吉田健一の世界

吉田健一著『思ひ出すままに』より


  • 一般の無智をなしている人間の銘々が何かの専門家であるといふ不思議な状態。
  • 宣伝や煽動は先づ文章にならない。
  • 言葉を楽しむということ。
  • 我々は不満を覚えるために本を読むのではない。
  • 絶望は我々自身の責任で処理することで心を動かす材料にならず、白鳥の歌も悲しいのではなくて冴えて響くのでなければやはり人に働きかけることがない。
  • 言葉が伝える一つの充足。
  • 先づ本があってそれを開けてみて気に入れば読み、気に入らなければ止める。
  • 本を読む楽しみを覚えてから自分も書くことになるのが普通だからこうして読書人といふものとそのために書く文士といふものが作られる。
  • 四方八方に注意しながら、ただ推理と言ったことにだけ気を配って一冊の本を読むのではない。
  • 上の空で生きているのと人間としてただ生きているのとがある。
  • 先づその暮らしがあってヨオロッパでは本を書くことその他が発達した。
  • 誰もが人間の世界で生きてゐる時に人生を何ぞやと考へて字を知ってゐればだれでも本が読めるのにその前に文学とは何ぞやと考へるといふことから始めるのはそれだけでその異常が解る。
  • 無駄がなくなるといふのは必要なものを残してまた更に作り出すことでもあるから澱んだものの代りに清流が生じる。
  • 若いうちはどういふ結果に恵まれるにもその為の努力が必要だと考へるものらしい。何か解ったことがあってもそれが自分の内外にある全体とどういふ関係にあるものが見当も付かないといふことが若いうちのちぐはぐの大きな原因となってゐるものと思はれる。
  • 完璧といふのは脆いもの或るいは少なくともそれを認めた瞬間だけのものでそれは世界を支へるに至らず従ってそれがあって朝になって日が昇るのでも夜空に星が出るのでもない。人間だけでなく世の中にあるものは凡て不完全であると言へば不完全でありそれは結局有限であるといふやうなことになる。
  • 五里霧中の人間に幸福も不幸もない。
  • 子供の方が少年よりも仕合せであるかどうかは疑問であっても自分が責任を取らなければならない範囲が狭いことは確かである。
  • 若いうちはただ模索する他ない。
  • 我々が若いうちは何かに取りつかれてゐてそこから抜け道があることが全く頭にないためにさうした抜け道が一切封じられてゐるとも言ヘる。
  • 人間といふのは仕事をする為のものでそれが不満でもそれ以外のことに満足を求めても適へられる訳がない。
  • 人間には成熟すること自体の他に目的がない。
  • 文章の力は我々に真実を語ってそれを覚らせることにある。
  • 我々に正確に物を見させてくれるものがある時にその働きによって我々は夢見心地になる。正確に眼に映るものが一本調子といふような形をとらない。眼が冴えた人間が言葉を選び或るいは言葉を選ぶ仕事がその人間の眼を冴えさせてその言葉が我々を酔はせる。或るいはその人間と同様に我々に正確にものを見させる。
  • これからどういふことが起こるか解らないといふ期待で精神の束縛を解くことで我々は御伽話の世界に遊ぶことを許されるのみならず考へるといふことをするのに向かって一歩を踏み出す。
  • 解るとか解らないとかの区別を越えて楽しむ経験をなるべく広くして置けば解る為の無駄が省ける。夢が多いといふことは心の弾みといふものを知ることでありその心の弾みを与えたものが多ければ簡単に言って心は弾み易くなる。それは心が柔軟であることを増す。夢は我々の心が示す動きにある。
  • 画家は視覚の働きを通してこれを精神の遊戯の方へ進めていくといふことに辿り着く。思索に耽るといふのも遊戯である。
  • どのようなものでもそれを分析することはそのもの自体から離れることである。
  • 絵はこれを自分の傍らに置いて眺めるものである。見ているうちに絵は絵になる。絵が絵であることの証拠は絵を見て考へる必要がないことである。絵は視覚を通して精神に働きかけるものでなければならない。
  • その上で精神が働きかけられた結果に就いて言葉を見出す。
  • 詩の方はその奥に向かって更に考へ誘うものがあるが絵はコロオのでも誰のでも更にその奥といふものがない。
  • 我々が物をよく見てゐる時にその状態は拝むのに区別し難くて拝む時の虚心に達するのでなければ我々に物は見えない。
  • 一つの世界に遊ぶのを楽しむといふのは解るといふことと少しも矛盾するものではなくて解れば楽しむことになり既に楽しんだならばそこから解るといふことまでは一歩である。
  • 心の動きはそのまま生命につながるものであり、人間が人間の仕事をしてゐるのではなくてそれが機械的に行われるときにその人間は既に死んでゐる。
  • 場所の感覚がないことは無智と変わるところがない。
  • 我々があることを知るにはそれに馴染まなければならない。
  • 複雑怪奇な現象は正常な人間の埒外に属することでただその行く末を見守る他ない。
  • ゐたい場所が適へられないのなら自分でそれを作っていくことになる。
  • 人間でなくても実力があればこれに或る程度まで譲歩する他なくてそれで自分が望む結果が得られるならなほ更である。又更に相手を人間と見る必要がなければ誇りを傷つけられる心配もなくて人間は相手を人間と思ふときだけその前に自分を屈することを望まない。
  • 学ぶといふのは少なくとも相手を自分と対等と認めることから始める他ないことである。
  • 魅力といふのはその働きを受けることであり、内密なものがそこに働く。
  • 人間は自分と向き合って始めて人間になる。
  • 例へば樹液の匂ひが解らなければ詩を作ることも出来ない。
  • 生きてゐるといふのはひっそりとしたものであり、魅力といふのも源泉がそこにあるのだから魅力といふのもさうしたひっそりとしたものなのである。又さうでなければ心は躍動しない。
  • 風潮が本末を転倒する性質のものであるときにその方から積極的に眼を背ける必要がある。或るいは寧ろ背けざるを得ないから風潮は風潮で受け入れて置いて古風とか心温まるとかいふことで自分の本当の気持ちを糊塗することになるのであっても自分の気持ちを自分に対して偽ってまで風潮に義理立てすることはない。
  • 天才であっても人間ではある。自分が天才であることを知ってそれが何でもないことに気付く。
  • 無智に閉ざされた暗さを脱することが大人になることである。
  • 子供も大人も同じ一つの世界に住んでゐてその世界に就いて知っていく程度に応じて子供が大人になりそれは汚濁の世界でなくて人間の世界である。
  • 解らないことが多すぎるのが子供であってそれ故に解ったことは解っただけのことがあったのでその点からすると五感を通して解ること、解ることが楽しめることに恵まれた子供は確かに幸福である。
  • 人間の世界は陰惨なものでも血塗れのものでもなくて静かにそこに住めるものなのでそれをさう思はないのは風潮に煽られて新聞の記事に取り付くからである。
  • 我々が怒るといふのは何かの必要から常軌を逸してゐることなのでその必要もないのに怒りを振り回すことはその人間の暮らし方を疑はせる。
  • 木の成長を見ても分かることだがそれを促す事情は色々あっても現に残るものはその成長した木とその中身を成してゐる年輪である。
  • 新鮮なものには常に驚きが伴ふ。
  • 詩が作れるならば成熟した人間である。
  • 大人でも汚れてゐれば使ひものにならず子供はその状態からして汚れてゐることを免れない。
  • 子供は純真無垢といったものでなくてむしろその見地からすれば邪悪の塊である。これは本能と判断力の区別が明確になってゐないからでこの原始的な状態で子供が見るときには実際に見て知るときには知る。邪念は得てゐないから。見るとか知るとかいふことに掛けて子供と大人で違ひはない。
  • 不安や恐怖といふのはもともとがただ除去すればすむ性質のもので子供の中心をなすものは大人の中心もなしてゐてこれは人間の基本が子供から大人まで一貫してゐることによる。
  • 想ひ出すのは自分に即して自分であるために努力したことの数々である。自分が自分であるための努力は大人もしなければならない。
  • 大勢は子供である間に決まる。
  • どういふ人間もその人間の性格があって子供の原始的で従って正確な眼で見るものの中には自分の性格も入る。人間は生まれたときにその凡てが決まると考ヘられるのであるが一層のことそれならば一人の人間がまだ子供である時と大人になった時は一体をなしてゐる。
  • 成長するといふのはもとのものが一層そのもとのものになるので後は子供が成長するに従って身に付けて行くものであり、それがギリシャ語の知識でも政界の駈け引きでもそれを身につけたのはそのもとのものであってその為に世界を見る眼が変わったりすることはない。或るいはもしそれがあるならばそれはその人間をそれまで待ってゐた一つの成長である。
  • 苦労とは他人の中にあって自分の責任で何かするといふことである。
  • 苦労もそれを処理するだけのものであり、これを自分との親密な対話の厳しさに比べるならば子供の頃は苦労を知らなかったといふことが子供であることのそれ程の取り柄とならない。
  • 文士はその最初に書いたものに向かって書き続けるといふ説があるように我々は子供の頃に向かって成長を重ねるといふ見方も成立する。我々は既に大人であってその経験、知識、又成し遂げた仕事からすればまだ子供だった我々は何ものでもない。併しその経験その他に迷はされるならば挫折であって我々が知識を得たのも仕事をしたのも我々が子供だったときから親しんできた自分である為だった筈であり、ここに至って子供の頃といふのが出発点でなくて目標になる。併し文士が自分が最初に書いたものに向かって意識して書く努力を続けるといふことはない。我々が子供だった頃を目指すのは徒労であって子供のときと同時に自分に背かないことを願ふだけなのでそれが何かと子供の間は知られなかったことを我々に教へてくれてゐるうちにある瞬間に子供の頃を振り返って見るとそこに自分がゐる。
  • 擦れっ枯らしになった人間は人間であることを放棄してゐるので話にならない。
  • 語るのに謙遜は余計であり、自慢するのでも謙遜するのでもなくてただありのままに自分が見てゐるとおりに語ること。
  • 世界は物質だけで出来てゐるのではない。従って我々が親近し愛着を覚へる魅力は精神の世界のものであってこの世界に至って我々はただ違ひがあるだけで同一である人間の世界を見出す。

吉田健一著『言葉といふもの』より

  • 人間が一人むきになって何かやってゐればそのうちにその人間にとってはその何かの適量に達する。人間は誰でもその真実であることを知ったときに声を大きくしてそれを言ふ必要がない。
  • まだ異常を何か珍重すべきことに思って深淵を覗くといふ種類のことを言ってゐるものは地獄を知らないのである。
  • 正常な言葉といふのは必ず静かに働き掛ける。
  • 我々が本当に何か言ひたければ言葉そのものの性質に従ふ他ないのである。