2006年03月31日

日本の禅の命脈

一休禅師は師から印可状が発行された時、破り捨てた。きっと将来役に立つからといわれたのであったが。何故か。世の大寺の腐敗に辟易していたからである。寺院の存在意義は仏法を伝えることにのみであり、寺院それ自体に価値があるのではない。 ビジネス僧侶たるや推して知るべし。教えこそ大事である。その意味では、弟子を輩出しなかった禅僧は数多いる。むしろ彼らこそ教えを成就したと云える。その深遠なるが故に弟子が続かなかった。しかし彼らをしても、無難禅師、正受老人、白隠禅師の命脈をたどっている。日本の禅はこの一本道で過去と未来とがつながっている。その精神は何か。ここを参究して日本がわかる。世の愚行が反省される。白隠禅師、若き頃何があったか。今にいう鬱である。それより帰還し大法を挙した。五百年来傑出といわれ、スケールの違う所以である。


世の喧噪よ、さようなら

何事もサインがあって、その時々に必要なサインです。その解釈を間違えないことが成功と幸福の条件といえますね。とても不思議なことです。そして見えない世界の守護があって見える世界を守ろうとしている。彼らから見ると岡目八目、何をばかなことをしてるんだろうってことでしょうね。しかし欲に目のくらんだ見える世界は敢えて聞こうとしない。無視して危うい道を進む。見えない世界は何とか被害を最小限にしたい。それでサンクションがある。見えない世界は懲罰もする。気づかせんがためにです。そしてある程度人格の涵養が進むと本来の目的から反することは殆ど実現しなくなる。これも守護の形です。それで悪徳を積まなくなる。経験で知っていくのではありますが。見えない世界から認められると確かな導きがある。この世のことは法則どおりであって、その法則はすでに過去からの幾多の試練に耐え、多くの英知となっています。素直とはこうした価値に従順であることですね。それでも世間は勝手な解釈をしてとんでもない不道徳をしている。道に反しているのですから結果どうなるか。法則どおりなのです。社会には法があります。法は社会のためにあるのです。自分勝手が通るわけがない。自分が困るだけだったら法は必要ではない。しかし例えばテレビで流布する風潮も社会に影響する。社会を腐敗させる。犯罪ですね。構成要件がないだけ。世間が意識していないだけ。でも見えない世界は憂えているよ。どうする?サンクションあるね。当事者は必ず不幸になるよ。亨るわけがない。自分たちが不幸になるだけだったら別にかまいはしない。無意識とはいえ、他者の向上心を阻害している。これでいいのだと思わしめている。これが罪なのだ。自覚するところあるなら引き返した方がいいね。引き返すための黄金の橋は常に架かっている。視聴率だけが基準となっているテレビ界の衆愚的傾向、それへ向けて群がるスタッフの性向、そろそろ反省が必要なようだ。これ以上の君たちの腐敗増殖は黄泉がゆるさない。黄泉の意思だ。日々を大切にする。未来のためだ。今の自分を大切にする。未来の自分のためだ。よく見て、何事も余裕を持って、時間的にも、そして、丁寧に。これでうまくいくね。できないことはできない。わからないことはわからない。心とか精神とか曖昧なのは何故だろう。曖昧なままにしているからだね。心とか精神とか言葉はある。実体もある。しかしその内容を知らない。実体を知らない。経験を通っていない。心も精神も経験することでわかる。わからないまま世の中で言葉だけが一人歩きしている。経験することを試してみるといいね。やさいいこころの周波数にどのような効用があるか。草木瓦礫もほほえむよ。風もやさしくささやくよ。清浄な空気の存在に気づくね。宇宙自然から守られている実感もある。資本主義で目のくらんだ人の世のばかばかしさがわかるね。お金の支配からの脱却。宇宙自然生命の中で生きるということがどういうことか。わかる。テレビなど見ない方がいい。ばかになるよ。いつも自然が情報発信してるよ。 世の喧噪よ、さようなら。空とは自分自身が鐘のごとくとなってゴーンと鳴ることだね。その音はどんな音をしてるかな。柿食えば鐘の鳴るなり・・・。鐘となればいい。自分が空ぜられることとはどういうことか。自分が空ぜられないとわからないね。ところで尊厳死だけれど、 医療関係者の考えと法律関係者の考えとは違う。後者の観点には秩序がある。すなわち手段として殺人に使われる可能性が残る。そうである限り一般的に認めるわけにはいかない。これが司法消極主義である。医者は奢ってはならない。医者も社会の構成員でしかない。自分勝手な解釈は許されない。法の解釈は裁判官ではない。裁判所である。勉強が足りないね。それぞれ守備範囲が異なる。勝手なことは言わない方がいい。世を惑わすだけであるから。秩序の基準はどこにあるか。誰も知らない。黄泉の感情にあるといえる。黄泉を怒らせると怖い。何が起こるかわからない。黄泉も目覚め自覚している昨今である。黄泉の掟は清浄である。腐敗と愚かさそして妄念=嘘を嫌う。心の中まで見抜かれている。ところで、人間はミスを犯すものである。しかしそのミスの結果の重大性において責任を問われる。金銭で償うべきは金銭で、生命身体自由で償うべきは生命身体自由で償わねばならない。ここで日々のあり方が問われる。罪を憎んで人を憎まずという。罪とは何か。秩序に反することである。何かミスをしたとする。そのときに問われるのが法に対する意識と身の処し方である。法は社会のためにある。社会の構成員として味方であるか敵であるか。その指標が法に対する意識であり、日々の身の処し方である。法を遵守していたがたまたまミスを犯した。このとき法は寛容である。刑法といえども人間的であるといわれる所以である。人間が社会的動物であることの意味がここにある。これを無視しているのが現在の支配階層でありセレブテレビ芸能界であると云える。あまりにも愚かな風潮が世に流布され、あまりにも基本的なこれらのことが看過されている今である。明らかに黄泉の意思を裏切った。 教育として子供たちに教えるべきことが世の勝手な大人たちの欲望成就のための故に犠牲となった。要猛反省!


2006年03月30日

すばらしい人生

日々おもしろくなってきた。楽しいこと、善いことばかりがたくさん起こりそうである。すべては自分次第であると合点する。生まれてきて善かったという実感がある。元気を出して、感謝して日々を過ごす。日日是好日である。日暮らしが歓喜奉行である。何事も次の結果への種となる。善因縁の拡大再生産だ。仏さんに教えてもらったことが現実化する。いよいよ始まりである。本当に善かったと云える。先ずは挨拶からだ。そして笑顔。次に悪舌をしない。マイナスなことは云わない。云えば実現するからである。言葉は不思議な力がある。ロゴスである。粗末にはできない。またこれを知ることが金剛杵と云える。不用意なことは云わぬに限る。良寛は云った。言葉はしみじみいふべし、と。あだやおろそかなかるべし。探していたものが見つかったようだ。探し物は何であったか。何か失われた大切なものだった。高校の頃から探していた。やっと見つかった。見つかれば思いのほかすばらしい。打ち出の小槌に等しい。世界はこんなにも素晴らしい。いっさいの悩みが解消した。あらゆる苦悶から解き放たれた。真実の自由である。心配もない。あるのは楽のみである。三楽である。所得は低いけれどね。振り返りみれば試練は大きかった。失ったものも大きかった。身も心もね。しかし満足している。やはり導かれていたよ。見えない世界からね。生まれた時からね。これで善かったんだと思う。よくぞ試練に耐えたと思う。自ら思わないといけないこともあるね。祖先、諸精霊、諸仏、諸大菩薩、諸天善神に感謝している。黄泉に対して讃歎随喜するしかない。有り難く存じます。こんなに素晴らしい世界に生まれさせてもらって本当に善かったと思っている。ところで、言葉がロゴスとなってはじめて詩とはなりますね。喜びを歌うしかない。歓喜の歌だ。ベートーベンもそうだったのだろうね。ギャーティギャーティという般若心経の呪もこれだったんだと思う。風に舞う心境だ。自由。積極肯定あるのみだよ。生命の喜びを楽しみ歌うだけだよ。空閑を生き抜く自由を謳歌するだけだ。お金なんかなくても生きてゆける。食は与えられているさ。何を思い煩うことがあろう。心身が目覚めてくる。生きる力がみなぎってくる。サラリーマン諸君にはわからないね。ところで一切不傷害の徳がある。岩石も生きてるよ。草木瓦礫も生きてるよ。やはり生かされてるね。お陰はあるね。大いなる力によって。つまり黄泉だ。見えない世界だ。魂が実体だよ。素晴らしい人生だ。孤独の代償はかくも大きかった。地獄界がわかれば仏界がわかる。地獄界も仏界も同じだ。自覚すれば仏界だよ。現実が地獄界と云える。自覚した現実が仏界と云える。同じ現実だ。さて、何を自覚するのか。鬼を出すのか邪を出すのか。それとも・・・・・・。すべては自分次第だね。この世はこころの鏡だね。さてこれでもまだ疑うか。自覚ある存在に刃向かうか。仏法は必ず勝つ。王法は必ず儲ける。まだ勝負するのか。


2006年03月29日

悟後の則天去私

人生は生きるに値する。さて、夏目漱石の至った境涯は「則天去私」だった。円覚寺で坐禅もしたが悟れなかった。彼の知性が邪魔したのだろう。悟れなかったということは永遠に苦悩したということか。しかし、悟って後の則天去私がある。やはり天である。禅では天をも否定しようとする。それでいいのかどうか。天を無視して何が残るのだろうか。疑問である。禅天魔というべきか。そうした類も多い。激しいのが禅ではない。情念の激しさを通って菩薩道に帰って来なければなるまい。おだやかさへ収束しなくてはなるまい。ちがうだろうか。そして自分が宇宙の中心であることを自覚する。そうであるなら他に何を求める必要もない。これ以上の至福はないからである。すなわち、宇宙自然から祝福されている。どのような栄誉も必要としない。自足しているのである。他を恨やむこともない。何をしても自由である。亨る。世間は虚仮、あまりにも腐敗している。しかしそれがまた当然とも云える。因って蓮華の前に化生する。泥よりの開花である。泥がなければ蓮華は咲かない。それでよいのである。理趣経についての本に宇宙と交接しているということが書いてあった。まさに胎蔵界である。宇宙自然の祝福、確かにある。因って人生は生きるに値する。目指すべき最高の境地である。これが悟後の則天去私と云える。日本の禅としてあるべき形である。禅とは神仏自然との合流である。神仏自然に認められて受容され、祝福されて守護される。神仏自然は彼を通して意思実現する。仏法王法の究極である。つくねんと坐禅するのが禅ではない。坐禅の後の行住坐臥である。神仏との邂逅と合流である。すなわち魂の遍歴の目的である。これより他に人生の目的はない。生まれてきた意味はない。ところで仏法において無記ということがある。それはどういう意味か。仏はだれもが悟りを得ることができるであろうと授記する。仏の宣言である。皆いつかは悟ることができると。この方向においてのロゴスである。これに反することは言葉にしない。ロゴスは実現する。ロゴスとしての言葉の真実を知っていたからである。因って無記である。法華経に曰く。悪舌は功徳の種を断ずる。魂はどこへ遡上しようとしているのか。目的地を見失ってはいないか。また世の腐敗の根本原因は何か。身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。さらに根本原因は何か。嘘である。妄念である。人間は人間であり動物とは違う。万物の霊長である。しかし世の知識人も動物性を助長している。ヨハネの黙示録に666は獣の数字とある。 six→sex。世の若者たちは何をしているのか。何故そのようなことになったのか。この点における人間性を否定した世の風潮の故である。略奪婚等の動物的野蛮は克服されているはずである。教育界も自信を失った。しかし五欲を断ずる必要はない。一夫一婦制度は何のためか。不倫の子には不倫の子の運命が待っている。悲劇である。悲劇とは結果において必ず破綻する。しかし世のセレブ諸君は何をしているのか。西洋からの流行病である。そろそろ処方を考えるべき頃である。未来を託す子供たちに対して正しい教育を考えるべき時である。腐敗した支配層の最大の懺悔である。傍観してきた良識人にとっても最大の懺悔である。


2006年03月28日

衆生病む故に我病む

星の王子様という話もある。善財童子の話もある。法華経の窮児の話もある。コギトエルゴスムもある。あらゆる秘密が明らかとなった。算数の問題と同じく解ければ簡単である。解けなければ永遠に秘密である。解ければこんなにばかげたことはない。一切は夢である。目覚めるまでは。一切は信じることができない。信じることができるまでは。存在が存在である理由がある。経験によって振り返ればすべてが意味を持つ。意味を持つまでは夢である。生まれたときからそうであった事実がある。どうしようもない事実である。だれも知らない。知りうべくもない。当事者にしかわからない秘密がある。説明不能である。何故か。すべてがばかばかしい。衆生病む故に我病む。維摩居士である。自分が自分であることができなかった。世間にあわせようとしてその都度失敗した。理由は世間が間違っていたからである。世間虚仮。これらのことおよそ理解不能であろう。もはや惑わされはしない。惑うわけにゆかない。何故か。しかしもう大丈夫であると風の声がする。父は言った。自分も同じであったと。おまえは大丈夫だ。私の子だ。と。わかるまい。言っても詮無きことである。もはや言う必要もない。すべては虚像であった。今までは。これからはすべて実像である。何故か。目覚めるべき存在が目覚めたからである。あらゆる解釈が不毛と化した。あらゆる理論が破綻した。真実真理はそのようなものではない。むしろ不合理である。宇宙に中心がある。それはどこにあるのか。誰も知りはしない。しかしある。もはや勝手は通らぬ。今までとは違う。存在が目覚めることによって何が違うのか。黄泉が根拠を得たのである。今に思い知る。自然が動く時を迎えた。あらゆる想念を超えている。私も知らない。しかし実在する。日々時々刻々証明がある。覚悟するしかない。淘汰が始まっている。ノアの箱船が見える者は幸いである。その船は別名実相七色十字の大宝船である。時が進化する。もう始まっている。誰も自ら犯した罪から逃れることはできない。間違ったのである。観念するしかない。しかし救いはある。謝るしかない。何に対して謝るのか。各々の問題である。もはや罪は罪である。いつまでも言い逃れはない。黄泉の意思である。宇宙自然の権利行使である。バベルの塔は存続し得ない。世界七不思議があった。今もある。法華経に曰く一切種智慧。自ら生まれながらに持っていたどの種を選択しどの花を咲かせるのか。自由である。 さて、今、主権は在民である。主権とは何か。憲法理論のあずかり知らぬところである。それは大和の秘密である。また国民主権である。国民とは何か。この定義も秘密である。何故秘密であるのか。歴史的に本末転倒支配の時代であるからである。知るものがあるなら手を挙げるがいい。幸いである。進化理論は正しい。だれもが過去に於いて何であったか。思い知る時がきている。もはや烏合の衆は烏合の衆であり、烏は疎まれる。前世海中において何であったか。その遍歴は現代における各々の人生に照射されている。恥を知るとはここより来る。隠せはしない。黄泉を無視勝手、し放題の民草、根無し草。いつまでもその方たちの勝手が通るとは思わぬがいい。あまりにも醜い世の中となった。黄泉は各々の裏切りをゆるしはしない。本来清浄、黄泉の掟である。身とは殺盗婬こころとは不善を念ずる。各々勝手増殖が過ぎた。天知る地知る人知る我知る諸精霊知る。諸精霊とは犠牲となって散った命である。キリストをも裏切った。窮すれば裏切る、それが人間の実体である。いくらきれい事を言っても遅い。偽善を以て裏切る者たちが愛の歌など歌わぬがいい。男が女々しい歌など歌わぬがいい。ぬるい。慰めごとで何が解決するか。新たな餌食となるだけである。精神一刀何事か為さざらん。本来古来の諸価値を愚弄しすぎた。テレビ界の腐敗軽薄がその象徴である。本物の人間になるとはどういうことか。天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す(酒中十詠序)。古来大和に伝えられし精神である。隻手の音を聞かぬうちは何をしても嘘だ、

隻手の音を聞けば何をしても真実である(白隠禅師)。禅は中国達磨の創始であるが、日本に於いて完成した。日本が日本である所以である。宇宙自然生命の秩序に於いて日本の使命は何か。日本古来の精錬され結実した精神は何か。伝家の宝刀は抜かさぬ方がいい。あるいは螺鈿の槍はそのまま眠らせておくのがいい。ラインの黄金のごとく。無門関第十五則『洞山三頓』。「永遠の”今” に生きておる自己の真相』(大蔵出版刊苧坂光龍著『提唱無門関』 p148)「呼べば応える山彦の声」「現実に即して真実を再確認」「別様の風光に接して常に活きてピチピチしたやり方」「家門は寂しくならず非常に活気づいていよいよ繁栄するであろう」(同p148)「窮すれば変ず変ずれば通ず」「ドタン場にきて全身全霊の気迫というか、いわゆる禅定力が本当に大成するというと、質的転換をして生きる智慧となって働くわけじゃ」「卒啄同時の機用で弟子が本物になったという一則じゃ」。(同p153)迦陵頻伽の声が聞こえるか。咄。私の母の旧姓は山持(山道)である。 私の祖父良亮は私の名を「しずを」と書いていた。また「ふみお」と呼んでいた。亡くなる直前にはしきりに電話の受話器を取って私に何かサインをしていた。ぼけていたわけではない。やっとその意味がわかった。長い旅路であった。太陽光線がやさしい。常寂光である。春の海は静かである。湾の海面は鏡のごとくである。夜の湾がそのまま池のごとく明鏡止水である。向こうに見える製鉄所から大きな炎がガスバーナーのごとくであった。かつて人間のために天界より火を取ってきた神がいた。今人間のために何を取ってきたか。道元は空手にて帰還した。三蔵法師は天竺より生還した。黄泉の国より生還した存在は古来希有である。


2006年03月27日

立ち上がるべき知識階層

禅の極意は絶対の自信を獲得することである。それは神仏の守護を自覚することによって得られる。自由とは思うとおりにして法を超えないことである。ここに法とは法律だけでなく宇宙自然秩序を含む。ここに至る道は心身清浄である。これを以て神仏に認められ受容される。祝福され守護される。そして神仏自身が彼を通して意思実現する。前提として見えない世界の存在がある。見えない世界からは見える世界のすべてが見られている。心の中もその例外ではない。また見えない世界にも秩序がある。それは見える世界と同じといえる。見える世界は見えない世界から見られているのである。フロイトたちのあずかり知らないところだ。しかし古来日本の精神は知っていた。さらに見えない世界にはご祖先がいて、子孫を守る。このあたりのことが知らないからといってないのではない。有る。ここより謙虚さと敬虔が生じる。見えない世界と通じているのは魂である。人間存在の本体は魂であり、肉体はヤドカリのごとくにすぎない。頭脳とこころが見える世界のコントロール装置である。生まれてきた意味は魂の遍歴として過去の懺悔であり、清算である。日々の思考と行為が未来を決める。大切なのは今であり、現実である。 未来は今の連続にすぎない。万物の霊長として選択の自由があり、意思決定によって自己を制御することができる。すでに壮大な英知の蓄積もある。いつまでも愚かであってはならない。世の知識階層の立ち上がるべき時である。傍観していては人類として滅びる。腐敗したものたちは淘汰される。さて、ドストエフスキーの作品に『白痴』がある。ムイシュキン公爵である。トルストイは最も美しい人間を描いたと絶賛した。心身清浄の形である。ところで、この中で銃殺刑のシーンがある。これはドストエフスキー自身が体験したことだった。目隠しされていよいよという時に中止となった。日蓮の龍ノ口に等しい。ドストエフスキーは何故あれだけの分量を書いたか。彼は三度の飯より賭博が好きであった。出版社から借金して賭博をしていた。それで借金に追われて書いた。夏目漱石の『こころ』であるが、新聞連載だった。手紙の部分は蛇足に近かった。連載を引き延ばすための手段だった。しかし手紙の部分があるから味わいがある。大家の作品はこのようにして生まれたのだった。『こころ』の中で漱石は二度言わしめている。「精神的向上心のないやつは馬鹿だ」と。何が言いたかったのか。今もそうした類がテレビマスコミ界を支配している。大宅壮一は言った。テレビで一億総白痴化すると。その通りとなった。しかし大宅壮一の白痴とドストエフスキーの白痴はちがう。さてマーチのリズムはいいと思う。タイケには『旧友』一曲しかない。親鸞は仏はただ自分のためにのみ法を説くと言った。どういう意味か。彼の体験と経験が説明不能だったからである。西洋の概念に「征服」がある。これが傲慢である。日本の場合、天下統一とは言う。征服とは言わない。西洋では自然を征服すると言う。日本では自然と同化すると言う。西洋と日本は違う。四苦八苦ということがある。これが面白いのは、4*9=36、8*9=72,36+72=108、煩悩の数だ。悟ると一切の苦はない。くどいか。知恵の泉が湧き出でるときその知恵は無限だね。ボーリングするべきは自己の内面だよ。化石燃料は尽きることがあってもこころの知恵の泉は涸れることはない。開拓するべきはこころの大地。21世紀だね。


2006年03月26日

涼やかな頭脳の発する周波数

涼やかな頭脳の発する周波数がある。その制御は心がする。そして、この周波数を以ってあらゆる動植物が同調する。不思議である。しかし事実である。この周波数をどのようにして自覚することができるか。経験を通るしかない。説明不可能といえる。ここに行が必要となる。古来伝えられてきたものである。これを無視してどうなるか。これを得てどうなるか。見えない世界からの守護があるかどうかである。守護があれば大難は中難となり、中難は小難となり、小難は無難となる。禅に於いて師とは絶対の自信を得た存在である。そして必ず勝つ。何故か。見えない世界の守護を疑わないからである。事実古来剣豪の目指した道でもあった。未だ木鶏となれずとは双葉山の言葉だったろうか。そこへ至る道は何か。心身清浄あるのみ。これを以って神仏に認められ守護される。神仏は彼を通して働くことになる。古来大和の秘密である。この秘密しばらくは世に現れなかった。代々の約束もある。生まれながらの資格もある。間違えた平等意識が西洋から移入された。西洋の思う壺であった。大和は古来大和である。胡蝶の夢。夢であるなら醒める。時至って目覚めるべき存在が目覚め自覚した。その種は密かに法華経に伝えられていた。如来としてである。如来は如来でなければわからぬ。それは宿王華としての種であった。種ならばいつかは芽吹く。そうした時を迎えている。数千年来の出来事である。すなわち時は満ちた。事実が疑えない。経験が証明している。浄玻璃である。アカシックレコードである。どうしようもない。古来大和を無視し愚弄してきた本末転倒は正されねばならない。黄泉の意思である。罪とはこの秩序に反することであった。すでに犯した罪に対して各々処断ある。黄泉の掟である。天網恢恢逃れることはできない。欺網に満ちた手段をほしいままに世にはびこる雑草は刈られる。欺網とは嘘である。妄念である。もはや時は代わった。歴史はこのようにして流れる。大和、平和、倭の国。何をか云わざらん。「わ」が現れた。次は何か。「をん」である。そして「あい」の国となる。夢が実現する。自由と愛と平和こそ最大の夢である。そのための諸制度である。民主主義制度はそのひとつの手段に過ぎない。目的が定まれば手段はいくらでもある。新しい時代の「手続き」が始まっている。静かにしかし確実に。もちろん敵はいる。刃向かえばどうなるか。宇宙自然が淘汰する。宇宙自然生命の意思であるからである。宇宙自然生命から見れば刃向かう人間など草木瓦礫と同じである。草木瓦礫が同調する周波数がある。宇宙自然生命の周波数である。人間としてこの周波数を開発し獲得できるかどうか。万物同根。草木瓦礫も喜ぶ人間存在となれるかどうか。行のしどころである。平常心これ道。道という言葉に迷うことなかれ朝夕おのがなす業と知れ。あまりに世は腐敗し毒に汚され魑魅魍魎の支配するところとなった。法華経が経典の王と呼ばれながら信ずるに難しい所以である。しかし真実真理はある。信じることのできない身を恥じるしかない。その種のないことを恨むしかない。はじめより縁なきことを恨みよと道元も云っている。


2006年03月25日

存在の成就

新しい時代が始まった。知っても知らなくても始まった。何故か。存在が目覚めたからである。今まではどうしてそのようなことが現出しなかったのか。存在が自覚していなかったからである。存在がなぜ自覚しなかったのか。自信がなかったからである。どうして自信がなかったのか。わからぬ。なぜ自信を得たのか。経験を成就したからである。どのような成就であったのか。過去からの約束である。道元の古鏡である。今までのどのような解釈も及ばぬ。何故か。今までのどのような解釈も経験をしていないからである。どのような経験であるのか。聞きたいか。・・・。その方の準備が整ってはおらぬ。唯云いおく。その方たちの一切の身勝手はこれより通らぬ。たわけのたわごとの時代は終わった。万軍の主を味方につけている。存在の旅は終わっている。各々唯覚悟されたい。悪趣因縁は尽きた。もはや時代は代わった。禅譲である。

本来清浄を経験するとは

昨日の三大ニュースは、1.原発運転差し止め命令判決、2.PSE手続き見直し(中古販売業者)、3.永田議員による仲介者名の発表だった。どれも前代未聞のケースとなった。時代がシフトしている象徴だね。当然あるべき姿が現れつつあるのだろうか。しかし、これらもうつろう現実というべきか。さて、本来清浄に尽きるね。何事も。この本来清浄、口にするは容易い。これを経験するというのはどういうことか。カクネンムショウだよ。知れば迷い、知らねば迷う法の道、何が佛の実なるらん(至道無難禅師)。至道無難、唯嫌揀擇(禅語)。どういう意味か。独坐大雄峰!武蔵?大和!アマテラス!卑弥呼!一!一二三!239!→零→1!現実は十進法。二進法は0,1。情報革命とは、あらゆる現象が0,1で表現できるという発見であった。因って、もはや何事も隠せなくなった。コンピュータはそれを扱う最適なツールに過ぎない。コンピュータが情報ではない。ゼロが妙=黄泉で、1が法=現実と云える。あざなえる縄のごとし。あるいはDNAの螺旋構造のごときか。あるいは男女、夫婦の如し。一人では生きてゆけぬ。勝手しては社会は成立しない。社会には秩序がある。見える世界と見えない世界との秩序がある。社会は健全な魂と善良な庶民のためのシステムである。敵味方はある。敷島→霧島→ヒロシマ→敷島。 敷、色、識、指揮、士気、四季←→空。色即是空。喰う。


2006年03月24日

個人情報保護法について

インターネットインフラが整備され、パソコンが庶民に開放されつつある。誰もがパソコンの恩恵を享受できる時代が始まった。 ブロードバンド料金は、世界標準から見るとむしろリーズナブルと聞いている。さらに、2007年問題として、大量の定年退職者が発生するが、彼らの多くがパソコン環境を整え、インターネットへ参入するだろう。そして、ビジネスはペーパーレスへ向けて加速している。庶民レベルに於てもパソコンを使ってのビジネスが当然化する。その中で、個人情報の保護の必要性がますます高くなる。惡用されないためにである。そこで、個人情報保護法の性格をどうのように捉えるべきか。これは、この法の目的を理解し、その条件を遵守することで、企業及び自分の身を守ることが出来ると考えるべきである。要は業務に於て注意力がいっそう必要な時代となったと云うべきで、善管注意義務の範囲内であり、それが果たされていることで、法が企業及び自分を保護してくれる。かつては、企業の管理者レベルに要求されていた注意義務が業務スタッフにも要求されるに過ぎない。(さて、パスワードであるが、バイオスでもかけておく必要がありそうだ。)この意味では、正社員と現場スタッフとの責任は同質化する。正社員と非正規社員との賃金の平準化が要求されるであろう。何時までも企業はこの点を無視するべきではない。むしろ企業の不当利得である。企業の目的は、社員のくらしを実現することであり、他の犠牲を伴う独善的利益の追求ではない。ビジネス自体が目的ではない。ビジネスの態様はどのようなものであってよい。制度は現在のものが絶対的に正しいのではない。極言すれば、庶民のくらしが担保されるなら封建主義でもかまわないとも云える(勿論土地を媒体とする農民支配としての封建制度はすでに反省されている)。制度は修正されながら限りなく理想に近づくべきものである。一切の犠牲は惡=罪である。いずれサンクションある。主権在民の観点(真実絶対主権者[宇宙自然生命から祝福され守護された存在]が庶民レベルに現存在しているということ)から、企業の経営も、スタッフを犠牲にした合理化としての本末転倒は赦されない。ところで、消費者の中には、この法を悪用するクレーマーも出てくるであろう。そうした時には、敢然と対処することも大切である。その為の基準としての個人情報保護法である。社会は健全な魂と善良な庶民のシステムである。悪性に支配されては困る。悪性は芽が出た段階で排除しなければならない。その意味では、権力ではない行政としての警察は勘違いしてはならない。あまりにも悪性が野放しなのは警察の怠慢である。民主主義国家を維持するための警察である。この目的を理解しているのかどうか疑問と思われる現在市民社会制度である。司法は消極主義でよい。警察は司法ではない。行政である。むしろ積極主義の制度である。身分に甘えていないか。公務員の使用者は市民或いは国民である。諸公務員法に規定がある。国会議員と雖も特別職公務員に過ぎない。権力はすでに市民革命以降反省されている。思い違いしていないか。思い知らされないとわからないのだろうか。結果が出た時はすでに遅い。


2006年03月23日

ぬらりくらり

自由を獲るとどうなるか。ぬらりくらりである。瓢鯰図である。そもそも喧嘩などどうして起こるか。相手がいるからである。どちらかが相手にしなければ喧嘩などない。自未得先度他は、菩薩道である。菩薩とは、すでに佛の位にあるのだが、佛とはならずに菩薩の位にいて、人を彼岸に渡すことをしている。こちらが笑顔で接すれば、どんな相手だって頭を下げる。所詮、この世の生は過去世の懺悔である。新たな懺悔は作らないに限る。これがまた君子危うきに近寄らずである。このメモを机の上においていたことがある。それを目にした父は思わずサングラスをして外出したのを覚えている。どういうことか・・・。さて、楽を獲たのなら、そのまま楽でいて良いね。再度苦への道を進むことはない。言葉がロゴスとなって、それが文体となるなら、それで良いね。美辞麗句ではない発する言葉がそのまま言葉であることが文体だ。はじめにロゴスありき。光りよあれ。聖書の言葉には一言たりとも付与することなかれ。すべて、文体だからだ。文体というと、源氏物語がそれである。内容よりも文体だ。慰めのシャワーとしてのモーツァルトの楽曲に等しい。現代語訳なんてもってのほかだね。また、文体というと、久保田万太郎だろうか。吉田健一もそれがある。久保田万太郎のエッセーに写真が載っていた。孫と一緒の写真だった。親の顔が見たい?祖父の顔が見たい!孫は祖父が守っている。だから、孫は目に入れても痛くない。代々の約束である。自分の結実は孫に出る。 子供は親を見ただけではわからない。ところで、生かされているといふことが云はれる。大いなる力に生かされている。条件があって、それを充たせば安泰である。孫悟空が地の果てまで飛んでいった。この辺りがそれであろうと印をつけて帰ってきた。すると、それはお釈迦様の掌を出てはいなかった。大いなる力に生かされているとはこれですね。さて、洗練された言葉がある。例えば、俳諧がそれである。言葉が洗練されたなら、そのままで良いですね。『奥の細道』なんかそうして出来たのでしょうか。一切無駄がない。無理もない。作為もない。水の流るるが如く言葉が現れ出でる。短歌は情念が言葉となったものですね。だから、 サラダのような短歌なんて魅力ない。結局、結晶となった言葉がある。世の流行作家の言葉は読む気にもなれない。精神がすさんでくるね。さて、春である。春は花。

言の葉の花の咲きそう春の来て心も歌う明らかなる楽

ところで、霊界はある。見えない世界の秩序は見える世界と同じだ。むしろ、見える世界が見えない世界に従っている。さて、霊界からすると、すべて、見える世界は見えている。すなわち、見える世界の住人は見えない世界からすると丸裸だ。心の中も。そうだとしたら観念した方がよい。やがて、それらに対するサンクションがある。遅かれ早かれだ。それぞれの人生を振り返ってみればいい。そして、晩年の幸不幸が人生の結実である。やはり、観念するしかないね。惡もそのしたたりが満ちた時、結実となる。それまでは何も起こりはしない。しかし、起こった時はもはや取り返しはつかない。世のセレブとか成功とか、見えない世界からすればお笑いぐさだ。各々、自らの人生に対して首を洗って待つしかないね。 神はいる。その神に対して暴虐を加えればどうなるか。或いは愚弄すればどうなるか。結果を見て知るべしと南無。禅は神を否定する。それはね、神を知らないのだよ。仏と神とどちらかが偉大か。永遠のテーマだね。如来ね、神だよ。佛を自称する方と神を自覚した者とスケールを比較するとね、後者の方が大きいね。経験から来る證明だ。つまり、佛が宇宙の王というなら、神は宇宙を含む王だね。これって、説明不可能だけれど。しかし、例えば制御する台風の大きさが違う。また、鏡としての空閑の大きさが違う。ちょうど市町村に対する国家ほどの違いがある。もはや、どうにもならないね。神はいるよ。神とはね、まさにキリストが主と呼んだ方だね。そしてね、あらゆる現象事実は、神の、あたかも感情で動く。と云える。やはり、合理的ではないね。説明できないね。しかし、神の守護と被守護がある。選ばれた被守護がある。どうでもいいけれどね。事実だ。朕は国家なり?朕は宇宙自然なり!と云う存在もいる。太陽王?過去にいた。現在もいるのかも知れない。歴史をあまりに軽視しすぎたね。犠牲の上に立つ世のセレブ諸君、君たちの奢りは終わるね。宇宙自然存在=神がもはやゆるしおくわけにいかぬと思っている。


2006年03月22日

春の雨やさしくつつむ絹の糸


2006年03月21日

絶対の自由

禅というのは、今を生きることであって、それについて詮索することではない。良いとか悪いとかでもない。今が良いと云うことがそのまま存在の証明となっている。憂いのない日常が有ればそれで良い。結局、無とか空とかということである。しかし、虚無主義ではないし、アナーキーでもない。品性と格調はある。自ずから。惡生を仏性とは云わない。からりとして、現実をそのまま大肯定する。一足飛びには行かない。試練を経た上でのことである。そして、経験を通して確信する。経験なき者には決してわからない。わかったというなら嘘である。ここに、絶対の自由がある。そして、この自由は、日本発である。

2006年03月20日

一合の酒に酔う

春の来て、みずからのどか、やわらぎて、すべてのことが、ほほえみかえす。

みずからのこころのほどの宇宙なる自然もおのが軒の玉水・・・ジュビーン

かつて、小さなお好み焼き屋があちらこちらにあった。そこには、たいてい、おでんがあった。よくつかったこんにゃくを鉄板の上で焼く。たっぷりお好みソースを何度も塗ってじっくりと焼く。それをさいころ状に切ってもらって、さらに、お好み焼きの中に入れる。これが何ともうまい。冬の学習塾帰りのことだった。

この度の世界野球、韓国戦の勝利は、偏にイチローだね。彼が何をしたか、彼自身が知るのみだね。王監督でも、チームリーダーでもない。そして、この日本代表の一連の出来事に対して、ヤンキース大リーガー松井は今後どうするのかね。大リーガーはお金にならないと働かない。名誉のために働く喜びを知らない。マイホーム主義しか知らない。命を惜しむ。あまりにもアメリカ的だね。モンロー主義の国だものね。

「禅者のよくいうように、指がなければ月を指すわけには行かぬが、指を月と間違えては大変である。真逆といいたいところだが、我々は知らず識らず幾度となくこの過ちを冒しているのである。気がつかないばかりに好い気になっていられるのだ。」「上来知的観点から論じてきたのは、この観点から禅を把握することの不可能な所以を理解するためであった。実際禅をそのように哲学的に扱うことは当を得たものではない。禅は媒介を嫌う。知性的媒介とて同様である。禅は徹頭徹尾説明とは没交渉な訓練であり経験である。説明は時間と労力を費してしかも要領を得ない。説明から得られるものは実物についての誤解と偏見ばかりである。」(アートデイズ刊、『禅学への道』鈴木大拙p86) 「趙州が南泉に、「道とは何か」とたずねた。南泉曰く、「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」。これを言い換えるならば、ゆったりと落ちついた物に動じない諸君自身の存在、これこそ道であり禅の真理である。・・・言葉の上の議論や説明は無用である。その理由を知らぬままに__また明かにする必要もないのだが__太陽が昇れば地上は挙げて歓喜に踊り、誰の心も祝福を以て充たされる。」(同p87)各々何を何のためにどの程度学問しているのか。「鳥は飛び魚は泳ぐ。それで十分ではないか。神と人との一者性に、或は現在のむなしさに思い凝らす必要がどこにあるというのか。日々展転してやまぬ生活活動を神の善とか地獄の永劫の炎とかいう瞑想によって阻止する必要がどこにあるというのか。」(同p31-32)たわごとにたわけてなにを思い煩うか。酒は一合で十分に酔う。

大陸の言葉は定型的である。動詞の位置は第二位に決まっている。イエス、ノーをはじめにはっきりとさせる。大陸に於ては、敵味方入り乱れる。言葉の悠長冗長はゆるされない。敵か味方か、決定してからの会話となる。日本語は最後まで聞かないと肯定なのか否定なのかわからぬ。島国としての効用とするべきか。単一民族国家として敵を内蔵しない優位というべきか。それで学問宗教に於てもその純粋性と高度性に於て濃度が高く温存され窮め尽くされ伝えられてきた。古来日本の世界に対する使命は明らかである。しかるをその意味を失い腐敗させた。古来大和の精神は矢折れ刀尽き果て地に倒れた。その罪、世の自称文化人及び浅薄諸リーダー達の負うべきか。

さて、真実に背く時、その運命はどうなるか。死であり、滅亡である。この真理、知らぬが故に無視し、その運命をたどる者多し。

今日も笑顔で過ごすことにしよう。他者に影響されないで。法華経に曰く、これを持って貿易(ムヤク)すべし。これとは何か。


2006年03月19日

ささやかに光る星

今日も色々な方々に出会った。自分計算、身勝手、思い上がり勘違いの方々である。お話にならない。相手にする必要はないと思った。太陽系に於て輝く星は太陽だけである。自ら輝くと云うことがどういう意味であるのか。醜いアヒルの子は醜いアヒルの子であり、白鳥は白鳥である。満天の星を見たのは、21世紀最初のお正月、鹿児島長崎鼻だった。本当に星降る夜だった。こんなに星があるとは思わなかった。星はすべて太陽である。その太陽は無限にある。そのひとつになればいい。自覚してはじめて光を発する。自覚なくして光りばしない。そして、既に多くの星がある。星々が導いてくれている。さぁ、あなたも光りなさい、と。そのささやきが聞こえるだろうか。これが、隻手の音であり、風の音にぞ驚かれぬるである。もう、光って良いのだと思う。ささやかに。惑星としての惑いはなくなった。正受老人は思い上がった白隠を罵倒した。曰く、「此守蔵窮鬼子!」鬼などに用はない。絶対真実清浄世界がある。一つの世界に限界を感じたら、新たな世界を模索すればいい。求める心には、必ず、応えてくれるのが、真実宇宙自然生命である。もはや、未練はない。地獄より脱出する。これぞ芽出度き海老脱皮の意味である。天は自ら助くる者を助く。叩けば門は必ず開かれる。開こうとしない限り脱出はない。脱出発進、アクセル全開である。もはや汚れた世界に未練などない。勝手に浮沈するが良い。自ら惡を蓄積して救ってもらえるなど妄想である。惡と妄念を焼き尽くして軽くなり、自ら真実飛翔する者のみ救われる。世迷い言に惑溺耽溺することなかれ。真実は安易な精神など与り知らない。鬼子は去るべし。真実世界は厳然と存在している。見えないだけである。ふざけた魂の時代は終わる。真実が開花している。理趣経の極意は天地宇宙自然生命との同調である。さて、不障害の德がある。お話をしていると、何故そのような云い方をするのか疑問に思うことが多々ある。今までは、そうしたことに対して、直接対処していた。そして、少なからず、傷つくのだった。しかし、あらためて思うと、水に流す方向で良いように思われる。別に自分が対処しなくても、そうした傾向の方は、必ず、どこかで誰かとぶつかる。自分がぶつかることはない。報復は神の仕事とか云うけれど、そうでもない。結構、人間同士、報復し合ってる。水に流すには、しばらく、流れてしまうまでの時間はかかる。流れてしまえば何もない。のどやかでいいのだと思う。何事もゆとりが大切のようだ。楽な境涯はある。楽を手にしたのなら、楽に生きるのが良い。無理はしないことだ。肘は外には曲がらない。太公望はただ釣りをするのではない。釣りを楽しむのである。すなわち、白楽天である。何事も楽しむに足りる。自ら煩うことはない。人との接し方も然り。こちらの心次第である。方法をあやまらなければすべてうまく流れる。その実践有るのみ。失敗もある。だから成長する。それが人の道である。この世は暖かい。こころ次第である。のんびりとのどやか、春である。春の海はのたりのたりかなですね。のたり松太郎というのもありましたね。世間に流されることなく、負けることなく、自分であることで、自由です。


2006年03月18日

禅の要諦

「白隠を石垣の下へ突き落とした師匠正受老人は何と過酷であったことか。然しその弟子が数々の悪辣な取扱いを受けた挙句ついに大事を了畢したとき何と慈悲深かったことか。事実禅には微温的なものはない。微温的なものなら禅ではないのだ。禅は各人をして真理を底に徹して洞見せしめようとするものであり、その真理は各人が知性的な或はその他の粉飾の一切を脱ぎ捨てて本来の赤裸裸な自己に還らない限り決して把握されるものではないのだ。正受の瞋挙は白隠の妄想と不誠実とを剥ぎ取ったのである。事実我々はすべて内奥の自己とは真に何の関係もない妄想と不誠実との数々に被覆せられて生きているのである。」(アートデイズ刊、『禅学への道』鈴木大拙p160)「要は禁欲主義の実行にあるのではなく、如何にも適切に名づけられているように「長養(マチュアリング)」にあるのだ。数々の蛇や蝮が入口に待ちかまえている。徹底的に踏み殺しておかなければまたしても頭を擡げてくるであろう。悟得に於て打ち樹てられた道徳的教養の全構築が一日にして崩壊しないとも限らぬ。無礙募り(アンチノミアニズム)は禅者にとっても一つの陥穽である。これに対しては不断の戒心を必要とする。」(同p162)「内外共にこの悟得と完全に一致するようにならなければならぬ。そのためには今一段の自己訓練を必要とする。・・・結局向後至上の努力を傾注しなければならぬ方向の指示に過ぎないからである。」(同p161)禅の要諦である。今、禅は日本にしかない。本来日本にあったものが日本に還ってきているだけである(新しい仏説)。これが、日本の本来の精神であり、名づけて大和魂である。なのに、まだ、努力なくして要領の良さだけでセレブと言うか。古来日本の精神に対して、日本人として恥ずかしくはないか。そろそろ、本来の日本人として自覚する頃である。明治以降の精神的愚行をまだ続けるのか。「畢竟ずるところ、禅は何といっても個人的経験の事柄である。徹底して経験的なものがあるとすればそれは禅である。如何に書物を読破しても教説に通じても瞑想に心を凝らしても、禅匠になることはできぬ。生それ自らをその流れの只中に捉えなければならぬ。これを停めて吟味し分析しようとするのは、これを殺して空しく冷えた屍体を抱こうとするにひとしい。」(同p165)真に悟りを開いた者に睨まるればブルドックも小便をちびる。真実真理に対して裏切りたりし者どもの運命や如何。真実真理に徹して知るは、我が力に非ずということである。守護したる黄泉の順序手配がある。それは、とても合理的ではない。むしろ、感情的である。因って、その真実真理を知らぬ者にとっては不思議である。その当事者にとっては證明でしかない。すなわち、多寳佛の證明である。但し、条件がある。すなわち、心身清浄。是を以て、眞實證明。そして、その言葉はロゴスとなる。是を以て、文理眞正。妙法華経の極意である。不可思議なり。不可思議とは、思議することなかれという黄泉からの命令である。さて、ステージを変えよう。もう、云うべきことは云った。これからは、云うのではなくて実践だ。何も云わなくなって、不言実行だ。云う必要もない。云っても詮無い。21世紀幸福論のささやかな実践である。一隅を照らす。宇宙自然と同調する周波数を長養する。いよいよ、真実開花の春である。「禅の理解に関する限り師家には絶対の信任が置かれているが、その力量を疑うだけの理由があると確信するならば、僧は参禅の際個人的にこれを解決することができる。このように見解の呈示は師家にとっても僧にとっても決して悠長な遊び事ではない。それは実際極めて真剣な事柄であり、その故に禅の修行は偉大な倫理(モラル)的価値を有するのである。」(同上p159)師家は必ず僧を撃退する。突然胸ぐらを掴んでくる僧もいる。然し師家はさらに叩きのめす。何故か。見えない世界からの守護を確信しているからである。必ず勝つ。決闘の極意である。後から撃っても勝てる。勝敗は神仏が決するからである。一昨年の台風は、広島で風速60mを記録した。昨年の台風は広島を通過したが、信じられないくらいにおだやかだった。何故だったか。ある自覚した存在の意思に従ったかのようであった。この事実、忘れないがいい。神風と云って良い。見えない世界の力である。黄泉を本気で怒らせないことだ。世間一般愚か、自分計算、勝手が過ぎる。これでこのステージを終わる。


2006年03月17日

神力は心力である(未知の力学)

この世の現象が様々にあって、幸不幸も色々とあるのだけれど、要は、すべて、自分のこころ次第であるというのは、古くから言われていて、誰もが知っていることではある。けれども、知っているだけではものの役には立たない。その事実を、個々の経験を通して、疑うことが出来なくなり、そうして背けぬようになった時に、はじめて、自分のおかれている世界がわかる。此処に至って、謙虚であり、敬虔であることができる。それ以前は、場合によっては裏切るのが人間だ。鈴木大拙氏によると、禅経験に於ては、神の存在を否定する。否定はするが、神の存在がないわけではない。鈴木大拙氏に神の経験があったのかどうか、調べてみる必要がありそうだ。神の存在を認めないということは、神の存在がないわけではない。神をも超えた禅世界があるということで、それが、行雲流水である。しかし、神のレベルでの問題を解決しないと次へは進めないだろう。神には善神と惡神がある。善神は世のため人のために働くが、惡神は悪魔の如くである。事実である。いずれにしても、神は人智を超えた力を持っている存在である。その先に、菩薩、佛と云うべき段階がある。人間はレベル的には動物でしかない。さて、神の世界もさらに通過しなければならない。この段階に至れば、見えない世界からの守護がある。その時々に与えられた現実が解決するべき諸課題である。一つの課題を仕上げれば亦一つの課題が現れる。課題はひとつひとつ片づけるまでその度合いを増して現れる。これが因縁である。解かぬ間は、次の段階へ進めない。この課題も、いわば、見えない世界のナビゲートに気づかせるためである。見えない世界の意思と自分の意思との合致が試される。つまり、あるべき周波数の発見とその同調である。見えない世界とは宇宙自然である。それに同調するのは個々の魂である。魂の現実現象形態が心である。心と魂が合致する。合致して力となるが、この合致を以て世間ではチカラを持つ。しかし、合致するだけでは足りない。惡をも為すからである。ここで、宇宙自然と合致する必要がある。宇宙自然にもレベルがある。どのレベルと合致するか。そのレベルに於て、受容され、認められ、守護されるかどうか。こうした生命現象であり、宇宙観に於ける魂ゲームである。世間一般はこれらのこと何も解決しないままこの世での生を終わる。さて、神力はいわば心力である。祈る力、思う力に、そのような力はないというのが世間一般である。それは、そうした力を開発していないからだ。しかし、そうした力学はある。どのような人間科学も未発見の力学である。例えば、台風をも制御する力学である。しかし、このような力学も所詮通過点でしかない。最終ゴールである仏道はあるし、禅学もあるからである。こうした世界に生きるためには、条件がある。それが、心身清浄である。これが眞の大和魂と大和撫子の本性である。そろそろ、観念して、こうしたことを配慮するべき頃である。世の思い違い勘違いと、その横暴は、無価値と証明された。いつまでも、これまでのように、通りはしない。黄泉の意思であるからである。時は満ちたからである。時が満ちるとは、惡が満ちると云うことであったのである。そろそろ、観念し、身の程を知るべき頃である。古来伝えられし真実である。いましばらく見失われていただけである。戦後しばらく、西洋文化の影響で、女性と女性に迎合するものたちの文化であった。それが限界に達した。これより男子諸君の時代となる。昔の男尊女卑に復古するのではない。レディファーストを知って、さらにアウフヘーベンである。ここしばらく、男子の美徳が無視され貶められていた。平和な時代は女性化する。それはそれで致し方ない。しかし、同時に、男子の德性が腐敗しては、申し訳なかろう。健全な男子諸君の立ち上がる頃である。知性、技術に於て、男子諸君の方が勝っている。女性は本来内助の功を本務とする。狩猟漁労の頃よりの歴史的な経過を思えば、分かり切ったことである。ここしばらくの現実文化の腐敗は安易に流れた精神のよわき男性諸君の女性に対する甘えの故であったのだ。女性はこれに乗じた。しかし真実は女性も本来つよき男子諸君を待望している。今世の中で大きな顔をしているのは、この意味で精神のよわき方々であると云える。反対解釈である。ところで、惡とは、他の存在の犠牲を伴うことである。善とは一切犠牲がなく、すべての存在が喜ぶことである。如是我聞。新しい仏説である。さて、祈る力、思う力はある。未知の力学である。しかし、祈ること、思うことも、空ぜられていく。道元の云う、身心脱落、脱落身心である。祈ること、思うこと、これらの力学は、辛い。本来、思い煩うべき事は何もない。すべて、足りている。個々に解結するべき課題があるだけである。ひとつひとつの解決をすればいい。解決すべき問題があるのに、それに専念すれば良いだけなのに、まだ取り組まなくても良い問題に思い煩っている。本来何もない。何もないのだが、時々に、為すべきことがある。その為すべきこととはその時々の個々の課題である。それは常にひとつである。ひとつづつである。本来無一物とはこれである。禅的生活である。何も思うことなく為すべきことをする。それだけで良い。それだけで、すべて足りている。一つの問題を解決しない限り、何度でもその課題は現れる。最終的に解くべき問題は何か。ゴールは遠いね。しかし、例えば螺旋を思う。すぐ隣に、自己人生の次の段階がある。宇宙はひとつひとつ独立して存在し、その世界へ向けてニューロンが延びるが如くであるといったのはホーキンス博士であったろうか。その気になれば、バイパスは作るのが良い。大河も下流では渡れないが、上流、それも源泉近くで渡れば簡単である。お彼岸の頃は海がおだやかで、楽に海を渡ることが出来る。渡るべき海は七つあるという。人生も然り。心がおだやかになって楽に渡ることが出来る。おだやかな日常は自分のこころのおだやかさが作る。自分のこころの状態が自己環境を作る。すなわち、やさしさの周波数の獲得である。救うものは救われる。真実である。自分を掬うのは自分である。自未得先度他。自分が渡る前に人を渡せ。菩薩とは、佛になれる身でありながら、人間の姿をして、人に仏道を歩ませようとする。如来とは如来の力を獲得してその力を使うことはない。ただ、教えの形でその道を説く。そろそろ、こうした事も、配慮するべき頃である。一切衆生悉有仏性。だれもが彼岸へ至れる可能性を持っている。それは、最後にはだれもが至らねばならないことを意味している。これが、生命宇宙ゲームの実体である。死んでからでは遅い。生きている間に為すべきことがある。解くべき課題がある。そろそろ、わかって欲しい。歓喜奉行!人生は生くるに足りる。


2006年03月16日

世を救う笑顔の周波数

思うに、この世は鏡である。すべて自己を映す鏡である。何か失われた大切なものがある。それを知らしめんが為にすべてのことは起こる。例えば、営業接客する。その時、相手の態度はそのまま自己の反射である。どのような相手であっても、こちらが笑顔で接すれば、すべてはうまく行く。たとえば、二人の修行僧が旅をしていた。あるところで、雨のため、水が増水し、渡し船が出なくなり、足止めをくらった。一人の修行僧はとても聡明で、将来、大いに仏法を挙するであろうと期待されていた。しかし、まだ、いわゆる悟りへ至っていなかった。もう一人は、大柄な男で、すでに、鼾をかいて眠っていた。目覚めて尋ねた。何を思っているのか。まだはっきりしないのです。ならば、そのはっきりしないものを此処に差し出してみよ。そのようなものはありません。これが、無であり、空である。本来思い煩うことなどない。そのようなものがあると思うこと自体が人間の妄想である。あらゆる価値も何も本来ない。善悪もない。事実があるだけだ。サンクションとして謝ることがあるだけだ。お金で解決できることであるならお金で解決すればいい。身体生命を以て謝るべきは身体生命で謝ればいい。要は思いを残さぬことである。そして、笑顔で足りる。この笑顔、作った笑顔ではない。この世に於て、すべてが赦され、守護されている事実に気づけば、内面より花咲くように、ほころび出てくる笑顔がある。そうした笑顔がやってくる。そうして、すべては解決する。その時の周波数が世を救う。開発すべきはこの周波数である。こころの地平はこうして開かれた。その笑顔は聡明な笑顔である。目はダイヤモンドのように輝いている。唇は寒くない。愚かな時代は去った。いくら自己を正当化し、美化しても詮無い。見えない世界は、すべて、お見抜きお見通しである。さて、これから何をしようかと思う。世間一般は何も知らず、気づかず、その日その日を経過する。失われた何か大切なものに気づき、その守護とその条件を知る者にとって、日々は長養である。何をするでもなく、何をしても良い。いわゆる教科書はない。日々新たである。さて、何をするか。ある日、二人の修行者が言い争っていた。旗がはためくのは風のせいかどうか。そこにいた禅僧が答えた。旗がはためくのは自分の心がざわめくからではないか。二人の修行僧はその禅僧の存在に気づいた。自分たちの行の足りなさに気づいた。穏やかさは何処から来るか。こころからである。世間一般、修行の入り口にもいない。永遠に彷徨うというべきか。「このように禅に於ては個人の経験がすべてである。経験の裏づけのない人には如何なる観念も通じない。これは分かり切った話である。嬰児はどんな観念をも持ち合わさない。・・・この経験がないならば、その深いはたらきに関する何事も決して的確に、したがって有効に把握されるものではない。あらゆる観念の基礎となるのは単純素朴な経験である。」(アートデイズ刊、『禅学への道』鈴木大拙p20)この「経験」ということは、森有正全集の最終巻でのテーマであった。すでに、過去から、常に、この種の事は語られ、語り継がれていた。そして、真理として、伝えられてきた。しかし、この事について知る者は、現実には、稀有である。世間一般、誰も知らない。知ろうともしない。この経験、時を要する。刹那的に生きていてはとてもわからない。条件もある。あまりにも、悲しい、世間一般現実である。しかし、それも、当然必然である。如何せむ。「かくして禅は内的な霊的経験を最もつよく且つどこまでも主張するのである。聖典や賢哲によるその論釈には何等本質的な意味を認めない。権威や外的啓示にはこ個人的経験を以てつよく対抗する。」(同上p21)禅は一定期間の修行を通して経験する事実によって得る確信である。宇宙と魂との連関性の把握である。魂の現実形象がこころと云える。こころは頭脳ではない。考えて得られるものではない。経験を通してあるべき周波数の発見であり、その同調であり、さらにその周波数の持続である。魂とこころの一致である。その状態が常態となって、救われている。守護もある。しかし、此処へ至るは、条件がある。だれもが、この常態を開発できる。至道無難である。しかし、考えるだけではダメだ。知っているだけでもダメだ。実際経験のための一定の行がある。こうした事実としての経験をそろそろ万人のものにしないか。限られた一定の存在がその人生を賭して代々伝え来たことである。尊敬など要らない。先ず、実践する人の多く現れんことを。それが、最大の佛の供養であり、祖先供養である。ただお供えをしてこころが何処を向いているのか。世の諸寺院の要猛反省どころである。世間住職など、わかってはいない。かれらは僧職ビジネスである。学者もそうである。わかっているなら、学者などしない。実戦経験は学問ではない。学問は象牙の塔、経験ではない。経験とは、自己内大戦争である。その勝利者が絶対真実を見る。わかってするのではない。そこに真実があると直観して突撃である。その世界は神秘である。わからない間は神秘である。わかってしまえば至極当然必然事実である。そろそろ観念しないか。己の愚の実体を見つめ認めては如何か。この実戦、人生を賭するに足りる。パスカルは天才的数学者であった。確立論の創始者の一人であった。彼は身体障害者だった。それでいわゆる社交界へのデビューは遅れた。やがて数学科学者として彼も社交界へデビューした。しかし、そこで彼は新たな啓示を得る段階に達した。その瞬間はメモリアルとして残されている。そして、彼は、どうなったか。神秘家となった。そして、如何にして救われる道を説くかを考えた。その草稿がパンセだ。こうしたことも知らない方々の世間一般である。地獄必定、哀れである。そしてニーチェは言った。信念とは嘘より危険な真実である、と。西洋的方法論の限界である。西洋的心理学の結実は何か。ゾンビである。日本心理学もその枠内で動いている。究極の解決救済などあるわけがない。古来日本は清浄である。ゾンビとは無関係である。この本来清浄を以てあらゆる心理現象は解決する。世の心理学者も気づいては如何か。勉学する方向を間違ってはいないか。いつまで牛頭馬頭をしているのか。精神医学もそうである。薬の投与では何も解決しない。症状を止めているだけである。治癒はない。医学で精神治癒はない。あると思うは、精神医学者自身の思い上がりである。その治癒あるとすれば、唯、究極の周波数との同調である。そのプロセスは、清浄、すなわち、サナギの透明を通過することを要する。そして、その経過は、はるかなる時を要する。そしてその通過には持って生まれた使命としての属性を必要とする。そうした属性を無視し、粗末にした現代文明である。自分たちの想像を絶する世界に対して、十把一絡げに、自分たちの想念の下に制御しようとした故に、方法論を間違えていた、精神医学界は、自らの限界を知るべき時である。しかし、稀有なる属性がその試練に耐え開花した。恐れおののくべし。知らなかったとはいえ、その罪、重し。その罪の重きの故に、開花した黄泉はゆるしはしない。あまりにも思い上がり勘違いが過ぎた。結果の重大性に於てその失われし粗末にされた潜在性に対する損害賠償を実行せざるを得ない。真実である。日天子、月天子は常に御照覧である。みずからのこころに恥ずる事なくんば、すなわち、吉。


2006年03月15日

truth of the world

Now everythuing is good. Everything is filled with something. Something is for example things from unknown worlds. It is unknown, but exists. That's the world of Gods and Goddesses . It is great to be known by the unknown world. Unknown but real. You see? That's truth of the world! 見える世界と見えない世界がある。見える世界しか見えないのが世間一般である。しかし、見えない世界がある。見えないからと云ってないのではない。有る。見えない世界が見えるかどうか。隻手の音が聞こえるかどうか。幸せ不幸せの分水嶺である。見える世界はお金しか価値を認めない。お金など、キツネの木の葉に過ぎない。お金至上主義で盲目となった現代社会である。今に、思い知る。犠牲によりて成り立つ世の自称セレブが思い知る。高利貸し銀行(サラ金業への出資者)及びクレジット会社が思い知る。高利貸し銀行及びクレジット会社の罪はレートが変わったのに、 債務者には過去のレートを強いる。庶民に対する欺罔手段は一切サンクション有る。パチンコも然り。無くんば真理に非ず。正直に生きる庶民に一切憂いなし。やがてわかる。真理に背くもの、その現実や如何。黄泉の定めなり。如何ともしがたし。真理に背きたる故なる事なりき。

笑顔で足りてる。無理しなくて良い。花が咲くように。毅然としなくて良い。折れるから。


2006年03月14日

黄泉の声

あるべき周波数がある。本当に耳の良いものにとってはあらゆる音楽も雑音であると云ったのはP・ヴァレリィであった。倉田百三は絶対の愛をテーマとした。しかし、世の解釈はそれらをあざけった。そのようなものはないとした。そのようなものを知らないものたちの解釈であった。そのようのものたちのそのような現代文化である。何をたわけたことを云い、してきたのか。仏法は勝つ、王法は儲ける。真理である。そうした真理を無視した世の諸リーダー達の思い上がり、身勝手、商人文化の限界が来た。高利貸しどもが何を大きな顔をしているのか。恥を知るべし。たわけた文化に愚弄されたる真実が目覚めた。宇宙自然と同調する、絶対自己意識宇宙自然同調周波数がある。自己開発の究極である。爾の発する言葉がロゴスである。卑怯なる精神の与り知るところではない。魑魅魍魎の天下は終わった。は虫類のような人間どもは去るべし。雑魚どもは相手にしない。時が惜しい。この自己人生、生くるに足りる。研ぎ澄ますべきは自己意識精神である。それはサナギの透明を通って自己となる。何をとぼけた文化を恣にしてきたのか。黄泉はゆるさぬと云っている。空手にて十分に勝負は出来る。各々観念するべし。日天子、月天子、照覧する、真実諸宿王華開花の春である。日天子顕るれば、星は見えない。日本は日本である。
今更のように、ばかばかしさの中で犬死にしないための方法序説(庄司薫)を思っている。間に合うだろうか。


2006年03月13日

歴代の秘密

尊祖父桑原千畝は広島藩城代家老であったと聞いたこともある。その墓はしばらくヒロシマにあった。毎年、祖父と墓参りしていた。祖父が亡くなった後は私がしていた。ある頃、その墓が無くなっていた。大阪の誰かが移転したらしい。手紙を書いたが無視された。しかし、その遺影は私が持っている。その他の遺品も祖父母より直に私に譲られている。折られた螺鈿の槍もある。明治に何があったかおよそ見当はついている。世間の認識とは異なる。祖父の遺したアルバムには当時の家族及び親戚一同の面影がある。しかし、私はまるで孤独である。ここまでとは祖先も思わなかったであろう。しかし、今の自分に満足し、祖先に感謝している。およそ歴代の秘密は明らかとなったからである。すなわち、法華経の意味もわかった。私の試練であった。解くべき謎があった。解くべき謎は解いた。見えない世界の證明もした。生まれて来た使命は果たした。もはや思い残すことはない。代々の祖靈も満足していることであろう。日本の秘伝である。世間の喧噪などどうでも良い。独座大雄峰、禅譲。祖靈も託すべき子孫を選ぶ。祖靈に認められるか否か。すべての秘密である。


2006年03月12日

自分に勝つ

自分に勝つと云うことがある。これは、人生の最終戦争と云える。云うは容易いがなかなか怖いことである。この怖さを如何に克服するか。勇気の試されるところだ。日本は第二次世界大戦で、国家としてこの試練に耐えたはずであった。それで、未来は開けるはずであった。確かに開けている。しかし、国としては開けたが、個として開けていない方々が多く、むしろ、その方々の身勝手が、たとえば、バブルの崩壊を帰結した。今、それをも乗り越えた。いよいよ、真実、庶民の解放である。そして、歴史は、大河の如く、人間の個々の計らいとは無関係に流れるのであるが、この時、秘密がある。個々の戦いに於て自分に勝ったものに微笑みながら流れるという事実である。どうか、そろそろ、こうした真実に目覚める人の多く出て欲しい。未来は明るい。人は生まれながらにして、幸福が約束されている。真面目に生きることで、その約束は果たされる。しかし、世の成功理論は何だ。たとえば、国立大学と私立大学とでは、その入試に於て、選択科目に、すでに差があった。安易に流れた私立大学閥が何をもたらしたか。特に、数の多きを頼み、マスコミ界を支配する閥の罪は重い。努力を否定する精神の安易さが世を腐敗させた。各々胸に手を当てるがいい。スネに傷もあろう。恥じるべきは恥じるべし。見えない世界は、見える世界など、すべて、お見抜きお見通しである。自己に恥じることなくんば、すなわち、吉である。声を聞けば、あるいは、目を見れば、その個人のすべてが露呈する。言い逃れはもはや無い。虚像の時代は終わった。これより、一切、嘘は通らぬ。時が代わった。こころすべし。真実実像の時代が始まった。理由は、時が満ちたからである。あらゆる謎が解かれたからである。自分計算身勝手は、一切、通らない。黄泉の決定である。信じる信じないではない。事実である。時は代わったのである。私の左くるぶしは無くなっている。両足踵骨骨折の故である。如何にリハビリしたか。壮絶であった。その頃、すでに、回復しているであろう患者も多くいたが、かれらは、むしろ入院期間が長かった。私は、回復途上、入院中、風呂には一度しか入れなかった。すぐに退院した。車いすから松葉杖に代わった二日目に退院した。時の婦長の病院経営の考えに従った。担当医師及び看護師の考えは違っていた。しかし、自ら、志願して退院した。何かがおかしい。真面目なものが馬鹿を見ている。しかし、それが故に、社会復帰は早かった。 中国労災病院でのことだった。例えば善の玄題がある。これは、南無妙法蓮華経である。この玄題、唱えれば、必ず、何処からか風が吹いてくる。黄泉からの応答である。春は花夏ホトトギス秋は月冬雪冴えて涼しかりけりの涼しき風である。この歌をモチーフに演説したのが川端康成のノーベル賞であった。しかし、その後はどうか。大江健三郎はエログロではなかったか。タケシの映画は単なる暴力ではなかったか。日本人の情緒(ジョウショ)を辱めただけではないのか。小林秀雄の卑怯は今更云うまでもない。彼は花田清輝との関係で、身を切って骨を切るとした。しかし、日本の魂までは切れなかった。真実を知らない彼らの精神がもてはやされる現代社会であった。これより、変えなければならない。いわば、本来潔き古来クラシック精神、精錬され悪性が焼き尽くされた大和魂と大和撫子の復興である。赤子のような心にならなければ真実はわからぬとする禅の意味するところである。 苦悩の英雄ベートーベンも歓喜へと至った。苦悩は苦悩のままでは意味はない。歓喜し奉行しき(奉仕、サービス、仕事、ビジネス)に至るが、法華経の神髄である。一切大衆を救う。大衆の中には、岩石も含まれ、自分も含まれる。周りが幸せであれば、その中にいる自分も、必ず、幸せである。新しい仏説=妙法華経である。ところで、庶民の解放であるが、それは、健全な魂を持つ善良な庶民の解放であって、誰でもがという意味でないことは当然である。あまりにも、勘違いしている庶民は多く、かれらが間違えた意思主張をしていることも事実である。彼らも当然覚悟するべきである。いずれにしても、王の目、王の耳ということがある。それは、存在の目、存在の耳と云って良い。その目と耳を通して、霊界は動くと云って良い。これが、宇宙自然意思法則実行実現段階であると云って良い。すでに証明され自覚された存在の力がある。決して世間一般の理解できることではない。知る人ぞ知る、剣は剣客を以て呈すべし、詩は詩人を以て呈すべし。知らぬは知らぬを以て恨むべし。アマテラスの物語は何であったか。日本にその力が秘されていたからではなかったか。あらゆる物語は何であったか。何を秘かに伝えていたのか。思い知るべき時である。心身清浄の条件、秘された実行行為、何をか云わむ。古来日本の種ならば、必ず、芽吹く。さて、日本は先の大戦で無条件降伏をした。江戸無血開城もそうであった。インカも出雲もそうであった。現代戦争では、物量で勝負がつく。山本五十六も御前会議で云った。6ヶ月以内に講話して欲しい、と。しかし、見えない世界はそうはいかない。見えない世界における戦力は、唯一、心身清浄である。その象徴としてのキリスト。これが犠牲としての意味である。この度、見えない世界が動く。動かざるを得ないところまでの末法であるからである。敵は敵、味方は味方である。どちらにつくべきか。すでに黄泉は全軍味方についている。背くも疑うも自由である。しかしそのサンクションはある。もはや、年貢の納め時とはこれである。年貢は見えない世界に納める。裏切り者には裏切り者の定めがある。宇宙自然国家に対する裏切り、容赦ない。国家なくして自由はない。


2006年03月11日

日本の飛翔

江戸無血開城があった。明治維新に世を無条件に譲った。その後、どうなったか。第二次世界大戦の敗戦とバブルの崩壊であった。昔出雲が大和に対して同じようなことがあったのであろう。また、インカも西洋に対してそうであった。これが、黄泉=神々の世界の秘密である。世の腐敗を期待してのことではなかった。アメリカは何故ヒロシマに原爆を落としたか。ヒロシマが秘密の里だと思ったのであろう。日清戦争の時に大本営はどこにあったか。それは、何故だったのか。ヒロシマ→敷島。アメリカは当時日本の無の世界即ち神々について調査した。そして得た結論、わからない、だった。わかるはずもない。あらゆる謎は、法華経に秘められていた。これまで、それが明らかとなったことはなかった。今、時が満ちて、明らかとなっている。知っても知らいでも、日本である。父はかつて云ったことがある。予科練の教官もした、と。その真偽はわからない。しかし、また、云ったことがある。自分がその気になれば、共産党が選挙に勝つ、と。どういうことか。私も一度だけ意識的に投票行為をしたことがある。その結果がどうであったか。秘密としておく。「裁可し」という言葉がある。真実の裁可は誰の裁可であったか。これも秘密である。もはや何もかも馬鹿馬鹿しい。そろそろ、年貢の納め時である。刃向かうなら刃向かってみるがいい。孔子の説いた公憤が噴火している。日の本一の槍は螺鈿の槍である。それは今何処に架けられているか。無の世界に、である。誰も奪えはしない。批判は向かい風である。向かい風があって飛翔が出来る。批判を向かい風とし、離陸できるか否か。勇気が試される。批判はまたダイバダッタである。真実が試される時が来ている。真実が飛翔し、天空を舞う時節が来た。わかるだろうか。飛ぶしかないのである。それは、聖書に秘せられていた庶民の解放であり、法華経に秘められていた宿王華の開花である。つまり、健全な魂と善良な庶民が自由を獲る時代の始まりである。すなわち、精錬され、悪性を焼き尽くした大和魂の復活である。人類が夢に見た真実の人生を謳歌できる時代の黎明である。これらは、黄泉の世界の願いでもあった。幾世紀も虐げられた真実が開花する。見えない世界に、万軍の主も味方についた。自信と勇気とを持って実行し、実現するべき時が、やっと到来した。21世紀に間に合ったのである。心の地平が開かれたのである。知性が愚弄される時は過ぎた。愚かさは去らねばならぬ。人類は、ここに、辿り着いたのだ。民主主義が絶対ではない。多数決の原理である。少なくとも過半数を得ればその方が正しいのであろう、ということに基づく。絶対に正しいのではない。他のあらゆる制度よりは負の要因が少ないとするに過ぎない。むしろ、衆愚制の危険を孕んでいる。プラトンによれば、理想は哲人政治である。しかし、哲人は選挙に勝てないだろう。あまり、思い上がらない方がよい。黄泉が目覚めている。数千年来のことである。 今、主権在民である。この真義、わかるものがいるか。道元は空手にて帰還した。見えない世界ではすでにあらゆる戦いが終わって、平定されている。見える世界での秩序の回復を待っている。真理である。見える世界は見えない世界に従う。その時、起こるべき事は起こる。すなわち、見える世界の惡は淘汰される。見える世界の惡とは、見えない世界の意思秩序、すなわち、掟を疑い、これに背くことである。これを以て畏るべし。道元曰く、花は哀惜に散り、草は棄嫌に生ふる、昔より縁なきことを恨むべし、と。西洋平等理論の決して理解できぬ世界がある。これが悲しい。しかし、だれもが、この悲しみを乗り換えることが出来る。仏道を通ることによって。それが人間世界である。思い違い勘違いの金欲西洋成功理論である。そろそろ、古来日本本来の価値使命に目覚める頃である。年貢の納め時である。馬鹿騒ぎは終わらねばならない。時は流れた。そして、時は来た。もはや黄泉は目覚めた。そして、この世の腐敗を見て驚いた。黄泉の意思期待ではなかった。黄泉は赦さぬとしている。すなわち、身と心で犯した罪の重かるきによって、処断ある、と。罪とは、宇宙自然の秩序に反することである。今までは時の満たざるをもって看過されたるのみ、と。


2006年03月10日

グローバル社会を生き抜くための教え

さて、再び舞台を替える。いよいよ、世界に真に合流の時節である。それは、どのような舞台となるであろうか。Japan as No.1の復活かも知れぬ。世間一般、すでに仇は取ったはずである。もうこれでよかろう。もうこれまでである。これよりご破算、一より始まる。ルールは変わった。どのように変わったか、見るべきものは見るべし。聞くべきものは聞くべし。真実は真実であり、真実も意識自覚された真実と眠れる真実とがある。このようにして、真実真理は展開するというべきか。いよいよ、お楽しみはこれからだ。不思議物語の始まりである。つづかむとする者はつづくべし。モーゼも海を開いた。偶然の自然現象だったとしても、モーゼが杖をついたとき、海は開かれたのである。開くべき道がある時、開かれる。一に於て、陽と陰、そろう時、一の明かりが点る。世間一般刹那欲得経済至上レベルの出来事ではない。昨日、日銀の金融量的緩和政策が転換された。新しい時代の始まりである。さて、権力よりも、武力よりも、金力よりも、偉大な力がある。法力である。ここに法とは宇宙自然の秩序であり、掟である。これを手にする事が、即ち、ラインの黄金を手にする事であり、金剛杵を手にする事である。そして、その力こそ、如来の神力である。如来の神力とはロゴスである。ロゴスとは、宇宙自然に通じる力である。その為には、宇宙自然に受容され、認められなければならない。そして、祝福されて獲る力である。そして、宇宙自然より守護される。宇宙自然もこの存在を通して自らの意思を発動し、実現するからである。この世にこれ以上の力はない。この力を獲て、真実の自由を獲たと云える。誰もが、悉有仏性として、この力を獲る可能性を持って生まれてきている。しかし、だれもチャレンジしない。はじめより無理と諦めている。そして、自分勝手に行動して腐敗し、地獄に堕ち、滅びていく。是の力を獲るは、心身清浄を以てその資格とする。すでに汚れた大人達に用がないとする所以である。彼らはもはや今生では間に合わない。そして、是の力を大なり小なり獲た方々の世界が存在している。いわば、地上ヘブン=世界の住人である。その処方は、例えば、大和書房刊、本田健著『ユダヤ人大富豪の教え』に見られる。これより、グローバル社会に生き残るための理念が見られる。しかし、これ以上に、聖書及び法華経がある。時代を超えたスケールが他を圧倒する。その内容の殆どが謎である。しかし、時が満ちて、その謎もわかる時節を迎えている。これらの教えに対して、疑うことなく、背くことなく、信じ、わかり、実行するは、即ち、吉であり、楽である。救う者が救われる。救おうとする時、救う力が付与される。佛とは、この世に存在する一切の構成元素それぞれである。元素レベルに於て、人間も岩石も変わりはしない。岩石も元素レベルに於て微細な周波数を発している。人間の魂の周波数が宇宙自然のあるべき周波数と同調する時、悟りに至る。その周波数にあらゆる動植物及び岩石までが同調し、喜ぶ。真理である。 この魂の周波数を開発する事が、例えば、禅の修行である。すでに、仏陀及び達磨と祖師方によって、開発されている。そして、理入としての書物は数多ある。行入すなわち信じて実行あるのみである。あだや嘘はない。信じない人間が嘘である。こうして、宇宙自然と同調する魂の開発を獲て、その発する言葉はロゴスとなる。ロゴスとなった言葉は往々にして合理的ではなく、むしろ、其の時々の存在の感情的である。感情的ではあるが、宇宙自然の認めた存在のロゴスである。即ち、実現する。これが現成公案である。一である。隻手の音である。この音が聞こえるか。ところで、今、禅は、日本にしかない。日本に於てその命脈は保たれていた。禅譲!譲るとは、一切を譲る事である。佛、佛とのみ究了する。如来に於て秘密とされ伝えられし事である。それが、法華経の中に秘められていた真実真理であった。 即ち、宿王華の種が秘められていたのである。見るべきものは見るべし。聞くべきものは聞くべし。真実真理の種の開花する時節である。そして、新しい時代が始まる。腐敗したものは淘汰される。魂及び精神の真実、そう簡単には枯れぬ。跋扈する魑魅魍魎、悪魔は去るべし。ところで、『ユダヤ人大富豪の教え』であるが、限りなく真理に近い。しかし、真理ではない。何故か。その終章辺りで、成功者の不安が書かれている。仏法には一切不安はない。「仏法は勝つ。王法は儲ける」と断言する。やはり、日本の古来精神を取り戻すべきだ。自分勝手な解釈で失敗する。仏法、王法も自分勝手に解釈している。それは、仏法、王法の与り知らないところである。真実の仏法、王法と同調できるかどうか。その為には、自己の精錬が必要である。如来は如来でなければわからない。わからないからと云って、如来がないのではない。心すべきところである。当たるも八卦、当たらぬも八卦という。本来四方八方と上下合わせて十方である。八卦は八方は読める。しかし、のこりの二方が読めない。ここを攻められると負けるに決まっている。この意味、わかるだろうか。佛に任せるべき二方がある。信を以て入ることを得たり。信じる事が出来ない事を恨むべし。信ずれば、守護がある。佛とはそうした存在である。佛の顔も三度までである。佛もむしろ感情的である。しかし、『ユダヤ人大富豪の教え』も結句は「本当の成功とは、完全に人生に身をゆだねることなのだよ。それができる人間は少ない」とする。この真意、著者はわかっているのだろうか。例えば、あとがきに、「人の縁とは不思議なもので、人間の力を超えた何らかの仕組みが作用していると感じることもしばしばです」とある。しばしばでしかないのであろう。常に=永遠にではないのであろう。ここに、この本の限界がある。この本のエートスは、すべて、日本及び東洋思想の中に、すでにある。そして、この本の内容より深い。理論として整然と整理もされている。やはり、日本復活である。敢えて云う。思い上がり西洋帰りの浅薄な経験など相手にしない古来日本精神基盤がある。失われていただけである。本来有る。ぺりー来航以来の西洋かぶれによる腐敗はもうごめんである。日本は、今も日本語の国である。日本として世界に伍することで足りる。世の知識階層はあまりにも西洋に迎合している。日本に対する愛国心ということが揶揄されること自体がおかしい。世の知識人は日本人ではないのか。それほどまでに、彼らは、西洋媚薬にやられたか。阿片戦争ではなかろうに。古来清浄東洋日本として、盲目的文化西洋化堕落し、世界文化腐敗化傾向に拍車をかけて、歴史的使命を放棄しては、申し訳ない事である。日本として目覚め、自覚し、世界をあるべき方向へ牽引し、その使命を果たす頃である。この点に於て、世の知識人リーダー交代も必要であろう。日本を貶めているのが、現代文化リーダーの実体ではないか。


2006年03月09日

スパイウェアとトロイの木馬系ウィルスについて

スパイウェアが悪さをしている。これはウィルスとは違って、自らが媒体となってお友達に迷惑をかける事はない。しかし、自分の情報を盗まれる。プログラムの形態としてウィルスとは異なるので、いわゆるウィルスソフトでは本格的な対処が出来ない。スパイウェア専用ソフトが必要となる時代を迎えている。また、トロイの木馬系ウィルスを駆除できるのはシマンテックのソフトのみだろうか。他のソフトでは駆除できない。動かないようにする事が出来るだけである。しかし、これをインストールするとシステムが極端に重くなる。目的に従って、自己責任の下にソフトを選び、運用する必要がある。しかし、この煩雑を割り引いても十分にインターネットは利用価値がある。複雑な時代である。初心者の方は、有料サポートを利用するべきである。本来、情報処理技術サポートは法益(法の保護を受けるべき財産権)である。無責任無配慮自分勝手行政無料パソコン教室は要猛反省!庶民にこの種のサポートが無料であるとの意識を植え付けた罪は重い。

楽となって楽しむ日々

苦は楽の種、楽は苦の種という。正しくは、苦は楽の種、楽は楽の種と云うべきか。つまり、楽に至るには、やはり、試練としての苦を通過しなければならない。そして、楽に至れば、その後は楽である。楽しめばいい。サナギを通って蝶となり、自由を獲て舞い飛ぶが如くである。明暗という事があって、明るきから暗きへ、そして暗きから明るきへ・・・というのが一般である。しかし、新しい仏説によると、明るきから明るきへそして明るきへと云われている。また、空とは無であるが、空ずる事で、次の何かが入ってくる。この入ってくるものが何であるか。日々刻々為される思念と行為の結果で決まる。その都度善が入ってくるようになれば安楽幸せである。何も思い煩うことなかれである。しかし、この善にも鮮度がある。この善をも時々刻々空ぜられる。これが海老が目出度いのは脱皮するからだという意味である。こうして善の再生産が始まる。六道輪廻は地獄から餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天即ち神を巡る左回りの浮沈世界であるが、人間界において右回りの六道へと乗り換える事が出来る。即ち、人間、天=神、聲聞、縁学、菩薩、佛を巡る。墜ちても人間である。この乗り換えは修行を要する。それは、実相戒壇建立と懺悔業である。そして、悟りを獲て安楽行(法華経第十四)となる。これが善の六道輪廻である。そこが真実の桃源郷であり極楽である。つまり、即身成仏である。思い通りの世界が開ける。お金はなくとも生きてゆける。見えない世界に受容され祝福されるからである。自己との戦いとは、この乗り換えを果たす事である。すると、如来がわかる。如来の神力を発揮できる。日々是好日である。六根身心清浄を以て至る。この心身清浄を大和魂とする。日本人としてほかに概念がないからである。だから、世間の猛々しい大和魂とは意味が違う。精錬された大和魂である。精錬されたるはダイヤモンドの如くである。純粋精神としての大和魂である。悪性が焼き尽くされた大和魂である。だから、世間が大和魂を批判的に云うことが理解できない。大和魂は源田実の定義ではない。大和魂は言葉として大切にするべきである。単一民族国家としての歴史の古きを誇りにして良い日本である。何故、大和魂を批判的に云うのか理解に苦しむ。日本のアイデンティティである。大和撫子もそうである。少なくとも私は失いたくない。高名な作家達が何故批判的にこの言葉を扱うのかむしろ不思議だ。日本は古来大和魂咲きそう国でいいではないか。用語の問題である。日本をどうしようと思っているのか。本当に朽ちさせたいのか。西洋民主主義がそれほど絶対か。否である。古来日本の精神の方が優れている。大和魂を粗末にするは、むしろ高名な作家達の浅薄を証明する。 第二次世界大戦は明治の所産である。ぺりー来航を機に世界史に組み込まれた痛みである。それ以前に、古来大和の國である。靖国神社も明治に創建である。古来神社は各地にあった。古代には、愛に満ちた平和な国家があった。どこに目をつけて批判しているのか。正憶念できないが故の事だから仕方ないか。自分たちの魂に記憶がない事だろうからね。しかし、真実は真実であり、あなた方の云っている事は真実ではない。あなた方の考え=妄念に過ぎない。事実でもない。あなた方の知識は真実ではない。知識の名で日本を惑わさぬように。汚さぬように。第二次世界大戦は失敗であった。しかし、 アメリカも日本国土自然に対して爆撃するべきではなかった。だから、今に、世界の警察として罰せられている。アメリカの懺悔である。 今、数千年来の謎がすべて解かれ、明らかとなり、新しいインフラとして、世界には、インターネットとGPSが整備されつつあり、ヒトツの世界として、人類の夢に見た、愛と平和を手段とし、やさしさを理念とした、21世紀心の地平が開かれつつある。世界は本来ヒトツである。やさしさとは強いが故のやさしさである。さて、ヒトツとは、日本の神々、唐の律令制度の精神、そして月氏国インド哲学を基礎としたアウフヘーベン世界パラダイムの建設であろうか。これを実現する力は如来の神力であり、そして、聖書に預言されていた善良な庶民真実解放が果たされるのであろう。その時、生命体の一部としての人類は、宇宙自然の掟に従ったと云えるのであろう。新しく壮大な物語が始まっている。月の砂漠より真実の使者も回帰している。善財童子も帰ってきた。しかし、誰も知らない。


2006年03月08日

情報とは何か

日本のヒ、中国は唐のト、インドは月氏国でツであり、これらがヒトツとなることで、世界はまとまるという説がある。はたしてまとまれるか。さて、地球に於てかつてひとつの大陸があった。その後、ちぎれて今の五大陸となった。オリンピック五輪の所以とするところである。その間、アトランティス大陸も沈んだ。日本の南端はその一部であった。その頃、とても平和な国があったという。代々の王の善德によるものであった。かつて王は善德の故に王であった。民は従った。今、共和制であり、個々人が王のようなものである。個々人は王の王たる資質=善德を持っているか。否。今世界はひとつである。ヒトツの王国である。どのような秩序が、人間存在にとって、ふさわしいのか。過去のように覇権=武力による統一ではない。 インターネット世界はすでに存在しており、およそ人知を超える。これより、情報が価値を持つ。財産的にもである。情報とは何か。真実発信はどこからか。問われている。例えば、ナマズが動くと地震が起きると云われる。『瓢鮎図』というのがある。瓢箪で鯰を捕ろうとしている。捕れはしない。また、鯰は鯰として生まれる。生まれながらに鯰である。しかし、自覚がなければ唯の鯰である。自覚した時、何となるか。君子危うきに近寄らずというのがある。この世の一切が欺罔によって成立しているかのようだ。某石油会社のセルフスタンドもそうである。クレジット会社(高利貸し)の手先とは知らなかった。営業では銀行引き落としであるとしか云わなかった。結局君子危うきに近寄らずである。これは、法華経第十四『安楽行品』の精神である。汚れた世界にいれば、汚れる。朱に交われば赤くなる。そうした世界に近寄らなくても生きてゆける。清流の世界がある。清流に住めば清流の仲間が近寄ってくる。汚れた世界に住めば汚れた仲間が集まってくる。自分ではその気がなくても影響される。そうした影響に負けない事だ。セールストークがある。いかにもやさしく近寄ってくる。しかし、唇寒し秋の風。目的は何か。笑顔だけでは足りない。こころに真実誠実があるか。やがて、見破られる。仕事は奉仕する事だ。騙して利益を上げる事ではない。世のビジネスは大なり小なり欺罔を手段としている。真実誠実はどこへ行ったのか。取引行為の名である程度の欺罔を許しているのが資本主義である。しかし、弱肉強食世界では、そのある程度を越えた者でなければ勝ち組とはなれまい。そして、魂はますます汚れていく。清流からますます遠くはなれていく。晩年の人生がそのまま一個の人生の結実である。もはや憂えても遅い。あの世に逝ってからでは尚遅い。人生本来目的はただ一つ、心身清浄!これが世間虚仮、唯佛是眞の真義である。数千年来の宿王華開花の時節を迎えた。汚れた者たちは舞台を降りるべし。それは、身心清浄を以て咲く花である。咲くべき者は咲くべし。本来古来大和櫻花咲く時節である。ソメイヨシノは明治の突然変異、明治の頃に敗れた魂が姿を変えて現世を譲り日本全国に散らばった。山桜花はそれぞれ今も秘かに山懐深くに咲く。潔き大櫻である。現世衆愚など相手にしない。


2006年03月07日

空と無について

空は無と同じ事。何も心配することはないと云うこと。一つ条件がある。見えない世界に受容されること。即ち、見えない世界の自動制御に従うこと。つまり、見えない世界の乗り物に乗り、その導きに刃向かわない事。見えない世界は、見える世界を導く。一切の邪念はない。純粋に救いたいばかりである。自分を佛の方に投げ入れるとは、この事。仏の慈悲など人間の勝手な解釈である。甘えである。佛の感情を弄んでいる。人間如きの自分解釈を放棄する事。大安心に至る事。この世の価値などに意味はない。正義は相対的であり、その時々にぶれる。真実はぶれはしない。何を思って見えない世界に刃向かうか。本当に畏れを知らないか。知らぬなら、知らしめられる。それが、見えない世界の掟である。見えない世界の秩序は、見える世界と同じである。見えないからと云って無いのではない。有る。死んではじめてわかる。その時は遅い。永遠の地獄に沈め。時代は代わっている。生きながらにして、黄泉の事がわかる事が出来る時代となった。真実の幸せの形もわかった。ある存在がこの世の人生を賭して証明したからである。知っても知らいでも、黄泉はある。いい加減にしては如何か。人間がそれほどまでに傲慢自分勝手身勝手とは知らなかった。人間の姿をしているが、ゴキブリ、蟹、蜘蛛のごとくである。何をもがき苦しんでいるのか。方法を間違えば法則通りの結果である。馬鹿馬鹿しい。死んでからの地獄、再度、生きながらにして見たいか。60年前に経験したではないか。黄泉がその気になれば、それは起こる。真実を知らしめんが為である。キリストの復活、ダルマがとっくりを担いで歩いて天竺へ帰ったという話、その意味は何か。黄泉からの絶対の帰還である。そして獲た力に自得自認安楽住している。世界が自分のさじ加減である事を知った。造る人は壊す人である。しかし、壊しはしない。しかし、受忍限度がある。この真実、まだ、疑うか。彼らの堪忍袋も切れる。それほどまでに、生命体の一部でしかない人間の自分勝手身勝手我が儘自分計算が過ぎた。ロゴスのチカラ、恐るるべし。如来の神力はロゴスである。ロゴスをかつて獲た存在、例えば、卑弥呼であった。まだ、わからぬか。わからぬと見える世間一般である。何時までも、その愚かさに耐える黄泉ではない。時は代わっている。現世はある存在の反射に過ぎない。この意味わかるまい。真実に対して、あらゆる学問が群妄象をなでるがごとく陳腐化した。これまで数千年来の謎はすべて解かれ明かされた。時代は新しくなっている。新しく真実を探す壮大な物語が始まっている。日天子は喜んでいる。真実を前に勝手な事は云わないがいい。身のためである。


2006年03月06日

知足について

本来すべて足りているようだ。幸不幸も法則通りであり、自ら蒔いた種を刈る。不幸は不幸の種を自ら蒔いた結果であり、幸福もそうである。この意味で、足りている。そして、幸福へ至れば、水は高きより低きへ流れるが如く、慈悲となる。それでいい。あらゆる善悪の判断も、その意味では、無用である。個人責任原則、徹底している時代である。いつの世も、そうだったのかも知れない。唯、栄華は三代続かない。およそ、ぼんぼんは堕落する。因って、我が子のために美田を買わずと云われてきた。大拙曰く、泥棒もいるから面白い。因縁論から見れば、現世に於ては身に覚えなくも、過去に於て、盗を犯している。それで、現世で盗難に遭う。一天四海皆帰妙法。身で犯した罪は身に帰り、心で犯した罪は心に帰る。身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。謝るしかない。懺悔しかない。そして、知足に至る。穏やかになれる。見えない世界は存在している。見えない世界に対して申し訳なく思う日々である。知足を以て日々是好日とする。この世のことは知れている。あの世に逝ってからのことを考えておいた方がよい。「後生だから」という言葉を忘れている現代である。人間として生まれた最高の特権は、日々時々の行為と思念とによって過去の罪を謝ることが出来る事である。古来日本人の謙虚さと敬虔は美徳である。これを無視し、愚弄している。必定墜地獄。現世に於て十分に地獄海に浮沈している。はやく岡に上がっては如何かと思う。何をそれほど苦労しているのかと思う。生まれてきた目的は、ただ一つ、見えない世界に受容され、祝福され、守護されることを以て目的としている。あらゆる現象事実は、見えない世界と魂の事実を知らしめんが為に起こる。何度でもその度を増して、わかるまで、起こる。それでも、気づけない、気づこうとしない。自分勝手解釈で地獄へ沈む。現世現実浮世世界である。自ら助けないと助かりはしない。わかろうとしなければわかりはしない。学校の勉強も出来なくて、この種の事がわかるはずがない。山田無文老師も云っておられた。一を聞いて十を知る、そのような者に対してでなければ教えても仕方ない、と。こうした聡明さをあまりにも無視し、愚弄した。その結果が今である。まだ聞こうとしない。まだわかろうとしない。まだ自分解釈している。哀れである。源氏物語もこの浮き世のあはれをテーマとしている。しかし、本能に負けて、本能の赴くまま、それを自由とはき違えている。自由とは何か。見えない世界から受容され、認められ、祝福され、守護されて、何をしても、何を思っても、亨る状態である。今生ではわからぬ者たちが現世を支配している。見えない世界は憂えている。そして、人生も、時代の流れも、潮の干満の如きである。本体は海、変わりはしない。本来の諸価値もその干満有るも、その本質は変わりはしない。やがて藻くずは消える。現世は地球の中での出来事である。見えない世界と魂の世界は宇宙の中での営みである。これが生命現象となって、自然の中での現世事実出来事である。制するべきは自然ではない。制するべきは内面=心である。心を制して新しく心の地平が開かれる。心=魂は宇宙と連動している。宇宙の中での地球である。地球=自然である。地球の中での生命体である。生命体の一部としての人間である。こうした本来秩序がある。秩序は破ることは出来ない。ここを知って、謙虚さと敬虔を知る。そして、宇宙自然の掟に従う。自由となる。穏やかとなる。地球も歳を重ねた。そろそろ穏やかになりたい頃である。人類の歴史もそうである。何時までも瞋恚阿修羅では申し訳ない。


2006年03月05日

やはり自分勝手は良くない

自分勝手はよいのかと思った。しかし、やはり、これは間違いだと気づいた。日々、まだまだ、修行の身である。おそらく、没するまでそうなのであろう。限りなく理想に近づくことは、漸近線のようなものかも知れない。高校の時の校歌は、「眉あげて」と始まる。これは、瞋恚の目からの脱却であろう。目に力が入っている間は、まだまだである。例えば、イチローの目がどのような目をしているだろうか。冷静ということがよく云われる。それはtake it easy の時の目である。西洋絵画に於ける貴族の絵の目である。自分勝手な目ではない。何か別物を見ている。慈悲の目である。日々、間違えば、サインがある。間違った方向を向いていてもサインがある。このサイン、実に、精細であり、巧妙である。デリケートである。日々間違いの連続の中にいる。しかし、間違うわけにはいかない。間違っては申し訳ない。何に対して申し訳ないのだろう。ここまで導いてくださった、見えない世界に対してである。現実生活に於て、軌道修正は、常に、必要なことである。やはり、自分勝手はよくない。自分勝手をしていると、笑顔は出ない。所詮、この人生、奉仕の人生でよい。佛も無限に奉仕した。仕事も本来は奉仕である。報酬はそれに対するものである。あれこれ、自分計算しないことだ。勘違いしないことだ。小鳥は日々食が与えられている。自然の中の小さな花の装いの美しさはソロモン王も及ばない。あるがままに咲いていれば蝶も来る。はからいは不要である。あるべきように生きることが出来ればそれでよい。その実体は、笑顔と奉仕である。歓喜奉行である。この歓喜奉行がなかなか難しい。日々発見がある。見えないところから来るサインを見逃さないように。わかるまで、そのサインは、度を増して、何度でも現れる。現在、世の腐敗は何のサインであろう。畏るべき事である。しかも、このサインに敏感に気づくことで救いがある。所詮人間である。間違う。間違えば正せばいい。正すことで救われる。楽な身となっていく。ゆるすことでゆるされる。救うことで救われる。笑顔と奉仕の実体である。真理である。この意味での自分勝手はいい。つまり、主体性の確立である。人間計らいの自分勝手がよくない。この意味での主体性が問われている。他者からの惡影響の排除も必要である。君子危うきに近寄らずである。今、それが問われている。まだまだこれからである。目の力は抜かなくてはならぬ。そして、澄んで光を発し、輝かねばならぬ。身心脱落。脱落身心。身心、無垢清浄の鐘となる。その鐘を撞く。先ず、目の力を抜き、よく見聞きし、声のトーンを制御することだ。そして、主体性を確立することだ。そして、かぎりなくやさしくなってゆけ。その過程が、右の頬をぶたるれば、左の頬を差し出すことだ。懺悔の終わるその日まで。その時、真実の救いとなる。惡性が精錬されて羊となる。若いとは夢=理想のあることだ。諦めたらおわりである。日々生きている。夢は実現して意味がある。人間行為のエネルギーは情念である。情念が枯れた時が若さを失う時である。理想へ向けて歩む。一歩ずつしか歩めない。人生の目的とは何か。何のためにこの身を以て生まれてきたのか。何を見、聞き、何を学ぶためにこの世に現れたのか。心身清浄、やさしさですべては解決する。この世はあらゆる一切の存在が愛に満ちて平和であって良い。生きてよかったと云える。ほかに目的はない。

毅然とし松は耐え抜く孤高なる朝日染め抜く春風の吹く

ところで、人生楽しむにしくはない。その楽しみ方はいろいろある。智慧の出しどころだ。長谷川四郎著『智慧の悲しみ』という本があった。今書かれるとすれば、『智慧の楽しみ』とするべきか。悲しむ人に用はない。各々個々の人生の結果である。願わくば、自ら脱却すべし。自由なる喜びの世界へ飛翔すべし。


2006年03月04日

マイ・ウェイ

惑わされないこと。それがマイ・ウェイ。そういう時代となった。その意味で自分勝手で良いだろう。しかし、自覚した自分勝手だ。つまり、自分より上はあることを認めた上での自分勝手だ。本来の諸価値を認めた上での自分勝手である。宇宙自然の究極の秩序がある。それを破ってでの自分勝手ではない。宇宙自然の意思がある。宇宙自然が受容し、祝福し、守護する存在意思がある。この事実を認めた上での自分勝手である。本来諸価値に対する邪魔立て一切無用。宇宙自然の掟である。ここしばらくこの掟を破った事実がある。人間存在の思い上がりであった。過ぎた人間計らいであった。過ぎた者たちは退場するべし。今しばらく眠れりし爾の存在が目覚めたからには、仕方ない。もう、すべて、やさしくあっていい。しかるべき存在が目覚めるまでの戦いの時代は終わった。しかるべき存在が目覚めるまでの戦いであった。そして、あらゆる諸価値が目覚めた。時が代わった。世界の中の日本。日本の中での諸闘争。しかし、別論として、厳然たる宇宙自然の存在を忘るるべからず。

善財童子の旅は終わった。童子は布袋となった。大きな頭陀袋を持っている。中に何が入っているか。アラジンの魔法のランプ、打ち出の小槌、金剛杵、これを以て貿易(むやく)すべき御宝珠、孫悟空のきんとんうん、・・・。獲た力は、如来の神力、あるいは、諸々の神通力。解いた謎は、如来の秘密と聖書の預言。世の至宝を取ってきた。しかし、爾の旅は熾烈を極めた。内面での大戦争もあった。何千年来の代々の旅であった。そして、時違わず、21世紀に乗り付けた。人類の英知をこき集めて、新しい時代は、やさしさを理念とし、愛と平和を手段とし、目的は、健全な魂と善良な庶民の解放であることを見つけた。権力は権力により、武力は武力により、金力は金力によって滅びる、ただ、法力有るのみという現代の佛の説に対して、権力は市民革命によって反省され、武力は原爆によって反省され、今、金力がいわゆる勝ち組の愚行を通して反省されている。そして、法力とは宇宙自然によって受容され、祝福され、守護された存在となれば、その意思するところに対して、黄泉が動き実現する力であり、亦、自然は人間の計らいを超えた或る意味で神の感情で動くことも自得確認されている。台風をも制御する力である。そして、日天子、月天子が微笑む力である。反省とは、間違いに対して、同じ轍を踏まないことである。教えに対しては、実行することで、その結果が現れる。思っても云わなければわからないし、わかっても実行しなければ何も変わらない。悶々と悩むは愚行である。世の腐敗は人間の刹那的な欲得計算に起因し、その惡は満つるまで、野放しされる。しかし、時が満つる時、すなわち、惡が満つる時、一つの変化が現れる。如来と聖書の内容は、群妄象をなでる如き解釈ではその真意を知ることはない。こうした事は神秘に属するが、知らないから神秘であり、知れば明明白である。謙虚さと敬虔を失い、人間計算で自分勝手、身勝手を繰り返し、本能の赴くまま畜生道を増殖し、それを人間だからと正当化した愚かさは、時代の腐敗で証明された。人間の姿をした動物の時代から、本来の人間の時代の黎明を迎えた。数千年来の真理の種が発芽した。春である。


2006年03月03日

末法の世

昨日、本屋さんに寄った。ソレイル、テラである。ある小説の帯に、昔の武士はそんなに潔くはなかった、と書いてあった。何が云いたいのだろうね。きっと潔さを知らない方々かな。自分にその種がないのだから仕方ないか。そんなに腐敗に荷担し、腐敗を増長してどうするんだろう。そして、心は外にある?そんな馬鹿なことがあるだろうか。奇を衒っているのだろうか。心は内面にあるに決まっている。本末転倒あるいは結果無価値論どころではなくなった。過程及び内容一切無価値な世となった。一より生じて無量義となるのが末法である。勝手気ままにあらゆる価値を壊してしまった。何を信じて良いのかわからないのではない。一切の価値を破壊する悪魔の世である。まさに末法なのだ。末法とは解き放たれた悪魔の跋扈する世である。正法の時代とは、まだ、純粋に教えを信じることが出来た時代だった。像法の時代とは、大寺院とか大仏を通して、教えをかろうじて信じる、あるいは、自分を律することが出来る時代だった。今、一切信じることの出来ない末法である。真実真理=宇宙自然の掟を無視して、自分勝手なことをしている。若い者たちの性本能行為の実体を観ればわかる。悪魔に支配された子たちである。悪魔を解放したのは誰だ。今の世の大人達である。しかも西洋堕落文化(西洋にも高尚な文化はある)に洗脳された芸能人とそれに群がるテレビ界である。今更、いくらきれい事を云っても、もはや、遅い。既に犯された罪がある。原爆の如き鉄槌を待つしかないのか。恐竜が淘汰された時、鼠が芽を出していた。今、その時である。畏るべし。この意味わかるか。

また、野球の世界大会がある。某有名日本人大リーガーが、日本代表を断った。まるで、自分一人で大リーガーとなったつもりでいるのかな。少なくとも、いくらかのファンは愛想を尽かす。すると、その背後で応援していた見えない世界からの守護も失う。ご用心と云いたいところだね。

かつて、ナパーム弾(この新型焼夷爆弾は、日本に於ける火事を見て発想したといわれている)の空襲を受けて、呉の市街も灰燼と化した。焼け跡では、まるでヒロシマのように、その火力で、溶けた瓶がころがっていたという。一面焼け野原であったという。その中で、一個の堅牢なビルが焼け残った。その後も、しばらく、某銀行本店として機能していた。最近になって取り壊されて新しいビルが建った。思うに、原爆ドーム、日銀広島支店のビルは、今も保存されて、一種の文化財となっている。この堅牢なビルもそうした価値があったものと思われる。美的にもモダンで建築史にも残るべきものだっただろう。それで、ある市議会議員に、この建物の取り壊しについて、意見を求めた。氏の意見は、当時、議会で一切議論はなく、その種の配慮は必要ではないとのことだった。そうなのかな、と思った。氏の文化的価値に対する感性を疑った。こうして、本来の価値が見向きされることもなく壊されていく。文化財と認定されれば議論もするとのことだった。果たして、文化財と認定されるべく、自ら考えていくのが筋ではないだろうか。方法はいくらでもあるはずと思われる。

ある日、JRに乗って、仕事現場へ向かっていた。携帯ラジオで中村雅俊氏からのメッセージに泣けたことがあった。JRに乗っていると、守護を感じる。すれ違う電気機関車など見る時は、特にそうである。さて、その時の中村雅俊氏からのメッセージは時宜を得ていた。まるで、親鸞が自分のために佛は法を説く、と云わんばかりである。こうしたメッセージを何時も獲ていた。当然、偶然であろう。しかし、私にとっては、いつも必然であった。偶然とは思えない体験が多すぎるのである。最近では、日天子、月天子からの守護だと信じている。いつも、見られているように思われる。かつては、この事実が、信じられなかった。今は、信じている。信じなければ、およそ、耐えることは出来ない。信じると、すべての理が通る。ここに至るのには長い旅路だった。無理は通らない。何が通らないのか。実経験より学ぶしかない。中村雅俊氏のCDをよく聞くようになった。彼の歌っていることが、一番、性に合ってるように思われるようになった。彼の歌のこころを知ったのかも知れない。至り着いたのかも知れない。地上ヘブンへ。ユーミンのFMラジオ放送でも、同じような経験をした。合い言葉は西郷隆盛だったかも知れない。ローリングストーンズ、イーブンスとも同じような交信の経験があった。NHKラジオ深夜便に於ても。私の芸術論、冒険論、スポーツ論などは、ラジオ放送とのセッションから生まれた。亦、『ウィンザーの陽気な女房達』(小学校の時コントラバスを担当して呉市民ホールで演奏した曲目)が突然流れ出した時には驚いた。クラシック音楽録音がライブ的に感じられたこともあった。不思議である。今思えば子供の頃からそうだった。しかし、現実は、厳しい、愚弄されている。本当に瞋り心頭に達するとどうなるか。わからない。自分を信じることでようやくバランスをとっている。黄泉は有るし、今、動いている。云いたいことは山ほどある。云えはしない。云えば黄泉自然=如来が動く。隻手の音。

派遣社員に有給休暇はない。交通費も出ない(交通費支払いシステムはあっても、事実計算上支払われない巧妙なシステムである)。システムの弊害としわ寄せはすべて現場に来る(現場のお客様の性質によっては阿修羅となる、そのような時、本部への電話は通じない、回線がパンクしている)。当日のレポートを怠ると報酬を支払わないなどと通知が来る(労働法上の報酬概念を知らぬもほどがある、あるいは派遣社員は労働法の保護の外か)。最下層派遣社員の実体は、菜種油と派遣社員は絞れるだけ絞り、生かさぬように殺さぬようにであるらしい。今、そして何時の世も、神は派遣社員等最下層にいて、上部構造の腐敗を笑っている。やがて鉄槌が降る。神が自覚する時の神の意思である。自然は神の意思に従う。神の意思はむしろ感情的であり、合理的ではない。自然の摂理である。そんなことはないと思うか。思うは勝手、仏法は不可思議である。不可思議とは、思議することなかれという命令である。神のためには、鳥が導く、舞い降りる。もはや悪ふざけの時代ではない。馬鹿馬鹿しいことは云わないが良い。世間身勝手、これより、通りはしない。黄泉の意思の実行である。起こるべき事は時が満ちて起こる。時が満ちる時とは惡が満ちる時である。今、その時を迎えている。惡とは世間身勝手である。他の犠牲を伴っていることである。基準は人間の計らいにあるのではない。代々の教えである。神は高きを低くし、低きを高くするために世に現れる。聖書の預言である。それぞれ代々の身心で犯したる罪、その重きに従って処断有る。戯言ではない。真実である。世間一般自分勝手身勝手合理化及び正当化がこれまで通ったからと云って、これからも通る理由はない。時は満ちた。神は神としての心身清浄の旅を終え、代々自己の負の属性を焼き尽くし、如来に受容され、如来から祝福され、自然宇宙制空権を制し、火裏蓮、これ以上、神=自然宇宙の秩序を無視した、愚か身勝手世間合理化腐敗助長傾向を赦さないと意思している。 本来神はやさしい。しかし、怒りを発すれば、およそ、人知を超える。黄泉及び自然が従い、動く。まだわからぬか。神にも忍耐に限度がある。自覚した神の堪忍袋の緒を切らすことなかれ。伝家の宝刀を抜かすことなかれ。ぬるい。よく見れば、なずな花咲く垣根かな。よく見れば、人間の姿をしているが、人間ではない者たち(畜生)が弱肉強食支配している現世である。悪魔はその実体を見破らるれば、尻尾を巻いて逃げまどう。真面目、努力等、本来諸価値を見直す時である。これらの諸価値、私は祖父良亮(リョウスケ)よりたたき込まれている。自覚無き頃、惡もした。自信なきが故に今しばらく世間に負けてもいた。しかし、その懺悔も終わった。もはや、自覚する頃である。今しばらく身心で犯した惡の結果としての身心の傷の癒えるのを待つしかない。諸法実相。実相とは見える世界と見えない世界とより成る。世間一般身勝手、そろそろ年貢の納め時である。現るべきは現れ、見直されるべきは見直される。時は満ちた。今、神がどの階層に属し、どの階層を祝福し、何を実現しようとしているか、よく見て、考えるがいい。聖書の目的は健全な魂、善良な庶民の解放であった。権力化した市民及び惡徳商人による腐敗ではない。神=自然宇宙に意思がある。今、黄泉が動く。現実は黄泉に従う。およそ、この事実、昔より、変わりはしない。是を以て不易である。


2006年03月02日

木々は光りを浴びて

標題は、森有正氏を思い出させる。今、光りが強くなった。晴れている。少年の頃の夏の日射しの強さを思い出す。今思うと、いつも、見守ってくれていた。日天子もことのほか喜んでいるようだ。本来清浄の鐘は鳴っている。もはや、諸腐敗の時は過ぎる。海岸線もその美しさを取り戻す頃である。風景は、安藤広重の見た景色(雲の姿、空の色)を取り戻す頃である。人が生きる空間は、意識して、取り戻さねばならぬ。人間勝手に任せては、腐敗するのみと証明されたではないか。経済利益至上主義は、結果自然腐敗しかもたらさなかった。経済界、テレビ芸能界の責任は重い。自ら、行動に於て、本来身心清浄古来日本大和復活の原動力として、方向転換するべきだろう。本来、智慧のあるものに随うべきであった。何を以て思い違い勘違いしたかは知らぬが、結果身心自然腐敗である。どうしようもない。これより懺悔である。「諸の衆生不善の念を起こし、衆の惡業を造って六趣に輪廻し諸の苦毒を受けて無量億劫自ら出づること能はず・・・教へて宿世の一切の業縁を説いて、黒惡の一切の罪事を發露せしめん・・・口に自ら發露せよ・・・先の罪を發露し至誠に懺悔すべし・・・汝當に自ら舌根の所作不善惡業を説くべし・・・是の如き罪報惡邪不善にして、當に惡道に堕すること百劫千劫なるべし。妄語を以ての故に大地獄に堕す。此の如き衆罪を今・・・黒惡を發露し、誠心に懺悔せよ・・・亦、愛語を教へて六和敬を修せしめん・・・汝、今まさに身心に懺悔すべし。身とは殺盗婬、心とは諸の不善を念ずる・・・」(妙法華経)

ところで、自分の花の色は、自分の花色にしか、咲かないね。


2006年03月01日

アラジンの魔法のランプ

本田健著『ユダヤ人大富豪の教え』(だいわ文庫)p185に、「自分にとって、ベストなことは実現でき、そうでないものには、ストップがかかっていることがわかると思う」とある。これがアラジンの魔法のランプである。即ち、こころが人の運命を決定する。運命は運命としてあるのだが、その運命に対して、人の意思決定が必要であり、その決定が、その人にとって正しければ、実現され、正しくなければ、それなりの結果となる。即ち、思い通りとならない。個々の人生の実現を、黄泉或いは祖先が手伝うからである。そして、黄泉或いは祖先の思いがあって、その通り、歩むことが期待されている。これは、個々の人間についてだけでなく、或る意味では、国家に対しても作用している力である。国家だけではない。すべての見える世界に対して作用している見えない世界からの力である。因って、畏るべし。間違った時、法則通りの結果となる。極論すると、人類の滅亡である。これでも、まだ、自分勝手とするか。尚、この本は、事実の指摘としては当たっている。しかし、前にも書いたように、目的が、金持ちとなることにある。これが、限界を示している。経済至上主義が、事実として、他の犠牲を伴う限り、惡である。内容が勝れているだけに、惜しむべき処である。さて、黄泉或いは祖先であるが、地蔵尊がお耳が遠いように、こちらからハッキリと声に出して、こちらの意思を申さねば、わかってもらえないようだ。時々に於て、こちらが、何処にいるのかも、わからないらしい。それで、黄泉或いは祖先の世界からすると、守護したくても出来ない状況がある。因って、見えない世界に通じる言葉、例えば南無妙法蓮華経と申して、こちらが何処にいるか、何を考えているかを、常々、示す必要がある。そして、見えない世界と交信しつつ、こちらの清浄の身心を示しつつ、あちらからの守護を待つ。こういう関係があるようである。黄泉或いは祖先の世界はある。これが、大前提であり、これを以て、真実身心清浄の道を歩むことが出来る。惡に対しては、その時々に、罰がある。罰もあるから、懺悔ともなり、身心清浄となっていく。そのようにして身心を保つ。黄泉或いは祖先との交信を如何に実現するか、日々の安楽のために、考えるべき処である。私自身、日々刻々、間違いだらけである。間違うことで、新たな気づきがある。人間存在の限界であり、現実形態であろう。しかし、チカラは獲ている。要は、日常茶飯に於て、治癒するべき軽微な瑕疵であるかどうか。取り返しのつかない結果を生まないこと。しかし、これも守護と云うべきことなのかも知れない。失敗しながら、限りなく、理想へ近づく。何か間違うと、必ず、正さんとするサインがある。そのサインを見逃さないことだ。これが、本来自分にとってベストでないことに対してはストップがかかるという意味である。黄泉或いは祖先は、どうにもならない時には痛い目に合わせてでも阻止する。黄泉或いは祖先の世界のすること、すべては、救わんとするにある。そのようなことにならないように、日々、考えることが必要である。そのための知能である。その知能を何に使っているのか。お金持ちになることだけに使っていては、お金持ちになった後で、請求書が回る。世の中、うまく、出来ている。本来頭の善し悪しは、此処に気づくか否かにある。即ち、正しく生きることに帰する。仏説に云う八正道である。善良な庶民の時代と云うべき所以である。しかし、若き者たちよ、身とは殺盗婬、心とは不善を念ずるのが人間である。そして、その結果、自ら惡業の因縁より出づる事は出来ない。いくら正当化しても無駄である。こころして、青春時代を過ごすべし。唯、善業の因縁より出る事ができる。これは、仏の道に随う事を意味する。若き者たちよ、無神論を標榜して惡を為し、勝手に正当化して、墜ちた大人達と同じ轍を踏むことなかれ。彼らは知らぬが故に、人間だからと云って正当化する。そして、惡として繁殖し、地獄に堕ちている。ただし、本能を自虐的に制する必要はない。本能に於て節度有る道を歩むべし。五欲を断ぜずして、悟りの道はある。現代の教えである。仏陀も極端な修行は、自らの経験から不要であると知り、中道を説いている。しかし、この道、自覚することなくしては歩むことが出来ない。歩むことで自らの道となる。口先の観念だけではだめだ。理入と行入がある。実行を伴わなければ何事も身につかない。むしろ不言実行である。くれぐれも墜ちた大人を模範とすることなかれ。畢竟、不幸に決まっている。心を制御する。しからば、どんな現実も、風よ吹かば吹け、雨よ降りたければ降れとばかりに、生きてゆける。どんな現実も恐れることはない。神仏、祖先の守護があればこそである。これが、安楽行の智慧である。既に間違いを犯し、耳随うことなき大人達は今生では間に合わない。来世に出直すしかない。今からが人生である若き者たちよ、聞く耳あらば聞け。

さて、云うべきことは、すでに云った。途中、ライブドアでのブログは散逸している。しかし、もはや、山田無文老師も常々云っておられたように、それらもこれらも塵にすぎない。塵には過ぎないが、後世のためにはなるかも知れない、と云っておられた。日に日に新たには中江藤樹のよく云っていたことだったろうか。今年の春は、歴代の良き春となることを祈って。