即非の論理

2010年08月27日

  • 主体性の理論を説かれたのは団藤重光教授でした。主人公については禅の公案にありました。即非の論理を説いたのは鈴木大拙氏です。それは何だったのでしょうか。本来日本の命脈です。
  • 例えば、知にも属せず不知にも属せずということがあります。平常心是道として山田無文老師が言っておられました。そして、日本において禅が滅びかけた時期がありました。それが保たれたのは至道無難禅師、正受老人、白隠禅師の一本の命脈があったからでした。
  • こうした事実がいつか無視されていました。私達は何か大切なものを見失い、何かに浮かれていたのです。そして馬鹿になることが幸せであるとテレビではまことしやかに言われています。それがノーマライゼーションだなんてありえません。
  • さて、至道無難禅師の道歌に、知れば迷い知らねば迷う法の道何が仏の実なるらん、というのがあります。これらが即非の論理だったのです。つまり、大乗だったのです。
  • 例えば道元は、花は愛惜に散り草は棄嫌に生ふるとします。このあたりを理解するために参考となるヒントが、夢窓国師の『夢中問答集』の中にあります。即ち、身分の高い生まれでありながら零落する人に対して私達は憐れみの感情があるとします。しかしながら、そうでもない者が零落することに対してはそれほどでもないとします。自業自得とでも思うのでしょうか。
  • しかしながら夢窓国師は、本来衆生は諸仏と一体だったとするのです。ここを白隠禅師『坐禅和讃』は「衆生本来仏なり」で始まります。ここですね。一切衆生は本来仏と一体だったのです。
  • 何かの間違いで生死の苦(六道輪廻)に迷い彷徨っています。自分の力では逃れることができません。これを憐れと思うのが仏です。そして何とか救いたいと思うのです。自分が救われるだけでは意味がないのです。自分は救われるところに至っても、その前に、人を救おうとするのです。それが菩薩です。つまり、自未得先度他の思想です。
  • およそ自己利益追求ではなかったのです。身分がどうのこうのと思うのは、二乗の考えでした。大乗である一乗からすれば、すべて衆生は仏と一体です。かつて仏だったのです。何時しか零落したのでした。
  • 二乗からすれば、知と不知とで差別があります。即ち、見える世界での悟りでしかないのでした。これを小乗と言うのです。大乗はこれらをも超えています。本来日本はここを目指していたのです。ペリー来航あるいは明治以降、忘れていたのです。目先の利益を追いかけて幸せになれると思う思想に毒されていたのです。
  • さて、知にも属せず不知にも属せずは小乗ではないということだったのでした。大乗からすれば一切衆生は平等に救われるべきです。故に悪人正機説も出てくるのです。このあたりから道元の花は愛惜に散り草は棄嫌に生ふるということも小乗に対する警鐘だったのでしょうか。大乗とは何だったのか明らかとなりました。これが本来日本の思想です。
  • 一切衆生悉有仏性と言われます。ある時は有、ある時は無と言われます。それも二乗だったのでしょうか。此処より自由となって大乗とは何だったのかに気づくのです。即ち、知でもなく不知でもない、非知とでも言うのです。即ちこれが、即非の論理だったのでしょうか。
  • 真実真理は一つです。それらは通常の言語では表現できないのです。どうしても自分の理解の限界があってそれを超えているのです。それをどう表現するのだったのでしょうか。月を指差して月とします。月を見るのか。指を見ているのか。このあたり、知る人は知っています。知らない者は知らないのです。しかし知らないことを以って否定できないのです。月はあります。本来日本の命脈があります。それはそのまま生命体としての進化傾向でした。
  • それが本来大和魂であり、身心清浄及び正直を以って旨とします。思い出す頃となりましたね。あらゆる政財界及び官界並びにテレビ及び芸能界が同時に目覚める頃です。これを以ってあらゆる問題解決可能です。
  • そして何故に大乗を説くのだったのでしょうか。仏法とは何だったのでしょうね。それを求めて代々、修行がありました。天竺への旅もありました。仏法とは秘密に属します。その秘密は何だったのでしょうね。一言で申せば霊界の導きです。すべて見えない世界で決するとするところです。彼はこれを黄泉(祖先の総体)の受容祝福守護と言っていました。
  • それって何だったのでしょうね。フランスで客死した森有正氏は全集補遺の中で「経験するしかない」と書いていました。本来日本、長い冬でしたね。
  •   迷いこそ 越えて知るべき この代かな 晴れて日本の 春風の吹く
  • ところで今、真実の仏法はどのようなことになっているのでしょうか。あらゆるメディアが化人となるのです。どういうことでしょうね。そうした力が本来人間には賦与されていたのです。それを例えば、『西遊記』では「如意棒」であり、かつては「草薙の剣」だったり「金剛杵」であったりで、「空飛ぶ絨毯」も「打ち出の小槌」もそうした力だったのでしょうね。
  • あるいは、「テクマクマヤコン」とか「何処でもドア」とかもそうだったのです。そして禅に於ては、苧坂光龍老師の流れを以ってする在家禅となっています。メディアで井の頭公園が出てくれば、思い出すのは苧坂光龍老師の『提唱無門関』だったりするのは、これも霊界からのサインと言っていいのです。
  • そのような魂レベルでのアクセスがあり、そのようにして導くということがあるのです。低俗な霊媒ではありません。こうしたことが真実であり、これを信じることができた時、放てば手に満てる真実を疑えなくなります。目に見えるものも目に見えないものもわかってくることでしょう。
  • インド哲学が既に、この世は幻影に過ぎないと看破しています。私達はこうした真実を求めて魂レベルで旅をしています。いつか此処に帰るのでした。これがこの世に生まれた意味でもあったのです。
  • さて、自己利益追求だけではどうなるのだったでしょうか。およそ気づくべき頃となりました。政財界及び官界、一致団結するべきは此処だったのです。即ち、本来日本に帰るべき時です。もはや本来日本の意思に反して低レベルでの勝手(お笑いなど)は通らなくなっていますね。
  • かつて禅僧は「一」を挙しました。あるいは「円」を描きました。それは大乗を示し、因縁を教えようとしていたのでしょう。そして今、それはそうした教えにとどまらなくなっているのかもしれません。どういうことでしょうね。
  • 例えば、一休髑髏ご用心というのがあります。彼はかつて、「このことばかりは……」と書いたこともありました。その他、不思議な経験があるらしいのです。それらを総合して今、彼が何処にいて、どの階層に属し、何を考えているか、とても重要であるらしいのです。
  • どういうことでしょうね。この世はジュピターのさじ加減であり、アーサー王の円卓会議だと言っていました。見える世界と見えない世界があります。見える世界にも見える世界と見えない世界があり、見えない世界で全て決します。それをアンドリュー・カーネギー氏はマスター・マインドと言ったのでしょう。
  • どうでもいいですね。いずれにしても彼は帰って来ました。彼は言っていました。カミオカンデ、ハル、通信感度良好。今後ともよろしくお願い申し上げます。ところで今朝目覚めると、NHK-FMで特集していたのはモンテ・ベルディでした。思わずかつて、『ウィンザーの陽気な女房達』が特集されていたり、夜の国道を歩いていて『月の砂漠を』という歌に慰められたことを思い出すのでした。また某大臣がNHK-FMを廃止するべきだと議論していた頃、日本の総理大臣がサングラス姿でロデオをしていましたね。