達磨面壁九年

2010年08月28日

  • 達磨大師の面壁九年があります。それはどういう意味だったのでしょうか。それも夢窓国師の『夢中問答集』に答えがありました。即ち、心が壁のごとく動くことがなければ、どのような魔境をも脱することができると言います。その観点から理解できるのが、「橋は流れて川は流れず」ということでした。しかし、言葉に対する理解だけでは足りないのです。理入と行入があります。双方から理解する必要があるのです。行入は体験的理解ですね。何を体験するのでしょうね。そしてこれらを越えて新しい不思議な世界が待っているのです。それは大安心の世界です。……そして今、広島FMから流れてきた歌(原由子『京都物語』)に、「東山」という声がするのです。お化けのポストみたいに。いずれにしても彼こそ彼でした。どのレベルでのことでしょうか。誰も知らないのです。父昭亮もそうでした。祖父良亮もそうでした。尊祖父千畝もそうだったのでしょうね。嘉兵衛も覚兵衛も。彼はそういうこととは知らなかったのでした。それが戦後だったのでした。その間、何が蔓延ったのでしょうね。何か大切なことが失われていました。しかし、不思議です。種なればいつか芽吹きます。その時は遅いのです。どういうことでしょうね。今も昔もこれからも真実は真実です。彼は子どもの頃から不思議な体験として経験しています。何を経験しているのでしょうね。それは伝えられていました。家伝直伝秘伝螺鈿の槍として。それにしては勝手が過ぎましたね。あるいは貶めた。黄泉が赦しはしないのです。よくよく言っておきます。本来大和、滅し給わず。知らないことを以って否定できない事実があります。しかし今もこのようなことを書いているのだから、彼はまだ何か寂しい思いをしているのでしょうね。
  • 過ぎ越しの日々を思へば懐かしくわれありがたく合掌あるのみ
  • 思ふらむ何が仏の真実と生死を越えて扉を開く
  • 開かれて何を見るらむ真実の宇宙はわれと同根なりけり
  • 喜ばすべきは仏と黄泉なるを見つけて嬉し聖賢の詩


仏とは

2010年08月28日

  • 仏とは、仏慧と大威神力でした。それを以ってすべての衆生を救おうとします。しかし仏にもできない三つのことがあるとされています。
  • 「仏は一切のことに皆自由自在の力を得ておられるけれども、その中に三つのできぬことというのがある。一つには、縁のない衆生は導くことができない。二つには、衆生界全体を残らず導くことはできない。三つには、定業を転ずることはできない。定業とは、前世でやった善悪の行いが因(もと)で身に受けた善悪の報いである。」(講談社学術文庫1441 夢窓国師『夢中問答集』p287)
  • またどのようにして仏は仏になるのだったのでしょうか。前世からの修行を要します。そして今世に於て、菩薩を集めて教化するのです。仏は代々、そのようにして仏となるのでした。今も昔もこれからも変わらない事実です。故に仏はこの世に実在しています。時は末世となってそれ故に、だれもが救われることになったことに気づく頃です。

愛とは

2010年08月28日

  • 愛とは自分のためにしないこと。動植物及び岩石も喜ぶ周波数。公共性こそ愛であり、教育及び行政は愛です。

無気力からの脱却

2010年08月28日

  • 無気力からの脱却はどのようにしてなされるのでしょうか。どうして無気力となったのかを知ればいいですね。親のネグレクトもあったかもしれないのです。社会の冷たさもあったでしょう。子を思う親の温かさを知ればいいのです。社会には慈悲深い人もいることを知ればいいのです。知性と感性が自信を回復すればいいのです。いつか花と咲くでしょう。その時、自分が何者だったかを知るでしょう。時を要します。属性を要します。自覚を要します。そして自分の花と咲くでしょう。それからこの世の人生が始まります。その時、無気力より脱しています。何をしても楽しむことができます。待てばいいのです。時は必ずやって来ます。生きていくことはそれぞれの表現であり、それはそれぞれの花として咲くことです。いろいろな花があって良いですね。花と咲けば蝶も飛んで来ます。時は今、私達の春です。