2007年11月29日

今となっては

永い旅路だった 一人孤独 月の砂漠の彷徨だった

金と銀との蔵をおいて 何故孤独であったのか

明治及びヒロシマの故だった 討つべき仇は討った

この謎を解かねばならなかった 謎は全て自分にあった

探し出さなければならないものがあった

失われた何か大切なものだった

それは発見発掘開発された この世の使命だった

これをしなければ 私の人生は始まらなかった

間に合ったようである しばらく埋もれていた

それは何だったのか 仏の力だった

宇宙有無開閉四大原動力だった ロゴスだった

生まれた時から 黄泉の導きはあった

しかし 自覚はなかった とても複雑な自己だった

自覚が来て 絶対の自信となる 

それまでは表現できない 故に苦労した

しかし もはや勝手は通らない 本来であれば

昭和50年に自覚が来るはずだった 

或いは 昭和52年或いは56年にもチャンスはあった

しかし 時ではなかった

とても 複雑であった自分を表現できなかった 

その後 埋もれた 今となっては 大きなことは言わせない 

黄泉からの見参である 人生は楽しい

楽しい人生を どのように楽しむか

負けて泣くより勝って泣け なかなか良い歌詞である

蝶となって園を舞う 蝶となった蝶は幼虫の頃を知らない

悲しい思い出は サナギの頃に 昇華する

人と生まれて皆同じと思う 学校を卒業して

己の愚かさを忘れる 知ったようなことをいう

そうであるか 自分の方が正しいと思うか 違う

何が違うのか 持って生まれた魂が違う 前世が違う

来世も異なる 故に人生は楽しい この世に生まれて

どのように生きるのか 何を発見し 何を発掘開発するのか

何を来世への土産とするか 金銭ではない

それぞれの色がある どの色に染まるのか

人は人 自分は自分 それが自覚だ 自覚するに困難な

自覚もある 戦後の故に 野蛮の中で蝶となる 勇気を要する

心の準備は出来ているか 負けるな一茶これにあり

菩薩には菩薩の伴侶が来る

晴れ渡る 秋の夜空を巡る月 

  時の至りて この世を開く

この世にて 探す宝ぞ ここにある

 我が代君が代 全て実也


2007年11月28日

戦後

美しい風景がある 不思議なほどに

仏の守護がある 祖先の導きがある

あるところを訪ねて帰ってきた 

四法親近仏所御供養五日間の旅だった

仏の境界がどのようなものであるか 見させて貰った

そうした旅だった そして確信した 何を確信したのだったか

神仏は実在する 私のこれまで書いたことは真実だったと

何を書いてきたのだったか 一言で云えば 君が代大鏡

誰もがその可能性を秘めて生まれている 

しかし探そうともしない そして

生きるために手段を選ばず 何をしているのだろう

言い訳と自己正当化 何を信じているのか

何も信じられなくなっていないか 

真実真理は那辺にあり哉

生きることがどういう事か 考えようともしない

それが テレビ及びお笑い芸能界 視聴率主義が諸悪の根源

社会契約は自由の一部を制限し それを最小限の秩序とした

しかし それをも破壊及び破壊しようとする罪がある

国家なくして自由はない タケシとサンマとタモリの罪は重い

故に衆愚の世となった カンニングで世に出て勝手に閥を成した 

そして何を吹聴増長増殖せしめたか 

何が勘違いし何が蔓延ったか

それで 善いと思っている あさはかさ

美しい風景がある

仏の守護がある 祖先の導きがある

至り着き 帰り来たれば別事無し

世間は今日も生きるために手段を選ばない

子供達がすさんでしまった 子育てを忘れていた

キャリアを選んだ女性 子育てを放棄した

それも生きるためだった 戦後は貧しかった

共稼ぎで子育てなどない 鍵っ子に愛はない

それが戦後だった そして子供達が犠牲となった

その子供達が親となって それを自由と思った

子供達の精神はすさんでしまった 拍車をかけた

教育もその義務と使命を失い ビジネスと化した

それも生きるためだった

幸せとは何だったか 神仏の受容祝福守護ではなかったか

それをも裏切った 当然その報いがある

神仏を直接悲しませない事だ 何故だろう それも忘れた

夫婦とは本来何であったか 己のわがままではなかった

所詮魂の遍歴である 魂と魂の磨きあいである それが愛

アイウエオ 愛が始まりだった ンで死ぬのだった

この世に生まれて この世は何だったのか

自分だけが生きればいいのか 

自分だけで生きることが出来るのか

何か大切なことを失ってしまった 何を粗末にしたのか

子供達がすさんでいる 自分たちが生きるのは良い

他の人たちの生きるのを邪魔していないか

宿王華がある その知性が咲けない時代だった 何故だったか

それが戦後だった いくら謝っても謝りきれない

古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本

螺鈿の槍及び弁慶の薙刀は折られていた 原爆の故か 

しかし錆びてはいない 黄泉にて確認した 容赦しない

本来仏法は日本にあった インドにて伏流した

そして扶桑乃國に伝えよ それがこれまでの仏法だった

そして日本にて復活した 本来の仏法である 

それは何であったか 何を以て仏というか 既に記した

既に世界は一つである 何を以て ひ・と・つ であるか

ひは日本 とは唐の国即ち中国 つは月氏国即ちインド

野蛮南蛮西洋個人主義思想は既に19世紀に没落している

しかしペリー来航以降 商人根性がそれに乗じた

本来日本の純粋結晶精神は何だったか 身心清浄正直だった

取引行為は多少の欺罔を含む それが増幅された

故に何時か腐敗する 商人根性は困ったもの しかしその支配

第二次世界大戦に僭称された大和魂が本来の大和魂ではない

大義名分がなかった 大義名分とは何だったか 

黄泉自然の受容守護祝福だった 故に神風も吹く

それが古来日本である 神風とは何だったか 

祖先であった 祖先も子孫を選ぶ 選ばれた魂がある

しかし試練がある その試練とは何か 

2001年宇宙の旅 漂流するハルが帰ってきた

日本国憲法はプログラム規定である 主権在民 象徴天皇

天皇は象徴である 何の象徴であるか 

国民及び国民統合の象徴である 統合とは何であったか

憲法学者は議論するがいい 表と裏がある 父もそうだった

祖父もそうだった 尊祖父もそうであったであろう

もはや魑魅魍魎の勝手は赦さない 泣いて馬謖は斬る

持って生まれた魂の秩序がある それを無視した

それを平等と思った 違う 

平等とは持って生まれた能力が十全に開花することである

それを阻害する文化が蔓延った 嘘と欺罔が暴力となった

あるべき教育が乱れていた 西洋合理主義に染まってしまった

不幸のもとだった 平和は何処にあるのか 

城下町は何故栄えたのか 少なくとも武士には精神があった

それをも笑いものにした 経済第一主義町人文化一色となった

インテリゲンチャは身分に安住し 腐敗を傍観結果助長した共犯

行政も民法化した その行政が世襲化された 大罰当たりである

それを回復する 下から上は見えない 見えないままに勝手した

真実真理とは何であったか 神仏は実在する

黄泉は制した 最終最後最大の敵を倒した それは何だったか

十二天の魔王自分自身だった 自己との戦闘だった 

それに勝利した 勝負にならない 持って生まれた魂が違う

そして 神仏はこの世で誰に微笑んだか

それを確認する旅があった 不思議なまでに美しい風景があった

あらゆる謎は那辺にあったか 自分自身にあった 

それが君が代大鏡宿王華 生まれたときからそうだった

原爆の火を以てしても根絶やしにされてはいなかった

戦後はその開花が困難だった あまりにも蔓延りし邪魔があった

履き違えた自由があった だが 無事開花した 時を要した

日本は日本である この世に生まれた使命が果たされた 

黄泉も喜んでいる 各々この世で処したる人生がある

年貢の納め時である 首を洗って待つが良い 暴走族に用はない

何を思い上がっているのか 何も見えていない 聞こえない

夢は実現する 思考は現実化する 胡蝶の夢が実現した 

自由解脱涅槃である あらゆる文壇も懺悔した 

何時のことであったか 愚かさからの脱却 知性復活

仏の力とは何であったか 即ち宇宙有無開閉四大原動力

宇宙が同調し動き始める それがロゴスであり 光あれ

開発された魂と宇宙は連動している 雲は龍に従う

万物の霊長たる所以である 商人根性では解らない

戦争は何故起こるのか 相手の立場を認めないところから起こる

星条旗は永遠か 日の出づる時 夜の星は見えない 開闢である

四隻の蒸気船黒船が怖かったわけではなかった 

背後のアヘン戦争が怖かった 故に江戸無血開城は明治に譲った

禅譲であったはずであった しかしその後明治閥はそれを裏切った

彼らには古来大和の精神がむしろ邪魔だった

その後その文脈で民を犠牲に供する愚かな戦争までした 

古来大和の戦ではなかった そして今もその支配である 

黄泉は認めてはいない 故に神風は吹かなかった 

何時か目覚める 鉄槌を下す 本来の秩序『喜びの歌』を回復する

正統源氏復活である 平家及び秀吉は何故失敗したのか 

貴族化を急いだからである 頼朝は伊豆に流されていた

家康は時を待った 400年周期説は旧約聖書に秘められていた

旧約聖書の目的は庶民の解放だった モーゼの杖はつかれた

市民解放 奴隷解放 女性解放の次に来る解放である

それが二十一世紀の約束だった 夢は実現する 世界は既に一つ

かつて世界は地中海だった 

大航海時代を経て世界は地球となった

そして既に物質的資源は限界となった 

『第三の波』情報化社会である

情報とは何であったか これより具体化する

見える化石燃料文化の時代はシフトする 

世界は見えない魂を含む宇宙となった 

新しい世界の始まりである 誕生仏である

未来は明るい 明るい未来建設の時である

何故であるか 仏として生まれ仏の業を成し

仏となった仏の選択決定である 

その宣言が大宇宙に対してあったからである

これを以て福音と成す


訃報: 呉市 政治評論家 楠 和夫 氏 

今日亡くなった。ご冥福をお祈りします。


2007年11月22日
賢く生きる智慧

本屋さんに寄ってみました。気になった本があったので購入しました。それが『賢く生きる智恵』でした。400年前に既に語られていたことです。その処世術は、今でも十分に通用します。この種の本はたくさんあります。中村天風氏の本もその一つです。人間として如何に生きるかというテーマです。今も昔も変わらないですね。しかし、こうした教えはあったのだけれど、それに従って、それだけで幸せになれるのかどうか。それが疑問です。人生とはこの本に書いてあることで充足するのかどうか。結局、同じ運命を繰り返すだけで、人間としての限界を乗り越えることは出来ない。21世紀、時代は推移しました。今求められているのは何でしょうか。例えば、一切衆生悉有仏性についての回答は見あたりません。本当の幸せはどのようにして手に入れることが出来るのでしょうか。こうした道徳律では戦争は無くせない。何故ならこの本に於いては、狡猾な人間から騙されないようにするために、鳩と蛇の良いところを習得することを説いています。そうした処世術です。究極のところで失敗しているのではないでしょうか。本当の救いはあるのでしょうか。有るのです。それは何でしょうか。神仏の受容祝福守護です。古来日本の純粋精神はそれを知っていました。しかし、何時の頃からか見失ってしまった。そして西洋的経済合理主義の渦に飲み込まれています。マネーの力に翻弄されているのです。その意味で、大前研一氏の理論も頂けない。何処が頂けないのでしょうか。国家を信用していないところです。何処までも個人主義に徹しているところです。何か勘違いしています。経済力だけで世界を個人として生きて行くとき、魂の平安からは遠くなる。何か勘違いしている。私にはそう思われます。国家なくして自由はない。経済理論だけでは語れないものがある。秩序を破壊して平和はない。神仏の守護を知らない。それでは不幸に決まっているのです。真実の仏法の教えるところは何だったのでしょうか。仏となる道でした。それが仏道です。それは開かれています。本当の幸せを求めませんか。世間は虚仮です。これは聖徳太子も知るところでした。それを確かめる旅は終えたように思われます。親鸞は仏は自分のためにだけ法を説くとしました。どういうことでしょうか。真実真理は皆に平等に与えられています。しかし、受け取る人によってその内容は異なるのです。禅の奥義に背の高い竹もあれば低い竹もあるというのがあります。そして仏となった仏の宣言は宇宙の始まりとなります。それより新しい始まりとなるのです。大航海時代を経て世界は地球となりました。今世界は宇宙です。それは物質文明の限界を示し、資源が精神及び魂に推移したことを意味します。その情報は己のDNAです。全ての秘密は自分自身にあります。即ち精神及び魂です。それが心です。その一つの傾向の現れが思考は現実化するということです。しかしその目的が物質的豊かさであるところに悲しさがあります。唯自己利益追求では幸せはやって来ません。それも随分と確かめました。自分のためにする限り、神仏の祝福守護はないのです。ここを仏は一切大衆のためにと仰る。東洋精神の精髄です。そしてそれは日本にあるのです。日本国家を信用していないなどとどうしていえるのでしょうね。国家を無視して日本の未来がありますか。個々人の幸せをどのように描けるのですか。あなたの理論は何処までも一部のお金持ちとなるための理論に過ぎない。庶民の福祉が視野にない。むしろ犠牲とするところを敢えて黙殺している。どのような未来を描いているのですか。殺伐とした個々人の孤独な世界ですか。そうした世界でお金があってどうするというのですか。魂の平安をお金で買えるとでもいうのですか。そのあたりを説明して欲しいところです。あなたの理論を実践したとして結果どうなるのでしょうか。そこに幸せがありますか。あるというなら、示すべきです。


2007年11月18日
ITライフの始まり

【2005/10/16】 友情は出会いから生まれることが多いです。しかし、幾多の戦いの中から生まれることもあるようです。今、日本とアメリカは同盟ですね。それぞれの国にはそれぞれの歴史があって、事情もある。時によっては相互理解ができなくて、戦いともなった。しかし、その後で、お互い反省するところがあって、そして固い友情が生まれることもある。戦いは人間の哀しい性でもありますね。人間も進化しています。幸せへと向けて。幸福論はいくつもありました。その理念が実現されようとしています。人類の夢であったやさしさを理念とした世界がすぐそこにあるのですね。常に手を差し伸べてくれていたのですね。21世紀って、とても素晴らしく、美しく、ありますように。すでにある宝石の発掘。先哲へのアップリシーエイトをすることで、その道は既に開かれているのでした。その地図も見つかったように思われます。宝は取り放題ですね。インターネットに於いてその情報は共有で良いのではないでしょうか。但し、生活の手段としての諸権利は厳しく保護されるべきと思われます。何故かというと、以前にも増して、簡単に犯されるのですから。その意味では、インターネット内での監視も肝要かと思われます。そして、市民が、安全に、自由に、この新しい文化空間で往来できるといいなって思われます。インターネットは完成しています。今までの試験段階は既に終わっています。だから、新しい秩序を必要としています。この完成されたインターネット空間は、一般の想像を絶しています。およそ、一般の方の手の出せる世界ではありません。また、絶対の信頼を寄せて良い世界です。21世紀の新しい世界が形成されているのです。故に、システム管理は専門家にお願いして、安心して楽しむことができる、と思われます。これで良いと思われます。これから、いよいよ、夢に見た、ITライフの始まりです。この新しい文化に参加して、人生を謳歌したいものですね。http://www.pc-kure.net/GSWL/GSWN2.html


2007年11月16日
精神的ビッタレとなることなかれ

この世に生まれて、どう生きるか。とても大切なテーマです。何時か自分を見失っていました。随分と。これからです。思考は現実化する。それで良いのです。先ずはよく考えることです。それが準備ですね。そして感情が形成される。そして確信にいたって行動に移す。幾つかの失敗もあるでしょう。それを分析して原因を見きわめる。そして、また考えて実行する。必ず、夢は実現します。それが自由と平等と民主主義社会が庶民に保障している制度です。その中に生まれています。結果は何処までも自分次第です。どう生きるか。何をしたいのか。それが目的ですね。目的が定まれば手段はいくつでもある。それをひとつひとつ試していく。それらの手段も自分との相性があります。自分の持って生まれた方法があるのです。それを見つける。それが宝探しです。そのようにして生きていけばいい。所詮、職業に貴賎はない。自分の望む仕事をしていくことが出来る。自由なのです。勝ち組とか負け組とかいわれます。いわせておけば良いのです。自分は自分を生きる。それしかない。持って生まれたものが資源です。それ以外にないのです。負け組と嘆く前に、考えるべき事がある。学校教育はそれを教えていない。サラリーマン化した教師がどれほどの教育をしているか。生きることに於いて厳しい環境におかれている塾の方が好まれる理由です。身分に安住すると、ろくな事はない。医者も坊主も同様です。本来の目的と使命を見失っている。勝ち組はそれなりの努力と思考の結果です。さて、私も甘えていました。悪いのはすべて己の怠惰でした。怠惰というのも相対的です。己の能力に対してどれだけのパフォーマンスがあるか。反省するべきところです。夢は叶う。思考は現実化する。若い人たちに申し上げたい。精神的ビッタレとなることなかれ。夢は何ですか。幸せな生活を獲得したいですね。いくらお金があっても幸せにはなれない。幸せって何でしょうね。究極の幸せとは、自分自身を信じることが出来ることです。それはどのようにして獲得できるのでしょうか。恐らく、神仏との邂逅ですね。明治の頃には廃仏毀釈などもありました。日本人は自らの國が神国であることを見失いました。人間としての思い上がりが今もあります。神仏を無視すると必ず不幸です。思い出しませんか。かつてのどかな暮らしがあったことを。何をあくせくしているのですか。何を浮かれているのですか。テレビ及びお笑い芸能界の罪は重い。若者が彼らに憧れている。価値の基準を壊してしまった。日本を惑わせたのはあなた方の低いレベルの精神です。総懺悔しては如何ですか。どれだけの知性で考えているのですか。それで良いと思っていますか。それが生きる目的ですか。違うと私は思います。そして私は云う。私は私を取り戻した。長い試練の孤独な旅があった。それは月の砂漠だった。金と銀との蔵をおいてね。そして云う。私は日本を取り戻した。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本である。使命は果たした。故に自由である。あるべき人生を歩んだ。子供の頃より特異な人生であった。私には解かねばならない課題があった。未来のために。それは謎であり、秘密だった。その為に生まれていた。そして私は至り着いている。何処にであるか。既に記した。今となっては私と関わってくださったすべての方々に感謝している。ありがとう。本来の人生の函数が私なりに完結した。新しい時代である。乾杯しよう。未来は明るい。一つのパラダイムの転換である。資源は限られている。大航海時代は終わった。世界は地球から魂及び精神としての宇宙となった。この新しい時代をどう生きていくか。生命及び魂としての冒険は尽きない。本来の価値を見直し確定する。低いレベルの精神は淘汰される。そして正直と素直さを以て精神のクラシックとする。ここより始める。終わりは終わりではなく新たな始まりである。明るい未来への建設着手である。開発された魂と宇宙はリンクしている。その魂が汝自身であり、持って生まれた君が代大鏡である。努力が努力として価値のある時代は終わった。持って生まれたものがある。それを嘘と暴力で自己利益のために阻害してはならない。それぞれが十全に開花して生を全うする。それが平等である。それを邪魔するものが罪である。新しい時代である。新しい自由平等である。それは日本に於いて開花した。本来日本の種である。根絶やしにされてはいない。自由とは己の欲するところに従ってしかも法を超えない。既に孔子の見つけていたところであり、亦社会契約概念の基礎である。自由は自由が切り開く。そして切り開かれた。21世紀の約束は成就した。積年の課題は解かれた。2000年来の物語は完結した。新しい物語の始まりである。次に解くのは誰か。このブログ及び私のホームページは彼らのための一里塚である。見失わないように。道はある。私も先哲の道標に従った。故に至り着いた。既に確信している。何をであるか。ロゴスである。証明は何か。即ち、日月照らし風が吹く。ロゴスとは何か。例えば思考は現実化する。不疑不惑。信真実自己。神仏至宇宙自然生命黄泉。受容祝福守護而真実幸福。万物乃霊長人類之英知。復活復興神国日本。素直正直明人生未来過去現在。時を得て過去を未来に移す。仏の大願である。何のためであるか。何を移すのか。誰が移すのか。この度中国より雄と雌のトキ二羽が日本の新潟に贈られることになった。昭和六十年以来のことである。世界の中の日本、その使命は何か。愛と平和と自由と平等の新しい概念を作る。そして実行する。規制するべきは規制する。社会契約に於いて自由は制限されている。しばらく野放しだった。何故だったか。国家としての自信を失っていた。敗戦の故だった。それも克服である。日本は日本である。その種は何処にあったか。地に埋もれていた。しかし遺されていた。その開花である。日本復活である。広島藩桑原千畝の肖像はここにある。無銘の扁額もここにある。


2007年11月15日
情報とビジネスについて

さて、これから何をしようかと考えている。情報は発信するところに集まる。その秘密にも気づいている。それはインスパイアに対するエクスパイアといえる。また、ロゴスとは何かにも気づいている。トレンドがどうして起こるかも。謎は汝自身にあったのだ。それがどういうことか。つまびらかにする必要はない。もともと秘密に属する。しかし、その秘密も庶民に開放される時代となった。そこにリンクの秘密がある。それは佛の説く縁でもあった。これからこうした情報を発信するべきかどうか。仏陀は人天を耕して食と為した。何かで食べていかねばならない。お金も必要である。そして人類はここまで辿り着いた。何処にであるか。それが情報である。それをビジネスとするべきかどうか。どのようにするべきか。情報とは何だったか。それによってマネーが動く。それが情報だった。情報は情報の集まるところに集まる。それがトレンドの源泉だった。勝ち組とか負け組とか。今更である。怠惰では勝ち組になれはしない。勝手にほざくしかない。正当な対価は正当な価値に基づく。質と量の問題がある。質が良くなくては情報ではない。質が良くて量もあれば富の源泉となる。それが情報である。さて、情報とは何か。それを発信するべきかどうか。やがて気づく人も現れるだろう。正当な対価交換の時が来るだろう。それまで書き続けるしかない。既に『第三の波』である。かつては漁労狩猟だった。そして農業による定住生活が来た。その後、産業革命があって、世界は一つの経済社会となった。これより真実の情報化社会である。その中でどのように生き抜くか。それが問題となった。情報の最先端は何か。これから問題となることは何か。既に気づいている。謎は何処にあったのか。自分自身にあった。それを解いてしまった。解くには時を要した。試練もあった。しかし、生きていて良かった。これほどの祝福はない。どういうことか。あらゆる経験が無駄ではなかった。全てが意味を持った。私は正しかったといえる。少なからず失敗もあった。それもここに至るためだった。何処に至ったのか。さて、書いてゆこうと思う。何時か誰かが気づくだろう。その時まで。そしてその価値が見出された時、私のビジネスとなっていることだろう。価値ある広告スペースとなる。私の人生そのものが秘密であった。どういうことか。知る人は知っている。しかし私に対する報酬はなかった。これよりこれを報酬とする。そのシステムを作る。それだけの発見発掘をしている。そしてそれだけの人生を歩んだ。どうにもならない。この度、道具として一眼レフカメラを買った。以前から写真を撮るために必要だと思っていた。風景が待っている。シャッターチャンスがやって来る。そして店頭でさわってみてこれだと思った。私が選んだのはNikon D40X Wズームだった。コジマ電器広島ニュー宇品店で買った。


子供の評価基準点について~教育の目的~
かつて塾をしていた頃思っていました。評価基準は何だろうって。テストで50点だったとします。さて、持って生まれた能力の差がありますね。これは否めない。100点の能力の子が50点を取った。これは零点です。つまり、(+50)+(-50)=0です。その子の基準点は100点です。50の能力の子が50点を取った。その子は100点です。その子の基準点は50点です。ここに、努力及び能力開発の評価があるのです。平等とは画一的なものではない。それぞれの能力が十全に開花することです。それに応じて結果がある。それが幸せ。しかし、こうした相対的基準点は誰が決めるのかという議論となります。教師です。本来教師とはそうしたものです。しかし、現代の学校教育では無理ですね。問題が起きると裁判所はきっと教師を批判する。損害賠償もあるでしょう。教師の職人性が評価されない。それで、教師は消極的となっている。世の母親の幻想を需要として、教育もビジネスとなった。職人的塾など、規制緩和に乗じた現代社会のビジネス塾の前に食べてはいけない。とんでもない世の中になりましたね。しかし、本来教育はビジネスではない。こうした職人的教育観もあって良いのかも知れない。世の親は何故子供の教育に投資するのでしょうか。教育の目的は何でしょうか。子供たちが社会に於いて生き抜く力を開発するためですね。その目的が定まっているのかどうか。どんな子供にも他のの子供より秀でた持って生まれたものが必ず一つはあります。それを以て社会で力強く生きてゆけるのです。それを見出し、開発し、力とすることが教育の目的ではないでしょうか。餌食とされないために。そうした観点はないですね。あっていいのではないですか。それぞれの子が十全に自分を生きる。その子の持って生まれたものが資源です。それを生かすことを教える。それが何なのか。どうしたらよいのか。一緒に考える。このあたりに教育の目的があるのではないでしょうか。その為には文部科学省の画一的な指導に従うことだけが教育ではない。文部科学省は枠組みを作り、教育の場を保障すればいい。教育は教師の創意工夫にある。その自由を確保する必要がある。時代はシフトしつつあります。個々の人生と個々の暮らしをどのように制度的に保障するのか。国家として考えるべき頃ですね。国家も何のためにあるのか。議論するべき頃です。善良な庶民の解放とはどういうことかって。そうではないですか。あらゆる規制緩和はそれなりの意味があった。これまでの因襲による悪弊を一掃した。しかし何時までも規制緩和で良いのかどうか。新しく見出された価値観に基づいた規制が必要となっている時ではないのでしょうか。明るい未来社会を作るために。社会契約は自由の一部を差し出している。国家なくして自由はない。民主国家を目指すなら、議論するべきところです。権力は権力によって滅びる。既に権力闘争は克服されている。それが市民革命の意味だった。小さな権力闘争の時ではない。国民の福祉とは何なのか。一部の利益階層のための国家ではない。私利私欲のための公務員制度ではない。公務員の使用者は国民である。国会議員と雖も特別職公務員に過ぎない。公務員法の定めるところである。憲法はむしろ歴史的なものである。憲法は憲法である。憲法の変遷理論で何時までも誤魔化せはしない。究極には抵抗権もある。憲法はプログラム規定である。その成就の頃となった。国民主権、主権在民。いよいよ現実化する。かの大戦を反省した人類の願いと祈りの所産としての日本国憲法だった。それ故、世界のどの国家も日本国憲法とそれに基づく政策を尊重せざるを得ない。何故の平和主義か。ヒロシマはそのために犠牲となった。沖縄もである。ヒトラーは正当な手続きで首相となった。ドイツ国民はそれを反省し、自覚している。本来職人的な國だった。誠実で素朴だった。その國からヒトラーが出た。当時、ヒトラーはドイツにとって救世主的ではなかったか。日本はどうか。一部の利益階層の思惑に惑わされる事なかれ。さて、現代幸福論は何を制しての故か。戦うべきは何とであるか。自分自身である。全ての謎は自分である。自分は何ものであるか。この問いに答えることが出来るか。自己を制して何を自分に見るか。神か。佛か。悪魔か。何時でも勝負する。何と勝負するのか。何故この世に生まれているのか。この世で何を見出すべきか。答えることが出来るか。考えたことはあるか。テレビ及びお笑い芸能界は答えるが良い。

ところで、地震情報によると
「平成19年11月15日1時11分 気象庁地震火山部 発表
15日00時40分ころ地震がありました。
震源地は、南米西部(南緯22.2°、西経69.9°)で、震源の深さは
約60km、地震の規模(マグニチュード)は7.7と推定されます。
日本への津波の有無については現在調査中です。
震源は太平洋津波警報センター(PTWC)による。
詳しい震源の位置はチリ北部です
太平洋で津波発生の可能性があります。
PTWCでは15日0時56分に津波情報を発表しています。
詳しい震源の位置はチリ北部です」。


2007年11月14日
南極観測船「しらせ」 最後の出航と呉市としてのビジョンについて

南極観測船「しらせ」が最後の航海に出航しました。Cf http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071114AT1G1400K14112007.html 今日の広島地方のラジオで、この「しらせ」を呉港に誘致するといいのではないかとのことです。このままではスクラップになるとか。勿体ないですね。呉港には大和ミュージアムとてつのクジラ館があります。相乗効果もあって良いのではないかと思われます。「しらせ」にはきっと集客力があるでしょう。さらに南極資料館に発展するかも知れません。呉市が観光都市を目指すなら検討する価値はありそうですね。亦、近くには呉市美術館もあります。これより芸術的時代となります。ダリの彫像などをおいても良いのかも知れません。行政としても明確な目的意識を持ってビジョンを定め、未来を作ることを考えるべき時ですね。財政難と嘆いて消極的になるよりも、公務員としての人件費を削減しながら、未来への投資を考えるべき時ではないでしょうか。行政は積極的であるべきです。公行政はインフラ整備であって、サラリーマンでもビジネスでもありません。勿論、一部の利益階層のためのものでもありません。


2007年11月12日
現代成功理論について

現代社会が至った成功理論は思考は現実化するということでした。そして、それらに関するいくつかの本を調べてみました。そして得た結論は、西洋思想は19世紀の没落を克服して此処に至ったと見える。そして、それ自体をビジネスとしている。何処までもビジネスなのです。真実幸福論といえるかどうか。それが私の疑問です。得た理論でさらに不幸な階層を作っている。彼らを解放するための理論をビジネスにしている。或る意味でMLM的である。そして、その理論は東洋思想の低いレベルに過ぎない。東洋思想はもっと深い。少なくとも、彼らの理論には祖先供養はない。現実利益だけである。それでは来世が約束されない。恐らく彼らは地獄に堕ちる。それで本当の幸せといえるかどうか。本当の幸せは解脱としての自由である。何ものからも縛られない。未来からも。彼らの理論で新たな苦悩を生んでいないか。どこまでもお金としての富しか考えていない。空気がお金で買えますか。自然がお金で買えますか。既に限界です。その限界に思いが至っていない。東洋思想の精髄は日本にある。日本にしかない。やはり、日本は宝の山です。今も昔も黄金の國ジパングです。それを無視した。それを破壊しようとしている。一人私は探していた。何か失われた大切なものだった。それは見つかった。宝島である。私には見えている。感じている。日々、証明がある。至り着いている。それは何か。私のブログとホームページにその秘密がある。その奥にさらに秘密がある。それが真実の仏法だった。それを求めていたのだったか。それも見つかった。佛とは何だったか。宇宙をも方向づける力だった。その開発は出来るのか。出来る。みんな出来ないと思っている。お金だけが目的となっている。本当の幸せって何だったのでしょうか。権力ではない。武力ではない。金力ではない。既に、物語として語り継がれていた。それをビジネスとするのは自由です。しかし、それがビジネスとなった時、そこに楽しみはない。面白いですね。21世紀真実幸せ研究所、設立の頃でしょうか。これからの私の仕事でしょうか。何故の真実でしょうか。この世は君が代大鏡。生まれた時からそうでした。しかし自覚はなかった。むしろ自覚を怖れていた。何を自覚するのだったのでしょうか。汝自身でした。これが究極の秘密だったのです。そして日本人である限り誰もがその種を持っている。しかしそれを種として自覚出来ない。むしろ悪性が邪魔する。そして悪の華に憧れる。悪の華が咲く。毒キノコが食えますか。毒キノコは自ら毒キノコと知らない。知ったならばさぞ悲しいでしょうね。そして人間は毒キノコともなりうる。知らず識らずにその選択をしている。人間は佛ともなりうる。選択の自由です。日々の思考と行動が自らのDNAの選択と書き換えをしている。気づく頃です。それが一切衆生悉有仏性です。何時までもこのままの傾向では滅びます。滅びたいのですか。バクテリアの時代からやり直すのですか。何を何時までも殺戮を好んでいるのですか。それが生命の進化傾向ですか。野蛮さと愚かさからの脱却。21世紀の約束です。進むべき方向が見つかりました。その為には腐敗も必要だったのです。申し訳ないですが、既に腐敗した方がいる。淘汰は自然の法則です。未来が定まりました。勇気を出して前進です。未来は明るい。安楽な世界が切り開かれています。お金が人生の目的ではない。それが目的となって戦争もある。一番槍は既に渡っている。21世紀の約束心の大地は切り開かれている。安穏な世界はある。一箇の人生と青春を犠牲に賭しての故だった。キリストもヒロシマもそうだった。何を伝えようとしているか。宇宙自然生命黄泉を味方につけて守護を得る真実幸福論である。美しい風景が待っている。金力の故の衆愚からの脱却。現代の解くべき課題として。未来は定まった。前進。神仏を直接悲しませないように。神仏は神仏として生まれ、神仏としての試練を通って神仏となる。神仏となった神仏は黄泉が守護する。直接悲しませるとどうなるか。一休髑髏。死に神が来る。即地獄。本来人生とは不思議である。奇跡もある。そしてこれらは不可思議である。不可は出来ない、或いは思議するべからずという命令を含む。それを科学は万能と思っている。バベルの塔は立ちはしない。人間は神仏ではない。神仏は実在する。人間の身を以て生まれて神仏となる可能性を秘めている。永遠の謎である。この謎を誰が解くのか。誰にもその可能性がある。それを無視していた。或いは破壊しようとしている。人間としての欲望実現に対して不都合であるからだ。それが神仏の実在を認めない唯一の理由である。人間の思い上がりである。故に不幸である。神仏と出逢えないからである。ところで女は肉体である。故に生命を育む。肉体が肉体である時、幸福である。それに対して男は本来、精神或いは知性である。両性に歴史的な分業がある。今、その秩序が乱されている。世の男は女に迎合した。故に腐敗した。テレビ及び芸能界がそれである。ここに秩序を取り戻す。精神及び知性の優位性(エッジ)を復活する。そして改めて男女平等を目指す。それぞれの属性の十全の開花である。それで良い。安易な時代に、男が男らしさの属性を失った。


投資と投機
株式に興味があって、少し調べてみました。そして結論的には、素人は投機に走らない方が良い。あくまでも投資に徹する。そうすれば裏切られることはない。往々にして目先の利益に目がくらむ。株式で儲けるのは一割、損するのは九割といわれます。それがわかっていてどうして損するのでしょうね。人間のどうしようもない性分でしょうか。分かっていても損している。そうしたリスク管理のミスに投機家はつけ込むのです。投資は楽しい。資金が有ればしてみたいですね。今の私にはそれがない。それも無理もないのは既に書いてきましたが、少し、悔しいのは否めない。仕手株もそうです。プロの餌食になるだけです。また、そうした技術を身につけても人生に於いて無価値です。自分のためにするのみです。社会的貢献性はない。幸せであるかどうかの分水嶺は何でしょうか。自分のためにする時に幸せはない。人のためにする時にのみ、幸せはある。


悩み、不安、心配からの自由
何が善であり、何が悪であるか、わからなくなりました。そして、本来何も怖れる必要はないのでした。不安も悩みも実体のないものです。それなのに悩んだりしている。何故でしょうね。心にやましいところあるからでしょうか。自分に自信があれば、悩みはない。自分に自信がない時、不安がある。法華経に、「衆生大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏なり」とあります。これを信じることが出来ますか。出来れば幸せです。出来れば不安はない。心配もない。悩みもない。どのようにして信じることが出来るのでしょうか。先ず、信じてみませんか。それはものの考え方でしょうね。思考は現実化する。現代思想の結論です。それは明確にイメージすることです。本気で考えることです。考えたことを形にすることです。偶像崇拝ではありません。何時でも具体化する力だったのです。教育するべきはこれでした。みんな、怠惰だったね。文章表現能力は歌唱能力と同じく、或いはそれ以上に才能です。軽んじていませんか。再評価してみませんか。小論文が書けますか。感想文が書けますか。書けなくても書けない自分を正当化していませんか。この力は、時にはロゴスの発見及び獲得ともなります。究極の宝ですね。開発してみませんか。その為には、その師匠と議論してみるのも良いですね。禅のお話に、悩みから逃れることが出来ないから助けて下さいというのがあります。するとその悩みをここに出してみよといわれます。そして思案するのです。その結果、それは出そうにも出せません。有りませんと答えます。するとあなたの悩みを救ったというのです。言葉面だけでは分かりませんね。それは幽霊の正体見たり枯れ尾花に等しい。つまり、対象を明確に認識するのです。そしてその無価値を知るのです。しかし、それが出来ませんね。そして、出来ない自分を正当化している。とっくの昔に思考を諦めている。それでは思考は現実化しませんね。やはり、知性です。


2007年11月09日
真実の宝

人生は容易い。至ってみれば。何があっても怖れるに足りない。しかし至るは難しい。黄泉の守護、尋常ではない。結局、思いは果たしたようだ。流れは出来ている。常に幸せの流れはある。それが『青い鳥』。見つけることが出来るかどうか。人生の醍醐味はここにある。生まれた意味がここにある。生きている間に見つけたいね。真実の宝を。


2007年11月08日
わからないのだから

人間って どうしようもないね
結局 何を聞いても自分にとって都合のよい解釈をしている
仕方ないよね


わからないのだから
一休髑髏を知ってるかな ご用心といったわけ
死に神が来る 神仏を直接悲しませないことだ
神仏は 人間として生まれて それなりの人生を歩み
やがて神仏となる 誰にもその可能性がある
しかし 試練がある それに耐えることが出来るかどうか
何を以て神仏というか 神の力 佛の力 
宇宙自然生命黄泉が守護する 同調する 喜ぶ
知性の究極だった トレンドの源泉


2007年11月06日
実績至上主義?人物至上主義!

徳間書店刊、カーティス・フェイス著、『伝説のトレーダー集団タートル流投資の魔術』p192に面白い指摘がありました。即ち、「短期実績を見るときには、目にしているもののほとんどが運に起因することを忘れないでほしい。あるトレーダーが幸運な凡人なのか、優秀な少数派なのかを知るには、実績よりも深い部分を掘り下げ、実績の裏側にいる人物に注目しなければならない。よい投資家は、過去のパフォーマンスではなく人に投資する。将来的に優れたパフォーマンスへとつながる特質の見分けかたを知り、平均的な取引能力を示唆する特質の見分け方を知っている。ランダム効果を切り抜ける最良の方法はこれだ」。どういうことだろうね。そろそろ日本の本来の価値が見直される時となった。しばらく(明治以降)思い違い勘違いの勝手が過ぎた方々の年貢の納め時だね。覚悟するしかないね。嘘(カンニング)と暴力で閥を成した内実のない方々(特に腐敗堕落を人生及び大人とし、それを吹聴増殖せし衆愚テレビ及び芸能界、政治も含む)は一掃される。時は代わった。真実の知性に基づく実力主義の時代となった。野蛮と愚かさからの脱却である。日本基本精神の復活並びに選択及び決定である。これが新しい秩序となる。秩序に反するが罪である。皆さん、いい加減が過ぎたよ。


2007年11月03日
主体性について

主体的に生きるということはどういう事だったか。団藤重光先生も晩年になって『主体性の理論』を著した。禅の目的もそれであった。それは自分で自分のシナリオを書いてそれを自分が演じきることである。株式投資もそうである。そのシナリオが書けなければ投資はするべきではない。必ず餌食にされる。人生もそうである。しかしそうであるからといって、最近流行っている諸マニュアルが人生ではない。何処までも不確実性を秘めている。何故だろう。将棋と同じだ。シナリオ通りにいかない。それが人生の醍醐味である。シナリオを進めていると新たな変更要因が出てくる。そこでシナリオの修正である。何れにしても主体的に生きる。それが良い意味での個人主義であり、自由ということである。決して利己主義ではない。それが幸せな生き方である。幸せとは何だったか。自分の思いが実現することだった。お金持ちになることが自分の思いであればそれはそれでいい。お金を儲けてどうするか。そこに人格の差が出る。お金儲けのためのお金儲けでは所詮内実のある人生ではない。持って生まれたものがある。それが資産である。子供に対する教育投資もその為にする。そしてどのように生きるのか。低いレベルで妥協していないか。この人生で何を見つけておくのか。そうした人生だった。それ故に何処までも自己責任である。それを阻害するのが罪である。その最たるものが欺罔と暴力である。それに負けないだけの鍛錬を要する。何処かで安定する時が来る。労働者として安定するのか。持って生まれたものを開花させる。その為には自分が何を持っているのか知らなければならない。親も知らないそれを見出していくのが教育の目的である。だから、教師は自分に持っていない種の発見は出来ない。そこに教えられる立場にある者の不幸がある。優れた者に試練がある。それを乗り越えなければならない。そして至る世界がある。それが自由である。安定である。さて、自分は何を目指すのか。身分に安住する者に幸せはない。何時もなにものかに支配されている。本当の自由はある。それを目指さないか。若者たちよ大志を抱け。夢は実現する。思考は現実化する。現代人類の至り着いた結論である。低いレベルで安住満足する事なかれ。人生に妥協する事なかれ。世の大人たちを見よ。そこから腐敗が始まる。人生は面白い。全てが思い出となる。何を担いであの世へ逝くか。何を見つけて土産とするか。あの世が待っている。あの世でまた人生がある。死んだら終わりではない。あの世にはあの世の仕事がある。亦楽しからず哉。人間の上に神仏がある。やがて誰もがそこへ至る。その時が宇宙の終わりだろうね。さて、上昇するのか。畜生道に堕ちるのか。自分次第である。幸せはある。未来はある。来世もある。故に明るく楽しく元気でこの世を暮らせる。何を教えて貰ったのか。無理もない。教師自体が向上心のない時代である。夢も希望もない。悲しみと不幸は課題である。それを乗り越えて喜びがある。何のために生まれたのか。幸せになるためである。何のために勉強しているのか。何のために生きているのか。世の阿呆に惑わされる事なかれ。餌食とされる事なかれ。何をしても良い。自由である。国家はその為にある。21世紀真実国家論である。


2007年11月02日
エノラ・ゲイのティベッツ機長死去

92歳だったという。戦争となれば、任務として遂行しなければならないものがある。どんなに呵責の念にさいなまれたとしても。亦、残酷な性分を持つものは、どんなことをするか。戦争の名に於いて。独居老人話し相手ボランティアをしていた頃に聞いた話がある。その方は、中国戦線からビルマまでトラック部隊で前線を南下された。途中ある町に入った。既に日本軍が占領していた。その町に至る街道にそって女性の死体が並べられていた。あそこに棒が突き立てられていた。そのようなことまでする。誰もが出来ることではない。しかし戦争という状況が縁となる。そうでなければ出来なかったであろう。そうした性分で生まれた者もいる。現実である。その後、日本は反省した。自信も喪失していた。それまでの教育が間違っていたと思った。そして反動として子供たちが甘やかされた。世の母親たちはそれが愛だと思った。そして制御不能となった。学校の先生も制御出来なくなった。学級破壊、学校破壊はそうして起こった。スッタニパータに仏陀の言葉が残っている。ゾウを調教する話がある。矯め直すのである。それが教育であろう。何を以てゆとりの時間としたのだったか。選択を誤ったのかも知れない。矯め直す目的は何だったか。悪性を払拭する。そして社会に生きる資格を得る。それをしないで、暴走族的な自由が自由と思っている。テレビお笑い芸能界も善良な市民感覚及び意識に対してその例外ではない。彼らは国家をも否定しているかのようである。社会契約を結んでいる者として自由の一部は制限されている。彼らはそれを乱した。国家なくして自由はない。そしてその傾向が増幅された。今、若者たちはどういうことになっているのか。ますます二極分解し、格差社会化するのだろうか。杞憂に過ぎなければいいのだが。ところで、大英博物館に世界の遺跡からの戦利品がある。そこに何を見るか。首のない彫像とかが並んでいる。とても凝視できない。殺戮の歴史である。人間という者がどんなに残酷であるか。ここより自ら出ることが出来ない。仏はここより出て仏となる。いつかは誰もが至る。それが生命進化の方向である。人間はその魂の遍歴の途中に過ぎない。既に仏はいる。その道を遺してくれている。その道を歩めと。そして生命の秘密は何であったか。人間の身として生まれ、仏の修行をして仏となる。何を以て仏というか。仏の言葉は実現する。そして、もし神仏がいるのならどうしてこんなに不幸な世の中にしたのかと誰もが思っている。ここが身勝手である。こうした世の中になったのは神仏の故ではない。自分たちが過去に種を蒔いている。その結果が実っただけである。その意味で前世はある。そしてそれを解決できるのは当事者である自分しかいない。その意味で責任もあればチャンスでもある。仏は自分の解決をして仏となっている。だからその方法を知っている。それを教えてくれる。実行するのは何処までも自分自身である。それが仏の教えである。しかし、見えない聞こえない分からない探さない。知らないことを以て否定する。しかしその道はある。それ以外に世界平和の基はないともいえる道である。さて、タケシが大英博物館の本を書いていた。彼は何を見たのだったろう。晩年になって小林秀雄もこうした人間のどうしようもない宿命を知るに至ったのだろうか。彼は『本居宣長』で書いている。分を超えようとして超えることの出来ない人間の宿命的限界について。世間は何を浮かれているのだろうね。特にテレビ・ラジオ界は。生きるということがどういう事であるか。内実のない人生がどういう事になるのか。教育界も含めて考えなくてはならないだろうね。これからは愛と平和を手段としてやさしさに向かって進むことになる。この世に生まれたのは、過去からの夢を実現するためである。夢は実現する。思考は現実化する。庶民レベルで。ここまで私たちは辿り着いた。野蛮さからの脱却である。地球も齢を重ねた。そろそろ気づくべき時となった。何に気づくのか。既に書いた。生まれながらに平等である。それはそれでいい。しかし持って生まれたものが違う。過去が違うからである。それはそれでいい。そしてそれぞれが十全に開花する。それが平等である。それを阻害していないか。嘘と暴力で。取り締まるべきは何か。何のために政治はあるのか。誰の人生を護るのか。どのような精神に価値があるとするのか。身分に安住し、象牙の塔にこもって傍観する方々をであるか。そうではあるまい。その為にはどのような社会にするのか。それを議論しては如何か。小さな権力闘争の時ではない。自己利益追求経済至上主義の時でもない。世界は目的的及び芸術的段階に入った。既に世界は一つである。資源も無限ではない。新しい時代に入った。何故か。江戸無血開城禅譲古来本来大和純粋精神開花。


2007年11月01日
耳なし法一について

『耳なし法一』というのがあった。法一は僧だった。平家の落人に命を狙われていた。それで体全体にお経を書いて護って貰うことになった。ところが、耳だけ書くのを忘れていた。それで、亡霊たちにはその耳だけが見えるのだった。亡霊たちはその耳をひきちぎって帰っていったのだったろうか。どういうことだろうね。いくらお話をしてもその耳は何も聞いていない。眼は何を見ているのやら。そして何を言っているのやら。そうした世間だったのだろうか。知らなかった。


2007年11月30日
救われたくはないか

昨日あるファミレスにいた。高校生及び大学生がいた。学生ではない青年もいた。しばらく眺めていた。何時の世もこうだったのだろうか。私たちの青春もこうであったのだったか。まるで、出鱈目である。世の中は腐敗した。無理もない。悪が増幅された。テレビを見ても、 ラジオを聞いても、出鱈目である。何も解ってはいない。そして解ったようなことをいっている。地獄に堕ちるは必定である。「人間自ら出ること能わず。唯、善業の因縁より出たり」。人間である限り無理である。善は仏さんの所にしかない。救われたくはないか。所詮、人生は堕落だと思っている。それを吹聴助長する。それでいいのだろうか。あなた方が堕ちるのはいい。他の人を巻き込むのはどうなのだろう。 お笑い芸能界の罪は重い。テレビ界もである。若者がすさんでいる。救われたくはないか。その方法はある。しかし聞く耳がない。ビジネス坊主達は何をしているのだ。天上天下唯我独尊。この世の全ては釈迦牟尼佛及び多寶佛の所有に属する。何を奪い何を勝手する哉。シーザーのものはシーザーの手に。神のものは神の手に。返還する時が来た。取り戻す。 時代は殺戮及び戦争ではない。愛及び平和である。ここに時代を確定する。古来大和の大義名分である。それは愚かさからの脱却、即ち知性の復活を以て実行される。具体的手段は対話である。何と対話するのか。黄泉と対話する。各々魂の秩序がある。水は高きより低きに流れる。秩序を紊乱する事勿れ。淘汰有る。過去からの魂の遍歴である。持って生まれた己の分際に甘んじるべし。一切刃向かう事勿れ。時、定まれり。今、NHK-FMでは、フルトベングラー指揮によるベートーベン作曲ピアノ協奏曲第五番『皇帝』が流れている。『ジークフリートの葬送』の後である。次は『英雄』であるらしい。私が初めて購入したクラシックレコードはカラヤン指揮の『英雄』だった。第四楽章の一フレーズがとても好きだった。それを聞くために、約45分待つのだった。高校の頃のことだった。音楽は随分と聴いた。高校の頃にはアイワのカセットラジオでよくエアチェックをしていた。初めてラウドネススイッチがついた機種だった。何故か完璧なエアチェックが出来ていた。友達は誰もがその録音に驚いていた。何処でエアチェックするのかと。私には当然だった。それ故、人生に迷ったのだったろうか。今日、朝青龍が帰ってくる。その名は何であるか。また、秋篠宮文仁親王の誕生日である。全ての謎は解かれ終わっている。力も開発し終わっている。それは何であったか。秘密である。容赦しない。一人悟れば六親眷属皆救われる。仏子と雖も広島の地で勝手するは赦しはしない。既に勝負はしている。風速六十メートルの台風は偶然ではない。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本の本懐である。今、私の家は小さな家である。かつてヒロシマ桑原の屋敷にはテニスコートもあったと聞く。母と住んでいる。お金はない。しかし、大黒柱は三本有る。櫻と黒檀と椰子である。故なきことではない。祖父の建てた家である。何時でも出向く。しかし私は見捨てられた。馬宿にであるか。何を粗末にし来たる哉。問われる時を迎えた。年貢の納め時である。各々処したる人生がある。首を洗って待つが良い。古来大和の秘密顕現。日本復活である。まだ信じられぬと申すか。まだ勝手するか。黄泉は制している。その証明もこの度の四法親近仏所御供養五日間の旅で確かめている。天の守護する完璧な旅だった。

2007年11月20日
知性の復活

小中学校の時は、常に一学期の学級委員だった。当然であるかのようだった。別に疑うこともなかった。高校になってそれは立候補制となった。立候補することはなかった。父も祖父もその専門性において天才的だった。それを目の当たりにしたのは私だけだったろうか。ところで、子供の頃、祖母の姉が交通事故で亡くなった。居眠り運転の車が突っ込んで足をもがれた。祖父がその足を病院へ運んだ。そのお通夜の時でのことだった。祖父は私にその死に顔をよく見ておくようにいった。今でも青白いその顔を覚えている。それ以上、何もいわなかった。そしてその意味はわからないままだった。祖父は何をいいたかったのだろうか。彼女の家が米屋で米騒動でもあったのか潰れそうになったことがあった時、それを助けたのは祖父であったらしいことは後から知った。その後、気持ちに於いて祖父を裏切ったのかも知れなかった。末裔にその話は伝えられていない。亦、このような話も聞いたことがある。家の敷地はそれほど大きくはないが、もともともう少しあったらしい。隣の敷地に合わせて狭くなっている。しかしこの件に関して相手当事者に問いただしたところ、その人は、何をいうかとばかりに、自ら境界の杭を掘り出して見せたという。考えてみれば馬鹿馬鹿しい。どうしてその境界の杭の場所をいとも簡単に知っていたのか。そのようにして財を成している。因縁が悪かろう。戦後には持ち主のいなくなった焼け跡の土地に勝手に縄を張って自分のものとした方々もいる。亦、海軍工廠から鉄屑を船で運んで自分の家の近くに沈め、それで起業した者もいる。そしてお金持ちであるか。そして銀行は何をしているのか。いつの間にか高利貸しと結託した。仮登記担保及び譲渡担保の丸取りは何だったのか。バブルの原因は土地に対する実体のない重複貸し付けではなかったか。黙っていれば何時か忘れる。それを良いことにしていないか。何を犠牲にしたか。ヒロシマもそうであるか。しかし全て天に記録されている。アカシックレコード或いは三途の川の浄玻璃の鏡。この世は知っても識らなくても今も昔も君が代大鏡である。その君が自覚成就した。古来希である。世間一般勝手が過ぎた。因って容赦しない。天網恢々疎にして漏らさず。何れにしても人間である限り悪である。故に世間虚仮、唯仏是真。そして何もかも奪われた。悉く利用された。経済活動はとんと性に合わなかった。皆から馬鹿だといわれた。しかしそれ故に空であり無が何であるかを知ることになったか。親鸞は自ら愚禿と称した。道元貧学道は正しかった。諸仏の守護は何もかも奪われて得たかのようである。即ち、日月照らし風が吹く。そしてさらに知った。神仏は実在する。直接神仏を悲しませないことである。どうしてか。それが一休髑髏、死に神が来る。諸仏の守護はある。諸仏の宣言は宇宙を動かすことが出来る。しかし、諸仏と雖も自ら堕ちていく者たちを救うことは出来ない。天は自ら助くる者を助く。その方法は教えて貰える。自ら行を積むしかない。やっと人間として生まれてきた。宇宙が始まってからの永い生命の旅路である。それが魂であり、精神だった。人間としてこの身を持って生まれて初めて神仏との邂逅もある。大いなるチャンスである。しかしそれに気づけないままである方があまりにも多い。そして腐敗堕落が人生などと民間ラジオのアナウンサーも自負している。軽薄である。世を惑わせる罪は重いね。さて何もかも奪われたかに見えた。故に空であり無であるか。その実体は何か。宇宙の構成原素としての純粋結晶であるか。即ち宝石である。モーツアルトの音楽もこれを意味している。或いはマグマであるか。自己の魂が解き放たれる。即ち自由である。富を得て身動きできない方々が多いね。本当の自由及び幸せとは何であったか。知る時が来たのかも知れない。精神及び魂に於いて自由である時、幸せである。不安はない。黄泉が守護する。それが生命としてのゴールであったか。そのためには試練もある。この世は百代の過客である。この世に生まれてどう生きるのか。何を求めていたのだったか。誰も探そうともしなかったね。求めよ。されば与えられん。何を求めるのだったか。開発された魂は宇宙と連動する。やがて宇宙に帰る。私たちは地球上の住人である。地球は宇宙の中にあって星である。星も私たちもその本質は同じである。星も生まれて死んでいく。何を考えているのだろうね。何をしているのだろうね。殺戮などしてどうなるか。地獄に堕ちる。真実真理とは何だったか。本当の自由とは何か。或いは幸せとは何か。知るべき頃となった。世間虚仮である。人間として何をしても悪の結果となるね。そしてその結果が現れるスピードが速くなっている。淘汰も速くなる。未来は明るい。幸せな世界が待っている。何故か。仏の宣言があったからである。どちらへ進むのか。あらゆる情報はDNAにある。その中からどの情報を選ぶのか。善か。悪か。善は仏さんの所にしかない。神と雖も契約を破ればワルハラ城は焼け落ちる。契約の内容は何だったか。戦争を止めることであった。即ち「愛の園」としての愛に満ちた平和な国家を建設することだった。皆が幸せであるとき、その中にいる自分も必ず幸せである。自分のためにする限り不幸である。それが19世紀に没落していた西洋個人主義思想の限界だった。日本は本来そうではなかった。黄泉の受容祝福守護を知っていた。それが大義名分であり、神風の吹く理由だった。しかし明治以降それを無視した。文明開化と称して本来日本を裏切った。途中不幸な戦争もあった。神風は吹かなかった。そして今、世の中はあまりにも殺伐としてきた。身分に安住していても明日の安全はない。衆生功尽きて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏であるという。これが真実である。さて、どうするのだろうね。不安を払拭できないね。進むべき方向は決まっている。目的地は定まった。21世紀の約束、こころの大地である。前進である。心という漢字を見るが良い。各自ばらばらである。孤立している。ここに必要なものは何か。「ノ」の形をした御襷である。御襷は命がけである。心に御襷を架ける。思考は現実化する。必ず夢は実現する。人間として生まれた使命がここにある。心ある人は起ち上がるべし。 本来の日本に帰る。本来の道を歩み始める。それは愚かさからの脱却。宗教とはむしろ知性である。何も知らずに、知らないことを以て真実真理を否定できない。それを笑いものにした罪がある。本来の価値秩序を壊した。故に魑魅魍魎が跋扈した。テレビ及びお笑い芸能界の罪である。さて全て奪われたのかと思われた。そうでもない。譲ったのである。昔は公地公民もあった。所有権が絶対的と思うか。仮のものである。権狐の権である。地球の所有権があるか。宇宙の所有権があるか。むしろ神仏の所有に属する。預かっているに過ぎない。人間が最終形態ではない。永い魂の遍歴である。水は循環する。水蒸気となって浄化され雨となって地上に戻る。しかし酸性雨は何か。黒い雨は何か。人間の思い上がりである。困るのは人間である。さらなる段階に達した魂は困りはしない。それが神仏である。何を右往左往しているのだろうね。何処を目指すのだろうね。天国か。地獄か。それぞれの問題である。人生、亦楽しからず哉。楽しんでこそ吉である。何を思い煩っているのだろう。或いは悩んでいたのだろう。それも試練だった。思い煩う事勿れ。キリストは知っていたのだろう。何を知っていたのだったか。これより資源は何か。資源は無限である。資源は自分自身である。 Dig it ! 『天国への階段』がある。『原始心母』もあれば『エピタフ』もある。真実の自由はある。それは何だったのか。知性の復活である。自信を持って己を表現するが良い。己を言い切ることが出来るか。汝自身を知ることである。誰もがその可能性を有している。それが一切衆生悉有仏性だった。何を思い上がっていたのか。何を勘違いしていたか。淘汰が始まる。権力ではない。市民革命によって既に克服されている。武力でもない。その愚かさは原爆で知った。金力であるか。インカより奪った金を基礎とする。唯一不朽であり、増殖するとする。そうかな。幽霊の正体見たり枯れ尾花。お金があっても不安は払拭できない。真実の自由及び幸せは那辺にあり哉。法力である。法律ではない。宇宙の法則である。それは何だったか。それが思考は現実化するだった。それは努力の及ぶところではない。例えば仏の威力(いりき)による。発見発掘するべき宝とは何だったか。この法力だった。それがロゴスだった。21世紀の約束は、庶民レベルでその開発が始まる。今も昔も黄金の國ジパング。新たなゴールドラッシュとなる。何が宝であるか。何がゴールドであるか。古来日本に秘密有り。世界の中の日本。重要な使命がある。目覚めるべきは目覚める。


2007年11月19日
克服

この世に生まれて何を確認しなければならなかったのか。それをしなければ、真実の人生は始まらなかった。19の春に何があったのか。それは何故起こったのか。何が原因だったのか。それも明らかとなった。偏に自分自身に原因はあった。誰を責めるべくもない。今からでも遅くはない。気づいただけ幸せである。その解決に時を要した。人生も青春も失われたかに思えた。それほどの打撃だった。この闇を背負ってどのような人生を歩めというのだったか。酷に過ぎた。しかし乗り越えなければならなかった。そして乗り越えたのだろう。ヒント及びサインは常にあった。解くのは自分自身だった。そして最終的な答えは何だったか。既に書いた。改めて一言でいえば何か。それは月並みな言葉である。それは愛だった。解いたからには自由となった。それは秘密だった。これを解くことで人生が始まる約束だった。それは自覚を要した。自覚するにはあまりにも謎だった。その謎とは何だったか。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本純粋精神。常々代々伝えられたいた。しかし私の周囲にはなかった。その理由もわかった。それがヒロシマだった。何と過酷な孤独であったことであるか。誰もわかりはしない。持って生まれたものがあまりにも特異だった。故に埋没した。故に迷った。しかし解かねばならなかった。その為に生まれていた。子供の頃からそうだった。君が代大鏡をいつも感じていた。しかしそれが現実とは思わなかった。しかし導かれていた。どうしても解かねばならなかったようだ。使命だった。そして解いたのだった。解いたからには容赦しない。父もそうだった。祖父もそうだった。尊祖父もそうであったであろう。古来大和に秘密がある。過去を未来に移す。仏の大願だった。私は私なりに既に過去を未来に移した。誰も知らない。知らずに地獄で浮沈している。そのこと自体を知らない。私は地獄を脱する。かぐや姫が月に帰った寓話に等しい。あなた方は何も知らない。故に世間虚仮である。唯仏是真。いつかは誰もが至り着く。それが一切衆生悉有仏性である。自分が真実真理に対して愚かであることを知らない。故に愚かである。世の知的リーダーは無神論者を以て自認する。それでどれだけ世を惑わしているか知らない。しかし、生命の進化傾向である。どちらが真実であったか。あなた方は目先の自己利益を追いかけた。それが権力闘争であり、武力闘争であった。今はどうだろう。金力闘争であるか。何時まで経っても不安を払拭できない。思うようにはならない。何故か。黄泉の守護がない。真実の学問とは何であったか。宗教とは信じることを要求する。愚かな信仰は蛙の合唱である。真実とは何であったか。宗教とはむしろ知性だった。人類の英知である。それがそのまま宇宙を見る。パスカルも云っている。人間は考える葦である。その葦を通して宇宙を見ると。私は至り着いたようだ。どこへであるか。生命・精神・魂としてのパラダイスへである。お金はない。それは目的ではなかった。むしろ道元貧学道を好んだ。浮かれた青春もない。それだけの人生を歩んだ。学問もしたようだ。それだけの試練もあった。誰彼乗り越えることが出来る試練ではなかった。その記録は既にある。精査されたい。一休髑髏の秘密もあった。それはどういうことだったか。自分なりに解いた。私にしかわからなかったことなのかも知れない。何処かに書いた。ここでは割愛する。私は解いた。解かねばならなかった。何故だったのか。理由などない。祖師西来意であるか。祖先に導かれていたのだろう。私はヒロシマを離れることは出来なかった。解くための教育も十分に受けた。あらゆる師に感謝している。自分なりに勉学もした。在家禅を自ら任じることも出来る。即ち、日月照らし風が吹く。歩々清風。善には善の証明がある。悪には悪の証明がある。テレビ及びお笑い芸能界を私は赦しはしない。あなた方の故に何が蔓延り、日本はどうなったか。暴力と嘘を私は赦さない。何を思い上がったか。何を勘違いしているのか。答えを出すが良い。言葉はロゴス、思考は現実化する。あだや疎かなかるべし。自分は何ものであるか。すべての謎と答えは自分自身にある。汝自身を知るとはそれだった。自分のためにすることが人生だと思っている。違う。それでは幸せはやって来ない。例えば仏のための故にする。その時、幸せである。信じてみないか。信じなければ始まらない。何を怖れているのだろうね。自分自身をだね。神を畏れよ。仏は誉め奉るべし。必ず守護がある。神仏を直接悲しませないことである。この度は黄泉自然が動く。裁く。成敗する。人間としての分を超えてしまった。知っても識らなくても。何故か。或る自覚が成就した。21世紀に約束されていた古来大和の秘密だった。ここより始めるしかない。白隠曰く、隻手の音を聞けば何をしても良い。聞かない裡は何をしても駄目だ。職業に貴賎はない。生命としての魂及び精神に貴賤有るか。どちらへも行ける。善へ行くのか。悪へ行くのか。善は仏さんの所にしかない。人間である限り悪の結果となる。知るべき所だね。人間が人間である限り悪である。人間賛歌を以て動物性賛歌に堕ちている。テレビ界及びお笑い芸能界を見よ。漫画週刊誌の類は以ての外である。宇宙開闢以来、生命として人類まで私たちは辿り着いている。私たちは何処へ進もうとしているのか。人間が最終形態ではない。何を思い上がっているのだろう。何を勘違いしているのだろう。人間レベルでとどまる限り、淘汰される。生命進化の約束がある。目的がある。愚かさと動物性が跋扈している。精神のない成金亡者の故か。ここより脱却である。或いは克服である。嘘及び欺罔並びに経済的暴力でお金儲けをしていないか。カンニングで世に出て閥を成していないか。今まではそれも通った。恐らく罪の意識はなかったであろう。それが資本主義かと思われた。しかしターニングポイントを迎えた。行きはよいよい帰りは怖い。怖いながらも通りゃんせである。それがこの世の人生である。この世で何を見つけるのか。何を確認するのだったか。問われる時を迎えた。関!通ることが出来るか。渡ることが出来るか。何処に渡るのか。勇気を要する。絶対の自信というものはあるか。有る。それは何処より来るのか。既に書いた。黄泉はある。黄泉もこの時を待っていた。イザナギ・イザナミ以来の黄泉である。それを無視した。裏切った。何時までも黄泉も黙ってはいない。黄泉は何を待っていたのか。時を待っていた。何の時であるか。君が代大鏡の時である。その申し子が自覚する時である。しかしその自覚は来ないかと思われた。未来はないのかと思われた。それほど困難な試練があった。しかし無事開花成就した。古来大和の秘密の花が開花した。知る人は知っている。知らないことを以て恨む事勿れ。父が呟いていた言葉がある。それはダンチョネだった。父は網走に復員していた。刑事でもしていたか。北海道では何があったのか。そのあたりのことも気づいている。何と過酷な人生であるか。解かねばならぬ謎があった。これほど明確に解かれたことがあっただろうか。しかし失われたものもあまりにも大きすぎた。ここに代々の宣言する。未来は明るい。日本は大丈夫である。魑魅魍魎の勝手にはさせない。呉では仁義なき戦いもあった。何故あったのか。どうして呉だったのか。誰も知らない。刃向かうは刃向かうが良い。畏れを知らぬとはそれをいう。それにしても戦後は困難だった。君が代大鏡、螺鈿の槍を自覚するにはね。しかし父もそうだった。祖父もそうだった。古来日本の秘密である。ここまで来なければ解らなかったか。旅は終えた。帰郷である。そして開門である。もはや容赦しない。古来大和秘密復活顕現。試練はすべて通過した。


2007年11月18日
至り着き、帰り来たれば別事無し。

至り着き、帰り来たれば別事無し。それは本来の自己への回帰だった。世間の何を気にしていたのだったろう。雨よ降りたければ降れはスッタニパータだった。何も怖れることはない。その時、不安はない。心配もない。宗教とは信じることであるが、何を信じるのだったか。宇宙間を支配している法則と自分自身とではなかったか。前者は諸仏及び諸大菩薩並びに普賢菩薩及び諸天善神の受容祝福守護であり、後者は古来日本神性の自覚であるのかも知れない。その時、絶対の自信となる。何があっても大丈夫である。そしてその本体は何であったか。知性だった。それが宇宙が始まって以来の魂の遍歴としての自己の生命としての進化傾向だった。これから何処へ進もうとしているのか。魂或いは生命としての冒険は尽きない。物質的富を目的とする大航海時代は終わった。世界は地球から、宇宙となった。それは目的としての魂及び精神を含む世界である。故に時代は芸術的及び目的的世界となる。資源は物質から持って生まれた精神及び魂となる。真実の the pen is mightier than the sword の時代となった。それがロゴスであり、黄泉自然も従う。開発するべきはこれだった。やがて誰もが至る。何処へ至るのか。どのようにして至るのか。至ってみなければ解らない。頂上から見る景色は途中からは見ることが出来ない。魂及び精神としてのゴールである。日月照らし風が吹く。美しい風景が待っている。これが道元の云う現成公案であったか。或いは、達磨の廓然無聖・聖諦一義であるか。至り着き、帰り来たれば別事無し。合流である。何への合流であるか。知性への合流である。白隠禅師曰く、隻手の音を聞けば何をしても良い。 道元曰く、薪の灰となりて、しかももとの薪には非ず。薪には薪の境界があり、灰には灰の境界がある。何処へ帰るのか。自分に帰る。自然に帰る。亦、楽しからず哉。日本は本来神国、大丈夫の國である。何を粗末にし来たる哉。未来は明るい。明るい未来建設の時が来た。世界の中の日本。その使命は何か。古来日本に英知あり。今も昔も黄金の國ジパング。発掘開発するべきは何か。東洋精神の神髄は何であったか。19世紀に西洋思想は没落していた。明治以降日本もそれを追いかけた。今もそうである。江戸無血開城は禅譲だった。しかし明治は古来大和の精神を裏切った。今もその方々の支配である。そして西洋も救いを待っていた。何を以て救うのか。本来の自由平等及び民主主義並びに目的としての個々の暮らし及び手段としての愛と平和である。あらゆる制度的保障はそのためにある。一部の自己利益及び小さな権力闘争のためにあるのではない。この度は黄泉自然が動く。人間としての思い上がりが問われている。バベルの塔は立ちはしない。特にテレビ及びお笑い芸能界は答えるが良い。亦、覚悟あるべし。人々の暮らしを破壊する低いレベルの精神とその跋扈増殖はもはやゆるされない。淘汰される。処したるこの世の人生の草鞋銭は請求される。年貢の納め時である。何をしてきたのか。何をしているのか。何を考えてきたか。何を考えているのか。思考は現実化する。旧約聖書の目的は何であったか。市民解放、奴隷解放、女性解放の次に来る善良な庶民の解放だった。過去からの人々の願いと祈りは無駄ではなかった。21世紀の約束成就である。その時が来た。神仏は実在する。知らないことを以て否定することは出来ない。それを否定した。それ故、不幸から出ることが出来ない。幸福とは何であったか。神仏の受容祝福守護ではなかったか。人類として今、何を必要としているのか。知性である。ところで私の母は不思議な人である。一度も感情的に叱ったことがない。これが代々山道家の知性であるか。古来大和純粋精神の種は遺されている。その開花である。世間身勝手、もはやゆるさじ。私は一人戦っていた。何と戦っていたか。そして戦い抜いた。代々一番槍としての使命は果たした。人生と青春を賭して。身も心もボロボロである。最大最後最終の敵は自分自身だった。それを制した。黄泉自然生命の祝福するところである。私は至っている。何処に至っているのか。古来卑弥呼乃系譜邪馬台国大和正統日本純粋精神。その基は確定した。その余の事は各スタッフに任せたるのみ。頼朝は伊豆に流されていた。正統源氏の種として。古来大和の精神は武士道として結実していた。大戦中の大和魂が大和魂ではない。本来武士道精神の種なきを以て日本武士道を語る事勿れ。

空海も見たであろう呉市野呂山頂からの朝焼け(原風景)
この世とは 今も昔も 大鏡 何を映すぞ 君が代の君
代々の 何処にあるや 君が代の 光源氏は 今もありなむ
この世をば 如何に生きてむ 幸せの 基開けて 明るき日本
愚かさの 支配脱して 幸せの 道は開けて 言葉となりて
君は君 私は私 と思う頃 共に歩まむ 大地開ける


2007年11月10日
the secret

「人間関係は同レベルで触発する」。高校時代の私の言葉だった。就職した時に先輩に否定された。その後、彷徨った。魂と宇宙はリンクしていることを見つけた。佛とは何だったかも分かった。そして至っていた。何処に至っていたか。秘密へと至っていた。私はその謎を解いていた。私の実人生がそれを証明していた。誰も知らないと思っていた。それ故、或る意味で遠慮していた。いえば不遜かと思っていた。そうでもなかった。デジャブであるか。私は私独自に至った。既にその世界はあった。それは何だったか。 the secret だった。Cf http://jimaku.in/w/_b1GKGWJbE8/ae1POlJjQMK かつて、 See Kure, It! としたのは何だったのか。私は探していた。導かれていた。辿り着いたようである。合流である。私のブログ及びホームページは偉大な光を発し始めた。重要な記録となった。密かにエールを贈って下さっていた方々に感謝する。それ故、無事開花することが出来た。古来日本秘密の花である。私のこの世での仕事が成就した。もはやこの人生に思い残すことはない。私は完成させることが出来た。『真実幸福論』である。或いはギャーティギャーティである。やっと見つけたようだ。「何か失われた大切なもの」。 私は幸せである。お金はないけれどね。笑いがこぼれてくる。ベルグソンはこれを知っていただろうか。この世は全て喜びとなった。自由である。


2007年11月09日
船出 Japanese Way

呉駅ビル3Fの廣文館書店に寄って幾冊か本を買った。1.サラリーマン投資家のための株黄金分割比投資法 2. 黄金株20 3. ザ・シークレット だった。そして並んでいる本たちを眺めて店内を歩いた。そして思い出すのだった。あれは何時の頃だったろう。もっと強烈な体験をしていた。あたかも自分のために本が並んでいるかのように思われたことがあった。その時、自分が興味を持っていたテーマに関する本がこれでもかとばかりに並んでいた。何度かそのような体験があるのだった。並んでいる本は宝の山かと思われた。ジャパン・アズ・ナンバーワンを語れば季節はずれのそれが並んでいたりするのだった。今回もそれを彷彿とさせた。しかし以前ほどの熱狂はなかった。そして思うのだった。大きな仕事をしたなと。以前はそれほどの落ち着きはなかった。誰も知らないことだと思っていた。今回も誰も知らないのだろう。しかしそれに対する焦りといったものはなかった。それでいいと思えるのだった。その孤独さから脱却しつつあるのだろうか。何があっても大丈夫となりつつあるのだろうか。そして確信めいたものの度合いが深まっているのを覚えた。生まれた時からそうであった。しかしそれを自覚することが出来なかった。そのようなことはあり得ないと思っていた。今はどうだろう。在って当然と思っている。此処に至るまでには精神的な戦いもあった。孤独に耐えなければならなかった。周りに理解者のいない孤独だった。求めているものが違っていた。それ故不幸だった。それが試練だった。これを乗り越えなければならなかった。乗り越えるためには条件があった。それは何だったか。身心清浄。これこそ古来大和の価値と知るに至った。それまでは虚仮だった。これ以降は隻手の音声であると知るのだった。大きな転換があった。九分九厘は理解していた。しかし残りの一厘が邪魔をしていた。それが牛過窓櫺だったのだろうか。暗闇で蝋燭の火が点るに等しい。十全な開花をして初めて点る灯である。九分九厘では発火点に至らない。それが身心脱落脱落身心だったのだろうか。それが自覚ということだった。通らねばならぬ試練があった。解明するべき謎があった。生まれながらに解かねばならなかったか。その為に生まれていたのだったか。過去からの約束だったのだろうか。或いは過去からの続きだったか。親も知らない。親類縁者も知らない。兄弟姉妹も知らない。持って生まれたものがある。世の学校教師の知るべくもない。自分と戦い、勝ち取らねばならないものがある。そして至るべき道がある。諦めないことだ。自分を信じることだ。夢は実現する。思考は現実化する。それを自ら体験しなければならなかった。一番の気持ちは一番にしか分からないとしたことがある。それはどいうことか。まさに、諦めないということである。一番は一度とれば良い。何時でもとれる自分であることを知れば良い。とれるまで頑張る忍耐力と集中力がある。そしてこの世に使命がある。私は目が悪かった。それでアイコンタクトを知らなかった。それ故、敵が多かった。争いが絶えなかった。そして何時も自分から負けていた。何故だったか。自信がなかったからである。自分が本気になるのが怖かった。相手を傷つけるのが怖かった。そして何時も自分が傷ついた。吉田健一氏は書いていた。この世は血塗れのものではなくてと。その意味がやっと分かってきた。自分次第だった。これで素直に生きてゆけると思う。この世に敵はいなくなる。これまでの敵も味方となる。21世紀の約束だった。この度生まれた意味はこれだったか。これまで一人で戦っていた。不思議な戦いだった。自分との戦いだった。身も心も人生も青春も失ったかと見えた。それほどまでに長くて熾烈な戦いだった。しかし始まりがあればいつかは終わる。戦いがあってどのようにして終わるのか。敗戦であるか。勝ち戦であるか。何を以て勝ちとするか。この世を自分の色に染める。この度の最終戦争は何処であったか。黄泉であった。最大の敵は何であったか。自分自身だった。自分自身こそ謎だった。これを解かねばならなかった。それがソクラテスの汝自身を知れだったろうか。これらの命題を解かねばならなかった。その為に時は無駄に流れたかに見えた。しかし今こそ解かねばならぬ時だった。2000年来の謎が完結するのだった。そういう時である。私は戒められていた。遂に能力は発揮できないままかと思われた。このまま埋没して人生は終わるのかと思われた。誰も知らない謎と取り組んでいたのだった。世間が浮かれていた間に。三十数年来のことだった。解くべき謎があった。これを解かねば私の人生は始まらない約束だった。そして解いた。酷な時代は終わった。安楽な時代が開けた。何事も太公望の如くである。自ら証明しなければならないものがあった。それは何であったか。既に書いた。精査されたい。一言では説明できない。全体のトーンの問題である。一部を見て批判する事なかれ。知る人は知っている。知らない人は知らない。それで良いのだと思えるようになった。全てを赦せるようになりつつある。それが悪人正機説だったかも知れない。時の色を変えなければならない。このままでは行き詰まる。駄目である。吉田健一氏は書いていた。それは『思い出すままに』だった。この世に自分の住むべき所がないのなら作るしかないと。それも出来るかも知れないと思われてきた。どのようにして作るのか。このようにして作る。既にその記録となった。しかし現実生活は失われていた。経済は貧窮問答歌となった。徳は失われたかに見えた。それが試練だった。それでも諦めなかったのだろう。それほどまでに導かれていたか。守護されていたか。『影をなくしたペーター』というオペレッタがあった。ダンテの『神曲』があった。スエーデン・ボルグの『天国と地獄』或いは『霊界日記』もあっただろうか。日本霊異記は何だったのか。現代科学はそれを失っている。どちらが真実であるか。科学では解明できないものがあまりにも多すぎる。分からないことを以て否定する。合理的ではない。『武蔵野夫人』だったろうか。驚くことがなくなったという。驚くことが出来たら死んでも良いという。驚きとは何だったか。神仏の実在との邂逅こそそれではなかったか。神仏とは何だったか。それも明らかとなった。これを解明しなければならなかったか。誰が出来るというか。知性を要する。これを知ることが知性だった。その意味で科学は知性ではない。知性の思い上がりである。だからといって、科学を否定するのではない。科学こそ法則であり、科学の力を借りて真実幸福論は実現される。問題は人間として現代科学の限界を知ることである。解明されていない部分があることに謙虚に思い至ることである。その部分は神秘に属する。人間の知力の及ぶところではない。台風の一つでも制御できるか。それが草薙の剣である。佛は何を以て佛というか。宇宙自然生命黄泉をも動かす力を以ていう。それがロゴスだったろうか。こうしたことをあまりにも無視しすぎた。或いは冒涜した。裏切った。汚れた精神では見えない世界がある。それを問題にしなければならない時を迎えた。それほどまでに世は腐敗した。勝手が過ぎた。テレビ及び芸能界は何を思い上がっていたのだろう。日本文壇も懺悔したのではなかったか。売れればいいのか。視聴率至上主義が衆愚化に拍車をかけた。そして子供たちは思い上がった。親は自信を失った。戦後教育の失敗だった。インテリゲンチャは無神論者であることをむしろ自負した。そしてどうなったか。司馬遼太郎氏だったろうか。日本がバブルで踊っていた頃、その実体は土地を媒体とする異常現象であると見抜いた唯一人だった。どのような経済学者も見抜けなかった。そして何処かに書いていた。本来どのように生きるべきか、人生のテーマを小説にできたら良いと。まだそれはこの世にない。その謎は解かれていないといった内容だったように理解しているが、この記憶は定かでない。この世に生まれて何をするべきだったか。この世に生まれた意味は何だったか。宇宙自然生命黄泉から見て、人間存在は何だったか。秘密だった。その秘密も解かれるべき時が来る。それが今であるのかも知れない。永い魂の遍歴としての一こまである。前世はある。来世もある。前世からの続きとしての今世である。この世に生まれて何をするべきか。持って生まれたものがある。皆同じではない。過去から持ってきたものに善もあり、悪もある。悪を払拭する。それが試練火裏蓮である。善が輝き始める。そこからが実人生である。そして何をするのか。この世の使命は何だったか。戦後腐敗堕落社会はその開花を阻害する。何故に腐敗堕落を人生及び大人とする哉。答えるが良い。身分に安住して戯言をいうでない。生命にゴールはあるのか。あるとして、それは何か。例えば佛である。やがて誰もが至る。人間の身を持って生まれてはじめてその可能性がある。故に勉学する。学校の勉強は必要がないと芸能界諸君はいう。何を根拠にいうか。所詮自己正当化でしかない。自信を持って言い切れるか。もう一度いってみるが良い。これまでとこれからは違う。人間の身を持って生まれて畜生に堕ちる。それが現代テレビ界主導日本文明現象である。それで良いのか。古来日本の培ってきたものがある。それを笑いものにまでして閥を成した芸能界ではなかったか。それでは祖先に対して申し訳ないとは思わぬか。江戸は明治に大政を譲った。しかし明治はそれを裏切った。古来大和の精神を悉く否定した。廃仏毀釈もあった。文明開化と称して西洋文明化をあまりに急いだ。西洋精神は既に19世紀に没落していた。それを追いかけた。故に古来大和の守護を失った。その帰結が第二次世界大戦だった。神風は吹かなかった。大義名分がなかったからである。大義名分とは古来大和の受容祝福守護だった。鎌倉の頃には神風が吹いた。日蓮龍ノ口では雷が落ちた。本来日本は神国である。それを裏切った。冒涜した。破壊した。そして犯罪の蔓延る社会となった。本来日本の社会ではない。これを取り戻す。その為には開発解明するべき事があった。それが私の仕事だった。私にしかできなかったのかも知れない。ヒロシマより護りし一粒種として。誰も知らない。誰も分からないであろう。或いは認めたくはないであろう。さぞ、都合が悪かろう。しかし、解明された真実は真実である。知っても知らなくても。至道無難禅師は歌う。知れば迷い、知らねば迷う、のりの道。何が佛の実なるらん。この意味が分かるだろうか。隻手の音声がわかるだろうか。風の音にぞ驚かれぬるである。それはどういうことか。黄泉が導いている。黄泉からのサインがある。霊媒の占いレベルではない。真実であり、事実である。知らないものにとっては神秘である。解明するべきはこれだった。魂の問題は一番遅れてやってくる。安堵するべきは安堵する時代となった。仏法は必ず勝つ。どういうことか。宇宙自然生命黄泉が受容祝福守護する。私は務めを果たした。随分と読書もしたことだった。人生に無駄はない。ある時、全てが意味を持つ瞬間が来る。自分が救われるだけではない。日本が救われるレベルで来ることもある。世界が救われるレベルで来ることもある。古来禅はそれを伝えていた。禅籍など読んだことなくして、世の知識者は何を語るか。古来日本を知らずして未来はあるか。反省する頃となった。何を浮かれているのだ。何をしてきたのか。何をしているのか。何時までも愚かでは生き残れない。何時までもこのような馬鹿げた時代ではない。テレビ界よ、答えるが良い。私は生まれて良かった。感謝する次第である。これほどまでに宝があるとは思わなかった。祖先が宝である。何を粗末にしてきたのだったろう。話は尽きない。言葉は泉の如く湧き出ずる。何を求めてこの世を生きるか。この世に生まれた意味は何だったか。考えたことがあるか。それでも前世はないというか。来世はないというか。既に処したる人生がある。三途の川で草鞋銭は請求される。年貢の納め時である。宇宙はある。自然はある。生命はある。黄泉はある。魂の遍歴がある。この世は君が代大鏡だった。雷鳴すればくわばらくわばら。我田引水は佛の手段である。全ては与えられていた。しかし時を待つ。試練がある。試練に耐えて全て与えられる。或いは譲られる。それが遺産である。或いは天徳である。自覚して至る。どのようにしてそれを知るのか。冷暖自治。随分と書いてきた。二年あまりになる。知る人は知っている。応援もしてくださった。感謝申し上げる次第である。そして黄泉も満足している。この度の花は今までになく大輪である。日本は救われた。このような花もある。見えない人には見えない。見える人には見える。光が当たるとね。さて、私の文章修行も終わる頃だろうか。文字の力も見出した。それは何だったか。両刃の刃である。善に使うか。悪に使うか。みだりに使えない。伝家の宝刀を抜いてしまった。抜いたからには後には引けない。各々覚悟有るべし。しばらく見失われていた古来大和の力である。その復活である。失われた何か大切なものを探していた。高校の頃からだった。やっと見つかった。私が埋没した理由だった。虎穴に入らずんば虎児を得ず。流れは変わった。トレンドである。流れに逆らっても勝てない。かつて世界は地中海だった。大航海時代を経て世界は地球となった。今はどうか。世界は黄泉を含む宇宙となった。第一の波は農業革命だった。人間は手が自由となり道具を作れるようになった。第二の波は産業革命だった。世界は飛躍的に高度文明化した。第三の波は情報革命である。情報とは何か。この世の事象は全て0,1で表すことが出来る。コンピュータが情報ではない。それは情報を処理するのに最も適した手段である。そしてトフラーが説いた頃、情報とは何かまだはっきりとわからなかった。漠然としていた。今、情報とは何か。人間の暮らしに役立つ全てのことである。役に立たねば意味はない。因って時代は目的的となった。そして高度経済社会生活の後に何が来るか。何を求めているのか。美である。因って時代は芸術的となった。その根源は何か。知性である。しばらく見失われていた。世は衆愚に染まるかと見えた。そうはいかない。新しい流れである。この流れに乗ろう。情報は発信するところに集まる。インスパイアとエクスパイア。インスピレーションは大いなる力を感じて表現する。大いなる力とは何か。エクスパイァとは何か。何処から発信されていたのか。宇宙と魂はリンクしている。自分自身こそ謎である。解くべきは自分自身である。そして自由となる。既に至り着いている方々がいる。地上ヘブン=世界の住人である。或いは21世紀の約束心の大地は切り開かれた。今も昔も変わらぬ黄金の國ジパング。古来日本こそ宝の山である。衆愚を好まない。破廉恥を好まない。古来大和に英知在り。発掘しないか。世界のために。世界に於いて重要な地位を占めることが出来る。世界の中の日本、船出である。何処に未来を描くのか。戦争ではない。殺戮ではない。人類の願いと祈りは何か。恒久平和と愛。目的は定まった。その為の手段としての経済である。取り戻すことにする。さて、五十音の中で一番美しい音は何か。「り」といわれている。鯉城は何処か。安芸の国広島城。


2007年11月06日
宗教に正しい答えはあるか

例えば徳間書店刊、カーティス・フェイス著、『伝説のトレーダー集団タートル流投資の魔術』p136に、「わたしは資金管理は科学というより芸術だと思う。いや、芸術より宗教に近いかも知れない。正しい答えがないからだ」とある。ここで問題は資金管理云々ではなく、宗教に正しい答えがないということである。そうだろうか。今まではそうだった。その証明がなかった。今はどうだろう。時が来ている。どういう時だろう。宗教に正しい答えがある時である。知る人は知っている。例えば聖書及び禅籍はそれを伝えている。知らない人は知らずに否定する。どちらが真実であるか。時は流れた。過去には宗教を信じることが当然だった。今は科学の時代である。科学万能と思って、科学は宗教を否定する。正しい答えがないからであるとする。そもそも正しい答えを知らないことを以て神仏はいないといえるのだったろうか。知らないだけではなかったか。科学者諸氏に問う。ここをどう答えるか。正しい答えはある。あなた方の仮説が知らないだけだとしたらどうするのか。民はあなた方に従った。神仏がいないとした方が人間として都合がよかったからである。故に世を悪の方へ惑わしたとしたらどう責任を取るのか。このまま腐敗して良いのか。それで人類として存続できると思っているのか。ワルハラ城は何故焼け落ちたか。神々と雖も契約を破ったからではなかったか。人間も黄泉との契約がある。人間として存在するための条件がある。それが生命の進化傾向だった。何時の頃からそれを裏切って衆愚となったのか。何時までも素知らぬふりであるか。知性が泣いている。科学者として象牙の塔にこもり、身分に安住している。科学者である前に人間として無責任過ぎはしないか。原爆を開発した責任も同じである。平和利用のために開発したのだったね。しかしヒロシマは被爆した。何故バッハは『マタイ受難曲』を書いたのだったか。宗教に正しい答えはある。歴史始まって以来初めての誰も知らなかった宇宙の一点に於ける信じられない者のための多宝佛の証明である。何時でもご案内できる。時が来たのである。知らないことを以て否定できない。神仏こそ真実真理である。宇宙は佛の宣言でその方向が定まる。神仏を否定して人間はどうにもならなくなった。どうにもならないのにどうにかしようとしている。それが科学ではないか。遺伝子組み換えはやめた方が良い。それだけで済む問題ではない。バランスの一部が狂えば全体がどうなるか。検証しての故か。医者も科学者も思い上がっている。人間は人間の分際を超えることは出来ない。神仏ではない。神仏は神仏として生まれ、神仏としての業をして神仏となる。故に人間のバベルの塔は立たない。小林秀雄も書いている。分を超えんとして超えることが出来ぬ身であると。数十億年かけてここまで至った生命進化を人間の科学でどうしようというのか。癌にしても奇形児にしてもその主たる原因は何か。石油文明に於ける合成化学物質ではないのか。手段及び方法を間違えていないか。規制緩和で何をしても自由と思っているのか。生命が危うい。環境が危うい。人間としての存続が危うい。愚かであると思わないか。


2007年11月05日
安易な人生

本来の価値の中で何が最も価値があったのだろう。知性だった。それは祖先からの遺産だった。遺産として何を思うだろうか。財産だね。しかし財産は究極の遺産ではない。究極の遺産は知性だった。しかし、その知性も開発しなければ意味がない。それが子供の教育の目的だった。学校及び教師は何を教えているのだろうね。学校の勉強など役に立たないとある歌手は歌っている。そうだろうか。それは勉強の価値を知らない。学科成績に意味があるのではない。何時か自分で解かねばならない謎がある。それと取り組むために必要なのだ。それを知らなかったのだね。父は言った。お前は大丈夫だ。私の子だ。筑間教授は言われた。君は大金持ちだ。私にはその意味が分からなかった。それはどういう事だったのだったか。しかし何時か解かねばならなかった。解かねば私の人生は始まらなかった。何と酷なことであったことだろう。その間、餌食にされた。人生も青春も失われていた。人生を安易に生きたいと思っていた。しかし、人生は残酷だった。自覚するまではね。何を自覚するのだったか。「汝自身を知れ」はソクラテスだった。汝自身としての自分自身を自覚する必要があったのだった。それはどういう事だったか。既に書いた。御精査をお願いしたい。さて、「神のものは神の手に」ということがあった。「シーザーのものはシーザーの手に」というのもある。しばらく勝手に奪って来たね。何時までも奪えはしない。そのままでは済まされない。奪うことが知恵だと思ったのだろうか。ヒロシマに対する損失及び明治に裏切ったものが確定した。今まで気づかれないままだった。しかし明らかとなった。故に、一括損害賠償及び不当利得返還請求である。さて、どのようにして返還するのだろう。桁が違う。人生は安易かと思った。しかし、安易ではなかった。生きる目的も勇気も見出せないままに時は流れた。誰も教えてはくれなかった。導いてもくれなかった。見出してもくれなかった。それを恨んだこともあった。しかし、そうしたものなのである。自分で見出すしかない。自分のことは自分でなければ分からない。解決できない。そして社会にデビューすればいいのである。しかし、社会はどのようであるか。現代テレビ及びお笑い芸能界の支配する社会がどれほどのものか。馴染もうとした。しかし出来なかった。そして埋没した。このまま人生は終わると思われた。しかし、そうもいかなくなった。経済的逼迫が引き金となった。改めて自分探しと自分確認の作業に入った。黄泉の導きだった。人生は安易かと思われた。そうではなかった。そして自覚に至る道を歩んだ。そして至った。至り着いてどのようであるか。人生は安易となった。怖れるものなどない。全て失っていた。それ故であるか。あらゆる物語に秘密があった。それは宝を得る秘密だった。宇宙戦艦大和があった。ガンダムがあった。エヴァンゲリオンがあった。それはそのまま竹取物語の系譜だった。即ち、幸せを掴む方法が秘められていた。古来日本はそうした國だった。神国日本復活となった。これまでとはレベルが違う。既に、日々証明がある。即ち、日月照らし風が吹く。それ故に問う。何を勝手し来たる哉。二千年来の物語の謎が解かれ完結した。新しい物語の始まりとなった。その謎は何であったか。君が代大鏡だった。もはや疑えない。これが真実だったのである。しかし難問だった。誰彼解ける謎ではなかった。古来日本精神の種は遺されていた。勝手な解釈で何を誤魔化して来たのか。それ故、私は埋没した。自分で探し、証明しなければならなかった。それは何だったか。黄泉の守護だった。故に古来大和の名に於いて一括損害賠償及び不当利得返還請求である。どう答えるのだろう。楽しみだね。これまでとは違う。黄泉が動く。黄泉が自由を得た。代々の日本御祖先に感謝する次第である。これが日本の遺産だった。宝の山である。取り放題である。あなた方には見えない。その種がない。あったとしても開発していない。それほど時代は盲目だった。古来日本に宝在る。探しては如何か。黄泉の守護を。これを発掘発見しなければならなかったか。当然、私には試練があった。それに耐えた。自分を諦めないことである。自分を信じることである。必ず出逢える。何に出逢うのか。真実である。生まれた時からそうだった。しかし阻害された。そうした人生を歩んでいる。故に、今となっては容赦しない。黄泉が成敗する。黄泉が動く時節を迎えた。古来卑弥呼乃系譜邪馬台国大和正統日本復活である。間違いない。既に確信に至っている。これを開発し得て人生は安易となる。それまでは残酷である。人生、亦、楽しからず哉。しばらく失われていた日本の自信も復活した。何故か。解くべき謎が解かれた。私はその為に生まれていたのだったか。それにしては酷だった。私は務めを果たしている。一番槍は最終段階を突撃突破した。最終最後最大の敵は自分自身である。次に続くのは誰か。

何時の世も この世君が代 大鏡 有為の奥山 越えて定めむ
草薙の 剣は何処 あらせしか 時は満ちたる 成敗の時
しばらくの 世の腐敗ぞ 止めてけむ 清き流れぞ 伏流せ令む
歴代の 大和心の 復活を 我に託して 祖先導く
感謝とは 古来大和の 遺産なり 勝手に奪う 民ぞ滅びむ


2007年11月04日
日本復活

日本は迷走した。彷徨えるオランダ人の如くだった。ある意味で亡霊のようであった。精神が失われていた。何故か。敗戦の故である。日本はあの戦争に負けたのである。神風は吹かなかった。吹くと思っていた。しかし、吹かなかった。何故だったか。その理由を見つけなければならなかった。誰も見つけることが出来なかった。無理もない。彼らにはその種がなかった。そしてそれが見つかった。それは何だったか。大義名分がなかった。大義名分とは何だったか。黄泉及び祖先の受容祝福守護だった。それはある自覚を必要とするのだった。何の自覚であるか。君が代大鏡の自覚である。誰もがするのではない。しかるべき者がする。生まれながらに、代々の御役がある。しばらく埋もれていた。頼朝は伊豆に流されていた。家康は時を待った。この世を支配する精神がある。最も価値があるのは何か。知性である。その最たる者が佛である。佛は佛である自己を自覚して佛である。それは知性であった。知性にも秩序がある。上下がある。生まれながらにである。そうでなければモーツァルトの天才は説明できない。それを無視した。それが自由を履き違えた戦後の日本だった。しばらく本来の知性が眠らされていた。しかし、ヒロシマは根絶やしにされてはいない。代々の知性は隠されていた。子供の頃より特異な知性であった。しかし戒められていた。その知性が不幸を招いた歴史があったからである。故に江戸無血開城もあった。譲ったのである。しかしそれに乗じた方々は本来日本の精神を裏切った。行政も民法化して腐敗した。しかし時は来る。平家も秀吉も何故失敗したか。貴族化を急いだからだった。分を超えたからだった。生まれながらの分がある。古来代々日本が培ってきたものがある。それを無視した。黄泉の秩序に反した。何時までも黄泉も黙ってはいない。佛は何を以て佛というか。その言葉はロゴスである。思考は現実化することが現代ビジネス界の至った結論である。それに至る方法論は確立されたかに見える。しかし、彼らの方法論は環境及び生命を破壊した。今もその流れにある。佛の属性とは何か。その周波数にある。宇宙の周波数である。善の周波数である。動植物岩石も同調して喜ぶ。それが秘密だった。佛はこの秘密を解き、開発する。故に佛は御本尊様を認める事が出来る。佛の言葉は宇宙に通じる。佛が佛となって大宇宙に宣言することによって宇宙の動く方向が決まる。それが秩序となる。これが佛の秘密だった。宇宙の王といわれる所以である。これが第一義である。始まりの一点である。創世記における「光あれ」もそうだった。佛も佛と生まれて人生を歩み、失敗もしながら、業をしてその力を得る。その力が神力だった。古来日本にはそれがあった。故に日本は滅びない。いくつかの失敗はある。しかし必ずそれを全面的に受容し、必ず克服凌駕する。そして新しい時代を切り開く。それが古来大和の秘密である。しばらくその傾向が笑い者にされた。そうした方々の支配だった。無理もない。それが敗戦の敗戦たる理由だった。日本は負けたのである。故に、日本は復活するのである。勿論、反省している。反省とは同じ轍を踏まない。明治以降、日本はどのような精神の支配であったか。江戸を滅ぼしたと思ったか。江戸は譲ったのである。その後、思い上がった者たちの支配があった。テレビ及び芸能界がその権化である。亦、商人根性である。これを粉砕する。本来の価値を取り戻す。愛と平和を希求する人類及び生命の進化傾向を見定める。知性とは何か思い知らしめる。勝手が過ぎたとする所以である。私の住むべき場所はなかった。故に埋没した。しかし、これより失われた人生と青春を取り戻す。取り戻して良いのだという自信が復活した。絶対の自信である。この度はこれを必要とした。その為の半生だった。何を以て自信とするか。諸佛諸大菩薩及び諸天善神の受容祝福守護である。これを発掘発見開発自覚しなければならなかった。それが生まれながらの使命でもあった。日本の存亡がかかっていた。それは果たされた。即ち、日月照らし風が吹く。自由は自由が切り開く。未来は明るい。世間一般、何をしているのか。何を勝手し来たる哉。


2007年11月03日
自分のことは自分が知っている

自分は何のために生まれていたのだったか。真実の力とは何であったのか。それはどのように開発し、どのように発揮することができるのか。持って生まれた力がある。それを生かすにはどうするか。亦、その間、どれだけの試練を要するか。それに耐えることができるか。最後まで自分を信じることができるか。事の成就の次第である。一方、永い魂の遍歴がある。この世に身を以て生まれたのはその一こまに過ぎない。この世で何をするのか。代々の遍歴に対して何を付け加えるか。それで来世が決まる。こうしたことを見失っていた。戦後教育の故だった。無理もない。そうしたこととは縁のない方々の支配だった。彼らは何に迎合したのだったか。さて、親鸞にとって、仏は唯自分一人のために法を説いた。どういうことか。自分のことは自分でなければわからない。日本の仏法は空海だった。彼は日本全国を行脚した。何を探していたのだったろう。仏の住所だった。それは見つからなかった。彼をしても。時が来ていなかったからだった。今、時が来ている。それほどまでに宇宙の時は流れた。それは雑華経に書いてあった。それを見つけた方がいる。そして仏の住所が定まったのだった。それ故、一切大衆が救われる道も開かれた。仏のための故にすることで救われる道だった。仏法に真実と権実がある。真実の仏法は証明がある。方便の仏法には証明がない。即ちその結果がない。真実の仏法があることを示すのみだった。これまでは方便の時代だった。今、真実の時代に入っている。それは何処にあるのだろう。縁があればめぐり逢える。世界平和の基である。戦争は指導者の意思決定である。野蛮な意思決定である。これをどのようにコントロールするのか。永遠の課題である。それも出来るようになるだろう。万二千の真実の仏法者がこの世に顕れる時に。要は自覚だった。何を自覚するのか。汝自身だった。ソクラテスもそれを説いていたのだったろうか。パスカルのパンセは草稿だった。何を目的としていたのだったか。彼は遅れて社交界にデビューした。それまでは天才的な数学者だった。確率論を確立したのも彼だった。ある夜、特異な体験があった。それはメモリアルとして遺されている。そして彼は偉大な神秘家となった。その真実を何とか皆に知らしめたいと思った。どのようにして知らしめるのか。その草稿がパンセだった。しかし草稿は草稿で終わった。時が来ていなかった。人間は考える葦である。その葦を通して宇宙を見ると彼はいった。どういうことだったろう。彼の体験とは何だったのか。仏とは何だったか。インドの釈迦であるか。奈良の大仏であるか。仏とは仏として生まれ、仏の業をして仏となる。仏となった仏の力とは何であったか。宇宙をも動かすことが出来る力だった。それを如来の神力と呼んで良い。そのような力はあるのだろうか。有る。無いと思うのは知らないからである。それで何をするのか。それぞれの過去の因縁を解決する。そして清浄な身心を未来に流す。或いは託す。仏と雖も他人の因縁の解決が出来るわけではない。自分のことは自分でしなければならない。その方法は教えてくれる。そして結果がある。皆、本当に幸せになれる。これが真実の仏法だった。しかし誰もが出来る時代を待たねばならなかった。その宣言を仏がしなければならない時代をだった。そして、それが今である。信じることが出来るだろうか。この時をあらゆる魂が待っていた。救いの時は来た。伝えるべきは何か。この真実である。誰も一休髑髏を知らない。それはどういう意味だったか。神仏を直接悲しませないことである。黄泉の守護がある。祖先代々の守護がある。死に神が来る。それを知らない。自分の方が上だと思っている。思い上がりである。秩序がある。この世にもあの世にもある。過去からの掟である。それは精神の秩序だった。代々培われて伝えられていた。それを粗末にした。恐ろしいことである。悪の滴りがバケツに満ちてあふれ出す。その時まではわからない。その時が来れば悪の年貢の納め時である。それを一休はご用心といって町内を練り歩いた。そうしたこともわからない。そして勝手している。それが自由だと思っている。来世は地獄だね。しかし未来は明るい。どうしてか。仏の選択及び決定があったからである。信じる者は救われる。それぞれの罪がある。それぞれの救いがある。さて、どうするのだろう。それぞれの事である。真実を求めているか。求めればいい。何時か必ず邂逅する。真実とは何か。神仏は実在する。人間が人生を通って神仏となる。それには通るべき試練がある。誰もがその可能性を秘めている。しかし気づけない解らない探さない。そして凡そ堕落腐敗する。それが人生だと思っている。この世で何を充実させるのか。あまりにも中身のない人生を送っていないか。中身が充実すればすべてを達観する。そして生まれた自分自身が何ものであったかを知る。持って生まれたものがある。大器晩成である。大きければ時を要する。臆することはない。人生はそのように出来ている。何を粗末にしたのか。何を裏切ったか。知るべき時が来た。言葉はロゴス、実現する。愚かさが人生ではない。この世にもあの世にも掟がある。嘘が諸悪の根源である。権力ではない。武力ではない。金力でもない。法力である。或いは神力である。それは日本にある。日本にしかない。その種は何処にあるか。何処に咲いたか。世界平和に向けて日本の使命がある。ヒロシマは根絶やしにされてはいない。天は誰に微笑むか。この自覚を成就した者に微笑む。即ち、日月照らし、風が吹く。何を勝手してきたのか。バベルの塔は立ちはしない。救われる方法はある。知らないことを以て来世はないというか。それで好きたい放題するか。それもこれまでである。人生は楽しい。何を以て楽しいのか。真実を以て楽しい。それが愛でもある。愛する人のために死ぬことが出来るだろうか。自分を壊せるか。人生と青春を賭けることが出来るか。それが真剣勝負である。勝ち負けは神仏が決める。姑息な手段で何をしているのか。それが人生だと思うか。生命の秘密だと思うか。問われている。答えるが良い。本来の思念力が復活した。黄泉もさぞ喜んでいることだろう。時は満ちた。悪の滅びる時である。何が悪であるか。秩序に反するが悪である。歴代の人々の願いと祈りは無駄ではなかった。その実現の時である。即ち善良な庶民の解放である。自分のことは自分が知っている。どのように解決するのか。鈴木正三曰く、南無大強精進勇猛佛。日蓮龍ノ口、何故雷は落ちたのか。何を以て勝負するのか。古来卑弥呼乃系譜邪馬台国大和正統日本江戸無血開城武士道結実禅譲勇猛正直大和魂純粋精神。明治以降失われていた日本絶対精神自信、御祖先及び黄泉御照覧、秘密君が代大鏡を茲に開発復興復活せ令む。愚かさからの脱却である。故に未来は明るい。世の腐敗を助長増幅せし衆愚野蛮破廉恥テレビ及び芸能界は総懺悔あるべし。何を愚弄粗末にし、何を裏切り破壊し来たる哉。ヒロシマより守りし一粒の種がある。その開花である。何時でも相手になる。議論するべきは議論するべし。小さな権力闘争及び欲望実現の時ではない。未来を開く時である。資源は既に無限ではない。これよりどのような社会を作るのか。日本の何を議論しているのだろう。何が見えているのか。最近、夜の呉市堺川に架かる橋の鉄の柵にアオサギが止まって羽を休めている。そして必ずギャーと鳴いて挨拶する。時は来ている。眠れる獅子たちの作戦開始である。日本は日本である。進むべき方向が定まった。