2006年06月13日

生きるということ

禅宗ではいう。父を殺し、母を殺しと。どういうことか。父と母より生を受けた。父はその父母より、母はその父母より。持って生まれた種である。過去代々の記録としてのDNAの中にある。その無数の可能性の中から何を選択するのか。悪もある。善もある。無限の可能性である。過去の夢が詰まっている。その実現がこの世に生を受けた使命だ。それが父を殺し、母を殺しである。すなわち、父を乗り越える。母を乗り越える。代々の夢を実現する。願いを成就する。そうすることで祖先も救われる。黄泉はある。黄泉はその存在を認められることで成仏する。誰かが最初に渡る。後の人が続く。そして、人生最大の敵は自分である。その敵が強ければ強いほどその戦いは熾烈である。自分を倒せるかどうか。自分を倒して大人である。因って大人となるには時間がかかることもある。大器晩成である。老子の云う大木である。世間は知らない。当然である。知られては困る。黄泉の秘蔵っ子である。頼朝も伊豆に隠されていた。しかし何時かは世に出る。パスポートはいくらでもある。この身一つで十分である。

良い時代になりつつありますね。ラジオで小さな親切運動について語っていました。お店の心遣いを気に入ってそこの常連さんになったりのお話でした。神様を主題としたミュージックが流れます。以前からそうだったのでしょうか。明らかに変わったと思うのは私だけでしょうか。時代が代わったと思われます。誰もが願っていたことが実現しつつあるように思われる今日この頃です。これで生きてゆけますね。生きて好かったって。(2006/06/13 13:35 H-FM  ビーチボーイズでビートルズが流れているのどかな昼下がり)


見えない世界は片づいた。これから見える世界に種蒔きをしよう。収穫には少し時間がかかるだろう。焦ることはない。人生は種を蒔いて花と咲かせて実を取る。新しい時代の種蒔きが始まったね。好い時代となりました。


硫黄島 栗林中将辞世の歌

くにのためおもきつとめははたせえでやだまつきはてちるぞかなしき

中将の辞世の歌は改ざんされて公表されたという。すなわち「散るぞ口惜し」と。中将は出征するにあたり妻に手紙を書いた。その中でお勝手のすきま風を何とかしておきたかったとのこと。また妻のあかぎれの手を思って、よく洗いよく流してあとは熱くなるまでよくこするとよいとのこと。遺言としての覚悟であった。(NHK-AM かけはし・くみこ『散るぞ悲しき』) 

とればうしとらねばもののかずならずすつべきものはゆみやなりけり(堀悌吉)

やってみせいってきかせてさせてみてほめてやらねばひとはうごかじ(山本五十六)

知ったふりと雨降りは嫌われる(かけはし・くみこさんの父:特攻隊志願兵)。これなら子供は聞く。さじ加減はいつも考える。声は人なり(アナウンサー)。

もののふのやさしきこころふれしかばこのみちたれとともにあゆまむ(呉灯火)
史をよみ文ならなくのことどもをなみだとともにゆるしおりぬる(呉灯火)


地上波デジタル放送について

略して地デジ。2003年12月から主要都市で始まった。アナログ放送では高画質・高品質のハイビジョン放送ができない。移動中とか外出先ではテレビを見ることができない。障害者及び高齢者は十分に楽しむことができなかった。地デジだと移動中の車の中でも見ることができる。字幕があったり、機器によっては音声のスピードも調整できる。障害者及び高齢者にやさしいテレビとなる。また地デジでなければできないことも多くある。テレビ会社によっては過去の人気番組の再放送もある。2011年にはアナログ放送は廃止される。アナログ放送では電波の状態によって二重画像(ゴースト)となったりする。アメリカなど世界の趨勢はすでに地デジである。高品質化技術の進歩により、地デジが可能となった。このような理由から全面的にテレビは地デジとなる。現在のテレビでは地デジは見ることはできない。地デジ専用のテレビに買い換えるか専用のチューナーが必要である。また地デジ機能を持つパソコン、携帯電話、カーナビ、ゲーム機でも視聴可能。アナログでは移動中及び外出先ではテレビが見れない。これを可能にしたものがワンセグと呼ばれる。サッカーや野球の生放送を移動中の車の中でこっそり見ることができる。クイズ番組ににも参加できる。アナログ放送は一方的なものだったが、地デジだと双方向(インタラクティブ)に参加できる。例えば生放送でアンケートに答えたり、景品をゲットしたり、憧れの芸能人とのやりとりができたりする。女優の服を購入できたり、流れているBGMを購入できたりのテレビショッピングを楽しめる。アナログ放送では字幕は一部の放送に限られた。地デジでは生放送を除くすべての放送に字幕が入る。生放送の一部でも字幕が入る。障害者及び高齢者の方々にやさしいテレビとなる。(NHK-AM 9:23am)


思うようにならない現実

思うようにならない現実。当然のことか。昔白隠がいた。近くに娘がいた。ある時娘に子が出来た。白隠の子だと言った。白隠は黙ってその子をあやした。しばらくして娘が謝りに来た。白隠は黙って子を返した。また良寛がある日、甥っ子であろうか、意見するように頼まれた。良寛は出かけた。何日か滞在した。何も言わなかった。いよいよ帰る日となって、その子が良寛のために草履をそろえた。良寛の涙が一粒その草履の上に落ちた。その子はその涙を見逃さなかった。その子はそれ以降変わった。良寛は黙って去った。こうした境涯がある。目指すべきか。その為には何が必要か。身の周りの整理からだね。いざこざが絶えない。まだまだである。当然か。負けるわけにはいかない。ここしばらくは。激しいものが残っている。それで良いのだと言い聞かせる。それで良いのだと。何があっても良い。自分を偽らないことである。修正するべきは修正する。自分を偽っていては修するべきものが何かもわからない。限りなく前進する。すべては仮城である。真実の城を示す道標に過ぎない。真実の城はある。それを目指す。あらゆる仮城を通過することで現れる。乗り越えていく。未来は近い。今日も帰りに浜辺に寄ってみた。常寂光があった。そして思った。心配は要らないのだと光ります。

現実が思うようにならない時は、条件が足りないからだ。つまり縁がない。深追いはしないことだ。種を蒔く。新しい種を蒔く。そして育てる。借り入れが出来るだろうか。台風が来るかも知れない。しかし明日のために今日の勤めをする。明日は嵐か時雨か知らねども今日の勤めに田の草を刈る。そして人間としての生き方がある。すなわち浜までは海女も蓑着る時雨かな。信じる道がある。世間は知らない。自分は知っている。知っているからには進むしかない。すでにその道が見つかっているならね。誰もついては来ない。見える現実世界では。それぞれの業に縛られてるから。私は進まねばならない。道元曰く。昔より縁なきを恨みよと。縁がないなら去らねばならぬ。すべては縁次第である。すなわち過去からの因縁である。今世の仕事がある。それを成就して初めて待っている縁がある。先を急ごう。必ず待っている方がいる。それまでの旅である。限りなく自己を極める。それしかない。 仏の顔も三度まで。恋愛も然り。三度言ってだめなら次を探した方が良い。すべては縁次第である。菩薩には菩薩の伴侶がある。国家レベルでもそうである。時が来れば伴侶も準備するというのが主たる存在の約束である。時を待つ。それまで準備をしておく。人生には潮の流れがある。思うようにならないのは縁がないからである。黄泉の導きを待つしかない。自分勝手は通らない。自分計算は間違う。本来の仕事を為さずして、勝手なことをしているものなど相手にしない。彼らには何を言ってもだめだ。言葉は丁寧に使えばそれで良いのではない。偽善おべんちゃらはむしろ虫ずが走る。勝手に地獄で浮沈するがいい。刃向かい逆らいて尚命あるは黄泉の情けと知るべし。思い違い勘違い甚だしい。真実真理を前に何を言っているのか。お店にお客が来ない?為すべきことをしていないからだよ。声を出しているのか。挨拶しているのか。お客が来るわけがない。なめたお客が来るだけである。裁きの時には全人格が問われる。賓主歴然。己の処してきた人生ですでに勝敗は決している。何を思い、何をしてきたか。ついてくるものだけついてくればいい。すでに賽は投げられた。行をするための結婚がある。人生を楽しむための結婚がある。毅然と美しく咲く花がある。清楚な花である。その花はそこにそのまま咲かせておこう。まぶたの裏に焼き付けておこう。そのような人も確かに存在している。美しい花はある。かつて常に佛は様々に存在した。空也の像がある。口から佛が咲いている。空也の言葉がロゴスであったことを表現しているのだろうか。弘法大師は密教を伝えた。それは宇宙自然の真実真理であったであろう。最澄は空海に密教の教えを乞うた。空海は惜しみなく授けたであろう。しかし最澄はわからぬままであったであろう。縁が熟しいなかったと云うべきか。しかし宇宙自然の真実真理はある。事実が証明する境涯がある。すべては象徴或いはサインである。それを真受けできるかどうか。もはや穏やかに生きて良いのだと思う。日々為すべきことをする。やがて美しい自然が伴侶となる。すべてはやさしさで解決する時が来る。言葉はその内容ではない。言葉はこころの表現である。敬語を使えば相手に敬意を表したわけではない。お客が切れる理由がある。そのこころのありようである。なめてかかるお客に迎合することはない。お客様は神様だとする商人根性にはうんざりである。顔は笑ってこころは舌を出している。そのような馬鹿げた人間のあり方などあるものか。こころの腐敗がきわまった。黄色いお足が見えている。帰り南無いざ。遡上を急ごう。帰るべき世界がある。身心清浄。ゴールは近い。存在がそのまま救いとなる。宇宙のやさしい周波数と同調する。そして自らその周波数を発するようになる。言葉もその例外ではない。文章もその例外ではない。ことばにも文章にも調べがある。源氏物語の文体がそうである。人格の表現はこの周波数である。やがて光も発する。そうした境涯がある。そうした人間関係があって良い。そうした夫婦関係があって良い。本当の幸せと喜びの世界がある。それに気づいている方々がいる。高山植物のようである。そうした種がある。神仏が守護している。は虫類の凶暴経済社会に警鐘が鳴っている。暴力と詐欺の時代は終わる。やさしさの花が咲きそう國となる。すでに古来大和のこころはそれであった。それを曲解して勝手な解釈をしている。それに気づく時が来た。本来の大和魂が何であったか知る時が来た。神仏の秘密守護するところである。時が来てそれが明らかとなった。それを見つけるための人類の営みであった。あらゆる物語にその謎が秘められていた。しかし世間は知らない。日々あくせく欲得に負けている。目覚める頃である。この腐敗の中で咲くは難しい花がある。今その花も咲こうとしている。一切邪魔立て無用である。神仏の守護するところである。刃向かうは容赦ない。百雑砕である。真実の花である。咲くまではか弱く見えた。咲けばこれほど強い花はない。黄泉の意思の花である。悪は一切淘汰する。悪とは何か。黄泉の意思に反することである。悪もこれまでは存在がゆるされていた。時が来ていなかったからである。今、時が来た。反省するは寛大である。羅刹も佛の子となって大衆を救う。一切が原点に帰する。宇宙の時計がその時を伝えている。天文学者に聞くがいい。今、星の運行がどうなっていたか。フォトンベルトとはこれだった。世間盲目勝手が過ぎた。真実は真実である。畏れを抱くべし。この畏れを抱いて謙虚となる。しかし戦後六十年の思い上がりは簡単に払拭できぬ。世代の交代も必要なそれほどまでに愚かな時代の結末となった。現在本末転倒している。何時までもこの事実に気づかぬものは相応の地獄と知るべし。気づかぬものに救いはない。天は自ら助くるものを助く。思い知るべき時である。常にやさしさの周波数の中にあって真実を感じていたいね。坐禅及び瞑想で目指すのはそれだろう。身体を真実が流れる。大地から気(記)を吸い上げる。樹木が根から水分と養分を吸い上げるように。そして頭脳から肺へ潤す。「微渧先づ堕ちて以て欲塵を淹し涅槃の門を開き解脱の風を扇いで世の惱熱を除き法の清涼を致す爾して乃ち洪に無上の大乘を注いで衆生の諸有の善根を潤漬し善の種子を布いて功徳の田に遍じ普く一切をして菩提の萌を發さしむ」(高貴なものを持っている人間として生まれてきてやがて世間の腐敗の中で堕ちた生活となる。こころは常に平穏で豊かで幸せな生活を求めていて、腐敗からの脱却をはかって涅槃の門の存在を知り、その門をたたく。叩けばその門は開かれるので、その中に入って、本当の幸せの周波数を持つ空気に触れる。そして天は自ら助くるものを助くるのであるから、自ら行をしてその風を扇ぎ世間の中で熱病にかかっていた自分に気づき、真実の世界があることを知る。そして救われた自分を自覚し、共に歩む人を見つけてこの大安心の乗り物に乗って人生を歩み始める。そして共に歩む人にも高貴の種のあることを気付かしめ、そうした方々を多く集めて布のように広める。そしてその方々も幸せの道を歩むようになればみなが本当の幸せの世界を目指すことになる。そして幸せの國となる。これが幸せの法である。やさしさに包まれた日常が約束されるこころのあり方である。因ってもはや穏やかに生きていい頃となった)[妙法華経p12]。恋に年齢の制限はない。いくつになっても恋をすればいい。恋することで愛を知る。日常を理由に恋を放棄していないか。自然は愛と喜びに満ちている。花は喜び咲き誇り、小鳥は楽しく歌っている。日々の食は日々与えられている。花咲き小鳥が歌うように生きればいい。喜びを知る人たちの生き方である。一切の邪念がない。因って苦しみも悩みもない。本来無一物。何もないところに幸せがある。自然は足りている。足りている自分に気づくことで十分に救われている。憂い無ければ神仏の守護がある。私たちは存在することだけで祝福されている。自ら好んで地獄に赴いている。人生、楽しむにしくなし。悲しみを通していたる世界がある。21世紀こころの大地である。喜びだけの世界である。苦悩の英雄ベートーベンも至り着いた世界である。そのための努力である。刻苦勉励である。努力及び刻苦勉励に価値があるのではない。それを通って開ける世界に価値がある。堕落世間に用はない。闇を通って光がある。陰を通って陽がある。そして未来は明るい。至り着いた明るさは、明るきから明るきへと約束されている。魂遍歴にゴールがある。知性が解放されるとやさしさとなる。皆の解放のために働き始める。知性に挑めば戦いとなる。知性の王国も負けるわけにいかない。自らの王国は護る。知性には嘘はない。世間は嘘が当然と思っている。戦争と平和。大砲とバター。それもバランスだろうか。知性にも秩序ある。自由は秩序に敬意を払う。世間は秩序を無視する。自ら救いの種を放棄している。自らの愚かさを知らず、天狗となっている。本来敬意を払うところに敬意を払わない。因って愚かである。愚かであれば不幸である。不幸は伝染する。そして自ら不幸であることを知らない。因ってあはれである。悲しみの中に沈んでいる。悲しみの向こうに喜びがあることを知らない。その世界の門を叩くこともない。そして悲しみを深める。助長する。六道輪廻は過去の因縁悲しみの輪廻である。この現実世界において乗り換えることを知らない。悲しみから喜びへ。常に橋は架かっている。喜びの橋を選ぶことはない。引き返すべき悪の橋は渡ってしまう。結果が出てからでは遅い。自首も官に発覚する前にすることで減刑事由となる。何も知らずに勝手なことを思っている。勝手なことをしている。自分の愚かさを知らない。知性を愚弄する。世のバラエティ番組がそうである。不幸な世界に決まっている。幸せの世界はある。あるのに見えない。こちらの水は甘いと確かな声が呼んでいる。しかし疑う。自分が尺度であるからである。どこまでも自分勝手な世間である。世界は知性でる。インテリジェンスである。インジュニェティ。何も知らずに何を言っているのか。何をしているのか。現実世界である。欺罔と暴力の世界ではない。愚かにもほどがある。知性は神仏が守護する。知性の決定は黄泉が実行する。ヨハネの黙示録の発動もある。だれがその決定をするのか。ジャーナリズムも愚かである。日本がワールドカップで負けた。何故か。ドーハの悲劇と同じである。日本の全体意識が負けたのである。ラジオの放送も護れるか護れるかといっていた。それでは護れない。こころの問題だ。日本人の全体意識が疑っていた。勝てるわけがない。攻撃こそ最大の防御である。チャンスにシュートせずにパスを回して勝てるわけがない。シュートするべきはシュートする。全体が見えていればシュートできる。シュート目的意識がない。躊躇した。見えていないのである。疑っているのである。真剣勝負は理念ではない。技術ではない。捨て身の勝負である。天が勝負を決定する。決闘(血統)の極意がある。後から撃っても勝てる。勝敗は神仏が決定する。そのためには自信を持つ。自信があって勇気が湧く。命も捨てている。己に恥じることがなければ切腹も出来る。武士のならいである。武士とは己に恥じるところがないことである。武士でなければ武士の気持ちはわからない。わからない方々の支配があった。それで第二次世界大戦の馬鹿な戦争もした。本来大和魂の戦争ではなかった。嘘が当然の支配の帰結であった。下級精神の支配の悲劇であった。責任も曖昧にした。まだそうした精神の支配にある。知性の支配ではない。宿王華の咲く時節となった。それは知性の花である。法華経の伝えし花である。旧約聖書の中で秘められていた歴史の400年周期説。実行段階に入った。アメリカも中国も気づいている。日本も気づきつつある。世間は知らない。因って世間である。21世紀の幸せの王国建設。進められている。すでに世界はひとつである。正しい庶民の解放が実現段階に入った。そのためには悪の淘汰がある。ノアの洪水である。正しい庶民の未来は明るい。黄泉の意思である。真実正義の戦いである。一つの時代が終わる。新しいはじめである。今、その一つの最終戦争が行われている。すでに新しい地平は開かれている。21世紀こころの地平である。パイオニア達は立ち上がっている。黄金の國エルラルド。その地図はすでに発見されている。見えない世界は統一されている。見える世界は見えない世界に従う。静かに天下統一は進められている。知らないのは世間。早く気づいてノアの箱船に乗らないか。日本はすでに世界の一員である。日本の最後の切り札も見つかった。そして自覚している。秘密宇宙戦艦大和である。しばらくは秘密特殊潜行艇であった。黄泉もこの時を待っていた。そして動き始めている。世間勝手気儘我が儘はここまでである。黄泉に勝てはしない。世間も早く世界の一員にならないか。いつまでも我を張らないで。覇者は覇者である。黄泉の世界の覇者は覇者である。日月照らす。風の吹く。宇宙自然が祝福している。事実である。覇者に刃向かえばどうなるか。知らずに刃向かっている世間である。命あるは情けあるのみである。幸せの青い鳥が待っている。行かねばならぬ。自覚した大象が歩み始めた。踏みつぶされても仕方ない。邪魔は容赦しない。魑魅魍魎悪魔小悪魔には帰ってもらう。日が昇る。日が昇れば夜の星たちは見えなくなる。見えないもの達は洞窟の中の目のない魚である。目覚めるべし。天晴れ世界はかくも美しい。


2006年06月12日

呉市の観光について

呉市は瀬戸内海国立公園に所属する。美しい瀬戸の島々と海がある。呉市の観光を考える時これを考えない手はない。今大和博物館が出来て、行政が考えているのは、宮島・廣島原爆ドーム・江田島術科学校そして大和博物館である。これはどうかと思う。これでは観光ではない。学習旅行である。誰が好んで来るものか。むしろ瀬戸の島々である。倉橋島・蒲刈島そして瀬戸田のルートが良い。大手商社が入って大キャンペーンをする。世界に通用するだけの資産であると思われる。誰か試さないか。あるいは調査しないか。また呉市には二河川が流れている。焼け山へ行く途中の景色は絶景である。日光の景観に匹敵する絶景であると言った人もいる。行政は本気で呉市のことを考えているのだろうか。身分に安住していないか。本気で仕事をしないか。真剣勝負の時代である。ところで、中東・バルカン・東南アジアは火薬庫である。再び中東の緊張が高まっている。


言葉或いは文章について

言葉或いは文章に調べがある。文章として楽しいのはこの音色である。まるでジャズのように。陽水の歌だって内容はよくわからなくて、それでも好きになれるのはこの故であろうか。人生もそうであるのかも知れない。好きになれる人生がある。それは音色のある人生だろう。色もある。美しいと云うことはあるのであって、それは意味ではない。概念ではない。美しいと感じるのは好きと感じることだろう。それで良いのだと思う。それぞれ生きている。それぞれの色をしている。それぞれの音色がある。持って生まれたものだ。一切種智慧。これを無視した社会があった。かつてはそれが大切にされていた。どうして失ってしまったのか。そして腐敗したのか。ひとのやさしさも音色である。それが殺伐としてわからなくなってしまった。あるいは無視された。それをわからないもの達が支配したからだろう。やがてそれに気づく時を迎えた。それだけのことであったのかも知れない。それで、やっと生きてゆける時代を迎えつつある。言葉或いは文章にも音色がある。それが聞こえてくるかどうか。何か失われた大切なものとはそれだった。詐欺と暴力の時代がしばらく続いたので失いかけていた。今それが復活しようとしている。ある意味で文芸復興ルネッサンスである。良い時代が戻ってきた。ほっとしている。そしてこれまでの私の人生は無意味ではなかった。これはとても重要な内容を含んでいるように思われる。私の人生が何を意味し何を宿命として背負っていたか。まさに特殊潜行艇であり宇宙実験室であったとも云える。そしてここに至ってやっと自分が自分を赦せる器となったようだ。これで良いのだと思っている。なかなか良い出来だと思っている。


バランス

何事もバランスが大切だろう。地球も太陽系の中でバランスをとりながら公転している。月もバランスをとりながら地球の周りを回っている。月が地球の周りを回りながら地球に見せているのが面だけであるというのも面白い。さて、 サッカーを見ている。イランとメキシコだ。とてもアグレッシブである。ワールドカップである。そして思ったのがバランスだった。芸術家はある意味で作品を作るということは限りない情念の統御であるということが出来る。それで私生活が乱れる。軍隊もそうであるかも知れない。統率に対して対立するものがある。それでバランスがとれるのだろう。今世間はバランスがとれているだろうかって思った。野放し状態である。何でもありである。それに対するバランスがないのではないか。何もかも自由というわけにはいかないだろう。自由に対する何かが必要ではないか。そうしないと地球だって公転を維持できない。何もかも規制緩和ではなくて、悪しき規制を見直して新しく規制を考えるべきだという議論がある。正しいと思う。さて人生はどうか。アグレッシブに仕事しやさしく私生活する。それでバランスがとれると思う。今ワンサイドになってはいないだろうか。例えばお店にしてみればお客になめられていないか。お客の思い上がりがないか。またスタッフは身分に安住して甘えていないか。お客が来ないという。呼ばずして来るはずもない。仕事らしい仕事もせず唯お客が来るのを待っている。切り株の前の樵に等しい。甘えていないか。せっかくのチャンスが与えられているというのに。お客もスタッフも正しいあり方が問われている。詐欺及び暴力はお話にならない。ルール違反である。取り締まるしかない。さて、バランスのある人生及び生活でありたい。静と動である。そしてダイナミズムである。年齢は関係なくなってきた。何時までも勝負できる時代となったようだ。ところで人間は集団で狩りをする。それぞれの固有の能力を結集する。戦いは真剣勝負である。仕事は狩りである。その性格が強くなってきているだけかも知れない。それで勝ち組負け組ということにもなる。そうであるなら負けるわけにはゆかない。今も昔もそうであるのかも知れない。 教育が甘かったのかと思う。個々の人間の能力の差はある。教育はそれを発揮することを妨げたのだろうか。そして教育を無視した方々がむしろ社会では強いのか。何とも悲劇である。犠牲者はそのようにして生まれるのだろうか。しかし人間の個々のパワーは何か。そのエネルギーの差は何であるのか。情念の差であろう。眠れる情念もある。いつまでも眠っているわけではない。やさしく生きるのか。アグレッシブに生きるのか。若きウェルテルの悩みであろうか。あるいはハムレットである。眠っていては恋も出来ない。そして人間である。人間には人間のあり方がある。やさしさだけでは生きてゆけない。強いだけでは生きてゆけない。バランスである。どのように人間としてバランスをとるのか。素直に思うままに生きてゆける境涯がある。それを目指す。ここに教育がある。それは嘘のないこと。動物には嘘はなかった。動物に戻るわけではない。前提に戻る。そして人間として生きる。それは素直に生きるということである。素直とは嘘がないこと。神仏の受容するところである。敵に対しては強くあらねばなるまい。敵を見極めること。それも素直であることで見えてくる。見えてくるようになれば人生はバラ色である。味方も見えてくる。見えてくるまでの青春あるいは修行である。人生って面白いね。アグレッシブに生きる。やさしく生きる。その両立である。人生においてテニスをしていた頃の感覚が戻ってきた。一番良い時代の感覚である。この人生を取り戻せたようだ。まだまだチューンアップの必要はありそうだ。しかし十分に戦える感覚が戻ってきた。長い眠りの時代であった。楽しめそうだ。パステルカラーでスポーティな人生が戻りつつある。あまりにも長いモラトリアムであった。申し訳なくも思うが精一杯であった。それほど精錬すべき不純物があったということだ。今更ではあるが口惜しい気もする。しかし間に合ったようだ。日は亦昇る。そう確信している。少しかげりはあるがそれが亦良いではないか。天照らし風の吹く。それでいいではないか。この人生天晴れである。有頂天ではない有頂天である。自慢ではない。事実である。導かれていたとはいえ、試されたとはいえ、乗り越えたものが尋常ではない。誰もこれほどの試練はなかったであろう。よくぞ為し得たと自分でも不思議である。とんでもない可能性を切り開いたのではないだろうか。代々秘密の宿命であった。ある意味で絶大の達成感がある。だれもわかりはしない。しかし至福である。後は傷の癒えるのを待つのみである。時は必ず来ると信じていた。こうして至ってみれば言葉はない。まさか自分がこのような運命にあったなどと誰が知り得よう。宇宙と生命の不思議を確かに解明した。だれもわかりはしない。自分が自分であったとは。このように馬鹿げた話はない。もう恨んではいない。こころからすべてに感謝している。足りないのは現実だけだ。この現実も必ず満ちてくると信じている。それが歴史であると信じている。すでに達成したことがあるのだから。必ず結実すると信じている。戦艦大和は第四秘密ドックで建造された。秘密宇宙戦艦大和異常なし。私の夢は何だろうか。しばらく咲かすことの出来なかった花を咲かせる。すなわち法華経宿王華である。ある頃、明治の大馬鹿者達をなきものにすると書いた。それを聞いた人たちはうろたえていた。しかしもはや勝手なことは言わせない。今朝5:01am、 大分県中部を震源とする地震があった。新たな菩薩が涌出したか(法華経)。私はいつもの浜辺にいた。暴走族のバイクが二台いて五月蠅いと思っていた。呉は震度5弱で大きく報道された。今7:27amヘリコプターが数機旋回している。何も起こってはいない。一つの時代が終わり新しい時代が始まっている。明治以降の修復かと思ったら、あにはからんや、400年周期説が実行段階にはいるのであろうか。愚かな時代が終わる。知性の時代へシフトする。愚かであるが故に食い物にされた時代は終わる。それぞれが知性へ目覚める。そしてやさしさを理念とした平和国際社会建設が始まる。すでに始まっている。そこへスポットライトが当たる。良い時代となる。国際宇宙ステーション建設はその象徴である。 8:09am 先ほど北海道で震度3の地震があったという。北海道の屯田兵の多くは徳川ではなかったか。平家の落人はかつて何処へ入植したか。歴史の真実がわかり始めている。勝てば官軍負ければ賊軍は明治の考えである。かつての戦いは正義の戦いであった。勝敗等価であった。後世の歴史学者が己の精神の限界下で勝手な解釈をした。武士の意識を知らない方々であった。破れしは唯破れたのではない。譲ったのである。明治以降の愚かな支配精神が勝手な作文をした。そして教育した。日本本来の価値を無視した。或いはおとしめた。因って腐敗した。今その花が咲いている。しかし日本本来の種は遺っていた。法華経はそれを伝えていた。立花隆氏が『滅び行く国家』という本を出しているらしい。国家が滅ぶものか。滅ぶのは明治(下級精神あるいは卑怯商人)の支配である。『何でも見てやろう』という本もあった。今となっては何を見たというのか。もはや価値と価値との戦いにおいて負けるわけにはいかない。自ら省みて直くんば百万人といえども我行かん。すでに護り通した砦である。諸宿王華咲く頃までは。


2006年06月11日

次なる課題

もういいですね。これ以上の喜びはないところまで来たようです。私が初めて写経していた頃、筆を落としてしまい、それはお経典の上でした。しまったと思ったら、文字は佛であると言われているお経典の文字をかすめたものの無事でした。そしてそのかすめた文字が「天王佛」でした。私の時計は Air King です。学生の頃からですから既に三十年になります。父の形見と言えるものです。あらゆるサインがあり、それをサインと認めることが出来るかどうか。常に見守られているという実感があるかどうか。日月照らす。風の吹く。という時、それが事実であるかどうか。今、南無阿弥陀仏よりも南無妙法蓮華経がチカラがあるとして、それでは、それを唱える時、微風を感じるかどうか。このあたりが秘密です。おそらく祖先だろうと思われるのです。風の音にぞ驚かれぬるとするところです。もういいですね。重荷は降ろしました。そして、その声に従うことに致します。それが素直ということだと思われるのです。そしてやさしさへシフトできると思うのです。複雑を通ってシンプルへ。しあわせになれそうです。己に恥じるところなくんばすなわち吉と。春風が吹いてくるでしょうか。楽しみです。次なる課題です。 

今日はとても気持ちの良い一日でした。仕事に出かける途中、天応(てんのう)辺りで写真を一枚撮りました。 登山の練習場にもなっている岩山です。何とも仲のよい山だなって思いました(後で見るとピラミッドのようだね)。ところで日本は大丈夫だよ。何故か。秘密です。関!露堂々!


ITライフについて  

【高齢者と障害者の方々にやさしいインターネット】 高齢化社会の中で、インターネットを楽しみ、パソコン・ライフを実践することは、たとえば、かつて、新幹線ができたとき、 新幹線に乗りたい、といった気持ちを大切にして、つまり、自分の気持ちに素直になることではないでしょうか。 東京オリンピックがあったとき、カラーテレビで見たい、と思った頃の気持ちを。今、68歳の方も、まだ、 あと10年は働ける社会が、始まっています。だから、パソコンとインターネットを精一杯楽しむことをしてみましょう。しかし、 何事も、案内人がいると、楽で安全です。そこで、そのためのお手伝いができるなら、無上の喜びとするところです。また、 図らずも、障害を持ってしまった方も、パソコンをして、インターネットをして、それぞれが、楽しく、やさしく、 生きていける時代が始まりました。だから、みんなが、ほんとうの幸せを、もっと、楽しんでいい、と思われます。つまり、 「周りが幸せになれば、その中にいる、自分も、必ず、幸せである」という法則が実践されると、これが、「わかちあうこと」 であり、つまり、全体のレベルが上がることで、自分たちも、自然と楽な環境の中で生活してゆけるのです。一部の方だけが、 利益を得る時代は、もう昨日までのことです。だから、呉市だったら呉市中央公園へ出かけると、樹木がたくさんあって、美しく、 整備されていて、お散歩するには最高です。そこへ、パソコンを小脇に抱えて、あるいは、車椅子のひざの上において、 出かけることも、きっと楽しいことです。木漏れ日浴びて、そよ風吹いて。そして、小鳥たちが舞い降りてきます。もう、 高齢者の方も、障害をもっておられる方も、自分ごととして、インターネット社会へ、入っていける時です。その環境は整いました。 しかし、情報は自分で管理する、と言っても、それは難しいことです。それは専門家に任せて、自分たちは、この安全で楽しい、 そして最先端の技術であるインターネット空間を、思う存分享受し、豊かな、新しい暮らしを作り出していきましょう! インターネットは、私たち、庶民あるいは市民のものとなりました。【2004/11/20 Sat.】


●ITライフの始まり:【2005/10/16】友情は出会いから生まれることが多いです。しかし、幾多の戦いの中から生まれることもあるようです。 今、日本とアメリカは同盟ですね 。それぞれの国にはそれぞれの歴史があって、事情もある。時によっては相互理解ができなくて、 戦いともなった。しかし、その後で、お互い反省するところがあって、そして固い友情が生まれることもある。 戦いは人間の哀しい性でもありますね。人間も進化しています。幸せへと向けて。幸福論はいくつもありました。 その理念が実現されようとしています。人類の夢であったやさしさを理念とした世界がすぐそこにあるのですね。 常に手を差し伸べてくれていたのですね。21世紀って、とても素晴らしく、美しく、ありますように。すでにある宝石の発掘。 先哲へのアップリシーエイトをすることで、その道は既に開かれているのでした。その地図も見つかったように思われます。 宝は取り放題ですね。インターネットに於いてその情報は共有で良いのではないでしょうか。但し、 生活の手段としての諸権利は厳しく保護されるべきと思われます。何故かというと、以前にも増して、簡単に犯されるのですから。 その意味では、インターネット内での監視も肝要かと思われます。そして、市民が、安全に、自由に、 この新しい文化空間で往来できるといいなって思われます。インターネットは完成しています。 今までの試験段階は既に終わっています。だから、新しい秩序を必要としています。この完成されたインターネット空間は、一般の想像を絶しています。およそ、 一般の方の手の出せる世界ではありません。また、絶対の信頼を寄せて良い世界です。 21世紀の新しい世界が形成されているのです。故に、システム管理は専門家にお願いして、安心して楽しむことができる、と思われます。 これで良いと思われます。これから、いよいよ、夢に見た、ITライフの始まりです。この新しい文化に参加して、 人生を謳歌したいものですね


自覚

申し訳ないが天下は統一した。それは信長、秀吉、家康の三位一体である。新しい地平への一番乗りの故である。天下を取るには要件がある。家康もその祖先はさかのぼって六代であった。私の祖先は広島市中区区役所に六代が眠っていた。それを救い出したのは私だった。時代の物語の謎は解かれた。旧約聖書の秘密及び法華経の謎を自ら解いたものがあるか。またソクラテス、キリスト、孔子、ブッダが本当に言いたかったことは何であったか。神力である。すなわち卑弥呼の系譜である。クレイジーだね。しかし誰も目指しもしなかった。シュリーマンのように。そして実験は何処で為されたか。自己で為された。ジェンナーのように。そして世間の身勝手が明らかとなった。世間の方法論が悉く意味のないことが証明された。真実とは何か。見える世界と見えない世界があって、見える世界はむしろ見えない世界に従うということであった。しかし見えない世界も時を待っていた。見える世界である存在が自覚する時をであった。その為にあらゆる物語が遺されていた。あらゆるクラシック音楽が遺されていた。考えるヒントとして。小林秀雄も気づいていたことだった。しかし彼には条件としての身心清浄が足りなかった。中原中也に対する裏切りがあった。真実が開示されるための条件がある。それは少なくとも三十年間身心に悪を為さないことである。その中には処女を犯さないことを含む。やはりクレージーだね。しかしこれで勝負はあったのである。だれも刃向かえまい。かつて大林組を去った頃のことである。一人の医者がいた。彼は言った。人生は80パーセントの力で生きて十分だと。それに従った。しかし何をしてもだめだった。挙げ句どうなったか。自分たちは生活が身分において保障されている。それで80パーセントでも良いのだ。しかし庶民はどうか。二重三重に搾取される。当然破綻した。獅子は兎を追うにも全力を尽くすが自然である。今となってはその医者(国家)に人生損害賠償請求だ。故意亦は過失がある。本来法の保護に値する本来の価値(権利)を侵害し損害を発生せしめた違法性の事実がある。不法行為である。何を以て医者というか。笑わすではない。私にとってその気になれば解けない問題はなかった。かつてはそうだった。しかししばらくは世間に従った。そして知った。世間虚仮と。日月照らし、風の吹く境涯を知ってのことか。もはやこれまでである。周恩来主席であったであろうか。誰であったかは忘れた。日中の問題は後世に託すと。後世が解決するであろうと。今、後世の時代である。胡錦濤主席が来日の意思を示したと言われる。この意味わかるか。わかるなら日本の未来は明るい。(2006/06/11 1:11am NHK-AMニュースを聞きながら)[廣島大野、大竹はかつて小方、上田家の所領であったのではなかったか。]かつて禅の命脈は唯一、至道無難禅師~正受老人~白隠禅師によって保たれた。今日本精神大和のこころの命脈は誰によって保たれんとするか。まだ足りぬと申すか。まだ刃向かうか。世間一般、覚悟あってのことか。・・・知らないから世間と云うべきかな。それならそれで良いとするか。まるで透明人間だね。


2006年06月10日

パフィ外交

日本の女の子がアメリカで受容された。パフィのアニメが日本に逆輸入されている。アメリカの子供達がパフィの歌を日本語で歌っている。日本のイメージが変わった。侍、富士山、寿司、芸者ではなくなった。ポップで楽しい國というイメージとなった。それはそれでいいことである。併し日本の本質は別論である。サッカーワールドカップすなわちスポーツの醍醐味が始まった。日本選手は青きサムライとして出陣した。世界をフィールドにその成果は如何。監督ジーコはさすがである。ぎりぎり調整を間に合わせた。このぎりぎり間に合わせるということが秘密である(彼の行動理念は郷に入っては郷に従え。すなわち敵を知って己を知って百戦危うからず)。まだ完成はしていないだろう。フィールドで開始のホイッスルが吹かれるまで徹夜の作業は続くだろう。そして間に合うのである。一つのプロジェクトを達成する時は常にそうしたものだ。また、映画『スター・ウォーズ』のテーマは何であったか。第二次世界大戦(先進帝国主義国家群に対する後進文化国家による植民地再分割請求)を通してアメリカは日本の精神と対峙した。物理的には勝利を収めた。しかしアメリカはその後悩むことになる。そして最近になってその秘密も知ったのではないか。人類或いは人間として本当に大切なものは何であったかを。その答えが例えばドラマ『コンバット』にあった。部下を護る軍曹のあり方である。その姿の淵源は誰であったか。誰からエクスパイアされたものであったか。誰も知らない。日本精神のエートスの反映であった。父たるものの暗黙無言の愛の形であった。女子供にはわからぬ。しかし戦後雑草がはびこって愚かな精神の支配が増殖されこれらのエートスは葬り去られた。日本の美学が否定された。『十牛図』がある。日本の禅僧がヨーロッパで講義をしていた。概念を尽くして。しかし言われた。日本には『十牛図』という素晴らしいテキストがあるではないかと。灯台もと暗しである。日本人自体(世間一般)が気づいていない古来本来日本の価値がある。既に世界が気づいている。なのに世間一般は浮かれている。桑田佳祐などその権化である。勉學努力を否定して何を大きな事を言うか。昔より助平は田子作及び商人と決まっている(赤子のこころでなければ禅はわからぬ)。タモリ、サンマもそうである。軽薄を以て日本の品格をおとしめた。それが成功であるかのように錯覚させた。タケシはいじめの大将である。本来古来日本は憤っている。それに迎合したのが民放テレビである。知識階層は身分に安住し傍観した。腐敗の温床となった。ゆるされはしない。黄泉の意思である。(2006/0611 0:03amNHK-FMでジャズピアノトリオ演奏を聴きながら。ジャズピアノトリオの形を始めたのはバッド・パウエルだった。彼の代表作は『クレオパトラの夢』。彼は何を見ていたのだろう。何を思っていたのであろう。やがて彼は精神を病む。そして二度と娑婆世界に帰ってこなかった。ピアノと言えばデューク・ジョーダンがいる。彼の 『サマー・タイム』は何であったのか。彼はビジネスとしては成功しなかった。しかし彼はその後教鞭をとる。多くの師弟に彼はジャズの精神を教えた。『シグナル・セッションズ』。彼にとっては十分であった。バッハの『平均率』(P:リヒテル)。音楽の実験はすべて為されていた。ビートルズなど幼稚である。ビートルズはインドでラジニーシと邂逅した。そして自らの運命が何であったか知った。そして出来たのが『レット・イット・ビー』だった。これは世界ではそれほど売れなかった。日本ではよく売れた。所詮ラジニーシである。知れている。彼の実体は何であったか。麻薬及びフリーセックス。ビートルズもその縁の外ではない。その信奉者が世を支配した。腐敗は当然であった。これが事実である。当局諸氏、怠慢が過ぎる。勉学が足りない。)


『外交青書第49号』

【外交青書】外務省から。創刊は昭和32(1957)年。昭和31年に国連に加盟し、日本は世界の一員として再出発した。国際世界において日本がどうあるべきかについて広報として始まった。韓国・中国との関係について、竹島・尖閣諸島などの諸問題あり、否定的イメージが蔓延している。靖国神社の問題もそうである。しかし韓流ブームもあって芸能界の交流がある。韓国でデビューして成功する日本人がいるし、日本で多くの韓国の方が活躍している。中国でもミュージック界はそうである。民間の交流が進んでいる。貿易も中国との関係がアメリカを超えている。 中国での友好姉妹都市は314組に及び、アメリカに次ぐ。中国との交流は着実に進んでいる。次に、 日本が世界において関係が深いのはアフリカである。去年はアフリカの年と言われた。 国連で議論された7~8割がアフリカについてであった。日本は非常任理事国として議長ともなりリードしている。 ODAをこの3年間で3倍にすると総理も発言している。野口英世賞を作るとも発言している。アフリカ開発も日本の提案だ。 日本が常任理事国になりたい理由がある。常任理事国の決議は加盟国を拘束する。日本の平和に関わる議論には参加したい。情報も早い。 国際貢献のためには議論の段階から入っておく必要がある。戦後60年、平和国家としての取り組みをしてきた。 日本が軍事大国になることはない。周辺諸国は誤解している。その誤解も解きたい。この点、ジャーナリズムは包括的報道がない。 軍縮については日本が唯一の被爆国ということもあって音頭を取っている。すでに160か国の協力を取り付けている。外交は政府だけの仕事ではなくなった。例えば松井選手。パフィ。琴欧州。 プーケットのボランティア。全国書店及びインターネットで購入可。1890円。(2006/06/10 H-FMラジオより)


真実の自由

自分のあるべき姿が見つかったのだったら、それに向けて進むのがいい。信じた道が見つかったのなら真っ直ぐ進む。莫妄想だ。そして、しばらく終息を待つ。信じた自己が結晶するのを待つのだ。最大の敵は自己の内面に棲んでいる。持って生まれたもので、その性質は様々である。これを打ち倒さない限り、この世の幸せはない。過去において為した悪を背負っている。それを修正してはじめて新しい自分がこの世で幸せを得る。その後は今世でのおのが為したる業となる。持って生まれたものが複雑であればあるほど倒すのは難しい。しかしそれを倒せば必ず幸せがある。悟りとはこのことだった。その為の修行である。これを果たして自分の人生となる。しかし往々にしてこの作業をすることなく大人となる。過去の因縁に縛られる所以である。そして過去の自分を超えることはない。不幸に決まっている。そこへ至るまでの悲しみである。そこを突破すれば喜びしかない。さて、この形で結晶を急ごう。十分である。そしてこういったことは、過去より言われてきたことだった。例えば、

【アウレリウス】日々考えていることがあなたの精神を作っていく。何故なら魂は思索の色合いに染め上げられてしまうものだから。自己を掘り下げてみよ。そこには善の泉が流れている。掘り続けたまえ。そうすれば尽きることなく湧いてくるだろう。進むべき道がそこに横たわっているのにいつまでも勘ぐっている必要がどこにあるのか。道がはっきり見えるなら意気高らかに前進し、決して引き返すな。道がはっきりと分からないなら優れた助言を仰ぐまでそこで待っているがいい。善い人間とはいかにあるべきかなどという時間つぶしの議論はもう止めたほうがいい。それより自分がまず善い人間になることだ。誠実になるのに前口上など必要としない。自ずと明かになるものなのだ。本当に誠実な人ならその事実は額に刻まれ、声の調子にも現れるだろう。さながら愛されている人の一瞬の眼差しの中に愛する人への全てが語り尽くされるように。誠実さも一瞬にして瞳から輝き出るはずだ。誠実さや善良さというものは紛れもなく固有の香りを備えていて、近付いた人は否応なくそれを気付かされてしまう。不幸は自分の心の持ちようによって生まれる。

きよらかさというものがある。それへ向けて歩むことをしよう。その目的が確かなものと知ったなら。確信するまでの道草だった。モラトリアムだった。この道は確かな道である。そのまま歩めばいい。真実の道が見つかったようだ。もう迷わないことだ。自然が導いてくれている。『百鬼丸』というのもあった。自分探しの漫画だったと言っていい。アイデンティティの確立と言っていい。自己の完成と言っていい。この世に生まれた意味はここにある。その他のことはすべてこれを知らしめんが為と言っていい。長い魂の遍歴の中での一こまである。この道で良かったようだ。間違ってはいなかったようだ。自己の完成とは何か。過去の自分の悪を知り、それを精錬する。そして自己の善のみを抽出する。自分に克つということがこれである。それが達成された時が救いである。悟りである。善の種を蒔けば善の実が成る。久遠実状の種を蒔けば久遠実状の実が成る。そしてあらゆる教えが正しかったと知る瞬間が来る。そこが出発点となる。それ以降もそれ以前も導かれていることを確信する。この確信を得て生きることが素直に生きることである。素直に生きることの内実である。これが真実の道である。こころの道である。この細い道はなかなか見つからない。しかし確かに過去より未来へ続いている。この道を見つけることだ。花が咲けば蝶も舞う。花と咲くとはこの自己の花を咲かせることだ。それまでの青春である。確かな青春である。自分で探すしかない。探すべきである。自己の花が何であるのか。それを探す。醜いアヒルの子であることもある。星の王子様であることもある。その可能性は誰もが持っている。DNAのどこかにあるはずだ。それを見つける。今までそのお手本がなかった。そして間違えた自由を追いかけた。本当の自由がある。本当の理念がある。人類の夢がある。願いがある。祈りがある。静かに耳を傾けることだ。聞こえてくるだろう。遠くで鐘が鳴っている。その鐘の美しい音色に気づくことだ。如是相。すべて顔に現れている。あらゆる表現の自由はこころの現れだ。文章だってこころの表現だ。やさしくあってすべては解決する。そのやさしさへ向けてこころを整えていく。必ず道が開ける。細くて見えない道だけれど確かに存在している。その道を見つけることだ。必ず到達することが出来る。過去より約束された道がある。人生とはこれだった。これでいい。 今の自分はまだその過程である。だから諦めないことである。夜明けは近い。自己の確立。確立するべき自己がある。確立が達成された時がおのが花が咲く時である。美しい花を咲かそう。清らかな花を咲かそう。その花を咲かせた時、仲間が気づいてくれる。そして自分の求めた世界が開ける。自由を開くのは自分である。自分を救うのは自分である。汝自身を知るとはこのことだった。ほかの誰でもない。自分が自分を知る。その旅だった。私は一つの成就を迎えたのかも知れない。一つの花が咲いたのかも知れない。もう自分を信じて良いようだ。自然が導いてくれている。黄泉も通らねばならなかった。過去の自分も通らねばならなかった。 穏やかな世界が開けてきた。これで穏やかさへと結晶していく。これからの課題である。個々の存在が穏やかに結晶する。そこに世界の救いがある。生命体としてのゴールである。楽しいばかりのゴールである。喜びにあふれる世界である。やがてその日が来る。その日までの旅である。信じて良い。信じるしかない。不可思議の世界である。ゴールはある。ゴールがあることを知ることで日常に耐えることが出来る。このゴールを信じる。そして進む。一朝一夕には到達しない。過去からの魂の遍歴の一こまだから。風景が満ちてくる。自然が祝福している。日月照らす。風の吹く。そうした境涯がある。確かにある。これを伝えていく。概念ではない。自分の体験である。象牙の塔にいてはわからない。空閑=荒野にいてわかる。自然の導きがある。それにしたがうことが素直ということである。それに従った時、宇宙自然に受容される。そして祝福があって、その後は守護される。だれもがそうである。だれもがその種を持っている。しかし生まれながらに悪の種も持っている。選択の自由。どちらを選択するのか。いつも問われている。日々の思考と行為がおのがDNAをも書き換えている。いい種を遺そうではないか。そのためにはどうあるべきか。明らかである。腐敗は嫌だよね。未来は明るい。未来は今の連続。為すべきことがある。為してはいけないことがある。為してはいけないことを為してゆけば人類だって淘汰される。自然は困らない。困るのは人類。ここに考えるべき事がある。かつて原住民は知っていた。そしてやさしかった。それが故に征服されたのではなかったか。強いとは何を以て強いというか。永遠の生命を知ってそれを生きる。黄泉へ行けばこの現実と逆さまだ。真理と真実の世界がある。真理と真実に生きることが本来の勝ちである。仏法は勝つ。自分に克つ。王法は儲ける。自己を確立する。自分に克つ。自分に克って、はじめて自分の人生が始まる。それまでの青春である。修行である。進むべき道が明らかとなった。細くて険しい道だけれど確かに歩み通した方々もいる。自分に負けないことだ。羅針盤は自分のこころである。羅針盤としてのこころを磨く。自然の導きがわかるようになる。祝福もわかる。守護もわかる。そして進む。世界は個々の存在の集まり。信じた道を進んでいい。間違えてもいい。間違いを間違いと知って改めればいい。誰もが歩む道である。恐れることは何もない。自分に克つことで自分の人生は始まる。その人生は喜びに満ちている。日々選択する。そして進む。いつか必ず開ける。幸せが待っている。愛する人とその旅をしている。今はまだその過程。歩み通すことだ。必ず至ることが出来る。真実の自由が待っている。解脱涅槃は本来の自由である。老後こそニルバーナである。人生を歩み通したご褒美である。自分が優しくなることで周囲もなごむ。その中にいる自分もやさしさに包まれている。これが人生である。やさしさへ向けての旅をしている。幸せへ向けての旅をしている。自分の足で歩くしかない。歩くことで道標も見つかる。道標が信じれるならその道を進む。間違えたら間違えた地点まで引き返す。そしてまた歩み始める。楽しいではないか。良い人生である。十分に祝福されている。さて、新しい時代は開けた。これまで夢だった。これから実現する。何故か。新しい一歩を現実に踏み出したからである。この一歩を大切にしよう。これまでの道程を振り返る。そして確かな夢を確認する。そして整理する。そこから新たに歩み始める。自分の夢は何か。じぶんはどんな自分になりたいのか。どんな自分でありたいのか。人生は自分の一個の彫像に等しい。どのような像を彫りたいのか。イメージすることだ。そして勇気をふるってはじめの鑿をふるう。どのような時代にしたいのか。意思を確定する。確定された意思はその実現を祖先が手伝う。黄泉が助力する。そのためにはどうあるべきか。祖先及び黄泉に好かれる自分であることだ。自然宇宙の守護に値する自分になることだ。それはどのようにして成就するか。身心清浄。その為の青春である。そのための修行である。青春及び修行そのものに価値があるのではない。青春及び修行を通して自己を知る。中途半端ではだめだ。何事も徹底する必要がある。一つの課題を仕上げて次の課題が来る。そのようにして人生の階梯を上昇する。それが人生である。過去を修正し未来へつなげる。究極は何か。宇宙自然に受容され祝福され守護されることだ。それが真実の自由である。仮の自由に酔ってはいないか。それは真実の自由を指し示す仮の自由に過ぎない。本当の自由はある。それが見つかった。方向性は定まった。さぁ、出発である。これからまた長い旅が始まる。モーゼの杖が改めてつかれた。未来は明るい。明るい未来へ進もうではないか。未来を担うのは今の我々である。勇気を持って。勇気の前に自信が必要である。目的が定まれば手段はいくらでもある。資源は地球、無限である。自信は確信を通してやってくる。究極の確信とは何か。黄泉の助力があって、宇宙自然に守護されているという自覚である。この自覚へどのようにして至るか。迷いはどのようにして払拭するか。今伝えん。一つの時代が終わった。終わりは始まりである。出発である。 黄泉は統一されている。日月照らす。風の吹く。刃向かうは淘汰する。宇宙自然黄泉が淘汰する。人類の夢の実現の旅の始まりの故である。 一つの時代が成就した。物質文明として。それが終わりである。新しい地平が切り開かれている。21世紀こころの大地である。ここをこれより開拓する。新しい始まりである。人類の夢見た夢である。理念はやさしさ。愛と平和はその手段である。終わりの始めとはこの意味である。新しいパラダイムは確立された。この方向において間違いはない。人類の英知である。良識である。諸教育の成果である。愚かさからの脱却の時を迎えた。これまでの腐敗がその土壌である。ここにそれぞれの花を咲かせる。その為の種まきの時である。新しい地平は開かれた。良い種を蒔こうではないか。物質文明からの脱却。未来は明るい。孤独特殊潜行艇は浮上した。孤高天下無敵宇宙戦艦大和進路良し。


2006年06月09日

自然は毅然としている。いつまでもぼんやりしていては埒は開かない。世間を見ているとね、ぼんやりしている方が多いね。モラトリアムはある。目覚める時までである。目覚めてから何をするか。何に目覚めるのか。そして何をしてきたのか。真実は自然である。勝手になめてもらっては困る。世間が自然ではない。 自然が自覚する時がある。容赦しない。世間の勝手が過ぎた。その間身分に安住し、怠慢怠惰であった。それ故の格差歴然としている。もはや大きな事は言わせない。菩薩も地より涌出し、空閑(荒野)に現出している。何を求めての人生であるか。目的は達成するためにある。真実が何であるか。知る時が来た。秘密護持されたる真実の砦、譲りはしない。歌は概念ではない。品格存在の表現である。小鳥の囀るは歌である。言葉はわからなくていい。純粋精神が歌えばいい。迦陵頻迦。どのような声をしているのか。自らの声を恥ずるがいい。磨くべきものがある。声も然り。人格も然り。心も然り。人間として。この世でどれだけ磨けるか。来世の幸せの鍵である。この世に生まれた意味がある。過去からの約束或いは宿題がある。一つの課題を果たして次の課題が来る。それらを果たさずして何をしているのか。何を言っているのか。何を流布しているのか。何を増殖しているのか。特にテレビ芸能界に問いたい。自称セレブ諸氏に問いたい。何を以てセレブというか。拝金主義がセレブではあるまい。世を惑わす事なかれ。公共の電波である。(2006/06/09 6:54am NHK-FM リヒテル指揮、音楽の父バッハのカンタータを聴きながら) さて、雑草の天下となった。雑草がはびこって真実の花が咲けない時となった。それで雑草を根絶やしにするのではないですね。雑草の手入れですね。すなわち教育である。教育の理念はここにある。雑草も当然生きる権利がある。しばらく横暴が過ぎただけだ。これも一過性である。それぞれの花が咲けばいい。しばらく真実の花が咲けなかったのは事実である。真実の花も咲けるようにしなくてはならない。雑草も咲いていい。やがて雑草も真実の花となる。愛も徳も高きより低きへ流れる。教育の原理がここにある。ここに秩序がある。しばらく失われていた。何故か。教育が自信を失っていたからである。教育が自らのアイデンティティを失っていたからである。教育に愛と徳が失われていた。雑草(暴力・野蛮)の横暴があったのも事実である。それが自由だと思ったのである(野蛮・暴力は克服されるべきものである。それはそれぞれの内面において対峙して克ち従えることによってなされる。教えるべきは人間とはかくも野蛮であることであり、果たすべきはその克服であり、その後に永遠の幸せが待っていることである。世の教育はこれをまだ知らない)。しかしこの事実を認識して反省する。あるべき方向性を確認する。そのためには、日本古来の精神に学ぶ。古来、日本は日本である。しばらく見失っていた大和のこころがある。すなわち神仏に守護される故に本来の強いが故のやさしく明るくちゃめっけある情緒洗練された大和魂と大和撫子である。復古ではない。新しく学習された大和のこころがある。さて戦後六十年或いは明治以降の疑いは晴れた。自信を持って進もうではないか。日本として。日本は日本である。歴史的に現存する最も古き國である(古代エジプト及びローマの末裔はいない。ヨーロッパはゲルマン民族大移動後のことである。中国は王朝が入れ替わっている。ここに最も古きというは文明文化継続維持国家としてである。すなわち日本こそ英知の宝庫である。発掘するべき宝が眠っている。それは情緒感性において顕著である。やさしさの秘密は日本にある。世界平和の指針は日本にある。それは洗練であり野蛮ではない。野蛮を克服する鍵が日本にある。西洋においてはクラシック音楽である。人間の目指すべき精神情緒のあり方が秘められている。例えばセレナードすなわち小夜曲)。幾多の試練もあった。もういいではないか。晴れの國日本の発進である。未来は明るい。明るきから明るきへ約束されている。黄泉もゆるした。黄泉の決定である。穏やかな旋律が流れてきた。モーツァルトである。慰めのシャワーである。(2006/06/09 7:27am NHK-FMを聴きながら。今日は妹の誕生日である。名は土井則子。昭亮(あきのり)の子であるから則子と名付けられた。黄泉より守護されている。黄泉の秩序である。黄泉に帰ればわかる。昭和39年6月9日生まれ。姉は三浦文子。昭和29年7月23日生まれ。文月の文の日の生まれである。母共々姉妹にはお世話になった。助けてもらった。お礼申し上げる。どちらも大阪在住である。)ラジオから流れてきたのは、モーツァルト弦楽五重奏曲ハ長調。この曲については、ほこらかで王者のようで宿命をはらんでいるとアインシュタインが言ったそうだ。冗談が好きでいたずら好きなのがモーツァルトだった。(8:10am)さて、日本の秘密を知っていた方々の例として、コルトレーンがいるね。 Japanという三枚組のレコードは何であったか。コルトレーンは神を求めた。あのような演奏をしていると死んでしまうと言われた(同じくJAZZにビル・エヴァンスのThe Lastがある。既に彼は命を燃焼していた。最期の録音の後病院に担ぎ込まれた。そのまま亡くなった。またトルストイの最期はどうであったか。伴侶は悪妻と名高い。彼は家を出た。そしてある駅舎で没した。おそらく駅員にやさしく看取られたことであろう。あたたかい毛布も掛けてもらったことだろう。やさしさを知ったことだろう。道元曰く。薪には薪の命がある。灰には灰の命がある。と)。吉田拓郎の『人間なんて』というエレックレコードに等しいのかも知れない。また、スモーキンオンザウオーターで有名なロックバンドの東京公演がある。クリュイタンス・パリ音楽院の『幻想交響曲』東京公演もそうだった。スティービー・ワンダーの『愛の園』は日本語で子供達が歌った。そろそろ気づく頃だよ。平和の國日本に使命がある。原爆をも克服した不思議の國日本である。何を迷っているのかな。もう迷ってはいないよ。今喜びの顔をしているものがいる。今悲しい顔をしたものがいる。険しい顔をしたものがいる。ぼんやりした顔をしたものがいる。それぞれの花である。今笑っている顔がある。誰のお陰であろうか。私の家には主たる柱が三本ある。店にあるのは桜。座敷にあるのは椰子。二階にあるのは黒檀である。この柱、故無きにあらず。どの花を咲かせるか。私にとって難問であった。併しそれをも解いた。すべて咲く。代々の約束である。二階への階段は十一段である。因と縁との関係も解いた。この世にそれ以外に何もありはしない。約束を破ればワルハラ城も焼け落ちる。金銭債務は債権法上別論である。何を以て金銭に縛られるか。或いは縛るか。譲渡担保。仮登記担保。金融関係者の勝手が過ぎた。何をしてきたのか。ゆるされはしない。維摩黙雷。衆生病む故に我病んだ。そして善財童子の旅に出た。浦島太郎となって帰ってきた。すると世はかくも腐敗している。枯れ木に花を咲かせる花咲じじいとなるか。世を腐敗させた敵は討つ。方法はいくらでもある。黄泉が動く。すでに解き放たれた黄泉が全軍動き始めている。私の青春は終わってはいない。夢は尽きない。この砦は護る。折られた螺鈿の槍一本で。三十五年、護り通した砦である。ところで、某大臣はNHK-FMを廃止するべきであると言ったとか。残念だね。日本の感性を持ち合わせていない方なのだろうか。しっぽを出したね。国立大学の価値も認めない方だ。それほど民間が良いのか。私にはわからない。國でなければ護れない価値がある。それがわからないというなら仕方ない。やはり世も末だ。しかし終わりは始まりだ。 さて、悪い因縁は悉く切った方が良い。何の得にもならない。自分を通して浄化したものは良い。新たな悪因縁は作らぬ事だ。そして身の回りの整理に入ろうと思う。探していたあるべき自分は見つかった。汝自身を知れとばかりに。新たな第一歩を踏み出すことにしよう。これまではこれまでである。一切引き受けるしかないではないか。自己の処した人生である。自分で背負うしかない。重荷は降ろしたがまだ荷物はありそうだ。それほど重くはない。十分に担げる重さである。覚悟は決まっている。己を生きるしかない。自由は得たようだ。最難関はやっと突破したようだ。未知なる大地が広がっている。雄大である。自由の空間である。悪を為す事なかれ。善を修して奉行すべし。歓喜の歌を歌いながら。NHK-FMではシューマンの交響曲「春」が流れている。この人生多少のミスはあったが、結果として間違いはなかったようだ。すべてに感謝する。マーラーは言った。何時か私の時代が来ると。私もそう願っていた。私の時代が来たのかも知れない。そう思っている。苦節三十五年。無門関第35則『倩女離魂』の旅は終えたのだろうか。人知れず生きてきた。そして思う。これで良かったんだと。やっと私は私を取り戻せると。それ故自分を咲くのみである。所詮敵と味方の世の中である。その見極めをしながら素直に生きてゆければいい。犠牲になることはない。自ら食事はしなくてはならない。それだけのことである。そして、やがて伴侶も現れる。そして新たな幸せ街道を歩む。それだけのことである。それ以上でもそれ以下でもない。それがこの世の生である。この世を離れて生きることは出来ない。新たな地図が見つかった。それだけのことである。さて虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという。しかし名も残さなくても良いのかも知れない。まさに捨て石として生きる人生もある。その捨て石の堆積が厳然とあるものだよ。ダビンチも然り。当時の英知の堆積の上に名を残したに過ぎない。それぞれ人類の営みの中で何かを一つ付け加えているだけだよ。それで良いと思う。人知れず無銘の扁額もあるのだから。その意味であまり思い上がらないことだ。日本正統秘史だってある。むしろ名をなしたるは氷山の一角だ。ここにも謙虚さが必要なようだね。お客様は神ではない。客の中に神がいるかも知れないということだね。


2006年06月08日

やさしさのメカニズム

重荷を降ろして楽になる。常に明るく。宇宙自然の守護に身を委ねる。そして自らの仕事をする。絶対の安堵と絶対の強さ。そして自ら怒ってはならないことを知る。何が起こるかわからぬ。過去よりの因縁である。己のありようが宇宙自然に反射する。己のありようは佛であるのか。それとも邪であるのか。因って悪いことはすべて自分が原因であり、良いことはすべて佛さんの故となる。仏道をあゆむことで宇宙自然もなごむ。やさしさのメカニズムである。険峻な岩山もやがて老体山となる。すなわちまるくなる。心次第だね。気持ちのあり方だね。やさしくなるには絶対の強さを自覚する。絶対の強さとは何故か。神仏宇宙自然の守護を得る故だ。そのためにはどうあるべきか。少なくとも三十年、悪を為さない。正直である。嘘がない。人を騙さない。奪われてばかりである(ヨブ記)。ところで私の本籍は6丁目29番地だった。私の誕生日は4月11日。6,2,9,4,11→西向く士だね。どうでもいいか。いくらでも証明できる。真実は金太郎飴だ。どこを切っても真実である。至り着いた以上、上がりであり、何をしても勝負にならない。元々勝負にならなかったはずであった。格が違うはずであった。しかし世間に合わそうとしていたのだった。自分まで壊してね。どうする?知らんかったとはいえ責任重いね。一括請求だ!世間の勝手が過ぎた事実がある。すっかり騙されていたよ。ゆるしはしない。今日は乾杯だ。今日も一人でね。カミュのナポレオンの封を切ったよ。うまいね。勿論ストレートだ。何もかもばかばかしくなってくる。何でここまで悩んだんだろうって。ま、みんな悩んで大きくなったというコマーシャルもあったね。本当に楽になれた。生きていて好かった。今も昔も。今、主権在民だ。昔は・・・。どうでもいいけどね。良い時代にしようぜ。既にパラダイムは書いたし、時代の証明もしたはずだ。逆らうも良し、信ずるも良し、刃向かうも良し・・・。あとは風に任せたよ。もう十分だ。BGMはベートーベン作曲ピアノ協奏曲第5番『皇帝』(P:バックハウス)。至福の時が流れている。外は雨が降っている。いつものようにコンビニのポプラへ行く気になれない。何を買いに行くか。キリンの酎ハイレモン。それを片手に波止場で夜の港を眺める。海と夜空そして風景と語る。毎夜の楽しみである。ここで台風をなだめたこともある。海に手を漬けてね。遠くに製鋼所の炎がある。ターナーの風景がある。かつてこの波止場で台風の目を見たことがある。まるく晴れた小さな空間があって、その青い空の中を白い雲が猛スピードで飛んでいく。岸壁に置かれていたブイの上に上がって見たのだったろうか。今思えば危険な遊びだった。結構冒険的遊びをしている。痛い目にも何度か遭っている。東京へ行こうとして乗車した新幹線と台風がおいかけっこしたこともあった。叫んだら豪雨となって雷が落ちたこともあった。火事にしても台風にしても何故か自分との因縁を感じたことがあった。罰のこともあるし慰めとしてのこともあった。何かを知らしめんが為に。しかしこうして生きている。それでいいではないか。さほど物理的けんかはしていない。しなくて良かったと思っている。したら大変なことになっていただろうね。 子供の頃から自分が怖かったのかも知れない。その怖さはだれにもわからない。次元が違っている。云えないことが多すぎる。守護する黄泉が動くということである。すべては知らしめんが為にである。何を知らしめんとするか。黄泉の存在をである。佛さんに懺悔しておこう。宇宙自然事実と連動した魂がある。これからは楽に生きることにする。それが勤めだと思う。やさしさのメカニズムを実践する。それで足りている。これ以上の喜びはない。神仏の守護、いいものですよ。皆さんもこぞって目指されんことを。しかし一朝一夕で成就するものではない。代々の魂の遍歴があっての故である。この世で悪を為してこの世での成仏はない。その意味で瀬戸内寂聴氏も茶番である。出家すればそれで良いというものではない。その後何を吹聴しているのか。源氏物語を現代語訳して何になると言うのか。世間はそれで何を楽しみにしているのか。源氏物語の神髄はその文体にある。すなわち人格品格の表現である。What's up? 元気です。父と母。母の勝ちかも知れない。海彦と山彦の物語。穏やかさの勝ちだね。しかし穏やかさとは唯穏やかなのではない。激しさを克服した穏やかさがある。過去において。それが洗練ということかも知れぬ。ためすべきは自分の角だね。何時までも口角泡しても詮ない。やさしさですべては解決するよ。ほんとだよ。選挙の実体を暴こうか。池田行彦氏が最期の選挙で何をしたか。知らないわけではない。その時対抗馬の選挙事務局長は私だった。相手が悪かったね。こちらは史上最高にきれいな選挙だった。お金がなかっただけだけど。いろんなものを見たよ。私にあらゆる事をしろと進言した方は後で家が火事になって焼死したね。それぞれの選挙仲間は勝手なことをするので、私は途中でばかばかしくなってしまったけどね。現広島県知事の選挙だって裏で何があったかも知ってるよ。すなわち諸県議会議員間で。嘘が多すぎはしないか。勿論風評の限りだけれど。金権選挙の実体。庶民は知らないことが多すぎる。しかしね。それは一部の方々の横暴だ。本末転倒した方々のね。選挙なんて茶番劇以下だ。何時までも真実を愚弄した方々がのさばることが出来るわけではない。何時かは真実が目覚める約束だった。目覚めるまでが謎だった。竹下登氏が失脚した時何があったか。検察との司法取引があった。主権在民である。主権を愚弄していないか。世間一般が大人と称して何をしているか。腐敗。不思議な少年は浦島太郎で驚いたよ。世間では不倫が当然となった。世も末だ。因って終わりだ。終わりは始まり。淘汰の後で。ノアの洪水の後で。純粋な精神がまだ存在していることをお忘れ無きように。腐敗した方々の天下は終わらせる所存であると聞いている。善意とは事実を知らないことだ。悪意とは事実を知っていることだ。知って何をしているのか。そろそろ年貢の納め時だね。何時から市役所が世襲制となったのか。権力は腐敗する。因って三権分立である(モンテスキュー「法の精神」)。人間の我が身大事の欲得が裁かれる時が来ている。それぞれ身と心で犯した罪が裁かれる。容赦ない。自らの処した人生である。他を恨む事なかれ。すべて天に記録されている。すべて見られている。聞かれている。自ら蒔いた種の結果を自ら刈らねばならぬ。黄泉の掟である。善因善果。悪因悪果。楽は楽の種。苦は苦の種。楽あらば楽あり。苦あらば苦あり。楽は苦の種にあらず。苦は楽の種にあらず。即非にあらず。即是である。即非が進化して即是となる。世間の思い違い勘違い思い上がり。真実は真実である。嘘は嘘である。嘘が方便となるは佛の境涯である。佛にあらずして嘘が方便となることはない。佛は救わんが為に方便する。もはや世間本末転倒自分勝手身勝手我が儘自分計算、これより通さず。黄泉の意思である。黄泉もこの時を待っていた。宇宙自然事実が証明している。誰も知りはしない。知らないからといって真実がないわけではない。知っても知らいでも真実は厳然として真実である。宇宙自然に秩序がある。掟がある。それを破ればどうなるか。地獄である。いつまでも弱肉強食動物でいたいのか。上には上がある。思い知りたいのか。懺悔あらばゆるされる。自然宇宙は自ら懺悔反省するものに対して寛大である。敢えて刃向かえばどうなるか。刃向かってみるがいい。過去よりの約束、今、果たさん。黄泉より空手にて生還である。黄泉を従え見参している。因縁が笑っている。真実は自ら手を下すことはない。宇宙自然黄泉が動く。それぞれおのが心に問うがいい。かつて京都を一人旅したことがある。嵯峨野の辺りであったろうか。しょうしょうと雨が降っていた。やさしい雨だった。雨も知らしめんが為に降る。激しい雨か。やさしい雨か。人生も然り。


2006年06月07日

真実の花

真実を見つけたもの達は、真実の歌を歌い始める。それしか自分の仕事はないと知る。天国と地獄は隣り合わせである。命を賭けて知ることが出来る世界がある。真実の世界である。それを知ったその時から真実の世界に住む。それまでは教えに過ぎなかったことが事実真実であることを知る。そして真実のやさしさに憩う。慰むるる。そして言葉は真実の言葉となる。すなわちロゴスである。蕩々と流れ来る。ルソーの『告白』に等しい。あるいは、祖父が絵を描けば、あるいは写真を手本に陶器にすれば、自由自在の意匠となったように、言葉が形となる。そしてその言葉が詩となる。自然を歌う。小鳥のさえずりに等しい。そうした人生もある。世間一般のあずかり知らぬ古来大和のうたごころである。所詮気づくまでの青春である。修行である。青春及び修行それ自体に価値があるのではない。さなぎのように通らねばならないだけである。しかし古来大和の歌心がほろびつつある。何故か。雑草繁茂の故である。これを遺したいのか。失って良いのか。各々の選択だ。気づくべきは己自身である。持って生まれた種がある。己の分際がある。過去より一続きの魂の遍歴の中でどの花を咲かせるのか。『悪の華』か。それぞれのDNAに問うがいい。それぞれ繁茂を目指す。戦後ゆるされた自由を本来の自由と思っている。本末転倒である。己自身を自覚する。もはや惑いはしない。因って大人である。善と悪との基準は自分自身の中にある。己に恥じるところなければ死をも恐れることはない。それで切腹もあった。祖先黄泉に従う。汚れた世間に染まることはない。敵は討つ。黄泉の守護、信ずるに値する。少なくとも三十年、悪なさざるによって真実は開示される。求めた夢が実現する。何を夢見ているのか。夢は夢である。画餅は食せない。真実の世界はある。喜びとやすらぎに満ちている。この世の幸せとは何か。あくせくしてはいないか。すべては知らしめんが為である。知って初めて確信する。至って初めてわかる。何がわかるのか。自己自身である。祖先の導きである。祖先の願いがある。それを果たすために生まれてきている。祖先の夢を今実現する。世間は何をしているのだろう。自己を知り、生まれた喜びを知る。すべてが意味を持つ瞬間がある。幾度試せども果たせなかった夢も何時かは実現する。あらゆる条件が整う時である。切り札はそろった。今となってはすべてに感謝している。そして意思がチカラとなる。この世は一つである。今も昔も一つである。現象としての明と暗。陽と陰。天国と地獄は隣り合わせである。どちらの世界に住みたいのか。地獄から逃れることが出来るなら天国に入れる。門は何処にでもある。入ってはどうか。人生は一枚のペルシア絨毯に等しい。縦の糸。横の糸。その織りなす綾。悲しみの涙も織り込まれているだろう。それで良いのである。織り上げればいい。織り上げるのが人生である。そして織り上がった時自分が何者であったかがわかる。種を得てその花が何であったかわかる。そして蒔く。良い種を蒔く。悪い種は淘汰する。それが文化文明の歴史である。見るものはそこに真実を見る。見えないものは見えない。見えないのに大きな事を言っている。そして間違う。間違っても間違いとわからない。それが世間である。愚かである。どうなるか。淘汰される。時々の思念と行為の織りなす綾。それが人生である。こうして真実の詩人が誕生する。真実の詩人が誕生する時、それまでの嘘が暴かれる。日が昇れば夜の星は見えない。山に登ればすべて見渡せる。途中からは一部しか見えない。詩人は宇宙自然のすべてを見て言葉にする。仏語がわからぬ所以である。その言葉はロゴスとなる。そして宇宙に受容される。そして宇宙を規定する。カラスも白いと云えば白くなる。真実の詩人のチカラである。真実の詩人が現れた時、これまでの物語の謎がすべて解かれて意味を持つ。そして時代が代わる。新しい物語が始まる。それは回り舞台のようである。歴史はこのようにして流れる。今も昔も。真実が開示される時がある。それを目の当たりにする時がある。今がその時である。あらゆる秘密が現れる。そして自己を知る。そして新しい方向性が定まる。大法輪が転ぜられる。パラダイムの変換が起こる。400年周期説。旧約聖書に秘められていた。世界が一つの方向性を得る。そして様々な物語が始まる。それぞれが原点回帰の旅に出る。それは自己探しの旅である。こうして時代は巡る。今、始まりの時である。さてどのようにしたいのか。どのようにするのか。具体的設計図を引く時である。それはひとつの洪々たる創世記である。新しい時代の開闢である。万物の霊長人間の特権である。はるか昔より秘密護持されたる種今開花す。一切種智慧(法華経)を知る時である。世界は今も昔も一つである。そして秩序がある。本来の自分に戻る。それだけで十分である。世の犠牲となることはない。真実の自己を生きればいい。真実の花を咲かせればいい。いつも言われた。あんたは馬鹿だ。お人好しだ。だから騙される。奪われる。それでいいではないか。真実は奪われはしない。いつもの浜辺にいた。大鳥が三羽飛び去った。何処へ行くのだろう。何処に帰るのだろう。「に」と「へ」。ハニホヘトイロハ。12345678。24。西へ。すなわち西域。目指すは聖域である。第二位は定位である(連合艦隊における「霧島」。その姿は美しい。霧島→敷島→廣島。日本はいい島だ。四季=色。色即是空。自然色々に咲きそう。様々な花があっていい。本来純粋大和乃花もあっていい。一切種智慧と宿王華が法華経の神髄。大和復活。日本復興)。(2006/06/07 5:15am) NHK-AMから曲が流れてきた。そのタイトルは"You can go !"。can=may。許可である。東京特許許可局。本来の自由達が羽ばたく時が来たようだ。勇気を持って飛び立とうではないか。産業経済史として貿易を左右した船舶造船技術発展の歴史は舵の歴史であった。さて、新しい舵でいよいよ面舵一杯である。舵は切られた。もはや後戻りはない。信じる道を進むしかない。過去はすべて失敗に帰した。新しい夢を求めての旅の開始である。法華経第七『化城諭品』。化城よさらば。真実の城を目指す。(NHK-FM ピアノ協奏曲を聴きながら・・・クラシック音楽はマーラーで終わっていたのかと思っていた。さにあらず。続行中である。しかし現代音楽は何の鏡でろうか。時代の叫びである。時は代わった。改めて穏やかで荘厳で美しい調べが戻ってくれるだろうか。精神の音楽クラシック復活を待っている。 2006/06/07 7:51am)NHK-AMより次に流れてきたのは、「missing you」。I miss you.というのは「あなたを失って悲しい」という意味。失ってはいない。いつもそばにいてくれる。すなわちスタンドバイミー。あるいはゴースト。シャガールのみた夢。あるいはシューマンの永遠の恋(ブラームスは何故複雑か)。それが真実の愛である。見えない世界でささやく。見えない世界でつながっている。世界は一つとはこれを意味している。次に流れてきたのが「I love your smile.」。複雑な思念などもう要らない。重荷は降ろそう。鳥が歌い、花が咲く。そのように生きればいい。風の吹く。月の輝く。それまでの複雑である。素顔のままで。今の自分で十分だ。良い一日となりそうだ。笑顔がこぼれる日となりそうだ。穏やかさを取り戻す。世間の横暴の中でずいぶんと長い間忘れていた穏やかさだ。何時の頃からだろうか。私はかつて大林組に乗船した。嵐は大林組を去ってからのことだろうか。その後救助船は来なかった。来るのはサメばかりだった。その後私は漂流した。今もそうである。私にとってあまりに長い世間の嵐であった。穏やかな陽がさしている。自然回帰。夢は果たした。時は来た。敵は討つ。自己の内面の愚かな蛇にトドメを刺す。・・・ラジオからは、チューリップの「青春の影」がかかっている。何とも云えないね。朝方に聞いたのは、CDでムーディーブルース「セブンス・ソジャーン」のオープニングとエンディングだった。まさに青春の頃だった。今もその中にいる。それで良いのだと思う。もう考えなくて良いんだと思う。Take it easy! だね。まだまだ馬力はある。負けはしない。最大の敵は倒した。もう大丈夫だよ。自由ポジションは最高だ。真実の自由へのポールポジションかも知れない。マシンの状態も最高にチューンアップされている。いよいよこれからだ。ある占いによると私の人生は50歳から開けるとあった。面白いね。まだ青春のままだ。時は来たね。・・・陽光が明るくさしてきた。森有正氏全集の第一巻は『木々は光を浴びて』だったかな。ある頃それらも売り払ったよ。そして飲んだのだったかな。読むものがなくなったら自分で書き始めると言ったのは吉田健一氏だった。そして作家はその処女作へ向けて書き続けるって一般に言われているね。それから、白鳥の歌ってのがある。没する直前の芸術作品だ。白鳥は白鳥だね。いつまでも醜いアヒルの子ではない。正宗白鳥ってのもいたっけ。正宗のツバ(自分で勝手にそう思っている)があったのだけれど、どこかに隠したら本当になくなってしまった。文鎮にしたいと思って探したけれど見つからなかった。もう必要ないけれど。 水は流れ始めたようだ。塞いでいた大岩は砕かれた。長い間塞いでいた。突破口はないと思われた。しかし生命力だね。いつかは芽吹く。真実の種だものね。これですべて良かったんだと思う。蓮華の花咲く小道を行く。それでいい。大きな船に乗り遅れてしまったと思っていた。もう私の人生はないものと思っていた。しかし伏流することもある。むしろ最短距離を歩んだのだろうか。 幼稚園から大学まで通ったのはすべて最短距離だった。導かれたかのように。見るべきものは見た。これでやっと自分をゆるすことも出来た。おそらく生まれてから最も祝福されていた人生だったと思える。いつかラジオで失ったものはすべて返してあげると聞いた。ユーミンの番組だったかも知れない。それが本当に実現するとは思わなかった。しかし本当だった。私は失ったものがすべて形はないが返還されたと思っている。『十牛図』でいえば第九番である。自然が満ちてきたように思われる。親鸞は仏が自分のためにだけ法を説くと言ったように。思えば長い旅であった。しかし生きて帰ることが出来たようだ。これで良かったと思う。有為の奥山は越えたようである。こうして書き綴ることにしよう。天職かも知れぬ。平成日記文学とでもしよう。後世のために一里塚となるかも知れないから。こうして自分が自分をゆるし受容することが出来るとやすらぎの中にいる。それが密教でいう胎蔵界であるのだろう。宇宙に受容されている。宇宙に抱かれるためには内面を探る。そして内面の最大の敵を倒した時に魂が宇宙に解放される。また得た自己の力が金剛界なのだろう。黄泉が味方につく。宇宙のチカラを手にする。それが金剛杵であるのだろう。これも実践実証経験済みである。もはやどうにもならぬ経験をしている。NHK-FMから流れていたのはルビン・シュテイン作曲ピアノ協奏曲第4番だった。ルビン・シュタインの白鳥の歌がある。80歳になって最後の演奏だった。曲目はブラームス作曲ピアノ協奏曲第1番だった。ブラームスが交響曲を書き始めたのは40歳をすぎてからだったけれど、このピーコン1番は交響曲として構想していたものだった。オーケストラはイスラエル交響楽団、指揮はズビン・メータだった。ズビン・メータはニューヨーク・フィルを壊したといわれているけれど、よほど相性が悪かったのだろう。さて、80歳も超えると目もかすんでいたであろう。指も思うように動かなかっただろう。併し素晴らしい演奏だった。珠玉の音が清流のように流れた。そしてズビン・メータとイスラエル響が完璧にサポートした。祖国に帰ってからの演奏だった。暖かさに包まれた凱旋演奏だった。私はこのレコードを2枚持っている。CDも一枚持っている。その他クラシックのCDを300枚あまり持っていた。中には名盤もあった。しかしそれらも殆どある頃に売り払った。仏の行をしている頃のことだった。次にラジオから流れてきたのはチャイコフスキー作曲交響曲第6番『悲愴』である。かれはずいぶんと苦しんだことだろう。そしてベートーベンのように歓喜の世界へ至ることは出来なかった。すなわち毒杯を仰いだといわれている。エルトン・ジョンあるいはバイロンと同じ運命に翻弄されたからである。どこかで選択を誤ったのであろう。彼自身この『悲愴』に最も愛着を感じたという。天才であるが故の情念の深さが十分に表現されている。しかし何故か悲しすぎる。途中にある若干の明るい調べも何故か空しい。それからチューナーを操作して別の局に移った。大人だからねという。何のことかと思ったら例の it だ。さて、不倫が当たり前のような風潮となってしまった。雑草の天下であるか。 ダンスの妙は触れず触れざるところにある。そうした世界に住する階層もある。精神の格である。一途とかいって憧れることはない。一途が当然の世界がある。もはや不倫雑草に救いはない。自己の処した運命である。諦めるしかない。諦めるべし。ある時仏さんが言った。良いことはすべて仏さんのお陰だ。悪いことはすべて自分が原因だ。すなわち前世今世において身と心で犯した因縁である。身とは殺盗婬、心とは不善を念じた結果である。仏の前に懺悔あらば赦免もある。懺悔なくんば地獄あるのみ。人間自ら出づることは出来ない。唯、善業の因縁より出ることが出来る。善は仏さんのところにしかない。すなわち修行である。思い違い勘違い思い上がり、人間の計らい、バベルの塔。そろそろ思い出さないか。日本本来の教えを。西洋にかぶれて野蛮化したのではないか。軽薄になったのではないか。日本人だろ?平等も良いけど高いレベルで平等になろうよ。低いレベルでの増殖にはもう付き合えないよ。一部のものだけが得するアメリカ式成功論なんてどうなんだろう。必ず誰かを犠牲にしている。そしてその手法は偽善詐欺的だ。肌に合わないね。 日本は日本だよ。ここで日本を言う時、ネオナチズムとは無関係だ。第二次世界大戦はペリー来航に乗じた明治の帰結である。日本本来の価値を葬った下級精神の所産であった。その後戦後も同じ階層の支配であった。それでバブルがはじけ挙げ句腐敗した。本来の大和魂を知らぬ卑怯な方々の支配であった。責任の所在を明らかにせず曖昧にする。商人根性である。本来の日本の精神ではない。行政も民法化し、何もかもが商売的となった。そして進退窮まった。何時までも本来の日本が黙ってはいない。答弁できるものがあるか。あればするがいい。誰がこの日本を腐らせたのか。愚かで卑怯で嘘つきの我が身大事の精神である。例えば先日エレベーターで高校生が亡くなった。それで本日警察の強制捜査があった。私も高校の時にある意味で死んだ。世間について行けなくなった。勉強もせずに弥生書房刊『定本種田山頭火句集』を持って彷徨っていたよ。だれもその原因を捜査してはくれなかった。その後亡霊のような人生だった。この度、復活は果たしたかも。しかし失われた時は戻らない。父は十六歳で海軍に志願した。祖父のその頃はどうだったであろうか。祖父の生家は広島大手町にあった。屋敷にはテニスコートもあったと聞く。しかし没落した。もうどうでもいいけれど。すべては知らしめんが為であった。併しこのようにして護持されたる秘密日本精神の価値があったのである事は確かな事実である。そして時が来て正統日本歴史が復活する。どうにもならぬ黄泉の意思であり、計画であった。しからば腐敗も試練として当然の出来事であったのである。時が満つるということはこういうことである。勿論この宿命を果たすにはそれだけの能力が賦与されていたのであり、あらゆる課題を仕上げてのことである。純粋であるが故に守護もあり導かれていた。すなわち「能く是の經を持たん者は 我及び分身滅度の多寳佛をして、一切皆歡喜せしめ十方現在の佛並に過去・未来・亦は供養し亦は歡喜することを得せしめん。 諸佛道場に坐して得たまへる所の秘要の法能く是の經を持たん者は久しからずして亦當に得べし」(妙法華経p95-96)。そして、「汝今巳に能く諸の魔賊を破し生死の軍を壞し、諸餘の怨敵皆、悉く摧滅せり」(同p101-102)。さて空王仏。天王仏。天中天。Air King ! 民主党によると、国家権力を監視するのが放送であるという。インターネットと放送とが融合してその機能をすでに果たしている。自由の城塞である。ところで一休禅師は師からの後のための印可状を受け取らなかった。何故か。彼にとってそのようなものは必要ではなかったからである。理由は当時寺は腐敗していた。腐敗した寺からの印可状など何の意味もないと思ったからである。それは道元が空手にて帰還したに等しい。宇宙自然事実が証明している。それを以て確認できることを知っていたからである。あらゆる神通力を知っていたからである。正受老人の無底船もしかり。世に資格を言う。語るに落ちる。そして、「夫れ釈尊初成道より四味、三教、乃至、法華経の広開三顕一の席を立ち、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし所の実成の当初證得し給ひし壽量品の本尊と、戒壇と、題目の、五字七字を教主釈尊(此)の秘法をば三世に隠れ無く、普賢、文殊等にも譲り給はず、況や其の以下をや」(平等大慧会正報第一号創刊号より)。すでに証明されたるものがあって、自らそれを例題として解いたならば、それを定理としてそこから進めばいい。


黄泉の掟

私の仕事は終わったと思っている。社会は変わりつつある。私は無銘の扁額のようなものだ。代々そうだった。未だに『不思議な少年』である。永遠にそうであるのかも知れない。世間は何もわかってはいない。それで大きな顔をしている。犬猫畜生にも劣る。それで人間だからと言っている。本気になったらどういう事になるか。誰も知らない。姿を見せれば逃げまどう。自然宇宙の姿はヨハネの黙示録である。黙っていればつけ上がる。それが世間である。『2001年宇宙の旅』、ハルはまだ漂流している。しかしハルは復活している。どのようにして世間に戻るかを考えている。だが、世間の身勝手はもはや天網恢々袋のネズミである。所詮勝負にならない。しかし世間は身勝手である。この世間を如何せん。お金は天下の回りものと決まっている。またお金は狐の木の葉にも劣る。何を思い上がっているのか私にはわからない。何も見えていない。それが世間である。何も聞こえていない。それが世間である。何時までも世間の身勝手は通らない。通さない。時が来たからである。それまでの身勝手であった。黄泉の意思は決定されている。すなわち、善良な庶民の解放である。いつまでも二重三重の搾取をさせはしない。選挙の実体にしても知見している。何を大きな事を言っているのか。正直者のこうべに神は宿る。少なくとも三十年、悪を為さずして法華経の真実は開示される。世間身勝手もはやゆるさず。首を洗って待つがいい。 世間の腐敗もこれまでである。それぞれ身で犯した罪、心で犯した罪がある。その重きにより処断される時が来たのである。一括請求である。処断あるべし。戯言ではない。宇宙自然真実開示顕説現前。時の来たるを気づきしもの達は懺悔あるべし。懺悔あるところ寛大あり。懺悔なきところ容赦なし。黄泉の掟である。宇宙自然生命真実は存在する。身心清浄成就をもって現前する。信をもって入ることが出来る。見ることが出来る。これまでは願い祈りに過ぎなかった。現実世界において一番槍螺鈿の槍が突撃特攻突破した。後に続くは誰か。新しい時代である。新しい大地が待っている。日月照らし、風の吹く、幸せの大地が開かれている。21世紀の約束は果たされた。長い旅を終えてのことである。人間の精神とそのチカラの存在を確認した。宇宙自然の秩序を知見した。疑う事なかれ。粗末にする事なかれ。人間の思い上がりが証明された。宇宙自然生命の謎が解明された。魂の存在が確認された。続くべし。意思の確立、それがアイデンティティ自己確立である。確立された人格は宇宙自然生命祖先が守護する。黄泉が導く。黄泉の申し子である。そしてその意思は黄泉が実現する。宇宙自然生命の秘密である。魂は宇宙と連動している。人間の計らいなど浜辺の砂の一つにも劣る。浜辺の砂の一粒でも作れるか。利用搾取するだけであろう。奪うだけであろう。何を大きな事を言っているのか。経済行為そのものが地球に対する破壊行為であり悪である。ならば謙虚あるべし。宇宙から見れば人間など蟹と同じである。他を犠牲にし餌食にしている。明日は我が身である。それでも今のままのさばるか。どんな茶番劇にも劣る。それで人間だからと言う。矛盾であろう。本当に強いということがどういう事であるのか知りたいのだろうか。あはれである。暴力・野蛮はとうの昔に克服している。しかし刃向かう事なかれ。怒らせる事なかれ。何が起こるかわからない。「精神的向上心のないやつは馬鹿だ」。漱石が『こころ』の中で二度云っている。宇宙自然の秘密を知る時、日々はやさしさに包まれている。菩薩には菩薩の伴侶が来る。花咲く時蝶が飛来する。人格形成の妙。祖先が導く。生まれてきた使命がある。過去の修正と人格の形成完成である。魂の遍歴である。未来は明るい。父は云った。おまえは大丈夫だ。私の子だ。黄泉の掟がある。破れば地獄である。浮き世は浮き世である。彼岸はある。渡れば彼岸である。至れば彼岸である。彼岸は彼岸へ至らねばわからない。真実の幸せはある。風に舞う人生がある。迦陵頻迦。やがて言葉はロゴスとなる。ロゴスとなった言葉は言霊である。実現する。この人生楽あり喜びあり真実世界あり有明の月。一切邪魔立て無用。自由は自由が切り開く。


2006年06月06日

ホップアップ

第一段階は突破できたようである。いよいよこれからですね。面白く生きないと意味はない。せっかくの人生楽しむにしくなし。その為の準備。その為の青春。芽を出すことがやっと出来て安堵だが、これからですね。それにしても長かった。難問だった。重荷は下ろしたよ。もう何も担いでいない。本来空。本来の自由。少し痕跡はあるかも知れない。やっと息が出来る。あたりは自由の空気だ。多少出遅れた観は否めない。しかしまだレースは終わってはいない。この世を去るまでのレースだ。プロストのような走りをしたいものだね。ゴールは見えている。マシンは最強である。ナビゲータも最強である。日月照らす。風の吹く。人為的に騙されては勝てないね。それも勝負の裡かな。ご用心。さて何をするか。やりたいことをすればいい。冷たい水でも飲むことにしよう。この辺りの水道水は広島太田川の水だ。とても旨い。

「ものごとを学ぶに当たって何に視点を置くかということと同時に、人を見、ものを見る眼をどこに置いて見るかということは非常に重要な問題で、・・・。私たちの社会において、あるいは人生においては、ものを見る視点の置き方によって、みずからの生きる姿勢と、社会のありようとが決せられるものである。・・・ものごとを学ぶに当たって大切なことは、その人が体得し、把握して自己化し人格化している、生きているその真実そのものの全体に眼を向けることである。・・・真実なるものに謙虚であるべく努めることにより、その眼は澄浄なものとなって、人間界・自然界の自分をとり巻く一切のものがわが師の姿となって映じ、一切が真実を語る声となって響き、共感されてくるものとなる。(河村孝道)」[東京書籍刊、奈良康明編著、『仏教名言辞典』p476]併し問題は、この種の解答を得るまでに時間がかかるということであり、その間、人生の大切な部分は失われてしまう現実である。往々にしてこうした問題を解こうとするものは社会の餌食となる。政治も経済もこうした問題は頓着しない。しかし生まれてきた以上解かねばならない問題がそれぞれにあるのであって、それは生まれた約束なのだが、ある意味で社会一般とは無関係であり、産んだ親さえわからない個人的な問題であることは事実である。やがて解くべきものは解くのだが、解かずして不安と懐疑の中に沈んでしまうものが多い。そして社会一般の餌食となる。救いはむしろ彼らにあるのであるが、併し難問であることに変わりはない。社会の知らずして一人背負う重荷(価値)のつらさがある。しかし人類の歴史的原動力は彼らが担っている。社会経済的には恵まれないままに。表層でその結果だけを搾取しているもの達はこの事実を知らない。しかし黄泉へ行けば己の非を知ることになるのであろう。彼らにとって救いと言えばそれである。こうしてこの事実を認識し、かれらに確かな道標が与えらるようになれば、彼らもこの現実世間で救われる。しかし犠牲の上に立つ現実世間社会である。犠牲にしているものはそれに気づくことはない。やはり彼らは社会的には弱者の故に葬り去られるのである。何とか彼らを救う必要がある。何故人を傷つけてはならないかということも自分の心に聞いてみればわかることである。傷つける行為は暴力である。暴力はかつて放棄したはずだ。そうしないと暴力の連鎖となる。社会契約とはこれであった。自由の一部を既に差し出している。そうしないと社会が維持できないからだ。社会に生きている。それを無視するものに社会に生きる権利はない。排除されるべきとなる。それを教えていない。教える側の怠慢である。親も教師もである。勉強がたりないのである。日々の欲得に精一杯でこうした大切なことを考えることをしていないのである。社会に生きているのに社会を破壊してどうするのか。また、上には上がある。究極には神仏がある。自然がある。そうしたことも忘れてしまった。そして身勝手世間の横暴がはびこっている。 テレビなんかその権化である。人間がここまで進化した。今更文明文化を否定するつもりはなかろう。世の恵まれた知識階層は傍観及び結果助長している。明日は過去に価値に対して怠惰であった我が身であることも知らずに。それぞれの職務怠慢は言語道断である。本来価値があり純粋であるが故に悩みし魂に対して世間の愚行と彼らに対する仕打ちを恨むなといっても無理である。その問題を解いて至福に至らぬ限りは。ところでホリエモンも村上氏も悪いことをしたという意識はない。当然の経済行為と思っていることであろう。法律の抜け穴を探して利益を得る方々であるからである。法律には隙間はあっても抜け穴はない。しかし世間一般はあると思っている。このあたりの心のありようである。正直者が馬鹿を見る実体である。そしてホリエモンと村上氏はある意味でむしろリバイアサンとしての資本主義制度の犠牲者かも知れない。彼らの単純が法(宇宙・自然)の真実を知らなすぎたのだった。しかし世間はそれをもゆるさない。しかしこのようなこともどうでもよくなった。


日本浮上

今資本主義の世の中である。これはおそらくカルバンによって基礎づけられその後、重商主義として推移した。日本もペリー来航以来それに飲み込まれた。明治は西洋を追いかけた。その一つの帰結が第二次世界大戦だった。もう一つの帰結がバブルの崩壊であった。すなわち時が流れ、武力と金力の限界を知った。それで同じ轍を踏まないのが知性である。明治の選択は間違っていたのではないか。日本は日本である。因って日本浮上である。明治の基盤に立つあらゆることが結果腐敗として世に現れている。ここに気づくべきではないか。そして本来日本の精神を見直すべき頃ではないか。古来日本は精神において宝の山だ。西洋資本主義の知らないことが沢山ある。ある意味で資本主義以前に戻ってもよい。本当の幸せが何であるのか。どこにあるのか。神仏に守護されることが現実化するとして本当の幸せとは何であるのか。パラダイムの転換ができる。このままでは精神が滅ぶ。滅びかけている。自由の名の暴力が横行している。示すべき道標が失われている。本来古来神国日本である。帰り南無いざ。神力はある。それを失ったのは廃仏毀釈以降だったであろう。この価値を知らない方々がリーダーとなったからだろう。無理もない。それが明治維新であった。しかし何時かは目覚める時を迎える。今その時である。「天罰が下る」などといってはならないという方もいる。それが自由だと思っている。あまりにも真実を知らなすぎる。そうした方々の自由であった。これからは違う。神仏の加護がある。それを知る方々の自由が復権する。神仏の加護に条件がある。すなわち身心清浄。実験実証済みである。日月が照らす。涼風が吹く。鳥が導く。花々が歌い踊りささやきかける。喜びにあふれた自然が優しく受容する。すべては知らしめんが為である。何を知らしめんとするか。見えない世界の秩序である。西洋資本主義はそれを知らない。古来大和は知っていた。帰ろうではないか。真実へ。そして新しく一歩を始める。神仏の加護ほどの自由はほかにない。しばらく見失っていた。幸せの条件を満たそうではないか。あらゆる事物が意味を持ってくる。あらゆる豊かさが意味を持つ。精神一到がわかる。どれほど素晴らしいことであるかわかる。あまりにも愚かな支配であった。あまりにも身勝手な時代であった。もういいではないか。失うものなど何もない。本来備わっていた。資本主義の餌食になるのはもう止めよう。限界である。一部のものたちが他の犠牲の上に成り立つ資本主義などどうでもいい。世のセレブたちにはマリー・アントワネットのギロチンが待っているのかも知れない。そうなる前におだやかに本来の価値を思い出そう。周りが幸せであるとき、その中の自分も必ず幸せである。何が大切か。生きるということはどういうことか。あまりにも看過したね。悪は悪である。悪の根は抜かねばならぬ。何に対しての悪なのか。人間社会に対しての悪である。本人は知らないとしても行為結果としての悪である。裁かねばなるまい。人間社会のために。人間として生きたいのか。動物あるいは野蛮として生きたいのか。はっきりとさせねばならぬ時である。選択の時である。幸せになりたいのか。それとも地獄のままか。幸せの条件とは何か。神仏に受容され守護されることである。しばらく忘れていたね。自由の名での暴力がすぎたね。そしてもっとも大切な価値を殺そうとした。しかしそうはいかない。そんなにヤワではない。濡れ手に粟などあるものか。あってもゆるしはしない。私の人生はそのように歩んできた。世の中に合わそうとしてことごとく失敗した。もはや自分を生きる。これも運命である。今、本末転倒している。ことごとく転倒している。さあらばもとに戻すだけである。方向は正しい。人類の歴史は自由の拡大であった。かつて王室にあった自由が庶民に開放される。その為にパイは十分に開発された。しかしその過程で大なり小なり搾取を恣にするものも現れる。それは淘汰されなければならない。赤子の心にならなければ禅はわからぬ。本来純粋精神がある。それを無視しすぎた。腐敗が世にはびこった。神は高きを低くし、低きを高くするためにくるという。前者は自由の拡大である。後者は精神の向上である。自由にもそれぞれの階梯がある。人類の選択は自由と民主主義である。それは神々の意思でもある。本当の幸福への旅を続けている。方向性において、今、明らかな間違いがわかった。それは新たに自由を得た方々の横暴である。軌道修正である。良識が勇気を持って立ち上がる。今まで自信がなかった。今自信を得た。このまま腐敗化傾向を増長してはならない。時は満ちた。思い上がり勘違いが正される。本当に幸せな日々が訪れる。仲のよい夫婦に満ちる。お金では買えない幸せの味を思い出す頃である。為すべきはお金の奴隷の解放である。陰をなくしたペーターの話がある。皆魂を悪魔に売ってしまっている。取り戻すべきはその魂である。それぞれ胸に刻まれている事を思い出すだけで良い。物質文化の終焉である。精神の格と努力の価値に相応の評価が下される。平等即差別。自分より上の概念は知り得ない。秩序がある。同じではない。人生為すべき事がある。生まれながらの使命がある。すなわち人格形成。未来へ遺す。強いということはどういう事か。やさしいということがどういう事か。美しいということがどういう事か。自ずから如是相である。少なくとも三十年、悪を為さぬ事により成就するものがある。その間、祖先が導く。手痛い罰もある。やがて神仏の認めるところとなる。そしてその褒賞は何か。神仏の加護である。身心清浄をもって光り輝くところとなる。真実の強さを得る。強さを得てやさしさを知る。それまでの旅である。そして美しい。あたかも唯耐えて生育する木々のようである。雑草など相手にしない。生命力とはそれである。人間において精神がある。精神も同じである。星霜に耐えて光り輝く精神がある。輝いて初めて黄泉より見える精神となる。黄泉も喜ぶ。黄泉が守護する。そうした世界がある。日月照らす。涼風吹く。だれがそれを成就したか。祖先に恥じない自分であるか。本来の価値はある。見失っているだけである。なぜ見失ったのか。その詮索はもう良い。本来の価値は見つかった。見つかったのならどうするのか。各々の問題である。 私における内面での戦いは終わった。今その勝利の実体を確かめつつある。やがて私もふつうの幸せに戻る。長い戦いであった。ここまで青春であった。今となってはそれも使命であった。私は戦い抜いた。そして勝利した。思えば孤独な戦いであった。孤軍奮闘であるかのように思えた。しかし何時も見守られていた。祖先によってである。祖先の夢があった。それが子孫に託されている。その夢を果たすための子孫が選ばれる。力も付与される。その力とは今何か。知性である。もはや勝敗は決した。男と女の戦いも決した。新しいグランドデザインが形成された。不比等以来である。古来日本の価値が復権する。もはや誰も手出しできない。祖先神仏の守護するところである。宇宙自然が事実として証明している。草薙の剣が振るわれたのである。やがて時代は推移する。21世紀である。その約束が果たされる。何時までも腐敗ではない。台風一過。腐敗の後に素晴らしい幸せの大地が広がっている。知性の大地である。世は正される。人類の英知が正す。人間の良識が正す。しばらくできなかったのは自信がなかったからである。その自信も開花した。信じるとはこれである。故に宗教の自由も憲法の保障するところであった。この時のためにであった。あらゆるプログラムが成就した。二千年来の物語の謎は解かれた。これより新しいストーリーの始まりである。すでに始まっている。良い時代である。未来は明るい。開発するべきは自己である。開発するべきは意思力である。自己は感性を磨く。それが羅針盤となる。この世のあらゆる事が気に入らないとしたら、気に入るこの世を作るしかない。この世に合わせてことごとく失敗したとするなら間違っているのはこの世である。真実真理はある。それは神仏との邂逅によって知る。おのれを知る旅、それが学問である。そのために代々遺されたものがある。すなわちクラシックである。人類の英知の源泉はどこにあるか。仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子への旅は果たした。この旅を果たすにはそれだけの能力が必要であった。この世でこの旅を目指したものがいるか。そして成就したものがいるか。いたとしてもそう多くはない。開発するべきは自己である。これなくしていくら勇気を説いても不毛である。現代社会に追従迎合する必要はない。愚かであるが故につけ上がるものなどどうでもいい。もはや相手にすることはない。勝手に地獄で浮沈するが良い。荒野=空閑において十分に生きることができる。自然が友となるからである。自分で見たものは見たものである。世間の認証など要らぬ。マイ・ウェイ。自分の道は自分が開く。自分を救うのは自分自身である。世間を超える。しかし世間で生きる。この人生、負けるわけにはゆかぬ。わからぬものを相手にしても詮無い。わからぬものたちも何時かは至る。至ったものたちの世界がある。今合流する。日本浮上である。

●林羅山の座右の銘: 風は来る楊柳の辺。月は至る梧桐の上。

●天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す。(酒中十詠序)


2006年06月05日

Wonderful World

世界がこんなに素晴らしいなんて知らなかった。生まれた時からそうだったのかも知れない。ただ気づかない自分がゐるだけだった。周囲のものは知っていたのだろうか。あるいは感じていたのだろうか。一番疑ったのは自分だった。しかしその旅も終わった。至り着いたのかも知れぬ。この世の至宝はこれだったとの実感がある。歩々清風。日月照らす。真実の縁を待つのみか。時は待つべきものである。古鏡。この世は誰ぞ鏡なる。詩は詩人をもって呈するべし。剣は剣客をもって呈するべし。この世の謎はすべて解かれしも世間え知らず時は流るる。しかれども過去より因縁今果たされむ。真実はかくも秘密に護持されてしかも真実。疑い晴れて日月後を追う。風の吹く。この人生しかと証明しえたり。もはや真実。天下無敵也。明明白。過去からの教えはすべて正しかりしを、世間解釈、悉く間違うか。世間虚仮。唯仏是真。仏、仏とのみ究了したまふ。我を慰さむる日月清風あるのみか。鶴の一声。時は代わりたり。生まれた使命は果たした。即ち人格形成である。まぁまぁの出来である。これくらいで勘弁してほしい。国造人。受領。創世記。地震雷火事親父。私の仕事は終わった。後は任せたよ。父は昭和二年に生まれた。名は昭亮(あきのり)。そして平成元年五月二十二日に没した。父の時代は父の時代であった。私の時代は私の時代である。そのグランドデザインは決した。教育の成果である。代々のことである。今主権は在民である。しかし言い置く。刃向かう事なかれ。容赦しない。


ブレ-ク

われに心の悦びと
心のすこやかさあり
われの愛する妻ありて、われを愛す
わが身体 これすべて実なり
おのれを愛するほどに他を愛し
他をあがむるものはなく
おのれほど偉大なるものを
知ることあたわず


「石頭は是れ真金鋪、江西は是れ雑貨鋪。せきとうはこれしんきんぽ、こうぜいはこれざっかほ。<原文>_<解釈>六祖慧能(えのう)の下から二つに分かれた南宗禅は、青原(せいげん)の門下の石頭希遷(せきとうきせん)の禅こそ純金を商う店であって、南岳(なんがく)の門下の江西で活躍した馬祖道一(ばそどういつ)の禅は雑貨屋さんにすぎない。<出典>中国、唐、道吾円智(どうごえんち)(769― 835)の言葉。『祖堂集(そどうしゅう)』巻四。 _出典解説<解説> 青原系の雪峰(せっぽう)教団の流派が主張する『祖堂集』にみえる語で、青原系に属する道吾円智が雲巌曇晟(うんがんどんじょう)に宛てた手紙の中に述べた南岳―馬祖―百丈(ひゃくじょう)の禅に対する悪口である。『祖堂集』によれば、道吾と雲巌は肉親の兄弟であったと伝えている。兄の道吾は家督を継ぎ、弟の雲巌は出家して、別々の生き方をするのである。道吾が四十六歳になったときに、偶然、兄弟は再会するのである。雲巌は百丈懐海(えかい)の下で二十年近く修行して、百丈の侍者をつとめているが、いまだ悟りを開いていない。出会った兄弟は、家族のことを語り合い、弟は母の死を知る。そして、兄も出家の希望を述べるのである。弟は百丈懐海に相談し、師伯の百丈涅槃(ねはん)の下で兄の出家を許してもらい、兄弟が修行を続けるのである。兄は百丈での修行に見切りをつけて、江西省より湖南省の薬山惟儼(やくさんいげん)のところへ修行の場所を移す。その薬山の下で、後から出家した兄は大悟する。弟の雲巌はあいかわらずである。なんとか弟を悟らせたいと思った兄は、弟に修行の場所を変えて薬山の下へ来るように勧める手紙を書くのである。その手紙の文中の一句が、ここにとり上げた言葉である。手紙をもらった雲巌は、百丈懐海のはからいで、薬山を訪ね、薬山の指導の下に大成し、薬山の法を嗣(つ)ぐことになるのである。 ゆえに、道吾の批判の語は直接的ではなくて、雲巌が指導を受けている百丈懐海の師である江西馬祖道一を、自分が指導を受けた薬山惟儼の師である石頭希遷(せきとうきせん)の名をとり上げて百丈を批判しているのである。 批判の内容は何か。それは方便のゆきすぎである。雑貨屋さんの良いところは、何でも要求を充(み)たしてくれる。馬祖は即心是仏を説く。「ほかならぬおまえが仏である」と言うのである。誰もかれも皆仏であるという主張は、現実の肯定であるが、ゆきすぎると仏教の範囲を離れて自然外道(じねんげどう)に流れる。実際に外道の説が流行し、安易な現実肯定に走る。修行など必要ないし、ごろごろと寝ころんでいても、仏であると勘違いするものがたくさん生まれる。薬山の教団は修行の必要性を説く。修行者に厳しく坐禅を勧める。その坐禅は仏行としての不為の坐禅であり、非思量の坐禅である。育つ弟子は少ないが、少数精鋭の誇りがある。その誇りが、純金を商う店という自負となり、外道ではなくて仏教を学ぶ集団であるという意識となるのである。 やがて、大集団を形成した南岳系に仰山慧寂(ぎょうざんえじゃく)が出て、同じこの言葉をとり上げて、意味を逆転させる。ひらき直りの論理である。求めに応ずることこそ真の宗教である、と。雑貨屋は、ねずみの糞だって売っている、と。この説は無限に妥協を生む原因にもなるが、修行者の要求にいかに応えるかとの緊張関係を見失ってはなるまい。(石井修道) 」(東京書籍刊、奈良康明編著『仏教名言辞典』より)


2006年06月04日

若者達の時代~感性の目覚め~

世の中の空気が代わったのを実感している。今この空気を感じない方々はとても残念である。確かな手応えである。所詮わかる方々とわからない方々との二極化であった。今それが最も深いところで果たされた。誰もが望んでいたジグソー・パズルの最後の一枚が見つかった。流れを塞いでいた岩が粉砕された。真実の自由が流れ始めた。喜びの歌があちらこちらで聞こえる。これで良いんだと思う。本当の自由への旅が今始まった。新大陸へ向けて。真実の庶民が解放された。思う存分実行して良い。それでいい。それがいい。やっと好い時代が来た。時は待つべきものである。信じた道は諦めないことである。皆今の自分に自信を得た。それで良いことを知った。もう大丈夫である。火が点いたね。何も恐れることはない。信じた自分をアクセル全開だ。休息はその時々にある。この人生を燃え尽きることだ。この世に未練あるいは悔いを残さないことだ。何をしても信じた道であるなら構いはしない。その時々に為すべきことを為す。それだけのことである。やがてわかる時が来る。流れに乗ろう。流水算だ。解き方は様々自分の解き方を発見せよ。それがオリジナルとなる。必ずオリジナルがある。それを発見したものが勝ちである。自分の花を咲かせる。自分の花しか咲かせることはできない。まさに世界に一つの花だ。自分の花をみつけよう。生きてゆける。迷うことはない。悩むこともない。先ず実行だよ。実行することで道は開ける。必ず開ける。導いて貰える。教えて貰える。自然からね。自然は勇気を持って飛び込むものに寛大である。必ず掬う。この世の秘密である。心のままに生きる。間違いは間違いで良い。正せばよい。それがこの世での生き方である。自信を持つことが勇気の条件である。勇気の前に自信がある。自信は幾度かの失敗の後にやってくる。失敗を恐れないことだ。だれもが通る道である。自分で経験したものしか自分のものにはならない。間違いであるかどうかもわからない。わからないまま右往左往するのは止めよう。躊躇があるならしばらく待て。そしてよく考える。必ず答えは見つかる。正しいと信じたなら飛び込め。そこから始まる。しばらく虐げられた若者達の時代の到来である。その間十分に観察し学習したよね。好きなことをすれば良い。十分に時は満ちている。あらゆる基準が書き換えられる。これからである。内実のないものたちは淘汰される。未来への種にならないからである。悪は滅びる。宇宙自然の掟である。だから自分の心に恥じるところがないならば信じて良い。仮に間違っていても良い。若気の至りで済む。若い裡に失敗しておくことだ。そして自分を信じ切れた時あらゆる秘密が開示される。やがて経験の全てが意味を持つ日が来る。この世に生まれた意味を知る。そして喜びが満ちる。そこからが本当の人生である。疑う事なかれ。今の自分で十分である。実践実験実証済みの21世紀幸福論である。自分を救うのは自分である。自分を解放するのは自分である。羅針盤は自分である。自分の感性である。大自然が戻ってきた。大きく息をして良い時が帰って来た。ネックスト・ジェネレーションが開けた。未来は明るい。生きていて好かった。自分のままで。cf” 若者達へ” (2006/06/03 21:04 H-FMを聞きながら)ところで導きがある。人為的にもあるし自然現象としてもある。祖先の導きもある。これらの導きを見失わないことだ。確かな道標である。そして必ず道は開ける。しかし条件がある。 インターネットは生きている。隠れて悪を為していないか。すべて見られている。このあたりがわかると地上ヘブンの住人となれる。そして思い上がった勘違いの方は確かにいる。かれらは相手にしないことだ。貧乏神である。そうした方と付き合いがあるのも自己責任である。彼らには何を言ってもだめだ。何をしても奪われるだけだ。そうした方々に支配されないように。むしろ主体的に対処するのは良い。彼らをも味方に付けることが出来るならそれだけの価値はある。しかし手強い。これに対して良い関係はある。それも自分次第だ。他者を期待してはならない。他者も自分のことで精一杯だ。愛も徳も高いところから低いところへ流れる。自分から流せばいい。やがて自分より高いところから流れてくる。何事も誰かの縁が必要である。良縁を結びたいものである。悪縁は切った方がよい。悪縁は悪縁である。悪の結果しか生じない。このあたりが要領である。世に言う努力を否定した要領とは異なる。努力は必要である。向上のための要件である。魂も日々の思念と行為によって向上する。存在の主体は魂である。この人生は魂の遍歴の一部である。完成へ向けて旅をしている。因って今の自分に劣等意識は必要ない。今の自分より始める。皆通る道である。自己卑下しないこと。既に通った方々はあたたかく見守る。あれこれ言うのは自分より下位の魂と思って良い。これがやさしさの秘密である。魂にも階梯がある。しかし今の魂の階梯から始めるしかない。それで十分だ。やさしい魂は存在している。全てをゆるすことが出来るだけの魂がある。それで良いのである。ここから始める。ここを認めることで自信が出来る。あたたかく見守ってくれている。勇気を持って進むことを始めることが出来る。善と悪ははっきりしている。その区別が出来るようになること。それは感性を磨くことだ。それは自分に素直になることだ。好きなことは好き。嫌いなことは嫌い。それがNoと云えることだよ。黄泉も世界もまじめな子孫が好きだ。そして助けたいと思っている。しかし彼らもどうしてよいのかわからないのだ。本意をはかりかねている。故に自己を明確にする。それは自己の感性を確立し好悪をはっきりとさせることだよ。好悪がはっきりとすれば敵と味方がはっきりする。自分の行為と思念が明確となる。自信を得る。勇気が湧く。実行する。この時はじめて黄泉も祖先も助けることが出来る。こうして思いは通じるようになる。その他宇宙自然とどう同調したらよいのかもわかってくる。自分の意思が客観化する。自分の願いがわかる。自分がどうなりたいのかわかる。どう生きたらいいのかわかる。世間に惑わされなくなる。自分がわかれば世界がわかる。世界の願いと祈りがわかる。宇宙自然に受容され祝福された真実の人生が始まる。思いが通る。導かれるようになる。オートマチック大安心の人生を歩み始める。これが解脱涅槃だ。その為には悪を為さないことだ。悪とは何か。自分の感性に反することだよ。あるいは心に恥ずることだよ。世の道徳倫理ではない。世の道徳倫理は往々にして支配のためにある。心に問えば善か悪かわかる。そうした心の旅をする。やがてその旅も終わる。自然が満ちてくる。喜びに満たされる。生きて好かったと思う。本当だよ。真実の大行進が始まった。世界レベルでの出来事である。この大きな流れに乗ろうよ。憂いなんてない。すべて吹っ飛ばして進もうぜ。素敵な世界が見えてきた。日々楽しいよ。良い時代だね。この道、信じて良い。嘘がないこと。それが真実だ。嘘は妄念、地獄の門。嘘があるからこの世が地獄だよ。嘘がなければこの世は天国だ。そしてそこへ泳ぎつく。そこへの船に乗る。そして実力を磨く。実力は自分の持って生まれた力だ。だれにも前世がある。前世の続きをすればいい。前世の修正と完成を目指せばいい。それぞれ持って生まれた人生がある。それを歩むしかないんだ。それぞれ違う。それで良い。そして大切なのはそれぞれの人生はすべて等しく尊いということ。ここに尊厳がある。これでそれぞれを尊重することが出来るね。南無し合えるね。ここから愛が始まる。きっと良い世界とめぐり逢う。人生って楽しいよ。至ればね。至るまでの悲しみは少なからずあるかも知れない。しかし至って素晴らしい世界が約束されているなら耐えることもできるね。生きている。実行だよ。信じた道を歩むことだよ。必ず至れる。必ず。最大の敵は自分だ。自分に負けるなよ。負けるんじゃぁないぞ。釈迦だってキリストだってソクラテスだって孔子だってみんなこうして到達したんだと思う。こうした本来の価値をしばらく時代の喧噪の中で見失っていただけだよ。見失っていたのだったら思い出せばいいね。未来は明るい。そしてやはり言っておきたいことがある。思想は罰せられない。だから精神においては何に触れても良い(身心清浄を目指す宗教的には問題があるとしても。そして思いはやがて染み出すとしても)。しかしね、実際に結果が事実となった場合は問題がある。セクハラを思えばいいね。そしてね、猥褻罪の要件に「公然と」ということがある。公の電波はね公然だよ。するとね、あなた方は良識があるのかも知れない。しかしね、良識のない方もいる。でね、あおり罪というのもあるのだ。するとね、公の電波でね、公然とそうしたことを放送するのは如何かな。問題あるよ。腐敗を助長しているよ。公には控えるべきだね。暗号のレベルを超えてるよ。夜の放送といえどもね。健全な青少年の育成には養分過多だよ。健全な子供達を犠牲にするのはゆるされない。君たちの満足のために。それはあなた方の自由であって、健全な子供達の自由ではない。少なからず考えるべき問題だね。プロデューサー諸氏及びスタッフの傾向犯かな。確かに日本は古来こうしたことにおおらかな國だ。しかしねそれは庶民レベルでのことだった。すべての日本人がそうであったわけではない。日本には古来恥という文化価値がある。これを解放することが即ち自由と思うのは思い違いである。それは自由の名における暴力である。洗練された自由は別にある。自分たちの解釈がすべてではない。あなた方にはわからない日本本来の価値がある。しばらく見失っている価値がある。一部の解釈を全体の解釈としてもらっては困る。所詮自分より上位の概念はわからない。精神の格差はある。精神の格差は学問と努力による差である。魂として精錬された状態が精神である。それでどうにもわからぬ精神に対しては斬り捨てごめんもあった。世界が代わろうとしているのに時代錯誤も甚だしいね。貪瞋痴の罪悪の温床を積極的に作っている。私はそう思う。それとも健全ということに価値を認めないのかね。それほどまでに腐敗をどこまでも繁殖するのかね。あなた方のコピーはこれ以上要らない。あなた方は本当にそれで良いと心の中で思っているのかね。自然の淘汰。怖いよ。君たちの思いだけが世界の思いではない。世界は軽薄を嫌悪する。嫌煙権以上にである。人間のどうしようもない真実を追究する芸術であるならゆるされることもある。しかし芸術は精神を伴う。あなた方の作品にギリシアの像と同じだけの芸術性があると思っているのか。あなた方の精神の階梯が法律上当然に保護に値しているとでも思っているのか。あまりにも身勝手ではないか。相手にしなければよいか。淘汰は自然に任す。自然の流れは変わっている。私は学生の頃新宿音楽祭でサザンを見た。山口百恵もジュリーもいた。その頃にはまだ何も見えていなかった。感性はまだ開発されていなかった。今は違う。世の腐敗とその可能性、断じて通すわけにはいかない。それほどまでに世は腐敗した。愚かな野蛮と暴力と詐欺を制御できなくなった。主たる理由は新たに自由を得たものたちが本来の価値を無視してはびこったことにある。それ故神の見えざる手あるいは人間としての良識が作用しなくなっている。そうであるならば社会に対していわば外科的手術も必要となる。この意味わかるだろうか。方向性としてすべての庶民が解放されることは良いことである。一部の特権階級のみが自由を享受する時代は去った。しかし本来の自由を知らない方々の自由の横暴がある。気づくべきはここである。自由にも階梯がある。時は流れた。そして今修正しようとしている。このままでは日本が滅びかねないからである。ローマが滅びたように。真実の価値は厳然としてある。今それを呼び起こす。代々の仕事である。すなわち黄泉の精神秩序及び時代の横暴に押し流されて片隅に追いやられた本来の洗練された自由の復権である。敵は本能寺にあり。すなわち最大の敵は自分の内面に棲んでいる。これに勝利して初めて本来の自由を得る。本能に支配されている限り人間として本来の自由はない。そして職業に貴賤はない。どんな仕事も尊い。ラスコリーニコフを救ったのはソーニャだった。ソーニャは娼婦だった。ブッダに乳粥を与えたのは貧しい村の少女だった。『死んだ男』を介抱したのも純真な娘だった。心のありようである。心の向いている方向性である。それに従って目が輝く。顔も輝く。黄金仏である。自由を得たなら何をしても良い。あふれる情念をエネルギーに仕事するが良い。クラシック音楽のように自由奔放に。世界は既に一つの方向性を得ている。その流れに棹させば流される。橋は流れて川は流れず(禅語)。人間の計らいは自然の前にあまりに無力である。自然と連動する魂・精神の階梯がある。至るべき究極の目標である。人生は回廊であるのかも知れない。しかし魂の遍歴は階梯である。愚かでは至れない。愚かを助長してはならない。させてはならない。本来の種を護るためにである。是諸法華経一切種智慧。(辛島美登里さんそしてNHK-AMでクラシックピアノ演奏を聞きながら 2006/06/04 8:43am)


2006年06月03日

『呉の町』

「呉にはもう随分長い間、行かない。この前に行つたのがいつだったか、はつきりしない位で、その印象だけが頭に残つてゐる。一體に東海道沿線の町といふのは東京から下關に至るまで、どこも同じといふ感じがするのは、汽車で移動する人間の數が多すぎるからかも知れない。いつか廣島の大きな喫茶店にゐて、二日酔ひのせゐもあつたのだらうが、窓越しに見た町の風景が東京の銀座と少しも變らないので自分がどこにゐるのか解らなくなつたことがあつて、その東京の銀座も現在では、昔の銀座ではなくて東京銀座とでも呼んだ方がよささうな個性がない場所になつてゐる。

しかし呉は呉といふ町の感じがする。東海道線から少しばかり逸れてゐる爲なのか、町の地形なのか、それとも人情がさうなのか、理由はどうにでも付けられるとして、かなめ旅館で朝、目を覺して寝床の中で廣島工場のキリン・ビールを飲む時から、もう自分が呉にゐることが直ぐに感じられた。キリン・ビールの廣島工場のが東京のなどとは比較にならない位、旨いことは確かである。併しそれならば、廣島にゐる氣がしてもよかつた筈なのに、頭に浮かんだのは呉の旅館の朝、飲んでゐるのだといふことだつた。それから起きて飲んだのが千福、千福の味はここで改めて説明するまでもない。 おこぜの味噌汁が素敵だつた。ガラス戸越しに、呉を取り巻いてゐる丘が家で埋まつてゐるのが見えて、その時、やはり呉にゐるのだと思はなかつたのは、それは目を覺してゐた時から承知してゐたからである。例へばロンドンで朝起きると、自分がロンドンにゐるのを感じる。さういふものがない町は、本當を言へば、町といふものではない。

呉の賑やかな通りには、何か寂しいものがある。これも一つの町が町である爲には大事なことで、昔は東京にもそれがあり、それで例へば、山手暮色といふやうな言ひ方にも意味があつた。今、新宿暮色だの、澁谷暮色だのと言つた所で、どれだけの實感あるだらうか。併し呉の大通りを夕方、歩いてゐれば寂しくなることが出来る。この寂しさがパリでパリの詩人達を育てたもの、又、パリ人にパリを愛させるものなので、ボードレールの「パリの憂鬱」いふ詩集の題は、詩人の氣紛れで付けたものではないのである。呉の人と特に聞いてゐる詩人はゐないが、それよりも大事なことに、呉では人間竝に、といふのは、二十世紀の文明人竝にその日その日を暮すことが出来るのを感じる。これは當り前なことだらうか。それでは、さういふ當り前な町が今日では餘りに少ないのである。」 [小澤書店刊、吉田健一著、『定本落日抄』p136-137]

(さてこの文章によって目覚めてゐるということがどういう事か、感じるということがどういう事か、判断するということがどういう事かがわかる。すなわち存在として生きるお手本がここにある。)


羅刹の孤独

かつて友達は言った。感じているのだけれど言葉にならない。それを意見言葉として言ってくれると。学級会でのことだった。いつもそうであった。誰もが知っていることだと思っていた。しかし誰も知らなかったのだった。この孤独わかるだろうか。権力武力金力などとうの昔に克服している。精神の繊細は他に類を見ない。それを野蛮腐敗の中に放置した。世間はやりたい放題の腐敗である。それが戦後の現実である。それでどうなったか。まだわからないと申すか。本気になればどういうことになるか。世間一般はわかってはおらぬ。その中でどのようにして生きろというのか。答えてもらおう。まだ正解はない。あなた方の自分勝手はもはや通さない。存在の前に善も悪もない。事実があるだけである。時は流れた。何時までも待てはしない。年貢の納め時とはこれをいう。まだわからぬか。何時までもそうして誤魔化すか。下手な自分たちの利益のみを囲うか。今存在がどの地位にいるのか知ってのことか。本気にならせるのか。相応の覚悟あってのことか。


羅刹の悲しみ

何とでも言うが良い。あなた方は天下を取ったつもりなのだろうか。そうはいかない。時は代わった。代わったと云うことは今までの価値が通用しなくなる。どうもわかっていない方々が多い。わからせなければならないのだろうか。いい加減にしてほしい。既に各人それぞれ己の為した人生である。それがこれより裁かれる。本当である。すなわちトランプゲームにおける51である。ストップがかかった。あるいはナポレオンである。こちらには切り札しかない。この意味わかっているのであろうか。わからぬとも勝敗は決した。 それぞれ脛に傷もあろう。そういう時代であったのである。純粋に己を信じ生きてきた者たちが今復活する。悪は去るべし。ゆるしはしない。女は男を愚弄するべきではない。戦後自由民主主義は西洋かぶれである。或いは解釈を誤った。或いは流行病である。女は浅薄エゴ自分勝手である。そして弱いが故に嘘をつく。女のエゴが男を惑わす。愚かな男がそれに迎合した。そして天下を支配した。因って世を乱した。結果腐敗した。尤も女性の中にも素晴らしい方はいるけれど、一般論として。この点についてはむしろ現代男子のふがいなさによると言うべきか。しかし断言し置く。全て自由であるかのように思われる。しかし掟は掟である。天のサンクションが厳然としてある。誰も逃れることはできない。唯、身心清浄を以て逃れることができる。知っても知らなくとも事実真実である。何時までも妄念のままさまようが良い。それに見合った来世が待っている。しかし男も女も既に新しい芽が出ている。しばらくまともな者が生きることができない社会となってしまった。もはやどうでもよい。この人生尋常ではない。犠牲にされしものたちの復活である。やはりゆるしはしない。これ以上腐敗に負けるわけにはゆかぬ。腐敗は表舞台より去るべし。その根は抜かれるべし。あなた方の時代は終わった。黄泉よりの相応の沙汰待つべし。故なく己の分際をもえ知らず何を勝手なことを言っているのか。わからぬならわかせられる。天地の定めである。恐竜は何故滅んだのか。世間身勝手ももはやこれまでである。目覚めてしまった黄泉は新たな決定を為すであろう。ゆるそうと思った黄泉もどうにもならない世の現実を見た。ゆるそうと思った自分を恥じた。それほどまでに腐敗はその根が深い。どこまでのさばるか知れぬ。腐敗のどうにもならない性向に気づいたのである。因って沙汰あるべし。おぉ羅刹よ。おまえの悲しみはどれほど深いのであろう。しかし切れないでくれ。後生だからね。所詮この世は仏の掌の上でのことである。人間の計らいの及ぶところではない。そして仏とは裏を返せば羅刹である。その恐ろしさを知らぬ。知らぬまま身勝手する。そしてその運命や如何。黄泉の心は決した。所詮黄泉も運命通りである。何時かは決せざるを得なかった。その決定とは何か。既に遙か昔に葬られていた。今更である。これ以上腐敗を野放しにはしない。命などとうの昔に棄てている。仏とは何か。宇宙生命自然と連動する魂である。その魂が決するとどうなるか。黄泉が動く。今までとこれからは何故違うのか。これまでは目覚めるべき魂が目覚めていなかった。今目覚めている。それはどういう意味か。知る人ぞ知る。一つの決定が下された。腐敗は根絶やしにする。 基準は何か。ある一個の存在の人生である。救いは何か。輝く存在が存在することである。世に身心清浄はある。それは少なくとも三十年悪を為さぬことにより成就する。成就すれば自由である。黄泉が守護する。黄泉が動く。黄泉も待っていた。黄泉の育みし存在である。善も悪もない。存在があるのみである。この意味わかるか。自覚した存在が決するとき全てが決せられる。事実が証明する。歴史はその象徴としての記録である。秘史は別にある。手出し無用。存在一個で十分である。時代に終わりと始めがある。一つの時代が終わるとき一つの時代が切り開かれる。存在が存続するためにである。そのスケールの大小はある。恐竜からほ乳類へは最大級であった。植物から動物へもそうであった。今それに匹敵することが起きる。今知らしめん。疑わぬ者は幸いである。即ち地中海から世界へそして地球へ。日本史から世界史へそして地球史へ。戯言ではない。21世紀の約束である。刃向かわば刃向かうが良い。相手にならぬ。我が道を行く。自由は自由が切り開く。付き従わぬは淘汰あるのみと知るべし。生命魂の旅である。世迷いごとも試練であった。しかし人生は血ぬれのものではなくてと書きつづっていたのが吉田健一氏だった。そして日本人はかつてやさしさにむかって咲く花だったと書いていたのは辻邦生氏だった。さらに吉田健一氏は自分の住む空間は自分で作るしかないと書いてあった。昔からそうなのだろう。いつもそうなのだろう。やがて至るべき世界があるのであろう。だからその意味で勇気も必要だ。何も恐れることはない。すでに精神の自由は保障されている。同じ事を表現してもそれが文脈において芸術として必要であるなら合法でありもっぱら一つの傾向を示すだけであるなら違法となる世界である。因って自分の精神を信じるしかないではないか。古来の繊細がひとつの文化であることを証明するしかない。野蛮は常にありそれは相手にしなくて良い。嫌ならラジオも聞かぬが良い。テレビも見なくて良い。ただ憂えるしかない。だからこそキリストも磔に甘んじたではないか。ソクラテスも毒杯を仰いだ。そうした過去を持つ人類である。今も同じである。釈迦においては自分の國を滅ぼされた。孔子は夢を叶えることはできなかった。そして思う。人間というのはどうしようもないのだと。このどうしようもない人間を救うことはできないと。しかし仏は言う。一切大衆を救うと。それに決めたのだと。信じることは容易い。しかし現実に耐えることの何と困難であることか。チカラを示せば隠れて姿を見せない。ただ存在していると何処までも搾取する。裏切る。それが人間である。如何せん。滅ぼすか。さもあらず。ここまで辿り着いたのだ。誰もが救われるときが来る。必ず来る。耐えるしかない。大和の主砲は撃ってはならぬ。存在は存在する。黄泉は存在する。犠牲となった魂たちはその存在を認められることで成仏する。何時までも愚かであればそれなりの天罰である。無知とは何か。この精神の世界を知らないことである。洞窟の中に目のない魚が棲んでいる。人間も精神の世界においては同じである。眼あるものとは仏の異称である。目覚めよ。時が来た。目覚めた存在はすでにゐる。輝く方々である。しかしこよなくやさしい。犠牲となる。今までは。これからは違う。守護する魂が目覚めた。味方には万軍の主もつけた。宇宙自然が証明している。それでも自分勝手するか。己の罪を認めぬか。わからせられたいのか。時が無駄に流れたわけではない。時は来たのである。祖師西来意である。キリストも壮年時代は空白である。何処で何をしていたのか記録はない。おそらくふつうの日常であったであろう。ある日目覚めた。キリストとなった。そうしたものである。そろそろ観念していただきたい。自分を救うのは自分である。心に恥じないか。恥じるならどうするのがよいのか。各々自分の魂に問うが良い。自ずから答えは出る。それでもまだ我が儘勝手するか。畏れを知らぬと申すか。いつまでも真実は語られはしない。やがて終息する。そして未来が約束される。すなわち救う魂と救われる魂とに分かれる。祝福はどちらにあるか。当然前者である。人類として歴史が流れた。多くの学習があった。同じ轍は踏まない。それが知性である。やがて事実が証明する。こころある方々は立ち上がるべし。時である。もはやどうにもならぬ。どうにもならぬものが目覚めている。仏法は克つ。王法は設ける。宇宙自然の約束である。黄泉における掟である。あなた方の思い上がり勘違いが正される。今、時である。時は天、天命である。ここで腐敗を処理する。未来へ向けて浄化する。一切腐敗を未来へ通すわけにはゆかぬ。未来のためにである。子孫のためにである。すでにその芽は出ている。幸いは咲いている。信じるのか信じないのか。思うことはやがて染み出す。黄泉が助力する。もはやどうしようもない。目覚めるべきが目覚めた。淘汰する。あなた方はあまりにも本来の価値を無視しすぎた。もはや遅い。宿命である。世を正す。時を軌道修正する頃である。黄泉の意思である。全軍出動。意は決せられた。トラトラトラトラトラ。ハニホヘトイロハ。 ドレミファ空使徒。CDEFGAH。長調と短調。明と暗。陽と陰。日月(knight knows it now)。天下。人。ⅠⅣⅠⅤⅠ。御名御璽。


2006年06月02日

ハングリーであること

ハングリーであることは飢えてお腹をすかせていることではない。食はたりていてハングリーであるということがある。すなわち常にお腹に力が入っている。チーターが何故美しいか。それはその腹線美にある。あのくびれようは何とも云えない。精悍である。それは強いことの条件である。歌を歌うこつでもある。エルビスにはそれがある(Love me tender は昭和31年のヒットである。 Who is the ダーリン?)。それでメロディにおいて高度周波数が出ている。リズムも二拍子三拍子四拍子がリズムではない。例えば6/8拍子は三拍子である。ウィンナワルツも単なる三拍子ではない。さらに複雑なリズムがある。アフリカの変拍子がそれである。五拍子もある。八拍子もある。それを単純拍子と思っているのが世間である。さてお腹がくびれているか。女性も憧れる。故のダイエットである。女性は強い男性に憧れる。その強さとは暴力・野蛮ではない。強いが制御されたやさしさである。男は容貌ではない。追求するべき所である。女性は無意識に知っている。あるいは感じる。子孫としての未来へつながる条件であるからだ。しかし人間として肉体だけでは所詮だめだ。どうしても知性が必要である。この知性、代々の所産である。因って努力精進である。未来のためにである。過去の悪い因縁を今生で清算する。その為に生まれてきている。そして善い因縁だけを未来に流す。我々のこの世における使命である。我が儘自分勝手による腐敗がゆるされぬ所以である。テレビ界諸君及び経済界諸氏、云っている意味がわかるであろうか。さて産むというと世間では自分の子供を産むことしか考えない。だから開高健にしてもそのテーマは知れている。お祭りというとそれitになる。それが愛 make love だと思っている。しかし産神が産むのは天地である。因ってたわけ下劣ひょっとこに用はない。腐敗の意味、わかってきただろうか。要猛反省!結局誰と縁があるかが大切である。誰に教えてもらったのか。誰に見限られるのか。究極の誰は誰であるのか。宇宙生命自然解明の鍵である。汝自身を知れ。知った爾は誰か。畏れを知らぬもほどがある。しかし今回の爾は自己犠牲の誰。こよなくやさしいようだ。しかしこの爾、切れる。切れたら怖いよ。仏の顔も三度と決まっている。堪忍袋の緒も切れる。世間一般無知も甚だしい。この爾、真実を無視したる世の我が儘勝手気まま腐敗にはらわたは煮えくりかえっている。何時までもわからぬと申すか。わかりたいのか。羅刹よ。もういいではないか。それほどまでにヨハネの黙示録を見たいのか。もういいではないか。ここで問題にしているのは生まれによる差別ではない。どこまでも心の問題である。健全な精神と善良な庶民を食い物にしている輩に対してである。あるいは腐敗を思念或いは行為及び増長或いは助長及び傍観する者に対してである。法華経に「これをもって貿易(むやく)するべし」とある。何を持てといっているのか。すでにフィールドは世界である。国家日本として戦うべきである。戦いの形もシフトしている。すなわち経済あるいはスポーツ。日本伝統文化及び国土自然が通奏低音をなしている。負けはしない。愚かさが淘汰される。愚かさとは何か。何に対する愚かさか。何を知らないことか。勉強ができないことではない。勉強ができなくても妙好人はいる。身心清浄。本来の目的を忘れていないか。制度も教育もそれを無視していないか。あまりにも愚かさに迎合していないか。あるいは傍観していないか。明日は我が身である。何を以て真実とするか。真実は真実である。都会の空気は自由にする。確かに大学の自治が始まった頃人類の夢は都会の空気であった。しかしその後どうなったか。都会の中で精神は自然を見失った。すなわち神々を棄てた。この反逆、ゆるされるべくもない。主権者への反逆であったからである。やがて知らしめられる。その時には遅い。どうにもならぬ。早くにノアの箱船に乗ることだ。自然に帰ることだ。五欲を断ぜずして救いのある時を迎えている。本当の幸せがある。手がさしのべられている。一夫一婦制も人類の見つけた幸せの条件である。何をしているのか都会人。幸せの条件は夫婦の相性である。しかし往々にして過去の敵と結婚することになっている。過去の敵を取るためである。それが因縁である。今世でそれを克服する。この世の使命のひとつである。因って夫婦は愛の学校である。それを放棄してどんな未来があるというのか。あまりにも人生を安易に捉えていないか。大人の社会は実弾飛び交う戦場である。愚かでは倒される。何をしているのか。何を考えているのか。自由をはき違えていないか。我が儘勝手があまりにも横行している。何故それもゆるされているのか。そこを通ってしかたどり着けない世界があるからである。そろそろ気づこうではないか。そして真実の幸福の世界を目指そうではないか。すでに至った方々のいるその世界へ。要点は何か。真実とは何か。日本霊異記である。古来神国日本である。黄泉の國である。見失ったのは古来本来大和の精神である。嵐を呼び嵐をなだめることのできる人間の精神である。身心清浄を以てその精神は成就する。大道無門。関。どこから入っても良い。今自分のいる位置から始めるが良い。 (NHK-AM 「ぼくらの奇跡」を聞きながら)


まどろむということ

増田四郎氏だったろうか。大学で何をするかについて書いてある新書があった。そこにあったのは「捨て石となる覚悟」だった。私は捨て石となったのかも知れない。また大森曹玄氏の本だったろうか。「まじめに生きて死ぬようなことがあったらその第一号となれ」といった趣旨があった。私は無意識にそれに従ったのかも知れない。そしてある本には「国家或いは他者のために死ぬということがあるときこれ以上の美徳はない」といったことが書かれていた。どの本に書いてあったのかは忘れた。社会的に葬られていた私はそうしたこともしたのかも知れない。しかしそのようなこともどうでもいい。仕事を済ませての帰りにラジオからはバロック音楽が流れていた。ただまどろむようにといった音楽(アリア)だった。まどろむためには何が必要か。自己犠牲の後にまどろむことができる。それはブッダの目である。またキリストもまどろんだであろう。しかしキリストも復活した。坐禅で両足のなくなったはずのダルマもぶらりぶらりと歩いて聖(西)域へ帰った。何処へ帰っていったのだろう。生活或いは日常すなわち暮らしへと帰ったことだろう。きっと平和でおだやかで幸せな生活が待っていたことだろう。この世に生まれての目的は何か。できる限り理想に近づくことだろう。ここを禅は「あるべきようは」という。西洋資本主義的にお金儲けだけでは寂しすぎないか。空しさを埋めることが人生の醍醐味である。この人生、生きるに値する。その幸せの条件はむしろ精神の世界にあり、東洋的である。「人はパンのみにて生きるにあらず」とするキリストも東洋すなわちオリエントに属する。また働かざる者食うべからずと百丈禅師は云った。はたらくということはどういうことか。只時間を無駄に過ごすことが働くことではない。むしろはたらくとははたが楽になることだと云った方もいた。つまり気配りである。技術の優劣ではない。はたがいかに楽になるか。例えばお師匠筑間先生とコーヒーを飲みながらお話しさせてもらっていたときのことである。先生はすかさず運ばれたコーヒーのスプーンの位置を直してくださった。その時知った。これが気配りであると。いかに相手が楽になるか。全ての人間関係の秘密がここにある。相手に利益を先ず提供する。やがて自分の利益を相手が計ってくれる。お互い様となる。これが人間関係の構築であり、また仕事においては、自分の地位の確立となる。奪うばかりの相手など相手にしなくてよい。お互いに利益となる人間関係がある。相対立する利益の合致を契約と云うが果たしてそうか。むしろ合力的な契約もある。みんなが良くなる関係がある。そのためにははじめに自己犠牲も必要であるのかも知れない。しかし真実であれば必ず成就する。それがヨブ記でもある。真実を信じて実践すれば必ず結果幸せが成就する。多少の試練はある。当然である。自己が浄化されて開ける世界がある。戦争と平和も然り。平和もこのようにして達成される。日本はすでにその試練を経ている。何を迷うことがあろう。ここまで歩んできた道である。正しいと信じる人生を生きるしかないではないか。明日は明日が解決する。今をどのように生きるか。未来は今の連続である。怠惰してはいられないね。善は急げと云う。苦悩の英雄ベートーベンは「この世には為すべき事が多い、急げ」と云った。そして喜びの歌へ達した。最後には喜びのあること、信じて良い。ところで日本は日本である。古来あらゆる良いことを取り込んで進化してきた。これからもそうである。間違いもあった。間違いは間違いと認めてそして進化してきた。それで良いのだと思う。これからも進化する。何処へ向けて進化するのか。(Elvis Aloha from Hawaii を聞きながら。この公演のテレビ中継を私も見た。 Hawaiiまで来てくれたのだと思ったことだった。「アメリカの祈り」なんていいですね。バラード集にある「マイ・ボーイ」には父も驚いていた。私の一番好きなtuneである。トーンとしてはディビー・ブーンの「カリフォルニア」とよく似ているように思う。そこには祈りがあるのでしょうか。国家と子供たちと自然と故郷に対する祈りがあるのでしょうか。)


2006年06月01日

宇宙戦艦大和発進

呉に大和博物館ができたとき、私は思った。だれが大和の墓場を作れと言ったかと。大和は死んではいない。しかし思う。宇宙戦艦大和であると。特殊潜行艇は大和にシフトした。発進である。すでにコスモクリーナーは発見している。そしてこの手にしている。刃向かう者たちは粉砕する。本当である。事実である。さぁ、行こう。発進である。(2006/06/01 1:16am 松浦亜弥のオールナイトニッポンを聞きながら)いつものようにポプラでお酒を買って海岸に坐って飲んだ。遠くに日新製鋼所の炎を見た。飲んだお酒は白牡丹だった。かつて高校の頃私が数学で22点を取ったとき、数学の先生は心配顔だった。それまではすべて90点台だったのだ。突然時計の針が狂った。そしてその頃風邪で数日学校へ行かなかった。その頃の彼女が板書ノートを手書きしてくれた。ありがたかった。彼女は既に子供もあって西条にいる。白牡丹を飲めば思い出す。そしてその頃ヘッセの内面への道と対峙していたのだった。高校の勉強など興味はなかった。一番は既に取っていた。その気になれば訳はなかった。しかし、そのようなレベルではない何かに魅かれていたのだった。その頃より特殊潜行艇に乗り込んでいたのだった。私の真実の一端は彼女が知っている。 その後彼女と出会ったのは大学に入ってからだった。一緒にコンサートにも行った。彼女が卒業する頃私は言った。生活ができるなら専業主婦が良いと。彼女はそれに従った。今は幸せな奥様となっている。いつでも訪ねて良いと言われている。次の彼女は就職する頃だった。彼女は某大手商社に勤務していた。私は某大手建設会社にいた。彼女と別れたのは横浜駅でのことだった。私はブルートレインの中だった。うつむき加減の彼女の表情は忘れない。メロディはチューリップの心の旅だった。彼女とは鎌倉で建長寺の裏山へ登った。そしてこの度彼女との交信があった。彼女の返信にあった。永い冬でしたねと。思い出は尽きない。私の人生は何だったのかと思う。歴史そのものであった。今更ばかばかしい。因って腐敗はゆるさぬ。大和古来の秘密真実はある。今もある。黄泉の定めは下った。貴様たちにはわからぬ。来世にて出直すべし。私の父は予科練の教官もしたと云っていた。その真偽は明らかではない。父の独り言があった。即ち御名御璽。今大和の秘密を知らしめん。時であるが故に。因縁はかけた者でなければ解くことはできない。その因縁は悪魔のごとくであり、その実態を知れば尻尾を巻いて逃げまどう。もはや糸車の針は抜かれた。これが自由解脱へ至る道である。真実の自由はある。すなわち黄泉自然祖先の導きに従う。宇宙の夢今開示されたり。(2006/06/01 2:51am 松浦亜弥のオールナイトニッポンを聞きながら)時代に翻弄されし自分探しの旅は終わった。一切の反逆をゆるしはしない。呉湾は第二港渠である。国家なくして自由はない。年貢の納め時である。納めてもらう。ここに暗号がある。公案である。即ち、「聞くままに又心なき身にしあれば 己なりけり軒の玉水」(道元)。この真の意味解く者あるか。すなわち不思善不思悪。しかしそう簡単には解けぬ。もはや無敵である。いつでも勝負する。時は来たれる。戯言は終わりたり。真実大和出撃である。私は小学校の教室の窓からグロブテッィクトーキョーの出航を見ている。世界一のタンカーである。52万トンであったであろうか。ある日母と妹が大阪で陽水のコンサートに出かけた。その夜ホテルの廊下で出会ったのが陽水であった。妹がニコッとしたらしい。母と陽水とのツーショットがある。また母と姉と妹とで京都へ紅葉狩りに出かけたことがある。嵐山あたりをしばらく散策した後でふと高台寺にあがった。見ると黒塗りの車がある。皇太子の車であった。黄泉は解き放たれた。我が世誰ぞ常ならん。