ハッピーライフの始まり

2010年10月17日

  • すべてに感謝する時が来ました。私たちが今、こうして生きていること自体が感謝です。私たちは幸せになるために生れて来ました。幸せって何だったのでしょうか。この世で、どれだけ不思議を経験するかが幸せだったのかも知れません。究極は神仏と邂逅し、その実在を確信し、それを以って神仏による受容祝福守護を授与されることだったのです。
  • それが真実でした。日本とは、そういう国だったのです。それが昔厳島、今伊勢神宮です。要は自尊感情の育成です。それは成功体験の蓄積です。
  • 社会は変わりました。家庭も変わりました。パラダイムは変遷しています。そして私たちは、今の私たちで良いのです。イメージとしては、素粒子の世界です。個々の存在は無秩序に見えても、全体としてある方向性を持っている。それが生命進化傾向です。そしてだれもが幸せを目指しているのです。
  • この観点を得て、肯定的自我同一性の確立です。そして私たちは今の私たちを以って満ち足りて、笑顔が当然となるのです。すなわち足元を観て、一隅を照らす。そしてハッピーライフが軽やかに始まります。
  • あらゆる苦難を乗り越えて、至るべき世界があります。それが世界です。世界は待っています。そしてあらゆる子どもたちに、エールを贈っています。
  • 見えますか。聞こえますか。私たちの時代です。子どもたちは待っています。彼らは感じています。しかし、明確ではない。
  • 時代の求めているものは何でしょうか。今の現状を以って、日本男子はこれでいいと言えますか。馬鹿になることが幸せですか。不倫も文化ですか。面白ければそれでいいのですか。何を以って面白がっていたのですか。それはむしろいじめの構造ではなかったですか。子どもたちはそれに毒され、いじめもギャグとなっています。
  • 諸先輩に対する尊敬の念は失われました。
  • 普段は愚と見えて、いざという時には測り知れない力を発揮する。それが序破急。この「能」の精神こそ本来日本の大和魂です。見えないところからの守護のある廓然無聖、本当の実力とは何だったのでしょうか。山田無文老師曰く、聖諦第一義はわかっても、この廓然無聖はわからない。真実とは何だったのでしょうか。日月照らし、風が吹く。一休髑髏、ご用心。
  • 祖先はこれでいいと思っているでしょうか。私たちは日本人として、襟を正すべき時です。