衆生本来仏なり

2012年10月07日

  • 天眼通とか、天耳通とか、そうした通力は本来、すべての人が持っている。しかし仏法は、そうした通力というものを特別に尊重しない。むしろ、日々生きていること自体が尊い。手で文字を書く、食事をすることが出来る、美しい自然を見る、心地よい風を感じる、小鳥のさえずりが聞こえる、そうしたことが奇跡に等しい。それを本当にすばらしいと思えるかどうかだった。また、こうした日常を大切に出来るようになると、釈迦や仏祖と手に手を取ってこの世を渡ることができるのである。本来人間はそうした存在であり、衆生本来仏だったのである。目先の利益に追われて、それがわからない。自然及び環境並びに生命を犠牲にし、破壊して私たちは自己利益を追求し、時代は今、どうなったのだろうか。計上されていない利益と損失がある。人類として反省するべき時である。人類が滅んでも地球は痛くもかゆくもない。私たちは本来幸せになるために生まれている。


何をしてきたのだろうね

2012年10月07日

  • 公害があった。その頃、海では頭と骨と皮だけのお化けハゼが釣れていた。ある海岸では、貝が死滅し、ネズミに腫瘍が出来た。猫にも腫瘍が出来た頃、その川及び海岸は埋め立てられた。また、コノシロの鱗がはがれ、血が出ていた。背骨は曲がり、尾びれ・背びれは一部溶けていた。そして、海岸では緑色のゴカイが居た。下腹部はどろどろに溶けていた。それでも生きていた。
  • そして工場の煙突からは、水蒸気だけが排出されるようになって、公害は克服されたかに見える。しかし、それは埋め立てられただけだった。
  • その自然に対する損失に対して、人類は償っていない。計上されていない損失である。そしていつまでも、その責任を認めようとしなかった。それで、受忍限度論及び疫学的証明責任の転換理論があった。銀行に於いては、仮登記担保及び譲渡担保があった。それが知恵だった。
  • 経済活動の名を以て何をしてきたのだろう。病院も病気のデパートとなっていた時代があった。それで、薬局が分離された。病床も制限された。あらゆる資格は、独占のためとなっている。何かがおかしい。それが生きることだったのか。そしてどうなったか。ADHD及びLD等、あまりにも障害児童が多い。