用いるという。

[大拙]
生命の泉を欲して、しかも、この水は彼を取り巻き、彼を浸し、彼のからだの組織のあらゆる細胞に入り込み、事実彼自身であるのに、彼はそれを悟らず、彼の外にそれを求めて「大会」を越えようとまでする。

[盤珪]
この体験を得てから、私は私に反駁することのできる者に出会ったことがない。
皆さんが「不生」に住すれば、一切の仏陀と祖師が出てくる根本に住していることになる。不生が仏心だということを皆さんが確信するときは誰も皆さんの居る場所を知らず、仏陀や祖師でさえ皆さんの居場所を突き止めることはできず、皆さんの本性は仏祖もこれを覗い知ることはできない。皆さんがこの決定的確信(決定)に達すれば、畳の上に安坐して活如来となるに十分である。私がやったように孜孜として骨を折る必要はまったくない。ひとたび皆さんが仏心は不生で霊明であるという決定を得れば、決して人にあざむかれることはない。仏心は不生で霊明なもの、この不生の仏心で人は一切事がととのうとの決定を得れば、皆さんは決して物を見誤ることもなく、偽りの場所におかれることもなく、道を迷うこともない。これが世の末まで如来として生きる「不生」の人である。

[大拙]
悟りは悟ったもののみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格に言えば、他の何人の証認をも必要としない。それはそれ自体で充足している。だから、悟りを相手にどんな懐疑が批判してみたところでどうすることもできないものである。

[山田無文]
風規を露さず。風規は、風格とか規則とか常識の世界であるが、その常識の世界にはかかわらずして、もう一つ高いところの真理を、そのまま丸出しにして示しておられるのである。皆に分かるようにというこだわりは要らん。分かっても分からいでも、絶対のものをここに提Bしておるのである。
鍛冶屋が刀を鍛えるとき、焼いては叩き叩いては焼き、そして水の中にいれて製錬するように。
上求菩提下化衆生。上はどこまでも高い真理を求め、下はどこまでも民衆に奉仕してゆくのが菩薩道であるが、しばらくその下化衆生は第二において、まず向上である。どこまでも精神の高さを究めていく、それが修行というものである。怒髪天を衝く勢いで。一を聞いて十を知るような賢い男であって初めて学問を授けることができる。一を示したらすぐに三がわかるような気のきいた人間でないと、教育をしてやる価値はない。西に行こうが東に行こうが、赤いと思われようが白いと思われようが、その時その時に自由自在にはたらいていくことができる。殺活自在。相手も自分も殺活自在。与えることも奪うことも自由自在。逆順縦横。不識:本来の面目は不可得、不可思議、不可称量。
廓然無聖:真諦・俗諦の雲もない。第一義もない。当然、第二義、第三義といった分別、対立もない。カラ−ッとして、秋晴れの空のように、雲ひとつない。
維摩経に言う:「道法を捨てずして凡夫の事をあらわす。」
始終戦争の絶えんような国では法は伝わらん。
不立文字、直指人心、見性成仏。
三大阿僧祇劫の難行苦行をしなくてもよろしい。本心が分かればただちに成仏である。達磨の宗旨というものは、そういう心と心がじかにぶつかって行くものだ。他に手段はないのだと分かるならば、仏に縛られることもない。法に縛られることもない。教典に縛られることもない。宗派に縛られることもない。文字、理屈に縛られることもない。学問がなくても、身分がなくても、教養がなくても、だれでも仏になれるというのだから、これぐらい自由なことはない。達磨宗は真に自由を得て、どんな言葉にもついて回らんのである。達磨は空手にして来たって、空手にして人を度する。学人は空手にしてぶつかり、空手にして悟る。悟ったというものさえない。
口に出しては尋ねなかった知らんが、武帝、心には確かにそういう驕りがあったに違いない。
色即是空、空即是色。不二の妙道(聖諦第一義)。真諦門は有にとらわれてはならん。俗諦門は無にとらわれてはならん。聖諦にとらわれたらもはや聖諦ではない。研究をすれば、聖諦第一義まではわかる。だが、廓然無聖はわからん。
精魂:悟りの開けん心。開ければ仏性。
五祖先師、嘗て説く。只だこの廓然無聖、若し人透得せば、帰家穏坐せん。この達磨大師の廓然無聖が本当に分かるならば、長い旅行をしたものが、久しぶりに我が家に帰って、やれやれとアグラをかいて、ゆったりとした気持ちで、お茶を一服飲むようなものだと。所以に道う。一句に参得し透れば、千句万句一時に透ると。古人道う。粉骨砕身も未だ酬ゆるに足らず。一句了然として百億を超ゆと。しかし魏の国では、他に誰も達磨の真意を分かるものはおらなかった。ただ二祖慧可大師の他には。
廓然無聖:カラ−ッと晴れ渡って、仏臭いありがたいものは何もない。そう分かるならば、そこが達磨ではないか。この地上に限りなく清風が吹いておる。見るもの聞くもの、ことごとく達磨だ。一木一草、達磨でないものはない。見渡すかぎり達磨だらけだ。廓然無聖、何も難しいことはない。そのままだ、そのままがそれだ。照顧脚下。めいめいの中に達磨をさがせ。かけひきのない、飾りのない仏性丸出しの言葉で、相手に触れていくのである。ありのままを失わず、どこまでも趙州自らの心境をありのままに吐露されて、相手を接得されるのである。そこが分からんのは相手がまだ至っておらんからだ。相手にとらわれずに自分の本分を少しも失っておらん。趙州の日常底は常に無心であるからそれができる。自由自在に相手を交わして相手を接得してゆく。何も考えなくとも自然は動いていく。それが至道だ。人間も自然の一部だから、ありのままに生きてさえゆけば、それが至道だ。分別をするから分裂する。至道とは分別をせぬことだ。頭を使わんこと。馬鹿になることじゃ。言葉をひねくりまわして何とするか。ありのままだ。目の前にありのままに羅列しておるのが、至道無難である。見たり聞いたりしゃべったり泣いたり笑ったりするが、何もないということである。相手が悟ろうが悟るまいが、そんなことに頓着はせん。思ったとおりにやってしまう。世間の人が何と言おうが、習慣がどうであろうが、古い思想や古い習慣をブチ壊し、思った通りにやってのけるのじゃ。ありのままに、真理を丸出しにしていくのだ。相手をして、常識を外れ、習慣や人情を超えた、論理を離れた世界があることを知らしめてやることを図るのである。論理を超え、判断を超えた境界を向上の事というのである。真に仏心が分かるならば、世間の権威なぞものの数でもない。この天下に頭を下げるものは何もない。
思いやり:「今あそこで苦しんでいるのは他人ではない。私なのだ。」(私は私でありながら相手との区別がなくなってしまう。)
一遇を照らす人、これ国の宝なり(最澄)。
死して亡びざるを寿という(老子)。
わしは死神と競走で仕事をする。(大拙)。
挨拶:人の暗い心を明るくし、人間性を目覚ましめる。
聖一国師(京都、東福寺開山 1280年没):経だらには文字にあらず。一切衆生の本心なり。本心を失える人のために、さまざまのたとえをとりて、教えて本心を悟らせしめ、迷いの生死をとどめんがための言なり。本心をさとり根源にかえる人、真実の経をよむなり。文字をまことの経というべからず。愛語とは生涯を通じて光となる言葉。
真面目・不真面目→非真面目 (正・反・合)。
仏凡同居:一人一人の人間の中に地獄と仏が同居している。人間は善悪のどちらにもなりうる。煩悩と仏性との反対の価値を塩梅し止揚すること(涅槃究竟)。
煩悩の泥水も厭わずに、清濁を超越、止揚して、人生を豊かにする。
仏教の「すべからず」は必ずしも「するな」ではなく、むしろ自分に向けて、願いと誓いを込めて、「しない」という決意に解する。心経の場合も、「執われるな、執着するな」という命令ではなく、むしろ肩の力を抜いて、「執着なんかしなくてもすむ教え」を身につけることをすすめる。
如是我聞:このように聞こえて参ります、わかります。心に聞こえて参ります。
自我がすっぽり抜けると、不思議と何かが聞こえたり、見えたりしてくる。
法灯明:釈尊は人格宗教になることを極力戒められた。
空の法を依り所とするなら、何ものにも足をひっぱられず、何かにしがみつかなくとも安全に生きてゆける道理です。
「腹が減ったら何を食べてもうまいでしょう。その状態こそ空だ。」(清水公照長老)
縁起や空がわかるということは、おかげ(陰)さまがわかること。
人は一人で、他と無関係で孤立できない。
不幸は一つのメッセージである。すべての苦厄に出会っても、それに悩まされることなく、かえってそれを足場として、起ち上がれる縁ともなる(度一切苦厄)。