新国家論 神の実体

デカルトは言った。「我思う故に我あり」と。プラトンは哲人政治を説いた。清盛は、「望月の欠けたる事なしと思えば」と歌った。アッシリアは神の名において肥沃な三日月地帯を統治した。その時々において、支配=統治は、権力・武力・金力によって為された。今もそうである。そして、王権神授説にしても、王政復古にしても、そこに大義名分は、神であった。「時が満ちる」という概念がある。また、『法華経』が何故に経典の王と言われているか。旧約聖書と法華経こそ、秘密の蔵である。見えない世界と見える世界がある。見えない世界が、見える世界を支配している。表現は文字である。文字によって見える世界は支配される。契約がそうである。音声は見えない。見えないが、抽象的に存在する。そして、音声は誘導力がある。言ったことは、やがて実現する。これを、閨房においても王を呪ってはならぬ、小鳥がそれを運ぶから、と言われる。さて、この誘導力にも、チカラの大小がある。樹木と雑草に格における差があるのと同じである。チカラのある存在が音声を出すと、それが、誘導力となって、見えない世界が動く。そして、見える世界に現成する。是を以て神力とする。法華経の言う最高の「さとり」が是である。さらにそのチカラが進化すると、思うだけで、黄泉が動く。因って、怖ろしい。そうした秘密は、アッシリアの頃からあった。今もあって不思議はない。因って、神を畏れよとは言う。時が満ちるとは、人間の傲慢が熟するときであり、悪がはびこるときである。その時、神が現れる。それが、旧約聖書の預言である。もはや、時である。2000年来の時である。神は、人間の傲慢を決して許さない。時が満ちるまでは、わからなかっただけだ。如来は法華経で言う、完全な「さとり」を得るまでは、決して法華経を説くことはない、と。2000年来の種が芽生えたと言うべきか。神の実体は、羅刹かも知れぬ。そして、法華経の説くところは、如来の智慧のチカラと自信である。さて、見えない世界こそ自然である。自然が亦如来である。自然=如来=神=宇宙・・・魂である。魂は宇宙とリンクしている。魂を得た人格は、宇宙=自然が祝福し、守護する。これが、最高の「さとり」の結果としての神力を発揮する。発揮して如来である。如来の智慧は、佛の智慧である。そして、この智慧は、ただ、釈迦牟尼佛のみが説く。宇宙の王である。その國は那國常所である。常とは永遠という意味である。宇宙の中心、那國常所において会議があった。腐敗した地球=エンブダイを誰かが救いに行かなければならぬ、誰が行くか。誰も志願しなかった。一人、釈迦牟尼佛が手を挙げた。久遠の昔、地球は、平和だった。宇宙の王の秩序下にあった。佛の住所としての仏所があった。よるべとするべき仏説もあった。しかし、野蛮な人間にとって、この上ない、邪魔だった。自分たちの思うようにならなかったから。そこで、人間の頭たちが、仏所と仏説を破壊した。それから、人間の歴史が始まった。殺戮と破壊の歴史だった。理念、精神も破壊した。しかし、芽が出て葉が出て花が咲き実となり、実となってはじめて種を得る。一巡りである。久遠の種が何であったか。一切種智慧。360度(ミロク)巡って、元に還る。真実の種が分かる。人間の分際もわかる。人間である限り、結果、腐敗と堕落でしかない。今、原点に戻る。ひとつの失敗を反省する。振り出しだ。ここに、地球の限界も露呈している。人間が反省し、もう一度、一からやり直しである。二つの切り株としての種はのこっていた。神と仏である。反省するべきは反省しなくてはならない。反省とは、過ちを認め、同じ轍を踏まないことであり、具体的に、処方して、眞の平和と愛とを手段として、本来の目的である楽園あるいは佛国土を建設し、その果を幸福として享受することである。破壊は悲しい。建設は喜びである。同じ労力するなら、どちらが良いか。明らかである。同じ人間の姿をしていても、初めて人間となった生命体があり、すでに、過去において、人間或いはそれ以上であった生命体がある。これが、真実だ。陰門ばかり追いかけているのは前者である。畜生である。人間界はそういう世界である。己の分際を知るとは是である。因って、過去において佛を見ていた者は、一を聞いて十を知る。つまり、それを思い出す。それに対して、過去において、岩石或いは畜生であった者は、辛い思い出しかない。因って、仏の慈悲を理解しない。現実を厳しいもの、つらいものと思う(現実の厳しさ、つらさは、過去の自分の悪性の懺悔のためである、自分の悪性を認め、これを謝ることで、許して貰えるチャンスである、過去の悪を消して貰える、楽へと行ける、閻魔帳から過去の過ちを消して貰える、人間の特権である)。あえて、真実が説かれる時となったと言うべきか。すでに、法華経には説かれていた。今、現実社会は、本末転倒している。智慧の有るものにとっては、地球は、その可能性において、無限である。但し、既存のパラダイムは、既に、限界である。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅びる、ただ、法力あるのみ、新しい仏説である。法力とは、例えば、仏説を聞いて、よくわかり、実行して、見えない世界に認められ、祝福され、守護されて、如来の神力とでも言うべきチカラを得て、思いが宇宙に通じ、見える世界に実現することである。これを、佛の事(じ)と言われている。すなわち、現実がたんなる偶然ではなく、目的を持った意思の必然であることに気づくことになる。見えない世界が確かにあってそれが動き、現実に実現する。かつて、このチカラも、時々の王によって、随分と間違った。それが、権力であり、武力であり、金力であった。しかし、権力は市民革命によって反省された。武力は、20世紀に、無差別殺戮(水爆、中性子爆弾)として結果することで、反省された。金力については、現在、反省されつつある。さて、仏説があって、その説と、真実のお経典があって、そのお経典と、現象としての現実とが一致して、それが、真実である。新しい仏説である。このように聞いている。見える世界は、見えない世界の犠牲の上に成立している。あるいは、していた。(2005/12/16 1:51am NHKラジオ深夜便を聞きながら)ところで、佛とは、蓮=連、つなぐ能力を持っている存在である(機関区操車場)。何をつなぐのか。法=現実である。特に、過去と現在と未来をつなぐ。五字とは、妙法蓮華経、七字とは南無妙法蓮華経、それぞれその中心は、蓮・法。つなぐとは、縦と横。縦は歴史、あるいは、過去・現在・未来、そして、祖先・自分・子孫。横は現在の世界、あるいは、現代社会、同世代、家族・親族。つなぐ中心は、現在・自分=人間。その能力は如何。身心、清浄。清浄は修行を通して賦与される。奥義は、魂=自然=宇宙(神仏)。果は祝福、幸福。主体は人間。魂を扱える特権。是、主体性の理論。五欲を断ぜずして、成仏できる。是、人間の尊厳。良い時代です。