与えられている


2013年11月02日


  • お金は必要なときに必要なだけあればいい。それは回ってくる。それは与えられている。小鳥に日々の食事が与えられているように。お金が今、それほどないってことは、その必要がないからだ。なくても生きてゆけるはずである。そうであるのだったら、消費をあおられ、欲望をかきたてられ、そそのかされて、支配階層としての経済界の餌食となる必要はないのだった。むしろお金があることで喧々囂々とした荒波の中で生きるよりも、お金がないことで自由な時間を取り戻し、静かな環境を得て自らの心の平安安穏の日々を送ることができる。どちらが幸せだったのだろうか。子供たちはそれを知らない。知らないままに、大人の論理を強制されている。新しい時代にそれはおかしいと感じている。


馬鹿になることは


2013年11月02日


  • 馬鹿になることがしあわせではない。それは支配する側の論理だった。馬鹿になるとどうなるのだったか。餌食となる。おもしろければいいというのもそうだった。お笑い芸能界はそのはじめ、何を以て笑っていたか。みんなで誰か一人をターゲットにして笑いものにしていなかったか。それはいじめの構造だった。一人でいるとそういう心境にはなれない。何人か集まっておもしろいものとなるとそうなる。それは付和雷同によるものだった。それに参加しないとどうなるか。自分がターゲットとなる恐怖がある。このメカニズムを利用していたのである。そして今、それが子供世界の文化となっている。そして学校教育が破壊され、彼らは未来を失った。これを以て利益をなしたお笑い芸能界の責任は重いとするところである。壊した者が償う。ローマ法以来の大原則である。知らずともである。馬鹿にならなくていい。私たちは人間である。勉強ができないから馬鹿なのではない。人間として大切なことを否定するから馬鹿なのである。勉強ができることが第一の幸せの要件ではない。勉強はできなくても人間として生まれたからには善良であることで易易と生きてゆけるのである。それがそのままでいいということだった。このあたりを再考する必要があるのではないだろうか。


もう一度恋をしながら


2013年11月04日


  • NHK深夜便で神野美伽による『もう一度恋をしながら』か流れた。OK! 父昭亮が好きだった歌手の一人である。恋は鯉。広島城は鯉城。広島は安芸の國。彼は言う。これより時代の色を染め直す。知らなかったよね。知らずに勝手していた。いつまでもそれは通らない。彼は眠らされていた。知る人は知っている。少なくとも同級生は知っている。彼こそ彼であると。彼は待たれていたのである。彼が目覚める時を。彼女は言った。まだなの。彼は、言う。これからだよ。