取り戻すべき公共概念

権利の上に眠っていた。それは丸山真男氏が『日本の思想』で指摘していた。そのまま眠っていたのだろうか。あるいは眠らされていたのだったか。眠れる獅子の目覚める頃だろうか。寝た子を起こすということがあった。高校の頃、全学連の嵐の余波が吹き荒れていた。その頃、部落研が一人の先生を吊し上げた。差別発言があったという。全校集会が二度あった。とても勉強する空気ではなかった。豊臣政権下で差別が始まったという。罪を憎んで人を憎まず。しかし犯罪者の系譜がある。水槽の中にタガメとメダカを入れて平等ではない。学校教育の誤謬も此処にある。野蛮状態ではバイオレンスと嘘が利得する。正直者が馬鹿を見るような政治ではいけないといった大臣がいた。正直者が馬鹿を見る現実を認めたのだね。その頃、NHK-FM廃止論もあった。その文化価値が評価できない大臣だったのだろうか。経済的合理性がすべてではない。行政には行政の理論がある。かつては特別権力関係もあった。根拠に公共の概念がある。取り戻すべきは何だろう。公共概念だった。行政も民法化した。それは事務用品などの契約においてだった。何もかも私法化するのだったら、行政そのものが必要でなくなる。何を以て公とするのか。見つめ直す必要がある。いつの間にか行政も私的利益の追求の場となった。制度を悪用したあらゆる事件が私的利益の追求傾向を示している。地検特捜部は自然犯などではなく、制度そのものを脅かす犯罪を捜査する。捜査の端緒は何処からでも良い。公務員の世襲制は民主国家として予定していない。親が退職して子が公務員となる。しかも相対的に高い地位に就いている。何処かに私的欺罔はないか。市役所職員の世襲化などあまりにも醜い。公私混同だけは避けなければならない。制度の公共性を担保するために。そのために公務員試験がある。私的利益を追求するところに公共性はない。資本主義は利益あるところ損失がある。公共性にはそもそも利益も損失もない。あるのは公共の福祉である。何か勘違いしていないか。勘違いは正される。公務員である限り、経済上の不安はとりあえずない。それで民の経済的苦しみを肌で理解できない。故に遅速の怠慢がある。その間にあまりにも悲しみの傷を深くする民もいる。警察の初期捜査における勘違いもそれより起きる。何のための行政であるか。誰のための行政であるか。自ら公務の基盤を蝕んでいないか。税金で飯を食っている事実がある。公務員法には使用者は市民あるいは国民とある。