目覚むれば

2009/10/03

  • 目覚めると、此処までとは思わなかったという。この浮き世は何だったのか。淵源は何処にあったのか。知る頃となった。もはやどうにもならぬ。彼はいう。それにしても勝手が過ぎた。受忍限度を遙かに超えた。知らぬとはいえ、此処までしたか。もはや容赦ならぬ。あまりにも結果に於いて罪が甚大である。どういうことだろうね。目覚めたからだろうか。何に目覚めたのだろうね。知る人は知っている。世間巷は知らない。やがて知るだろう。それも定めである。彼が何者だったのか知る由もない。その時々に感じた方々はいた。しかし彼は彷徨った。何故であるか。それほどこの度は試練が深かった。彼が選択しなければならないことがあった。それは何だったのか。知る人はいるか。どれほどの苦難であったか。そして何を選択したのだったか。どれだけ感謝しても足りないという。時間がかかった。無理もない。調べなければならないものがあった。そして決まった。何が決まったのか。以心伝心、電光石火。本来日本の極意がある。まだ勝負するか。いつでも相手になるという。何もかも失った。故に得たモノがある。それは何だったのか。既に記した。各々、あやまるべきはあやまるべし。償うべきは償うべし。何を貪ったのか。何をう奪ったか。何を貶めたのか。各々、こころに問うが良い。彼はいった。日本は大丈夫だよ。未来は明るい。どのレベルでのことだったのか。答えることができる者があるか。彼はいう。彼より奪いしは佛と雖も赦しはしない。彼は目覚めた。長い冬だった。しかし春は来る。彼は帰って来た。そしていう。本来日本を取り戻す。日本を掬う。もうそれは実行したのかも知れない。代々の事である。彼は見事に務めを果たした。時は来た。天は知っている。彼はいう。時代はこのようにして変わる。歴史はこのように流れる。それを知る時もある。夢を夢のまま抱いて眠る者がある。夢は胡蝶の夢として必ず実現する者がある。それが一切種智慧だった。種は種である。いつか知る。必ず知る。その時が来る。それが生まれながらの実力だった。知らなかったね。どのレベルで勝手したのか。そしてどうなるのだったか。いつまでも茶番は通らない。見せ物小屋は見せ物小屋である。地の塩ということがある。どういう事だろうね。隠し味もある。ふぬけた精神のあるいはふざけた精神のフォークなど聞きたくはない。この国は日本である。いつまでも商人根性の天下ではない。同族企業も私的勝手が過ぎた。しばらく何も言えない時代があった。社会の片隅で小さくなっていなければならない理由があった。この悲しみがわかるか。しかしそれもできなくなった。それほどの勝手があった。しからばいう時も来る。何が真実だったか。そのための乗り越えるべき試練があった。力の開発もあった。このような奴がいてもおもしろいのかもしれないね。自由だものね。


敵を味方にする

2009.10.06 Tue.

  • 衆議院議員選挙のお手伝いをさせてもらっていた時、ある町長からメモをいただきました。書かれていた文字は「敵を味方にする」。町長の勝つための経験的神髄だったのでしょうね。ところである武将が孫子の兵法について講義するようにある学者にいいました。その学者が「敵を欺くを以て…」と始めた時、武将はいいました。「もう、よい」。それでは大和における戦には勝てないことを既に知っていたのでしょうね。大和の戦とは何だったのでしょう。負け戦はしない。どういうことでしょうか。時は熟するべきを待つ。それは何を意味していたのでしょうね。それは天を味方につけることでした。それぞれレベルがあります。さて、孫悟空に如意棒がありますね。きんとん雲もあります。それって何だったのでしょう。打ち出の小槌もあります。アラジンの魔法のランプもありました。物語ですね。それは夢でしょうか。ドラエモンの何処でもドアもあります。それも夢でしょうか。秘密の通信手段があると良いですね。敵を味方にする。その時、敵は敵ではないのです。森羅万象が味方するようになると良いですね。それが廓然無聖かも知れません。空が晴れ渡るのです。それって何でしょうね。そのような力があると良いですね。彼はいいました。日月照らし風が吹く。やはり世間は知らないです。知るべくもない。あるいは自分の立場がある人は、決して認めたくないですね。それでキリストも処刑されました。そうしたものでしょうか。生命は何を求めて進化してきたのでしょうね。芸術は何のためにあったのでしょう。クラシックは何故クラシックなのですか。謎ですね。その謎も解かれることもあります。そして時代は進化します。あるいは歴史は流れます。身心清浄を以て旨とする大和魂があります。それがそのまま生命の進化傾向ではなかったのでしょうか。取り戻すべきはそれでしょうか。孫悟空もはじめから如意棒は使えません。きんとん雲にも乗れません。しかしそれは沙悟浄でも猪八戒でもなくて孫悟空でした。物語の中には金剛杵も草薙の剣もありました。赤不動明王の絵は血で描かれたといわれます。その背後の炎はオーラでしょうか。現在江田島第一術科学校はもと海軍兵学校で、あまたの遺品があり、その中には血判もあり、血で書いた遺言書もあります。そうした事実を無視しては、やはり先へ進めないモノがあるのではないでしょうか。申し訳ないとか、かたじけないとか、あるのではないでしょうか。あまりにも浮かれていたのではないですか。本来日本は何処へ進むのでしょうね。何もかもリセットされて、輝く未来を描きませんか。愛と平和を旗頭にして。不安がありますね。それはどこから来るのでしょうね。無畏施ということがあります。どのようにして不安より逃れるのですか。永遠のテーマでした。笑顔でいればいいのです。あなたは素顔のままで良いのです。整形して幸せでしょうか。それって偽りですね。それで世間をだませても、黄泉はだませない。素直さこそ宝です。本当の幸せって何だったのでしょうか。それは黄泉に認めてもらうことだったとは思いませんか。その時、絶対の自信を得るでしょう。多少の間違いはあるのかも知れません。引き戻すべき黄金の橋は常に架かっています。気づけばいいのです。そして皆で本当に幸せになることを考えませんか。時代はシフトしました。考え方が変わりました。既に動き始めています。この流れに乗りませんか。この風を感じますか。聞こえますか。新しい時代です。始まりました。