くらしということ

一つの仕事の区切りが、新しいステージを迎えます。何も言うこともないのかも知れません。日々、平穏に暮らすことが出来て、さりげなく楽しめることが出来る。何を見ても、さもありなむ、と。空ということも清浄ということも、至るまでは、色々と思うことが、やがて、さもありなむ。穏やかな波長で頭からつつまれているような。そして、何があってもいいよね、って。野に咲く花のような境涯って、自由ですね。知足とか言いますが、必要なだけ、その時々にあればいい。その意味では、必要なだけは、与えられているのでしょうか。無理な努力をすることもなくて、その時々の必要を満たすだけの智慧があればそれでいいような。しかし、現実は、足りていないように思われる日々です。これは、思われることであって、実は、足りているのでしょうか。何があっても、すべては、自分の蒔いた種。その果実。思うのは形無くて。形のないことを求めているのは辛いですね。満たされないから。この辺りの処理が、すぐに消えるようであればよいのですが、なかなか、この思うことが厄介です。しかし、清浄というのは、思うことによって得られる。この思うことの運転が難しいですね。で、たとえば、美しい音楽を聴くとか、新しい発見のある絵を見るとか、お経さんをあげるとか。そうすることで、思うことを消していく。すると、良いことが辺りに漂っていて、自分もその中で祝福されている。力強いエネルギーが湧き起こる。哀しいトーンがなくなっている。それが、清祥ということかも知れません。空というのは、頭の中が、空っぽで、何に対しても対処できる情態でしょうか。その時々に、智慧も出る状態でしょうか。「お腹がすいていれば何を食べても美味しい」ように、頭が空っぽであることが大切ですね。mustとかshouldからの解放がいいですね。何をしても、それが、大切なことにかなっているという状態を目指す。力の抜けた状態があるのですね。それでいて、しなやかであり、キリッとしている。カッコ良いですね。本来のそのままの自分で良いんだ、と。何があっても、起こるべきことが起こる。それについて、頓着しないこと。所詮、起こることには原因があります。その原因の解明とその起こったことへの対処は別論。そこに、思うことがあると辛くなります。悪い原因は除去するだけで良くて、それについての価値判断は不幸にする。この意味での、ケセラセラ。これで、take it easy!解決するべきことは解決していく。そうしている間に、キレイな空気も戻ってきて、青い空に白い雲となりますね。風景が満ちてくるでしょう。あれこれ思わず、一つ一つの目前のことを仕上げていく。そして、その間の休息を楽しむ。そうした流れの中で人格が上昇していく。自分のことを丁寧に仕上げていく。自分の魂を磨くことが第一であり、他者のことは他者に任せておく。助けるべきは助ける。それで良いと思われる今日この頃です。智慧というのは知識ではなくて、その時々に、対処することが出来ること。そのために、若い間は勉強もする。さらりと生きてゆけるなら、それで大人。くらしというのはそういうことですね。