2005/12/28

真実の仏法

佛が宇宙を支配し、神が地球を支配しているとして、佛はかぎりなくやさしい。しかし、神はそうはいかない。怒らせると何をするかわからない。その怒りは、正義に基づく。その理由は、今、人間の横暴に対するものであるが、その理由を、人間は知り得ない。本来神の世界は清浄である。現在、世の中は腐敗、退廃である。佛は、神の怒りを知っている。故に、救いに至る道を説く。高橋和己『悲の器』では、裁くのは国家のみとした。しかし、神は国家をも裁く。神を制御できるのは、神仏のみである。そうして、こうした真理をも食い物にしているのが、現代知識人である。奢りを奢っている。恐ろしいことである。人間の思い上がりが裁かれる時が来ているのか。本当に時が満ちるとき、人間はどうなることか。時が満ちるとは、旧約聖書にあるように、人間の惡(人間勝手、人間計算)が満ちるときであるが、それまでに、眞實の反省(真理に対する畏敬、人間関係における謙虚:純粋精神、やまとごごろ[動物性からの自由:格調、理念はやさしさ、やさしさとは、他のあらゆる存在に対するおもいやり、嘘がないこと、脅迫・詐欺のないこと、自らの心に忠実であること、しかるを現代成功者の心は如何、部下をボロ雑巾と思っていないか、責任転嫁していないか、自分のことしか考えていないのではないか])が出来るだろうか。どこまで無知であり、愚かであるのか。愚か者ほど、真理(神仏:神=自然、佛=宇宙)を冒涜している。神は正直者に宿り、正直者には、自然が恵む。本来の秩序であるが、それが、破壊されている。たとえば、人間の現代お笑いであるが、現実逃避にすぎない、根本解決はない。「甚深(父母の愛より深い)微妙の法を我今すでに具え得たり。十方の佛も亦然(しか)なり。當に大信力を生ずべし。」「是(かく)の如き妙法は諸佛・如来・時に乃(いま)し之を説きたまふ。諸佛・世尊は衆生をして佛知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したまふ。今正しく是れ其の時なり。」(9:09am 2005/12/28 NHK-AM「フィガロの結婚序曲」を聞きながら)「汝今應當(まさ)に身心に懺悔すべし。身とは殺・盗・婬、心とは諸の不善を念ずる。」市民革命で市民が解放された。その市民は、かつての貴族と同じ間違いを犯した。平家が武士でありながら貴族化したのと同じ轍と言える。今、これら退廃市民から解放されるべき存在がある。時が満ちる。そして、本来の価値を本当に実現できる時かも知れない。清浄。佛知見。これを求めての魂の遍歴であった筈である。いよいよ、その方法も解き明かされている。勇気ある魂は、ロトの如く、振り返りはしない。自らの罪によって滅び行く魂は、自らの責任に於て泣く。あの世へ逝って初めて気づく罪である。それを生きながらに知ること、これが、禅経験である。そして、これを知ったとき、宇宙は守護し、自然は祝福する。唯、それだけのことである。これを以て寂滅の意味とする。[ベルディ「椿姫」、『乾杯の歌』を聞きながら 9:38 NHK-AM(呉市の花は椿):高級娼婦、退廃社会、メロドラマ、本来ベルディは愛国主義者であったが、人生の悲哀、そして、庶民生活の中に幸せの形を見たか、この頃のテーマとして、真の愛とは。身分と現実。人間は過去の罪を謝るための人生を歩まさせられている、因って、真実の愛は現実化しない、反省してはじめて、実現する、本来の幸せ、神仏との邂逅、宿命、試練、至福。されど、甘い蜜。人間の動物性。悲劇。救いへ至る道、心の真実。現実は、諸々の惡因縁(条件)の綾なす世界。解脱、涅槃。寂滅。常寂光。己事の究明、汝自身を知れ。懺悔の日々、神仏に赦されて、ここより、真実の人生が開ける。]さて、旧約聖書に400年周期説が秘められている。そして、その中にある、切り倒された二つの切り株とは、神仏と思われる真理である。今、西暦で世界は動いている。西暦元年は、キリストの誕生と言われている。次の400年後に何があったか。日本に於ては、古墳時代である。この頃、春秋戦国、およそ、歴史的文書はない。おそらく、各地に豪族が群雄割拠した。やがて、大和王朝が天下を統一した。その頃の双璧は大和と出雲であったであろう。大和は出雲を根絶やしにしたつもりであろうが、それは、見えない世界の真実を知らなかった愚かである。その後も、権力のための戦乱の世が続く。そして、次の400年後は794平安時代のはじまりである。ここで、王権支配から、貴族支配に入る。次の400年はどうか。その頃、平家は武家でありながら、貴族化した。それで、本来の武家精神を以て、源氏が台頭する。1192武士政権の始まりである。次の400年、1600関ヶ原である。その頃、1588秀吉の太閤検地、イギリス海賊キャプテンドレイクによる、スペイン無敵艦隊に対する勝利。世界に於て、イギリスの時代の始まりである。王家の支配に対する、議会の支配への移行であった。市民革命の始まりであった。次の400年、現代である。市民の時代であるが、この市民が、今、特権階級として貴族化した。推して知るべし、次なる時代の始まりである。庶民の解放である。ここで、重要なことは、神仏がどちらに就くかである。歴史の大河がある。人間の我の力ではない。如来の出現の時であり、時が満ちる時である。時が満ちる時、神が動く。見えない世界が動いて、見える世界は大義名分を得る。畏るべし。神は淘汰する。佛は救う。今、一切大衆を救うと言い切っておられる。唯、「信を以て入ることを得たり」。両者そろった稀有なる時である。ELP「庶民のファンファーレ」が鳴っていたのはいつの頃だったか。時代は悲鳴をあげながら、何を待望していたのか。その後、時が満ちるのが待たれた。腐敗が進んだ。腐敗の限界、今、時が満ちた。