十二因縁の法

2012年04月08日

  • 縁覚を要求する者、日常出会う事柄と思い合わせて、世の変化に囚われない気持ちを作りたいと要求する者に説かれた。無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二をいう。凡夫の生涯の心のはたらきをいったもので、初めの一と二は前世、三から以下が今世になる。無明とは、迷妄心のこと、この迷いの心によって行という不完全な行為をなし、その結果として迷いのこの世に生まれて来る(善とは完全ということであり仏だった。悪とは中身がないことだった。思う理想が成就するには、完全無欠の身と心を要する。何故であるか。見えない世界がそれを要求していた。即ち、仏である。仏の宣言があれば、宇宙はそのように動く。「思考が現実化する」とはそれだったのである。思いはあっても、迷いの心では不完全である。それは現実化しない。見えない世界が受容しないからである。インド哲学に於いて既に、観念が現実化する。その要件は何だったのか。だれも知らなかった。知らないことを以て否定した。それはないと思っていた。残念だったね。それはある。思いがあっても迷信では現実化しない。迷いは何故あるのだったか。不完全な身と心であるからだった。ところで魔というものがある。それは、仏道修行の邪魔をする役だった。仏とは何だったのか。身も心も完全なる存在だった。すなわち、それが善だった。悪は身と心において無価値なる存在だった。迷いは、悪魔が邪魔をしている状態だった。悪魔は存在する。多くの人間は悪魔に著されている。そのこと自体、気づけずにいる。そして自分が正しいと思っている。大間違いである。さて、迷いがある。その時、心は不完全である。不完全な状態で判断すれば当然間違う。それが悪魔のやり方だった。悪魔は、仏道成就の邪魔をする。仏道成就すれば、悪魔は滅ぶからである。しかし、悪魔も救われたいと思っている。生まれながらにその役をしなければならない身を案じている。悪魔を善魔に変えることができると善いね。その方法もある。探すが善いよ。ところで、白隠禅師は言っている。「衆生本来仏なり」ってね。私たちは本来仏だった。「一切衆生悉有仏性」ということである。しかし、過去世から今に至るまで、魔に著されている。本来仏であったのにね。だから、本来の自分=仏に帰れば善い。そうすれば、この世はパラダイスとなる。だけど、自分さえ良ければいいとする思想があまりにも蔓延してしまった。カルバン以降のことだった。重商主義となって、明治以降日本もそれを追いかけた。西洋思想は19世紀に既に没落していたというのは、この点においてだった。そして時代はますます腐敗した。だれもが本当の価値を見失ってしまった。心を善の状態に戻すことが出来ると善いね。もともと私たちは、身も心も善だった。すなわち完全無欠だった。しかし何時か、だんだんと障害者となってしまった。放射線の影響がそれに拍車をかけるだろう。さて、どうするのだろうね。科学ではどうしようもできない。所詮、迷いのレベルのものだからね。バベルの塔は立ちはしない。人間レベルがそもそもどのレベルだったか。善と悪が五分五分だった。何時か悪が出る。そして急転直下、不幸な結果となる。それを認めるべきである。思うようにならないのは当然だった。迷いの結果、迷いの中に生まれていた。この迷いから脱することが出来るだろうか。できる。何処かで自分の悪を認めて、切り替わる必要がある。、世のセレブは悪の権化だよ。悔い改めるべきはあなた方である。犠牲の上の繁栄はない。何時か必ず滅びる。歴史が証明している。何を勘違いしていたのだろうね。人類として、大反省の頃である。本当の幸せを求めて、私たちは再出発である。権力ではなかった。それは市民革命で克服されている。武力でもなかった。それがヒロシマの意味するところだった。金力でもない。それが今、証明されつつある。不完全な状態で生まれ、不完全な選択をして、不完全なままで死んでいく。それが十二因縁の法の説くところだった。哀しいね。それで善いのだったろうか。善とは完全なことだった。すなわち仏だった。人間の身で、気づいて精進すれば仏となることが出来る。それが大乗の教えである。知らなかったね。今、知ったね。21世紀は心の時代といわれて久しい。それはどういうことだったのだろうね。仏の大願である、一切大衆が救われることが始まったのだろうか。仏とは何だったのか。身心清浄を以て完成とし、大宇宙及び大自然が呼応する。即ち廓然無聖、日月照らし風が吹く)。