今もどこかに

2010年08月14日

彼はどこへ行ったのでしょうね。姿が見えなくなりましたね。だけど彼はいるのです。今もどこかに。苦難の時は越えたらしい。長かったですね。自由とは何だったのでしょうか。永遠と言って良いのです。解脱と言っても良いのです。幸せと言って良いのです。それは、見えない世界に受容されることでした。
 
見えない世界にも好みがあります。何を以て好むのだったのでしょうか。普遍的な愛を以てだったのでした。それを開発できるかどうかです。それが人生の目的だったのです。この世はそのためにあるのです。つまり、生まれた意味です。それが真実だったのでした。
 
私たちは知らないことを以て否定していました。誰もが気づく頃となりました。何故でしょうね。
 
創造力と普遍的な愛が神の性質です。このことはインド哲学が既に見つけていました。しかし、前者は往々にして後者に対して反力として機能します。すなわち、物質文明が幸せになれない理由です。しかし、これを否定するのではありません。これを前提として精神的なものを付加する頃となったのです。それが価値となるのでした。
 
創造性だけでは幸せになれません。これを無にするとどうなるのでしょうか。それが『十牛図』の第八図であり、あるいは、大死一番絶後に蘇るだったのです。あるいは、放てば手に満てりということでした。それはまた、自己を空しくすることだったのです。
 
愛とは自分のためにしないことです。あるいは、動植物及び岩石も喜ぶ周波数でした。対話を説いたのはソクラテスでした。見えない世界との対話もあるのです。それはテレビ好みの超常現象とか霊媒的なものではありません。
 
私たちは幸せになるために生まれて来ました。そのために必要な力は何だったのでしょうか。明らかとなりましたね。見えない世界に認められるかどうかだったのです。そして不思議な世界が待っています。さわやかな風が吹いて来ます。笑顔で楽しく暮らしていくことができるようになります。主人公として。
 
主人公は禅の公案の中にありました。『主体性の理論』というのがあります。それを説いたのは団藤重光教授でした。教育の目的は、人格の形成です。それは豊かな人間性と社会性を要件とします。家庭における基本的生活習慣の育成=躾が前提です。教育は開かれた学校として家庭及び地域並びに諸機関との連携の頃となりました。それぞれ役割分担があります。限界があります。それらを認識した上での連携です。
 
家庭でするべきことを学校に期待していませんか。学校でするべきことを家庭、地域、諸機関に期待していませんか。
 
何をしても自由ではありません。それは野蛮であり、無政府状態です。私たちは自由の一部を差し出して社会を形成しています。それが社会契約論でした。このあたりをテレビ界は無視していませんでしたか。市民として反省の頃ですね。
 
自分のことを書いて作文とし、社会的なことを書いて小論文とします。存在そのものが社会性を帯びていることもあります。
 
時代は進化しました。これまでの方法論は一切通りません。新しい時代の理念はどこにあるのでしょうね。知性と感性のボトムアップです。これが21世紀の約束です。そしてみんなで幸せになりましょうね。