本来の自己

本来の自己を探しての旅。本来の自己を見つけて、それを信じて、そして、それに成っていく。そのために、日々、為すべきことを為す。すでに、時代は現代。ここにおいて、使命を果たす。何か意に添わないなら、それは、自分が蒔いた種の果実。それは、謝っていく。そして、新しく始める。少し、世間の泥にまみれかけた。世間は世間。それぞれのこと。所詮、蓮華の前に化生すれば良い。個々の人生である。この道を進むしかない。これが、道だと思う。「あるべきようは」。あるべき自分となる。もうひとつ、新しい地平を開くことにする。まだ、ゴールではないのであろう。到れば、到り得て、はじめて、世間的しあわせも待っていてくれるのだろう。もはや、ゴールは見えている。行くしかない。まちがいなく、最後の関門である。それは、本来あるべき自分の姿と成ること。生まれたときからの約束として。ここまでの道のりを無にすることは、むしろ、申し訳ない。いよいよ、城門は見えている。帰り着いたのである。長い道のりであった。しかし、すでに、チカラは得ている。ウィニングランである。もはや孤独な旅ではない。自然が導いてくれている。私の祖父に、山持(山道)直三がいる。父は昭亮(あきのり)である。母は喜恵子。祖父は良亮。祖母はフサヨとサト。尊祖父に千畝(幼名福次郎)、さらに、さかのぼって、覺兵衛、嘉兵衛。祖先に恥じることなきように生きるしかない。我一人と雖も。運命として。すでに領地は奪われしも。精神の砦は護らねばなるまい。