末川博編『法学入門』より

幸福追求権

2012年02月19日


いずれにせよ、社会保障の理念を考える場合に、次の点は見落としてはならないであろう。すなわち、現在の高度独占資本主義の下では、古典的貧困(疾病、労働災害、身体障害、失業、老齢、働き手の死亡による遺族の生活、多子、出産など)に加えて、企業公害、都市住宅の貧しさ、交通事故などに起因する現代的貧困の多発がますます国民の生活不安、健康破壊などをもたらしている。そのため真の人間の生活保障とは基礎的な生活の保障はいうまでもなく、快適生活権(幸福追求権:憲法十三条)としての健康の権利、快適な生活環境の権利といった新しい人権論が提起されてきたし、これらの人権保障は、社会保障政策がいかに国の財政と深い関わりをもっていようとも、その拠出能力の有無などによって、社会保障給付などに不当な差別をすることは許されないという普遍的平等保障(憲法十四条)が尊重されねばならないということである。いずれにせよ、福祉政策の目標が、すべての国民に平和で豊かな生活を保障することにあるとすれば、それはまさに憲法二十五条の理念そのものの実現にほかならない。そして、この理念の実現がなされないというのであれば、憲法の規定が不十分なのではなく、それを実現しようとする政府・支配者の熱意の不十分さにある。

人類の歴史的課題

2012年02月19日


社会保障の思想が広く国際的に展開・普及したのは第二次世界大戦以降である。国際的な反ファシズムの闘いは、人権の保障、人間の尊厳の確立のための闘いでありながら、平和の陽の光に照らし出されたものは、荒廃した国土と疲れきった国民大衆の姿であった。住むに家なく、一片のパン、一粒の米にすらことかく生活。父や兄弟を奪われた母子家族や身寄りのない孤児たち。「言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍から将来の世代を救い」、「基本的人権と人間の尊厳及び価値……に関する信念をあらためて確認」(国際連合憲章前文)した世界の人々は、人間の尊厳に値する生活の保障こそ人類の歴史的課題であることを明確に自覚した。

解消するべきは貧富の差である

2012年02月19日


資本主義社会の仕組みの中では、労働者やその家族に十分に余裕のある生活を可能にするだけの賃金を与えてくれようとはしないし、失業したり労働災害を受けないという保障はない。事業主は、好むと好まざるとにかかわらず、冷酷な資本の法則に従わざるを得ない。しかも資本主義社会のいっそうの発展、わけても寡占・独占経済体制の下では、物質的には富裕化、豊穣化がみられながら、一方では、たとえば公害、交通事故、犯罪、企業倒産、高齢者の老後扶養など、国民の生活不安現象はますます一般化し、深刻化してきている。そこでは、労働者とその家族の生活が脅かされるだけでなく、労働者階級以外の農漁民、職人、自営業者、中小企業者などを含む広範な勤労諸階層が厳しい生活を強いられている。このような人間の健康や品位を危機におとしいれる諸々の社会生活上の事故や災厄は、その原因が個人の怠惰や不注意によるものであるといった個々人の責任として放置することができないことは明らかである。むしろそれは、怠惰・不注意とみられるような状態を引き起こさざるを得ないような社会的条件の所産であるという点が注目されるように至って、貧困を恥とし、罪とするのではなく、貧困を生み出す原因と闘い、その社会的条件に対処する措置こそ必要であると意識される。そして、勤労大衆の側からの、生存ないし生活の安定への要求が強くなればなるほど、資本の側も、それを無視して資本制社会を維持し、存続させることはできなくなる。

日本国憲法の建前

2012年02月19日


日本国憲法は、個々の国民の生活のほかに国家や政府の繁栄・発展があるのではなく、国民のすべてがその人間らしい生活と自由を享受することこそ社会正義の要請に応ずるものであり、それらが公共の福祉の実現である、という建前に立っているとみてよい。

法の実践は社会悪とたたかう闘争である

2012年02月19日


政治や経済の動きと切り離して法の動きを考えることはできない。法を学ぶための意味と価値は、国民大衆の自由と権利を守り、さらに人類の幸福と世界の平和のために寄与する方向で法学を生かすことであるといってよい。法は政治の表現であり、政治は経済の機能である。政治は生成流転する経済の姿であり、法は実現される政治の影である。

今日、一番肝要なことは、「何のために」法学を学ぶかという目的をはっきりつかんでかかることである。わけても、現代のように激動する複雑な社会では、この目的が見失われるおそれが大きいから、われわれは、法に関する知識や実践を生かして、法学を個々の人間にとっても国民大衆にとっても意味の或るものとするように心がけねばならない。そしてそのためには、大局的にいえば、法を人類の幸福と世界の平和のために役立つ方向において生かすということを第一義的にとらえ、また手近な形でいえば、国民の自由と人権を守るために法学を学び法の実践にあたるということを指向するべきである。このような構えで法学に向かうときには、はじめて法について学ぶことに生き甲斐を感じることができるのではあるまいか。そして法学を学ぶについての自信と誇りが、ここから生れるのではあるまいか。

虚偽をしりぞけ、不正をにくみ、人間を愛するがゆえに、法学を学ぶ。それが、法学を生かすゆえんであり法学を学ぶに値するものたらしめているゆえんであると思う。だから、私は、イェーリングが『権利のための闘争』の冒頭に掲げている言葉を文字って「法の理念は正義であり、法の目的は平和である。だが、法の実践は社会悪とたたかう闘争である」という言葉をもってこの稿を結ぶことにする。