鈴木大拙の世界

  • 悟りは悟ったもののみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格に言えば、他の何人の証認をも必要としない。それはそれ自体で充足している。だから、悟りを相手にどんな懐疑が批判してみたところでどうすることもできないものである。
  • 生命の泉を欲して、しかも、この水は彼を取り巻き、彼を浸し、彼のからだの組織のあらゆる細胞に入り込み、事実彼自身であるのに、彼はそれを悟らず、彼の外にそれを求めて「大会」を越えようとまでする。
  • 【信仰の確立】存在の理由に徹して信仰を確立した人は、自分がいつもこの世界の中心となり主人公となる。(中略)自分の存在はいつも宇宙の中心となっていることを自覚したからである。事実は事実としても、自覚がないと、その事実が死んだ事実となってしまう。これが妙である。自覚にそんな力があるとも思えぬが、あるから妙ではないか。こうなってくると、天地開闢以前の神の心地が自分の心地になると言うても、さして誇張の言葉とも思えぬ。
  • 自己というものがないときは、人間はくたびれるということがなくなる。
  • 心を一処に制すれば事として弁ぜざるはなし。
  • 感情は豊富でなくてはならぬ。豊富な感情と、盤根錯節を切り開く理智分別をもちながら、しかもその奥に嬰孩性、即ち無功徳なものを、深く蔵していなくてはならぬ。
  • 自分を無にして、客を主にすると、道元禅師が、『万法来たって我を証する』と言われたように、自然に無所得が得られる。即ち無功徳で、無所住で、そして活溌溌地の働きがそこから湧いて出る。
  • 無所住の境地にいないと大悲は分からぬ。
  • 因果に落ちずでもなく、因果を昧まさずでもなく、因果ということそのことに心を煩わさずということである。因果は因果で、それ自身の道を踏んでいくのであるが、因果の中で働いている我々は、因果そのことには関心しないで、働くそのことに、意識の全力を傾注すればよいのである。それが客観的にどういう結果になろうが、そういうことには頓着しないのである。これが跡を残さぬ義である。遊戯三昧の境地である。
  • 客観的に結果をかまわぬというのは、他人に迷惑がかかってもかまわぬということではないのである。ただ、その結果なるものが、自分にとって、どういうことになるかということをかまわぬというのである。
  • 報いを求めない、無功徳的に行動する。
  • 悟る前には善悪があるが、悟った後は、善も悪もことごとくが善である。
  • さされて見るべき月はないのである。そして、その指ももとよりないものである。
  • 禅には自覚がなくてはならぬ。
  • 動いているものを動いているままに看取し道破する機を掴むとき、それが霊性的直覚を形成する。
  • 無念が絶対の現在である。
  • この無心の無念が体得されたときに、仏教はことごとくわかるのである。
  • 絶対の現在そのものが働くところを踏み滑らないようにする、これが正念相続の意味である。
  • 妄想がなければ、それが正受で、三昧で、一念で、無念である。
  • なんでもすべきこと、そのことに成りきれば、無心である。無心であれば無事である。それが平常心である。
  • 非常時もなく平時もなく、いつも坦坦如として、また淡々如として、行くところ適わざるはなしということでなくてはならない。それで初めて、本当の安心が出るわけだ。これが莫妄想である。