芸術性の確認


芸術家は何をもって芸術とするか。それは己の内面に徹して真実を観る。あるいは聞く。そしてそれを表現せんとする。因って作家の感慨は自分が書くのではなく、何か大いなるものに書かされていると感じるとする。あらゆるミュージックもそうである。だから、いやがうえにも己自身の表現となる。隠せはしない。拙きは芸術ではない。だれもが己を表現できるものではない。魂を見つめ、魂と格闘することを要する。ここをP・ヴァレリィは「深淵をのぞき込んではならない。深淵に飲み込まれてしまうから」と書いた。これに対して吉田健一氏は深淵をのぞき込んではならないなどというのは、「地獄を知らないからである」と書いた。

芸術は激しい感情を要する。それを制御して作品行動となる。表現は己の解放だった。自由を得て表現行為となる。過去の自分からの自由である。何をしても良い。しかし社会契約はある。それが前提である。それを破れば淘汰される。所詮人の世である。己が自由となって表現がある。より高きを目指す。そして秩序となる。

何の秩序であったか。精神の秩序だった。それを成すには時を要する。己との戦いがある。試練がある。その過程を芸術とすることがある。精神を獲得して芸術とすることもある。何れにしても人間の求めているものがある。それを追求する。経済行為だけが目的となると腐敗する。芸術は人間性の追求と確認だった。そのまま人類あるいは生命体としての進化傾向だった。その表現だった。

芸術は浮かれた世間を土壌として咲く。故に憧れとなる。安易な芸術は芸術ではない。幸福論もその例外ではない。衆愚を煽って利益とするテレビ界などもってのほかである。占領政策に乗じての成金セレブ及びスノッブのしばらくの勝手、これより通らない。

芸術は精神を獲得した。孤独な戦いを制した。しばらく眠らされていた本来日本精神を確認した。これより復活せしめる。天は祝福し、地は喜んでいる。失われた何か大切なものがあった。それは何だったのか。古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和正統日本の秘密があるという。

花は何処へ。種は遺されていた。ショービジネスが芸術ではない。精神のない歌は芸術ではない。芸術とは何だったか。真実を前に感動の涙がある。芸術とは真実だった。真実とは何だったのか。裏切りではない。欺罔でもバイオレンスでもない。誰もが気づく頃となった。何故か。芸術は愚かではない。野蛮でもない。企業ビジネスに都合の良いだけの要領の良さが人格ではない。しばらく重商主義だった。反省の頃である。経済効果だけにとらわれ、知性に対するバランスを欠いたマスコミメディアの罪がある。何を成功としたのか。どのレベルでのことだったのか。これより芸術性の時代となる。

感性と知性の合一が芸術性だった。そして究極の自由を観る。しかし真実とは何だったのか。神仏の実在だった。芸術家が自殺する。何故か。本来苦しむことが真実ではない。人間は楽しく明るく生きてゆけるはずだった。何時かそれを見失った。芸術家も思い上がりがある。神仏に対する謙虚さがなかった。きれい事を表現して、内面の解決をしていない。魂を扱いながら、魂の本質を知らない。悪魔と善魔がいる。苦悩あるいは腐敗こそ人間性だと思っている芸術家がいる。芸術性も進化する。何が真実だったのか。

人間としての思い上がりがある。それが不幸の原因だった。解決するべきものがある。それは何だったのか。新しい時代の芸術性の確認を要する。これからの芸術家の課題である。

何かを疎かにしていた。そして浮かれていた。すべてを生かすことを考える。それは自分のためにしないことだった。相手を傷つけていた。本人はそれと気づかずに。いい加減な人生は人生ではない。自分も含めて反省する頃となった。知らなかったのだ。因縁はある。諸精霊はいる。粗末にしていたのはそれに対してだった。恨みと妬みがある。それが原因だった。申し訳なかった。悔い改める頃である。古来日本は知っていた。何時の頃より見失ったのだろう。何時か不幸になる。芸術性も確認及び解決するべきはそれだった。時は来たようである。

積年のテーマは何だったか。『強くなくては生きてゆけない。やさしくなければ生きている意味はない』(マーロウ)。強さを忘れていた。何故だったのか。自信を失った。十九の春の原因がある。それは何だったのか。生まれた環境だった。それで苦しんだ。しかし社会のせいにしてはいけない。人のせいにしてはいけない。何故なのか解らなかった。どうしてなのか。何時かそれも解決する。それは過去の自分が原因だった。それを因縁という。

これは解らない。納得出来ない。『人間自ら出づることあたわず』とはこれだった。そして『唯善業の因縁より出でたり』の下の句がある。此処に至って解決がある。それが修行だった。次にやさしさとは何だったか。人間は一人では生きてゆけない。人生の意味はない。愛である。愛とは与えることだった。与えることをすれば、与えて貰える。これが愛し合うということだった。

まどろんで夢を見た。どのような夢だったのか。光が射す夢である。何かを倒さねばならない。強さを失っていた。それを取り戻す。戦うべきは何だったのか。自分自身の内面に住む魔だった。これは手強い。気づけないからである。そしてその魔は魔を呼ぶ。その正体は恨みであり、妬みだった。それはあるのだった。そして貶められる。恰好の餌食となる。それと戦う。そして勝利する。求めていたものは何だったか。好ましい人間関係だった。

それはある。幸せ世界である。最終最後最大の敵は自分自身だった。それを倒して未来は明るい。絶対の大丈夫となる。絶対はある。それが真実であり、神仏だった。此処に本来日本の芸術性を確認する。自分が自分となって自分を表現する。それが芸術だった。その時、自分はかつての自分ではない。自由。freedom。

やがて芸術行為は何処に至るのか。安易な成功が芸術ではない。真実へ至る。幾多の紆余曲折がある。その中で、何を己の求めていたものとするのか。腐敗であるか。退廃であるか。それが自由であるか。政治、教育、宗教からの自由をいう。それらを通ってのことであるか。幸せはある。それは何だったか。芸術行為が人間性の限りない追求であるとする時、果たしてその方向性は正しかったのか。単なる薬物中毒から来る逃避の中での表現が芸術ではなかったことは確かである。

パステルカラーの幸せがある。愚かでは至れない。野蛮に墜堕する。民はそれを自由と勘違いする。何が幸せだったのか。答えはある。