二者、資質・能力・態度

2010年10月09日


  • 生徒指導について考えている。悩んでいるわけではない。学校現場は今、いつどこから荒れてもおかしくない。それはどうしてなのか。時代の混迷であるといえばそれまでであるが、このままではたいへんなことになるだろう。子供達が、何か大切なものを見失っている。親もそうである。教師もそうであるのかも知れない。本来人間は、何か正しい目標設定ができたなら、その方へ向かうことで、時代を切り開くことができる。しかし今、何が正しくて、何が正しくないのかがわからなくなっている。それ故に、もがいている。このままでは溺れてしまいそうである。
  • 学校教育の目的が、子供達に生きる力を育成することであるとして、生きる力が何であるのかが明確ではないのだろうか。正しければ発展し、正しくなければ滅亡する世の中である。今の状況は、何か間違っている。何を間違っているのだろうか。人々は成功を求める。それが幸せだと思う。しかし、戦後しばらくの実践で、幸せだったかどうか。何を間違っていたのだろうか。
  • およそ見当はついている。自己利益追求こそ、諸悪の根本原因だった。それで今、ボランティア等が見直されている。そしてインド哲学では、神の性質として、創造力と普遍の愛の二者を説いていた。しかも、前者は後者に対して反力となるとする。これを物質と精神として良い。あるいは、神と悪魔としても良い。あるいは、善と悪である。藥と毒であるかのも知れない。いずれにしても二者である。陰と陽、女と男である。このあたりにヒントがある。
  • 生徒指導の目的は、学校教育の実践において、教育目標を実現するために、あらゆる学校教育活動を統合して、好ましい人間関係を作ることにあるのだろう。その時、どのような人間関係が好ましいのであるのかを吟味する必要があるのだった。自己利益追求は、物質的な豊かさをもたらした。それが幸せかと思われた。しかし、精神面では、殺伐とした社会を形成してしまった。思いやりとかやすらぎ、情緒とかを期待できない状況が、学校現場にある。何が跋扈したのだろう。やがて、淘汰されるだろう。
  • 教育実践の目標に、資質・能力・態度の育成がある。態度こそ、社会性だったのではないだろうか。あるいは人格と言って良い。これが今、親も子供も社会も出鱈目となっている。そして思うのは、物質だけでは生きてゆけない(パンのみにて生きるに非ず)。霞を食べては生きてゆけない。この両者のバランスの問題だった。また、資質も能力も必要である。態度が育成されていなければ、誰も相手にしてくれない。いくら資質・能力があっても、成功はない。このあたりが見直される頃となったのだろう。資質・能力・態度の育成に成功した教師が、本当の実力者として出てくる必要がある。そのモデルが教育現場にないのだろう。子供達は待っている。身分が保障されて、形式主義に陥っている教師も謙虚に待つべきであるのかも知れない。時代は混迷している。しかし、嵐はいつか収まる。明けない夜はない。時は今、新しい時代への黎明期である。時代はモデルを必要としている。全体として一段階高いレベルへ移行する。意味のない面白さは何に乗じていたのか。本来日本にカラカラ浴場及びコロシアム政策は通用しない。日本は滅びはしない。いつまでも愚かではない。あらゆるメディアの反省する頃となった。資質・能力を要する。態度が確立されて、新しい時代が開かれる。お笑いの時代は終わった。やがて、何もかも明らかとなる。
  • 「自己指導力というものは、教師が一方的に働きかけて育つものではない。教師からのさまざまな働きかけを通して、生徒一人ひとりが自己理解(個人情報としての前世・ルーツを含む自分が何者であるかを知ることが、禅のテーマだった)を深め、自らの力で伸ばしていくものである(生きる力の育成)。(中略)たとえどんなに時間がかかったとしても生徒一人ひとりが自己実現(成功、幸せ、救い)に向けての歩みを支え、援助するという原理をふまえた指導でなければならない(北大路書房刊、松田文子・高橋超編著、『生きる力が育つ生徒指導』p3)。」