2005/12/12

知は力なり

何の小説だったかは忘れた。女流作家だった。『文学界』か何かだった。女性が理不尽な男性社会で生きていく中で、自立して生きていくことがテーマだった。そして、決意した瞬間、内面でつぶやいた言葉が、「知は力なり」だったように覚えている。さて、人生の醍醐味は勝つことにある。負けるために生まれてきた訳ではない。みな、勝つために生きているといって良い。しかし、何を以てフィールドとするかが問題である。今、負けているように見えても、それは、勝つための準備期間だ。また、この人生は、過去世の裏とも思える。今、負けている相手は、過去に於て、自分が打ち負かした相手であり、ある意味で、その復讐を受けているとも思える。で、それならば、復讐を受ければ良い。いつかは、終わる。それから、反省するべきはして、新しい始まりを迎える。生きるフィールドのアウフヘーベンだ。通らねばならない宿命かも知れぬ。堪えることはできる。方法を間違えなければね。そして、復活。さらに強い自分を見出せる。そうした戦いの人生もある。負けることを通らないとならない人生もあるようだ。重い過去があるようだ。その重さを乗り越える。軽くなれる。そして、そこを通過すると、飛べるね。究極の軽さとは、そうして得られる。心の軽さ。現実はそうして乗り越えていくことができる。人生は戦いである。そして、宿敵が多くいる。往々にして、始まりに於て、敵は多数であり、援軍はいない。しかし、どこかに味方はいる。人生は、その味方への合流の旅である。味方へ自分の存在を知らせる必要がある。所詮多数に対して一人では戦えない。始めは一人である。しかし、いつかは、味方に合流できる。この事実を認識できるとき、はじめて、堪えることができる。勇気を持とう。パラダイスが待っている。そこまで、泳ぎ抜くことだ。あるいは、漂い抜くことだ。必ず、掬ってくれる。必ず。そして、堪えた悲しみの深さに比例した喜びがある。五十年苦しんだとしたら、五十年の喜びが待っている。今生で果たされなかった喜びは、来世への遺産である。天徳は、自分が本来の自分となったときに還ってくる。是を事実として認識することが夢である。夢は実現する。それが、二十一世紀の約束である。良い時代に生まれ合わせた。こうしたことが既に、ある人(存在=being)によって証明された。安心して苦しんで良い。喜びの境地(=真の桃源郷)は必ず待っている。二十一世紀幸福論の始まり。究極の幸福は、思いが宇宙に通じて、実現することであり、因って、自然から祝福されている実感の中で生きていることである。それは、たとえば、権力・武力・金力ではない。法力(=自然の摂理)である。そして、くどいが、身心の清浄を得て、そのチカラを得る。身心の清浄とは、妄念=嘘が焼き尽くされた状態である。その為の試練である。試練は乗り越えるためにある。やがて、本来の幸せを知る。過去からの脱却。今、が未来を作る。今の思いはやがて行為となって染み出す。今の思いと行為が未来を決定する。その繰り返しである。因って、順々に日常が変化する。自然を基準として善悪がある。草は棄嫌に生ふる、花は哀惜に散る(道元)。華と咲くことが人生の目的である。種は種々にある。自分の中にある。どの花を咲かせるか、日々の選択である。常に、二者択一の道がある。間違えても良い。引き返して、亦始めれば良い。人生は歩むに値する。生まれてきた意味を知って歩む。生まれてきて良かったと思える。感謝もできる。挨拶。推して返す。波に等しい。営業トークで、きれい事を云って、心では舌を出している世間の与り知らない世界がある。そうした純粋精神の方々が、たとえば、いじめの対象となっている。かれらは、いわば、高原に咲く花である。世の勝ち組は彼らの犠牲の上にある。高原の花が咲かなくなったとき、人類も終わる。やがて、逆転する。真の喜びは、純粋精神の勝ち取るべきものである。人生、あるいは、命の不思議がある。