謙虚さについて


2008/03/07


  • 取り戻すべきもう一つのことは謙虚さだね。確かにそれは正しい。ラジオで謙虚さについていっていた。自分が何でも知っていると思って相手のいうことを聞かないのは良くないと。ところで、自分の求める世界は自分が作っていく。人間関係がそれである。幸せとは好い人間関係だった。その時、明らかに敵対的な人もいる。その人に対して卑屈になることが謙虚さではない。それをも謙虚というのだろうか。学ぶべき相手とそうでない相手とがあるのではないか。学ぶべきであれば子供からも学ぶ。しかし盲目的な謙虚さは必要だろうか。謙虚さをいう時、考えるべき点があるのではないだろうか。謙虚だったら何でも良いのだろうか。仏法では白髪の老人のすべてを評価しているわけではない。やはり悟っているかどうか。十把一絡げに謙虚をいうのはどうだろう。謙虚であればいいのか。知的観点からすれば、疑問であるね。思慮が足りない。謙虚であれということがむしろ惑わせる。相手によっては不合理な犠牲を甘受することを強いて、不幸に導かれる場合もある。いわれのない我慢を強いる労働者教育的観点からいっているといえる。謙虚についても相手を見極めることを先ず教えるべきではないだろうか。謙虚であればいいというものではない。謙虚さについても色々な側面がある。自分のセンサーを高めることが必要である。既に個人責任の時代だ。個人として生きていく術がある。象牙の塔の中での一般論では生きてゆけない厳しい個人の時代となった。故に強い自分となる。自信となるまで勉強する。世の中に出て自由に生きるための条件となった。知性の時代である。まやかしは通らない。いじめ或いは暴走族的お笑い芸能界の論理は終わって貰う。何を笑いものにして笑っているのか。国民は意味のないお笑いに辟易している。笑いが百薬の長である時代は終わった。笑えばいいというものではない。その後の空しさはむしろ健康を害する。笑いの効用を勘違いしていないか。真実の情緒の効用を見直すべきではないか。あまりにも価値的なものが無視されていないか。愚かさと野蛮が跋扈していないか。知性を笑いものにしていないか。政治は自らの権力闘争のためにそれをも利用しようとしていないか。真実の政治とは何か。本当の国民の利益とは何か。どのような國にするのか。愚か野蛮な社会の形成維持ではない。本来知性はあまりにも住みにくい世の中である。テレビ放送関係者は身分に安住してセンサーが狂っているのではないか。視聴率第一主義は何だったのか。何処にターゲットがあったのか。衆愚ではないか。故に彼らが勘違いしている。馬鹿になることが偉いと思っている。或いは幸せだと思っている。世の中を壊したね。知的国民を愚弄していたね。さて、本当の謙虚さで生きて良い。要は人間関係である。どのような人間関係を欲しているのか。愚かではない。無意味ではない。この人生を如何に生きるか。あまりにも空気が腐敗している。低いレベルに堕ちてしまった。故に離婚も絶えない。今の社会の空気では当然といえる。犯罪も多くなった。その原因を見極めなければならない。誰に対しても謙虚であれといえなくなった。殺伐とした社会である。謙虚であることが餌食にされることもある。彼の経験したことでもある。詐欺師がいる。彼らは嘘の上に嘘を重ねる。何時かは淘汰されるとしても、のさばっている。そのような社会になっている。故に自分を高める。自由となる。自信も絶対となるまで。その時まで勉強する。知はチカラとなる。自信となる。そしてこの世は楽しい。素晴らしい。十分に生きてゆける。教育はどうあるべきか。未来の子供達が嘘と暴力の餌食犠牲とならないように生きていくために切実に教えるべき事がある。何時までも傍観していられない。躊躇うことなく世の良識達の立ち上がるべき時である。