ステップアップあるいは修正

2010-01-05


  • ある本を読んでいると、あらゆる条件を満たして解脱もあるようです。ここに至って反省あるいはステップアップの頃となりました。通らねばならない道があるようです。例えば、真実を求めて戦うことも必要です。その間、熾烈を極めます。そしてひとつの段階を突破するのでしょうか。すると、いつまでも戦う必要もなくなります。そして気づくのです。道元は、花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふるとします。その解釈にも少なからず修正が必要となりました。六祖は不思善不思悪をいいます。その時、面目は何かと問います。このあたりも解釈の修正が必要となりました。どういうことでしょうか。善も悪も超えたところに何があるのでしょうね。花を愛惜するのも執着です。草を嫌悪するのも執着だったのです。善悪にこだわることも執着だったのでした。それらも超えた境界があるのですね。こころのこだわりを払拭して、次に何が来るのでしょうか。柔和忍辱ということがあります。忍辱とは、どんな相手に対しても、どんな境遇におかれても、泰然として木鶏のごとくあることのようです。この世の一切に惑わされない。そのあたりがどうも真実であるようです。ここにステップアップです。あるいは大反省です。バガヴァッド・ギーターとかインド哲学を調べてみると、サットワとラジャスとタマスがあります。それぞれ、幸せ、利益、妄想を導きます。それぞれ持って生まれた性質があります。それが縁に触れて現象します。この世の現象はすべて、神仏を見つけない限り、蒙昧であるようです。そしてこれらのサットワ、ラジャス、タマスを超えた世界があるようです。それは何でしょうね。探してみると良いですね。とてもおもしろいのです。本当の幸せを知ることができるでしょうね。愛とは何だったのでしょうか。神からの贈り物のようです。これを見つけて、はぐくみましょうね。そして幸せになることができます。本当の幸せはこころの満足でした。それは一切の心配のないことです。これを得るまで、何度も生まれ変わってくるのですが、蒙昧のままなので、再び過去を繰り返し、苦悩しているらしいのです。AD499年の人類徳性最悪の状態から転じて今、上昇期にあるとのことです。故に蒸気機関とか電気の発明もあったのです。そして私たちは再び、神仏の平安へ向かって旅をしています。二万四千年の旅のようです。時の支配があります。いつか誰もが至ります。心を決して求めれば、時の支配を逃れてこの世で至ることができるようです。求めたいですね。真実の心の平和を。権力ではなかった。武力でも金力でもなかったのです。こころのゆがみが徳性の発揮を邪魔していたようです。これを修正しておおらかなこころとなれば、心身ともに健康となり、その時、あらゆる幸せを知ることができるとのことです。
  • 森北出版株式会社刊、『聖なる科学』p59より、心の束縛として次の八つがありました。
  •    憎悪
  •    恥辱   
  •    恐怖
  •    悲嘆
  •    非難
  •    人種的偏見
  •    血統的優越感
  •    虚飾