2006年08月31日

楽な世界へ

再び 仕事の限界が来たようだ脱輪 事故 商品損傷 仕事成就せずお金にならない 今の仕事は 限界に達した 本来の仕事ではなかったか やはり さて これから何をしよう 本来の扉が開くのだろうか 地獄からの脱却だろうか 楽な世界へ このようにして 救いは来るのだろうか すでに 本来の価値は知っているはずだ それが 通用しない 当然か ならば 通用する世界へ 移行するしかない 自分の力を誰もが評価する 評価しないのは 自分だった 自信の根源も 見つけたはずである ならば プログレス 進むしかないではないか もはや ほかに 道はない 何をしても だめだった これまでは 何故だったろう 本来の道ではなかったからだ このようにして 導かれるのだった さて これから 何をしよう 重いわずらいは ない 自由だ 気の向くままだ やっと たどりついた と見える 最高峰は 制覇していたはずだ ならば 行くしかないではないか 自分を信じること これが すべてだ その 自信は すでに ある 力もある テレパシーのような 事実現象だ 疑いようのない 宇宙自然と黄泉だ 世間虚仮だ 何を 迷うことがあろう ロゴスを詞にすればいい それは かつては 予言者の詞だった なにをかいわむ ホトトギス このよはすべて 仮の住まいか


真実のために戦う頃

キリストは言っている。神は、高きを低くし、低きを高くするために来ると。仏の願いも同じである。世界を平和・平等にすると。自分だけがよくても、周りが幸せでなければ、決して救われない。高いレベルでの平等を目指す。仏は一切大衆を救うという。教えは平等に説かれる。しかし受ける方の器によってその受けるものは違う。仏さんのことをすることでいいことはある。それはそれでいい。真実が真実であることの大切さがある。しばらく失われていたものがある。理論と情熱で実行する。為せば成る。これを忘れていた。そして諦めかけていた。ここで奮起である。真実のために。学問すれば理論武装できる。それで何をするのか。悟りを得たら、それで何をするのか。問われている。知的傍観者はこの世の腐敗と堕落において共犯である。こころすべきところである。このまま腐敗堕落傾向を放置するべきではない。立ち上がるべき時である。子供たちの本心は学びたいと思っている。悪ければ叱られたいと思っている。世の親は何をしているのか。子供は自分のコピーではない。子供の可能性は親でもわからない。鳶がタカを産むこともある。何をしているのか。自分の着せ替え人形ではない。生まれたからには生まれた意味がある。親の自分勝手がすぎる。当然親は子に復讐される。考え直す頃である。世はあまりに腐敗した。暴力及び腐敗堕落並びに不勉強をあおったテレビの罪がある。


2006年08月30日

菩薩道っていいですね

「本来の自分を自分がわかっていないから、わかってもらえない。用いてもらえない」。本来の自分とは何だろう。徳薄苦渋の身であるといわれます。思うようにならない。どうしてだろう。徳がないからお金も保てない。どうして徳がないのだろう。すべては過去及び今生における悪業の結果=因縁だといわれています。ものごとを自分本位でしている。それで魂が汚れる。この魂を磨かないかぎりだめだと。そして自分の魂は自分で磨くしかない。それが行だと。磨くためには相手が要る。相手の姿が自分の姿であると。そこから、本来の自分がわかってくる。何を謝ったらいいかわかる。自分の悪がわからなければあやまることはできない。それではどのようにして謝るといいか。そのためには何が必要か。それが妙法華経と大衆のための菩提樹だったのです。お経で供養すれば因縁が待ってくれる。その間、行をすることで、御法妙を頂く。これを贈ることで因縁が解決する。そうした供養です。過去に犯した悪業も解決する。謝るところからしか入れないとするところです。魂をきれいにすることを教えてもらうのです。禅は禅天魔ともいわれて人を寄せ付けないところがあります。やはり、やさしさへ向けて菩薩業をすることがいいように思われます。やさしい人格であれば、人は聞いてくれます。人を動かすことも出来ます。泥の中から蓮華は咲きます。世間は汚れていて当然です。自分の魂は自分でなければ磨けません。そして人と共に磨くのです。この人と共にが菩薩道です。社会全体が磨かれていくことになります。人と共に磨きながら、自分の姿も見えるのです。菩薩道っていいですね。ただし、ここにいうやさしさは、世間のやさしさではありません。なよなよとしたやさしさではありません。だれもが苦しんでいるという自覚があって、救われる道があることを知っている。だれもが通らねばならない道だと知っている。そして必ず救われると確信している。それは慈愛に満ちている。そうしたやさしさです。生きている限り、欲がある。もっとよくなりたいと思う。それはそれでいい。

「本来は何もない。つまり、無である。そこに行き着くことが大切である。生まれる時、死ぬ時には何もない。持っているのは魂だけである。自分の魂は、今、どうなっているか。それを見つめるために法はある。欲はあってもいい。悪の塊であるのが人間である。憎しみを抱いている。食べるだけでも悪である。何もしなくても。前世から持ってきた悪もある。それをきれいにしていく。身体が健康であるように、魂をきれいにしていく。自分の周りの変化するもの=化体ばかりに目と心がいき、ものごとを捉えて善悪を言っている。心を深く広くしていく。きれいな輝きは絶対にある。人をゆるすこと。じっくりと物事を見てゆき、変わらないものを見て進んでいく。そこに妙法華経が必要となる。化体は喜ぶ。それはいい。しかしそのためにするのではない。人の動き・周りの変化にとらわれてはいけない。本来私たちは何もない。過去からの悪業=因縁がある。御祖先の御供養は過去からの悪業の流れを清める。人間は何でも悪くする習性がある。だからお経をあげて御法妙を贈る。念願・御法妙を届けるためにお経の音声にのせる。お経で御供養はできる。悪業の結果が出るのを待ってもらえる。しかし本当の意味では、御法妙を贈らなければ因縁の解決は出来ない。仏様は皆悪いと言っている。皆一緒である。表面のいい感じを見るのではない。印象でいいと思っていたら、とんでもないということがよくある。お金がない。お金を保つ徳がないから保てない。徳薄垢重と言われている。生きていくこの世のものはまやかしが多い。これに頓着するのは法を持っていないのと同じ。欲はある。お金はない。今、大変な世の中である。分別に行ってもそのように言われる。何故か。自分がそう思っているからである。自分にそういうものがあるからである。それでその事は起きる。自分の悪いものを磨いていく。魂を磨いていく。本来の自分を自分がわからないから、自分をわかってもらえない。用いてくれない。大事にしてくれない。磨くには人と共にする。お経の中から教えてもらったり、励ましてもらったりする。人を導く。その人の姿が自分の姿だと悟り、深く謝るところから始める。謝ったら、自分のこととして受け止め、相手に対して思いやり、慈悲の心が生まれてくる。子・孫だったらどうだろうと。相手がわからないから教えてあげる。わかってもらうには喜びが要る。相手の姿を見て、自分がわかる。おだやかになれる。気づいたらすぐに実行する。腹が立たなくなる。大きな心ができる。嘆いて人のせいにしてつぶれない。どう進んでいくかのために悟りがある。だから、目標を立てて進んでいく。失敗したら新たなチャンスだと思う。失敗も一つの楽しみとなる。次を試みることになる。これもひとつの経験とばかりに。成長しているといえる。命があり、行動できることを感謝する。変わってゆける。欲でしないことだ。欲ですると人はついてこない。人がついてこないのは、きれいになっていないからである。要はうまくゆくというところまでいかないといけない。蓮の花はどんなに汚い所からでもきれいな花を咲かせる。蓮の花を見て悟れと仏さんは言っている。泥の中から咲けばいい。自分の心の中が泥沼である。心の中に波風が起こっている。人を見て人を憎んだりしている。法と照らして自分がどうであるのか。善悪は法に照らして決めていく。人によって決めない。人はどうであれ、人のことは人のこと。自分はまっすぐに生きていく。よくない実相をあきらめずに、常に磨いていく。どのような環境の中でも、喜びと内なる自信ができる。それがどんな世界でも生きてゆける能力となる。人に対する見方も変わってくる。この法で、家、病気、商談がうまくいく。それはそれでいい。しかしそこで止まっている。物に対する欲になっている。車が手に入ったら、次は家がほしくなる。しかし、形ある物はやがて無くなる。何生生まれ変わっても持ち続ける目に見えない魂がある。これを磨く。行事・仕事・家事・分別と忙しい。何のために忙しくしているのか。計画を立ててする。その中でどれだけ大衆のために時間を使うか。そして自分が変わってゆかねばならない。日々自分を振り返る。自分のステップとしていく。善悪もわかるようになる。法を聞いて。耳に聞いて、実行して、体感することが出来る。自分がそう感じることが大切。目に見えた物ばかりに心がいきすぎている。本来何もない。大したことはない。そうした物で自信を失うのはつまらない。欲望のために法をするのではない。自分の根本を見つめ直して、自分を磨いていく。根本が汚いから思うようにならない。徳がないから保てない。相手は自分の鏡。過去にしてきたことを形にしてもらわなければわからない。その時がチャンス。その人がおだやかに法をしていく姿となることが目標。相手の姿はすべて自分。流れをきれいにしておかないと残っている悪がいつかどこかでやって来る。常に磨いていく。法は自分自身を磨くためにある。そのためには相手が要る。その時々の相手の姿が自分の姿。相手がちゃんと法と取り組むまで見ていく責任がある。過去ひどいことをしてきた結果である。相手がいない人は何もしていないに等しい。少しもきれいになっていない。来世へ持っていく魂を磨く。自分のことだ。せっせと磨く。毎日法のことをする。きれいになれる。人間関係もよくなる。愛される。常にしていく。常に心がける。人のお世話をさせて頂く。人と共に喜び合う。社会においては、礼儀をもって人に対してしていく。毎日、法のことを口に開く。法のことを話していく。相手の姿に自分の姿を見ていく。相手は自分の鏡。一粒でも種を蒔く。念願をしておく。天候安全と共にする人が喜んで頂けますようにと。素直で清浄な心ですれば楽に出来る。目に見えない方を信じて日々生活する。悪いところがわからないと謝れない。つめをしていないから、仏さんの縁を落としている。無となって、自分の喜びとしてすればいい。聞いてもらえる自分に変わっていく。人と共にが本当の御供養。分別しないのは自分本位。自分本位は法に反する。人と共には楽しい。仏様から御宝を頂ける身になれる。価値がわかっていたら伝えることが出来る。家もそれだけの格にして頂いている。御宝をお迎えできる家は、見えないところに通じる家である。家が輝く。自分も輝く。御法妙と念願の力。したらしただけのことが身に付く。自分の魂は自分でなければ磨けない。磨くのは人と共にする。必ず縁の人がどこかに待っている。常に新しく!悪の本事がわからないと謝れない。善の本事がわかれば徳分を発揮することができる。」(H16.1.12 王舍城にて聞いたこと)

さて、確かな旅路だった。だったと言っていいと思われる。どこを旅したか。誰も知りはしない。知られたくもない。代々の掟である。しかし得た物は大きい。おそらくどれほどの価値があるか測り知れない。この世の秘密の宝の原石である。しかしそれはそのままタイムカプセルに封印しよう。下手に商売されても困るから。真実はある。真実はつかんだ。しかし再び封印された。それでいいと思う。荒れ狂う台風に対してどうしたか。海に手をつけてなだめた。まるで愛馬を愛撫するようにであった。その日その台風はとてもおだやかだった。今世界に手向けよう。時は流れた。愛と平和こそ人類の願いであり、殺戮の時代は終わったのだと。この世の謎は解き、解き終わっている。あらゆる謎である。誰も知りはしない。レベルが違っている。しかし失った物も大きい。私は私の人生と青春を失っている。そうしたものである。そして日本は大丈夫だ。解くべき謎が解かれたからである。ここに「一」を挙す。次は誰が挙すのだろうね。自由は切り開かれた。思うままにして法を超えない自由である。世間の汚れた自由とはちがう。宇宙自然黄泉祖先の祝福守護する自由である。汝自身を知れ。コギトエルゴスム。次は誰だろうね。種は蒔かれている。必ずいつかどこかにその花は咲く。その時々に世界は救われていく。永い魂の遍歴である。いつかは誰もが至りつく。私の使命は果たした。導かれていたとはいえ、あらゆる艱難辛苦の課題を解き、解き終わった。大いなる宇宙自然黄泉祖先の救いの道のあることを証明した。そして確かな救いを見つけた。すなわち、日月照らし、風の吹く。次はあなた方ですね。


2006年08月29日

真実の花が咲く時節

その後、何をしようかと思っていた。いろいろと考えていた。起業、小説、・・・・・・。しかし、ここへきていろいろなことが起こるのだった。それも知らしめんがためだった。大難は中難、中難は小難となったものの、その原因は、いずれも不注意だった。これも次のステージに至るための試練だった。自信めいたものがあった。しかし、それは思い上がりでもあった。所詮人間である。不注意は命取りとなる。それを教えてもらった。次のステージへ進むために必要なものだった。実践段階にはいるためにはどうしても教えておきたかったのであろう。ぎりぎりの線で教えてくれた。不注意とは自分の感性に反して世間に影響されて何かを為すことだった。その恐ろしさを知らしめられたのだった。また、諸問題の解決能力も試されたのだった。社会とは相互に助け合うシステムであることも知った。それで、自信はさらに進化した。自分が正しいとの確信があるなら、つまり、日月に対して恥ずることがないならば、怖れるものなど何もないことに気づいた。脅迫をも。真実と神仏のほかには畏るるべきものは何もない。そしてこれから何をするかを考えるのだった。仏の行はさせてもらった。しかし中途半端だった。まだ、仮免状態である。これをおざなりにしていた。せっかく教えてやったのに、何をしているのかといわんばかりだった。そして思った。仏さんのことをさせてもらおうと。あらためて思った。何を思い煩うことが有ろう。思い煩うこと自体が人間の傲慢といえる。すべて神仏の導きである。その時々に与えられる課題を解決すればいい。一つの課題を解いて次の課題が来る。それぞれの課題を解く。そのようにして神仏の導きに従う。やがて幸せな自分となる。神仏の計画である。これに反して自分勝手しているのが人間である。さて、可愛い子には罰もある。可愛いが故である。それを受容することだ。そして神仏の前に素直になることだ。これがなかった。当然サンクションがある。愛の鞭だ。ところで、見える世界と見えない世界がある。見える世界は見えない世界に従う。見えない世界を認めること。この一点ですべて解決する。やがて線となり、面となる。それが妙好人の世界だ。頭を使って何とするか。所詮人間の計らいだ。程度は知れている。悪を含む人間の計らいである。結果不幸と決まっている。究極の解決はない。的をはずす。神仏の大きな計画がある。宇宙の始まった時よりの計画である。やがて誰もがそこへ至る。つまり、成仏である。今生で至らなくても来世のどこかで至る。今生で至れば、生きながらにして成仏である。それは見えない世界を認めることだ。そして見えない世界を供養することだ。供養とは相手の喜ぶことをすることである。あらゆる一切を供養することだ。そうすれば見えない世界からの守護がある。これを知らしめんがためにあらゆる事は起こる。この事実が真実である。それに対して自分勝手自分解釈しているのが人間だ。所詮真実に反する。相応の結果となる。それだけのことだった。さて、この事実に気づくと気楽となる。何の思い煩いもなくなる。これが幸せだ。お金ではない。お金では買えないものがある。それが愛。ここまで孤独な人生であった。人知れず内面の自己と闘っていた。それも知らしめんがためだった。仏さんのことをさせてもらう。自ずと富も集まる。それが不思議だ。実行有るのみである。真実の花が咲く時節である。自分のためにしようとして悉くだめだった。一切大衆を救うという仏さんのことをさせてもらいなさいということだった。これですべてが解決するはずである。何もかもが。今の仕事も懺悔としてだ。つらいこともあった。しかし、今は楽な気持ちでさせてもらえるようになった。仕事もその役を演じるにすぎない。サービス業であるなら、仕える行である。かしこまりましたと役を演じればいい。その役もやがて卒業が来る。いつまでも同じ役をしているなら、それはその役を演じきっていないからだ。演じきればいいのだ。それが自分の属性となる。いつでもその役を演じることが出来る自分となっている。そのようにして進化していく。中途半端では次は来ない。どのようになりたいのか。それを明確にしておかねばならない。私の場合は成仏であったか。その形も垣間見た。一生涯修行である。道が見えたなら進むしかない。道草を食っていては予定通り目的地へは着くことがない。生きている間にどれだけの事を成就するか。それが今生での人生である。目標が見つかるまでは悪に染まらぬように。今の子供たちはどうか。主体的に目標を決めているだろうか。親といえども子供の本来の目標はわからない。あまりに過保護である。子供には子供の特権がある。すなわち純粋無垢であるが故の守護がある。大人となってゆくにつれて、悪を為す。それで守護がなくなる。神仏の意思に反するからである。そして大人は腐敗堕落した自分を正当化する。それが身勝手人間である。子供には、塾とかお稽古事だけでなく、思う存分子供時代を過ごさせるべきである。何かを極めると、あらゆることに応用が効く。それをさせない親のエゴがある。そうした親はやがて子より復讐される。大人は自分に自信がないから悪を受容している。悪をむしろ格好いいとか思う。それで悪がはびこる。悪はゆるさないと決定するべきである。それが主体的に生きることであり、主権在民であり、国民主権である。やがてあくせくする必要のないことに気づく。生きているだけで幸せだと思えるような時が来る。そのためには、あくせくしなくてすむ自分になっておかねばならない。その方法はある。それが仏法だ。仏法は究極の幸福論である。自分を自分が信じられるかどうか。信じるに至る過程、それが青春である。信じるに至る。真実の人生が始まる。無理はしなくていい。あるがままの自分で十分だったことを知る。神仏の守護を取り付ける。もはや大丈夫である。永い魂の遍歴があった。今生でも月の砂漠をさまよってここまで来た。究極の真実を探していた。そして巡り会った。仏さんだった。久遠劫からの一大事因縁である。させてもらうしかない。個々人は、過去の遍歴から様々な種をそのDNAに宿している。そのどれを選択するのか。それはある意味でプログラムされている。時々の思念と行為で修正される。今咲いているのは何の花か。人知れず咲く高山植物の花がある。迷わずに咲いている。咲いて何を思っているのだろう。何事も歓喜奉行することを思っている。何事も。本来無一物。日月照らし風の吹く自然の中で、自然に受容され、自分が変わる。世界が変わる。と。時は天。時は至れる。真実の教えが顕れている。その種が明らかとなった。実もなった。伝えなければならない。諸宗教を超える宇宙の法則である。すでにその真実を垣間見ている。信じるに足りる。目覚める頃である。今までは自分が救われることだけを考えていた。それは真実の教えではなかった。方便だった。真実と方便の違いは何か。真実は結果が出る。方便は結果が出ない。因って、方便は嘘である。真実の教えの目的は一切大衆を救うことにある。大衆の中には人間も含む。一切大衆が救われないと幸せな世の中はやってこない。方法はある。それは仏の定めた方法である。自分勝手にしても行にならない。人間である限り悪を伴う。結果悪の花が咲く。善は仏さんの所にしかない。「親」という字がある。立木を見よといわれる。立木とは何か。菩提樹である。過去の仏はすべて菩提樹下に端座して悟りを開いた。今、大衆のための菩提樹が建立されている。大衆のためである。だれもがこの菩提樹の下で端座することができる。志さえあれば。実相の菩提樹である。見える方見えない方両方を以て実相という。見える世界にも通じる。見えない世界にも通じる。梵天帝釈も来下して謝るところである。人間もここで謝ることで赦される。本当に赦されるから不思議である。赦された状態で行をする。それは三つの菩薩業である。すなわち、懺悔業、善徳業、安楽業といわれる。五欲を断ぜずしてこれらの業をすることができる。それはどこに開かれているか。探すべし。法華経に多宝仏塔が涌現するとある。法華経の中に秘められていた108つの条件をすべて満たした場所が発見されてそこに多宝仏塔が還成されて本当に涌現している。自然が真実を証明せんがためである。時は進んだ。真実の花が開花している。苦のない世界が待っている。本当の幸せが待っている。心を起こすだけでいい。心を起こせば実行が来る。実行すれば結果が出る。真実の結果が出る。信じることと仏さんの縁があって実行できる。自分勝手ではだめだ。この世の地獄から出ることはない。ただ、仏さんの業をすることで出ることが出来る。それを仏さんは知っていた。しかし真実の教えは有ることだけが伝えられていただけだった。その内容が明らかとなった。本当である。時が来るまでその種は隠されていた。時が来るとは悪が満ちる時だった。今その時が来ている。恐怖悪世である。あきらかに世に起こる犯罪現象がこれまでとは異なる。何故か。過去の因縁が解き放たれたからだ。真実の因縁も解き放たれている。どちらへ進むのか。凶悪犯罪社会へ進むのか。悪が満ちた。それ故に救われる時である。すでに汚れたものたちは謝るしかない。どこで謝るのか。実相戒壇建立して実相の菩提樹で謝る。まだ汚れていないものたちは幸いである。真実の水を飲むがいい。必ず救われる。仏の約束である。仏は何を明らかにしたか。すべては因縁であることを明らかにした。善因縁と悪因縁がある。過去の思念と行為である。今、身のある我々も日々因縁を作っている。これが未来へ流れる。未来において因縁となって現れる。これが現象である。あるいは事故ともなる。故意にする犯罪も過去の因縁あるいは新たな因縁である。この因縁をどうするのか。弔う。どのようにして弔うか。過去の因縁に対しては御法妙を贈る。仏の決めた文理真正である。これで過去の因縁が成仏する。消える。悪さしなくなる。彼らも救われたいのだ。今、身のある私たちが業をして仏よりきびだんごとして頂くことが出来る。そして過去を救うことが出来る。現在をどう弔うか。仏との縁を頂く。そして仏より善因縁の命名をして頂く。これで善の名前に従う。名前は命名。名に付着したとおりの運命が動く。不思議だがそうである。未来に対してはどう弔うか。仏より実相の菩薩号を頂いて、菩薩の業をさせてもらう。これが過去現在未来を弔うことである。すなわち過去現在未来の菩提を弔う。三藐三菩提を成就することである。情報理論は、音楽絵画を含めてこの世のあらゆる現象を0,1で表すことが出来るということである。それに最も適した装置がコンピュータであった。仏は何を説いたか。あらゆる現象は因縁であることを説いた。台風もその例外ではない。そしてその解決の方法も明らかにした。それが妙法華経だった。その名はすでに法華経の中に秘められていた。名だけは伝えられていた。しかしその内容は明らかではなかった。途中、日蓮はそれに気づいた。だが、それを世に顕すべき時ではないことも知った。それがいわゆる三秘密の文書として残されている。真実はこのようにして明らかとなるのだった。新しい大法輪は転ぜられた。事実である。これより一仏国土建設である。すでに設計図はある。それが妙法華経である。神仏の意思である。黄泉が助力する。刃向かうものは黄泉自然が成敗し淘汰される。人間は嘘をつく。嘘とは妄念である。地獄の門である。結果腐敗堕落する。腐敗堕落を正当化する。それが人生などと吹聴する。それが人間である。そして真実を無視愚弄破壊した。これを黄泉自然はゆるしはしない。地獄の門から脱却しないか。方法はある。正直者のこうべに神は宿る。舌切り雀である。真実である。真実の花が咲く時節となった。自分のためにすることをやめることだ。真実のためにすることだ。それは仏の教えに従うことだ。仏の願いは何か。一切大衆を救うことである。そう決めたと仰っている。そして仏の業をするものには一切を譲るといわれている。信じてみないか。いつまでも我を張るのはやめよう。すでに真実は明らかにされている。仏によって。救われる道がある。道である。必ず至ることが出来る。本当の幸せが待っている。さあ、行こう。


2006年08月28日

悪との訣別

今、呉と江田島は断水となっている。学生の頃には江田島の山が燃えた。2000ヘクタールだったか焼失した。三日三晩燃えた。広島から呉に帰る途中、夜の天応駅に停車した車窓からそれを見ていた。2004年7月12日には、早朝、広島県呉市阿賀南4丁目で、修理中の送水管から地上約15メートルにもおよぶ水が噴き出し、呉市の東部と隣接する地域の約2万9000世帯が断水となった。その日は私の両足踵骨骨折手術の日だった。7月6日にある現場で墜落した。墜落というよりジャンプだった。バランスを崩して下には作業員が何人かいた。それで両手に道具を持ったまま、1.5メートル左前方へジャンプしたのだった。着地にはうまく成功したと思った。しかし立てない。そのまま中国労災病院へ搬送された。緊急入院となった。その入院中には広島で台風が吹き荒れた。高潮もあった。風速60メートルもあった。壮絶なリハビリもあった。孤独な入院でもあった。起こるべき事は起こる。そして、それはすべて意味を持っている。しかしその意味は誰にもわからない。わかるものしかわからない。それでいいのだと思う。ことさら波風を立てることはない。無記のままでいいのである。そして今とこれからを考える。どうしたらいいのかを考える。今、必要なのは私が変わることである。今までは世間に染まろうとしてきた。しかし悉く失敗した。そして世間に染まりきれなかった。染まりきれないのは何故だったかもわかった。染まってはならないのだと自覚した。それが私の運命だったのだと。そして思う。染まらなくてよかったと。さて、私自身、悪かった。それ故、悪を受容していた。必要悪とでも思っていた。今はちがう。悪を赦せなくなった。悪を受容していた自分を反省した。そして思った。世間に染まれずに社会に生きられないならそれも本望であると。今更である。世間身勝手どうにもならぬ。すべては知らしめんがために起こる。何を知らしめんとするか。私が悪かった。悪を受容していた。これからは違う。我一人といえども悪をゆるさない。それで生きられないなら本望である。悪とは人間の身勝手と愚かさである。悪とは戦う。悪とは偽善である。方法はいくらでもある。準派遣社員の身分では所得はないに等しい。それでいいと思っている。これより正直の生きられなくなった汚れた社会に対する自然からの復讐かも知れない。魑魅魍魎跋扈する新たな自由に対する本来の自由からの。今更である。見るべきものは見た。ところで、オリンピックを東京でするか福岡でするか争っている。オリンピックで都市開発したいだけだろ。だったら、両方ですればいいではないか。オリンピック期間中は特別ダイヤを組んで東京博多間ノンストップ新幹線も走らせるといいね。夢がある。さて、私の感性と世間の感性は同じだと思っていた。それで私は私の感性を世間に合わそうとしていた。しかしそれは私の感性の自殺だった。その意味では自信がなかった。勇気もなかった。しかし、今、私は変わった。私は私の感性を大切にすることに決めた。振り返れば子供の頃より私の感性は異なっていた。祖父に鍛えられていたのだろう。守護されていたのであろう。しかし何時の頃からか世間に負けた。負けたままだった。これからは違う。何故か。真実と神仏の守護とを確信しているからである。欺罔と偽善の世の中で生存できないならそれも本望である。黄泉にて待つ。覚悟するがいい。容赦しない。いつまでも勝手なことをいっているがいい。すでに地上ヘブンは開かれている。そこに住むには条件がある。自己の内面の悪魔を倒すことである。悪魔は人間より強い。仏の力を借りるしかない。これが真実である。真実に至る条件はこれひとつのみである。さすれば、日月照らし、風は吹く。白隠禅師はいっている。隻手の音を聞けば何をしても善だ。聞かない裡は何をしても悪だ。隻手の音とは何か。すなわち、軒の玉水。私は人生を取り戻す。青春も取り戻す。それらが失われた理由もわかった。ペリー来航以降、やっと平穏となっていた日本は狂った。その後狂いっぱなしである。東洋が西洋化しようとした。情緒を失った。気品も失った。美も失った。精神は愚となった。腐敗堕落した。西洋重商資本主義の基礎はインカから奪った金である。戦後日本経済の基礎は海軍工廠から奪った鉄屑と主の居なくなった土地の囲い込みである。戦後自由を得た自由は自由を履き違えた。子供たちに対して叱ることが出来ない親が親となった。狂ったからには治さねばならぬ。その処方はある。古来日本卑弥呼の系譜邪馬台国大和の復活である。その時はこうして来るのだった。これ以外にない。正統歴史である。刃向かうなら刃向かうがいい。伊耶那岐伊耶那美以来の黄泉が処断する。すなわち波と凪である。それは海彦山彦の物語である。すなわち自然の恵みと淘汰である。自然は自然を愛するものを守護する。自然を征服せんとするはバベルの塔である。真実、自然に帰れ。ロゴスは宇宙を動かす。何時までも戯言は通らない。嘘は淘汰される。真実の時代が来た。それでも刃向かうなら自然及び黄泉より思い知らされるだけである。呉市はもと市長が逮捕され断水となっている。呉市の長老方もさぞふるえていることだろう。本末転倒。転倒しているならもとに還すだけである。日本は二千年来日本語の國である。万世一系最も古き歴史を誇る國である。智慧がないはずがない。古代エジプト及びローマの末裔はいない。中国は何度も王朝が入れ替わっている。ヨーロッパはゲルマン民族大移動後のことである。日本はもっと日本に自信を持っていい。しばらくは間違っていただけである。レベルの低い民族主義の概念では説明できない。黄泉を知るのは日本だけである。戦後の自由庶民、なにをたわけているのか。江戸無血開城禅譲精神を思い出さないか。仏は一切を譲るという。一切である。その中には如来の神力を含む。それを無視愚弄自分勝手自分解釈して、結果不幸となっている。あまりにも愚かであったとは思わないか。それでも腐敗堕落を人生と誇るか。自らの悪と愚かさを認めることだよ。良心に聞けばわかるね。そこより始めるしかない。21世紀真実幸福論。人間が悪を為し腐敗堕落となって不幸になるのは偏に内面に巣喰う悪魔に負けるからだ。はじめは小さな癖だったのがやがて悪魔となる。悪魔となれば人間の力ではどうにもならない。仏の力を借りるしかないよ。それを認めようとしないのが愚かさだ。内面の悪魔を倒す。その時、神仏との邂逅がある。神仏が認めてくれる。守護もしてくれる。そこに自信が来る。勇気も来る。負けるな一茶これにあり。本来一切衆生悉有仏性。人間は偉大だよ。ただ内面の悪魔に支配されているだけだよ。戦争はリーダーの意思決定で始まる。それを必要悪とする自分がいた。戦争を許さないと意思決定していなかった。それで戦争は起こる。起これば一人歩きする。人間の力では止められなくなる。愚かな繰り返しである。大英博物館の展示に何を見るか。愚かな人間の殺戮の歴史である。そろそろ気づく頃だ。人間も進化した。学習もした。戦争は原爆で克服している。それでもまた愚かな道を歩むか。同じ轍を踏むのか。同和教育も克服された。すでに生まれによるいわれのない差別は悪と決まった。女性も解放された。しかしね、少し修正が必要とわかった。これより議論するべきところである。解放された自由が横暴を極めた。本来の自由が生存できなくなった。事実である。悪がはびこりすぎた。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。あまりにも嫌な草がはびこりすぎた。事実である。皆が幸福になりたいと思っている。方法を誤っている。結果不幸である。どうにもならないところまで来ている。子供たちを見よ。このままでは滅亡する。これまでと同じ「今時の若者は」ではない。明らかに危険な兆候がある。地球温暖化。呉湾の潮位は異常に高い。昔の大潮ではない。まるでベニスである。どこを見ているのか。何を見ているのか。お金は狐の木の葉である。縁起が悪すぎる。権力は権力によって滅ぶ。市民革命によって克服された。武力は武力によって滅ぶ。原爆によって克服された。金力は金力によって滅ぶ。いまそれが克服される。ただ法力あるのみ。神仏に認められ守護を得て夢が実現することである。すなわち思いが通ることである。ロゴスである。日月照らし、風が吹くことである。周りが幸せである時、その中の自分も必ず幸せである。これも現代エゴに対する彼岸である。これらの真実を見つめてみないか。自分だけよければいいとする民の自由主義競争弱肉強食社会の限界が露呈している。今のあなたはいいだろう。しかし、あなたの子供によって復讐されるだろう。すでに新しい芽は出ている。声のトーンのやさしい方々である。声に棘があってはだめだ。音声で人は動く。黄泉も声のトーンを聞いている。力強い声と棘のある声は違う。目は輝いているか。真実に対して自信が有れば目は輝く。自信は神仏の守護を確信するところより来る。そこへ至る道は祖先が導く。祖先も救われたいからである。祖先を救うのは身のある今の自分である。どのようにして救うか。探すべし。この世は魂の遍歴の一部である。さて、ここに日本古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の復活をいうは、精神面においてである。とりわけ日本のアイデンティティとしてである。客観的には民主主義であり、資本主義であり、世界平和であり、世界の中の日本であることはもちろんである。要はこれまでの諸制度に失われていた何かがあり、その復活なくしては、制度の存続も危うくなるほどに構造的制度疲労しているのではないか。愛と平和を理念あるいは旗印としてそれを実現享受するために何が必要なのかを考える時、古来日本を思い出して、そこに失われた真実幸福の基礎を見出し、新たな真実創造を人間の英知で果たさんとするのである。いうまでもないことだが注意的に付記する。さて、所得も含めて、新しく構築を始めることにしよう。この世は自分次第である。それは意思決定のレベルで。後は祖先が導く。縁が助力する。夢は実現する。自分のことは自分でなければわからない。その意味ではだれもわからない。自分のことは自分で解決する。そして幸せな世界に合流する。それを拒むのは自分である。自分が変わらなければ何も変わらない。自分が変わればすべてが変わる。変わるべきは自分である。悪いのはすべて自分であった。さぁ、これからどうしよう。人のため、仏のためにすることにしよう。これまで自分のためにすると必ず失敗した。世間のいうとおりにしていると悉くだめだった。自分の思うようにする。それが人のため、仏のためだ。これから枯れ木に花を咲かせるとするか。今度はいい花を咲かせる。そのためにはいい種を蒔く。冬来たりなば春遠からじ。憂いはない。迷いもない。十分な耕しが出来たようだ。やっと思う自分が見つかったようだ。マイナスな傾向はマイナスな結果となる。明るいのがいい。積極的なのがいい。これも体験的にわかって自分のものとなる。自分に言って聞かせてさせてみる。必ず、よい結果となる。世間はそうは聞いても聞くだけである。自ら律することを知らない。悪を必要悪と心のどこかで受容している。相応の結果しか生まれない。私は私を生きる。それでいいのだと確信している。本来それでよいのだった。それを複雑にしていたのは自分だった。世間を気にしすぎた。永い旅だった。素直に笑顔が美しいと思えるようになった。憂いは迷いから来る。迷いは去った。人生は楽しむにしくはない。お金がない方が本当の楽しみを味わえる。すなわち、日月照らし、風が吹く。これ以上の楽しみはない。もう何も悩むことはない。本来無一物。あとはわかりあえる関係が来ることである。焦っても仕方ない。これも種を蒔いて育てるしかない。花は咲く。どのような花を咲かせるか。自由である。孤高の自由を楽しむ。それもよし。気楽が一番である。気楽はどこから来るか。如来より来る。見えない世界から来る。見えない世界からはすべてお見抜きお見通しである。いくら隠してもだめだ。黄色いお足が見えている。見えない世界に恥じない自分であること。これにつきる。恥を知るとはこの意味だった。世間に対してではない。見えない世界に対してである。この一点を知ることですべては解決する。そこより線となり面となる。人生となる。亦喜ばしからずや。これが青春の歌である。さて、どのような花が咲くか。楽しみはつきない。汚れた青春など要らない。若さは年齢ではない。情熱を失わなければ何時までも若い。真実を知らず、探そうともせず、大きな事は言わないがいい。すべて今ある自分は過去の延長線上にある。どのような人生を歩んだか。淘汰の時である。新しい時代のために。浮かれた空虚な人生に実はならない。明治は廃仏毀釈をした。今もその延長線上にある。見えない世界を知らない方々の支配である。不幸に決まっている。これをあはれという。戦後自由を得た新たな庶民は自由を履き違えた。暴力と欺罔で利益することしかない。それで凶悪犯罪国家となった。すべて本来日本の精神を無視愚弄した結果である。日本の心はやさしさへ向かって咲く花のようであったと辻邦生も書いていた。思い出さないか。古来本来日本を。失われているだけである。忘れているだけである。思い出せばいい。


2006年08月27日

Yさんの意見~幼子を持つ親として~

「三十年、四十年前には日本にはやさしさと家族愛があった。塾は間違っている。学校の教え方も間違っている。昔は、生徒が悪ければ先生がガチンとやっていた。先生は今、気を遣って仕事をしている。先生にある程度のことは許すべきだ。悪いことは叱る。昔は子供が切れるということはなかった。社会全体、国全体の問題だと思う。子供がガードされすぎている。学校の先生は一人の人間であって、神様ではない。皆平等であって、その上に先生がいる。今、先生が思う存分教えることが出来ない。親があまりにもカバーしすぎる。子供のためにするといって、子供のためになっていない。子供の犯罪が増えている。すべての親は、子供が元気でのびのびと育ってもらいたいと思っている。いじめは親の責任でもあるし、学校の責任でもある。この無責任といじめが循環して、三十年、四十年たった今である。このままでいくと滅びてしまう。だから、私は社会のことを子供に教えていきたいと思っている。私の子供はまだこれから幼稚園で小さいけれど、今から教えていきたいと思う。世の中がよくなるためには、親が積極的にならないと・・・・・・。私の嫁は中国人だけれど、中国にいじめはない。子供たちはふだんからとてもまじめである。学校の先生の話をちゃんと聞いてよく勉強している。学校を休むということはない。サボって遊ぶということはない。日本ではどうか。ちょっと風邪をひいたからといって休む。昔の子供は少々熱があっても学校へ行っていた。今これがない。これではだめだ。親はサラリーマンで、帰宅したら子供は寝ているか外で遊んでいる。夜2時、3時になって家に帰ってくる子がいるという。東京渋谷のあたりはそうした子供であふれているという。これはウソだ。いろいろな主義があって、一長一短がある。国が親方日の丸とはいわないが、国が責任を持って対処すべき事がある。子供が少ないから産めという。補助金も出すという。しかし、親の立場からするとそうはいかない。子供が遊んでいてそれでいいのか。世の中は動いているが、今は止まっているのだと思う。誰が動かすのか。国があって家族があって・・・・・・。なのに、市長が逮捕されたりしている。国民全体が動かさないといけない時である。私が見ている限りそうだ。子供の問題だけではない。子供の犯罪の原点はいじめから来ている。いじめられて、切れて、殺した盗ったとなっている。子供の犯罪は皆同じ道を歩んでいる。子供のことを、今、考えないと滅びてしまう。」


幸せ実現夢実現への道

すべてのことは知らしめんがために起こる。何を知らしめんとするか。真実をである。真実とは何か。仏の大慈悲である。仏とは何か。五大原素である。宇宙の一切は、この五大原素に帰する。すなわち、地水火風空。例外はない。これが仏である。これに帰依する。仏の大慈悲がある。あらゆる存在ははじめより仏の子といえる。すなわち、地水火風空より構成されている。そして子に対しては親は無償の愛を持つ。子孫に対しても。どういうふうに思うか。幸せになってもらいたいと思う。幸せとは何であるか。皆が夢に思っていることである。だれもが幸せになりたいと思っている。その内容が夢である。それを実現し味わってほしいと思っている。そのためには方法がある。それは法則に基づく。それをはずれると夢実現はない。その法則とは何か。科学もその一部である。しかし宇宙の法則は科学では解明されていない部分が多い。中でも、心の問題がある。心とは何であるか。魂の永い旅路がある。魂も六道輪廻している。その一こまとしての今生である。そして、はじめに心がある。心は意思決定である。これがあって諸々の準備がある。そして実行がある。その実行に従ってそれぞれの結果がある。原因は心である。心を起こした時自ずから結果に至る。それでは、どのような心を起こすか。幸せである。そのための手段はどうか。欺罔暴力ではそれに従った結果が出る。人間はそのメカニズムを知らない。知らないが、法則通りだ。悪は悪の結果を招来する。人間の方法選択は往々にして間違う。間違った結果が出る。その過程の時々に間違いを重ねる。そして相応の結果となる。しかし人間は自分の悪を認めようとしない。悪である限り悪に気づけない。そして自分を正当化する。悪を受容する。そしてそれを人生だと思う。それが人間の勝手な解釈であることを知らない。そして自分の考えで後輩を導く。いかにも人生を知っているかのようである。その人生が間違いだと認めることはない。正しい方法は常にある。それを知らないことを知らない。真実の幸福へ至る道がある。幸福とは自己実現である。自分の夢が叶うことである。どのようにするとそれが叶うのか。祖先の力である。祖先があの世で準備する。それを的確にキャッチしてこの世で実行する。道が出来ている。夢は叶う。祖先は子孫の夢を叶えたいと思っている。しかし戒名にしばられて自由がきかない。それで祖先に御法妙を贈る。祖先が救われる。自由を得る。子孫のために動けるようになる。さて、仏である。仏は大の親である。すべてが子である。子は可愛い。しかし子である人間が勝手なことをする。それが癖となり、癖が因縁となる。因縁となればそれは因縁通りの働きをする。因縁も好きでしているわけではない。できることなら因縁を解決して因縁も成仏したいと思っている。成仏とは救われた状態である。何とも気持ちのよい状態である。それは憂いのない状態である。どうして憂いがあるのか。迷いがあるからである。どうして迷いがあるのか。的確な判断が出来ないからである。例えば泥水のごとくである。泥と水を明確に選り分けることができない。それで悩むことになる。竹を割るような英断が出来ずに何時までも問題解決できない。抱えた問題は解くためにある。それを解かねば次へは進めない。諸問題があって、混乱している状態である。これを愚かという。人はそれぞれの問題処理能力がある。ほとんどの人は一度に一つのことしか処理できない。中には同時にいくつかの問題を処理することが出来る人もいる。しかし前者は後者を理解しない。さらに、取り扱える問題の質の問題がある。日常茶飯の井戸端会議しかできない人もいる。宇宙の真実を考えて、諸問題の解決を図り、本当の幸せ実現方法を考える人もいる。前者は後者を理解しない。理解しないだけならいい。むしろ暴力と欺罔を以て無視愚弄邪魔をする。それが人間である。それで不幸となる。問題解決の法則と方法があるのに、自分に分からないことを理由に、むしろ真実を破壊する。しかし、真実の種は黄泉が守護する。やがていつかは芽吹く。時が満つる時である。それは悪がはびこる時である。悪がはびこり、真実が生存できなくなれば、やがて自浄作用がある。今その時である。不思議なことが起こる。しかし不思議ではない。因縁が因縁の働きをしているだけである。因縁もはじめは単なる癖だった。さて、五大原素のそれぞれが善と悪をその属性に持つ。例えばご飯を炊く水も洪水となれば人を不幸にする。そしてその因縁は解決されるまで繰り返し起こる。それが因縁である。その解決は人間の手の及ぶところではない。そこで仏の力を借りる。それが御法妙である。因縁を解決するのは仏の決めた御法妙である。これ以外に方法はない。仏の故である。個々の因縁は個々の当事者でなければ解決できない。しかし人間にはその力が足りぬ。それで仏の行をして仏に受容され赦されて御法妙を頂く。これでそれぞれの因縁が成仏する。すなわち治まる。解決である。これを皆は知らない。知らないから分からない。信じない。むしろ否定する。邪魔をする。しかし知っても知らなくても真実は有る。幸せの形は例えばやさしさである。やさしさとは強さを知ってからのやさしさである。それは自信に満ちている。弱きものを助ける。護る。何故自信に満ちているのだろう。神仏の守護を得ているからである。どのようにして神仏の守護を得るのだろう。それを探すべし。真実真理は至ってシンプルである。難しく複雑にしているのは自分である。本来一切迷いのないはずだった。いつの間にか迷いの中に浮沈している。自信を失っている。何故か。悪を為すからである。悪を為すのが人間だと思っている。それで腐敗堕落する。それが人生だと思っている。そのようなはずはない。悪を為せばそれが癖となる。癖がさらに元服すると魔となる。それが因縁となる。これがメカニズムである。どのようにして自己の内面の魔と戦い制するか。おのおのの問題である。どのようにしておのおのの因縁を解決するか。仏の力を借りる。方法はある。仏のみ知るところである。それを教えてもらう。素直に聞いて実行する。ここに己の我見を挟まない。人間の我見が間違いの元である。それが自分解釈である。人間である限り程度は知れている。しかし学校を出て社会に出れば皆同じだと思う。ちがう。仏に学んで自己においては迷いを去り、自信を回復する。世界においては悪因縁を解決する。そしてそれぞれが思う夢が実現されていく。やりたいことを自由にしてゆける。幸せの形は様々である。それぞれの花が違うように。命があって初めて花が咲く。生まれたからにはそれぞれ必ず咲く。それを自分勝手自分解釈で自ら破壊しているのは誰だ。ゆるしはしない。真実の名の下に。幸せはある。夢は実現する。正しい法則に則ることで自分が変わる。真実が見えてくる。日月照らし、風の吹く境涯が来る。この世に怖れるものなどなくなる。すべては真実を知らしめんがために起こると知る。起こった問題は解決すればいい。そして未来に遺恨をのこさないだけである。ただ神仏と真実に反することを畏れる。世間は間違っている。それを認めるところから始めるしかない。それが懺悔である。懺悔を通って次なるステージが来る。真実はシンプルである。迷いは複雑である。問題は解けばいい。いつまで躊躇するのか。カンニング衆愚卑怯怯懦より出でてまじめ知性自信勇気にもどらないか。きっと幸せになれるよ。ところで、イランの核開発を阻止しようと思うなら、世界全体が核武装放棄するしかないよね。また、経済制裁で封じ込めるとどうなるか。同じ構図が日米開戦前にあった。同じ轍を踏むのかね。時は流れた。戦争は原爆でとうの昔に克服された。人間はここに試練を与えられ、学ぶべき時を通過した。これを無視しては人間の存続自体危うい。愚かな選択は不幸な結果しか生じない。やはり人間は愚かなのか。どうしてそのような政策となるのか。だれが主導権を握っているからなのか。西洋重商帝国主義自然征服思想であるか。あまりに畏れを知らない。人間の分際であくまで自然を愚弄していると自然がどう思うだろうか。自然が報復すればどうなるか。人間などひとたまりもない。滅亡もある。まだわかっていないのだろうか。人間身勝手自分解釈。


2006年08月25日

羅刹の夢

浦島太郎は竜宮城から帰ってきて玉手箱を開けました。そして驚きました。本当に、この時代はどうなっているのだろうって。人間はどういう生き物だったのだろう。どこまでもつけあがる。誤魔化す。それが人間だろうか。まったく自分さえよければいいのだろうか。庶民の解放があった。かれらは自由を得た。その自由を何に使っているのか。世の中は腐敗と堕落が支配している。まともな精神は生きられはしない。食い尽くされるだけである。これでいいのかどうか。いいわけはない。しかし、事実としてそうした世の中となってしまった。個人が自分で自分の身は守らねばならなくなった。相手に信頼の原則を期待できなくなっている。信頼すればどうなるか。犠牲となるだけである。よって、ぼんやりしてはいられない。形を変えた戦争が続行中である。世間に出れば、七人の敵がいるといわれる。三人は味方か。どこに味方はいるか。敵と味方と冷静に見極める必要がある。しかし、自然淘汰はある。それを信じるしかない。この度、懺悔御法名を頂いた。何故頂く順序がついたのか。それが必要な時代となったからである。御法妙を贈れば因縁は消える。すなわち、成仏する。真実である。今まで封印されていたのであろう未解決の因縁が私の身の回りで吹き出し始めた。試されているのだろうと思われる。そろそろ最終決戦のようだ。そろそろ解決する頃のようだ。因縁に負けないように。しかし、因縁には勝てない。因縁の方が人間より強い。人間など相手にならない。その正体は悪魔である。悪魔であるなら、退治するしかない。人間の力で勝てはしない。仏の力を借りるしかない。世間一般ご用心。今から、何が起こるかわからないよ。謝るところからしか入れない。謝る方法は仏さんから授かるしかない。醒醒著!世間は勝手している。勝手を言う。負ければ命はない。命を落としては花は咲かない。すべてのことは何かを知らしめんがために起こる。何を知らしめんとするか。真実をである。律するべきは自分である。変わるべきは自分である。自分が宇宙を規定している。自然現象も自分の反射である。何をしているのか。何をしてきたのか。これほど世間がでたらめの人間集団とは思わなかった。いつの間にかでたらめの支配となってしまった。どうするのか。もはや遅いのか。聞く耳はない。まさに魑魅魍魎の支配する世の中である。しかし気づかなかった私が一番悪かったと思う。私がまず変わらなければならないのだと気づいた。私は変わる。むしろ戻る。かつてのよき時代の私へ。この腐敗と堕落の世の中、まっぴらごめんである。冥王星は自由を得た。不注意で事故は起こる。事故に無過失などあるものか。当事者に10対ゼロなどあるものか。しかし、世間はどうか。まず無過失を目指す。そういうこととは知らなかった。しかしその相貌は観察させてもらったよ。畏れを知らぬ愚かのきわまるところである。すべて天に記録がある。後で思い知ることになる。世間はすべて自分勝手のエゴである。つきあっていられるか。犠牲となるだけである。どうしてこのようなことになったのか。どこまでつけあがるのか。自分を自分で律することなくしては生きられない世の中となった。蓮華は泥の中で咲く。自覚はさらに進化する。君子危うきに近寄らずのメモに父は涙してサングラスをかけて出かけた意味がわかってきた。母をよろしく頼むと母方の祖父の言った意味も分かってきた。自分は何者か。最後の難問である。これを解いたものがあるか。解いて大きな事を言っているのか。これまでも何度か自覚はあった。しかしそれは感じるレベルであった。それがだんだんと進化する。そしてやがて確信となる。確信となった自覚とは何であるか。もはや命をも仏に投げ入れる。本来無一物である。怖いものなどない。これが自信であり、勇気の源泉である。それでもつけあがるか。身を切らせて骨を切る。今まではそうだった。これからは違う。骨を切らせて魂を切る。自己を解体して新しい自己の建設がはじまる。最愛の人よ待つがいい。必ずこの身を成就して迎えに行く。私の旅路も最終段階に入ったようだ。すなわち、自分を律する意味をつかもうとしている。自己の完結を宝とする時代が開かれる。真実から逃げていた私が悪かった。真実はある。今より、正面から対峙して逃げはしない。最後の決戦である。自己の悪性を焼き尽くす。そして本来の自己を得る。これが果たされたなら、この世の一切の悪も終わる。腐敗と堕落も終わる。まじめと正直の世となる。覚悟するべし。観念するべし。時は来たれり。私が一番増上慢だった。その我見を脱ぎ捨てる。そして真実に目覚める。新しい時代が始まる。悪の世は終わる。長い旅路であった。終着駅が見えてきた。捨てるべきは己のエゴである。見つめるべきは神仏の真実である。世間虚仮。唯仏是真。世間は真実を知らない。あまりにも知らない。そして、悪を為し、したり顔である。結果不幸である。嘘が通らなくなる。それが真実である。新しい時代の夜明けである。しかし、それにしても、何より大切なことは、思い通りにならないこの現実に対して、他を恨むのではなく、悪いのは、すべて自分であったことを認めることであり、真実に対して、真摯にそして謙虚に教えを受け止め、実行することである。愚禿親鸞と自ら卑下したかのようだが、それは、単なる徳薄苦渋自己卑下ではなく、どんな中傷誹謗艱難辛苦に遭おうとも、そこに仏の、真実絶対の守護を見出していたが故でのことであると見抜くべきである。キリストの磔刑に甘んじたるも同じである。人間はこの真実を知らず、あるいは無視し、過去、多くの聖人を犠牲としてきたのである。今も変わりはしない。人間の不幸の原因である。時は流れた。そして庶民平等の世となった。新たに自由を得たものたちも、本来の自由へ合流しなければならない。自由の自由に対する横暴は終わらなければならない。まじめであるが故に生きることが出来ない世の中など呪われている。暴力と欺罔がのさばる横暴な世の中など要らぬ。それとも尚本気でのさばる気か。それならそれで相応の手段もある。黄泉はすでに全軍出動待機している。戯言ではない。そういう時代である。自ら懺悔あるべし。人間の計らいで真実事実は枉げられはしない。何を勝手し、勝手なことを言っているのか。誰がために日月照らし、風の吹くか。よくよく思案すべき所である。・・・羅刹の夢より。ところで、羅刹の言葉はロゴスである。ロゴスは宇宙を動かす。その夢は黄泉が実現する。羅刹はどのようにして羅刹となるか。秘密である。しかし羅刹はいる。かつて、釈迦も羅刹に身を投げて教えを請うた。羅刹とはどういう存在か。人間には理解できぬ。羅刹となって、あるいは、仏となって初めて理解できるのだろう。羅刹とは正直な存在である。真実に対して。故に真実宇宙と同体である。法身といえるのかも知れぬ。羅刹を敵に回さない方がいい。今も昔も常に羅刹は存在している。この世は羅刹の思いの反射するスクリーンにすぎないのかも知れない。それでも羅刹に刃向かうか。そろそろ人間の愚かさに気づくべき頃である。何を思い上がっているのか。どのレベルで勝ち組などと申しているのか。国家侵略しているのか。蝸牛のけんかにすぎない。真の平和と幸福はある。それは神仏の守護である。そこへ至る道がある。楽な道がある。要は導きに従い、己の内面に巣喰う悪魔と対決しこれを退治することである。この悪魔が邪魔をする。真実の自分であることを邪魔している。しかし、悪魔も成仏したいと思っている。それで仏に頼んだ。仏はこれを受諾した。よって悪魔も仏の子だけは護る約束である。悪魔が善魔となる。善魔に守護される。そうした自分となることである。個々の人間がこの方向へ決心して世の中は真実の平和となる。そして個々の人間は本当の幸せを享受することになる。自分だけよければいいというのがエゴである。エゴが人間である。エゴに平和も幸福も来ることはない。如来である。見えないところから来るのである。どこから来るのか。それを心と呼んでいる。黄泉といってもいい。魂といってもいい。宇宙といってもいい。仏といってもいい。神といってもいい。あなたがたは何というか。何ともいえまい。これが人間の目に隠された宇宙の秘密である。それでも人間として思い上がるか。人間であることが誇れるか。そして大切なのは、一切衆生悉有仏性。だれもがこの種を内面に持っている。宝として持って生まれている。その宝をいつまで粗末にするのだろう。もったいないとはこれである。しかし人間はエゴが勝つ。悪魔に支配されている。21世紀心の時代は開かれた。おのおの目覚めるべし。いつまで好きとか嫌いとか低いレベルでさまようか。仏の真実を探しに行かないか。神仏の守護、すなわち、日月照らし、風の吹く、をこの身に享受してみないか。さて、かつて、家には鍵をかけないでいるのがふつうだった。今はどうか。マンションなどどのようであるか。企業が人件費の節約から外国人労働者を大量に使用する。何故か外国人労働者の住む町は空き巣窃盗が多くなった。事実である。その地の秩序安全について企業に社会負担してもらわねばならないのかも知れない。住民が危険負担している。この意味でも、企業利益追求の勝手がある。どこかで費用削減合理化すれば、どこかにその歪みの転嫁がある。どこへツケを回しているのか。またバイクが10km以下で走っている車の左サイドからブレーキせずにすり抜けて接触転倒しバイクと負傷の故に無過失と主張しにんまりとしたり顔、言葉の端々には脅迫、それを保険金請求対策上の新しく自由を得た庶民階級の知恵とする。バイクも前方注意、車間距離を取って徐行していれば事故になっていない。当たり屋か。個人病院と結託もする気か。そのようなルールがあるものか。相手が黙っていれば他を犠牲にしそれを顧みることなく、円満解決よりは自分の利益追求を先とする、人間エゴ身勝手いい加減にするがいい。それが当事者主義であるのか。そうして得た保険金を何に使うつもりか。仏のために使うことはあるまい。どこまでつけあがるつもりか。人間というのはそうしたものである。畏れを知らぬ。黄泉とそれに受容されること及びその守護を知らない。すべては知らしめんがために起こる。そして何かが起こる時、それは真実に気づくチャンスである。知らしめられたいのだろうか。庶民平等ではある。しかし人間の格差がある。人格及び精神の格差がある。自分より上は見えない。自分を基準にしないことだ。高い精神は低い精神より悪を為さない。よって、高い精神を保っている。それを無視愚弄することで世は腐敗堕落した。高い精神が生存できなくなるほどに世は腐敗堕落した。事実である。もううんざりしている。黙っていればつけあがる。思い知る頃である。おのおのこれまでのその責任は取ってもらう。低いレベルでの自分勝手自分解釈はもはや通らない。古来大和の系譜及び黄泉の名において。如是相。それぞれその相貌を洗って出直すがいい。


2006年08月24日

無神論者も宗教者

「信によりて流れを渡り、放逸(なおざり)を離れて悪魔(まがつみ)を超え、精進(はげみ)によりて悩みを離れ、智慧もて清けさを得ん。聖(ひじり)を信じ、悟りの法(みのり)聞き、放逸なくて分別(わきまえ)あらば、智慧ぞ得られむ。行い正しく、重荷にたえつ、つとめて急ぐなければ、富を得ん。まこと語らば誉れを得、施して吝しむなければ、友は離れず。まことと正しさと、着実(まめやか)と施しの心と、この四つを持ちて、信あらば、在家なれども、この世を去りて悲しみはなし」。

仏法というと、宗教となって、今の人には受け入れがたいですね。これを幸福論というとどうでしょうか。無神論者と自称しても、幸福論は持っておられますね。どの幸福論でも信じるに至るには実行して体験することを要します。何を体験するのでしょうか。それは宇宙自然に大いなる力の存在していることです。これが宗教だったのです。この体験なくしては信には至れません。ここをパスカルは神のいる方へ賭けてみるようにいいます。流れとは世間ですね。放逸を離れるとは、ぼんやりしていないでよく観察していることです。悪魔とはエゴといえて、自己の内面に巣くっていて、これがいろいろと邪魔するので、思うようになりません。それを倒して、さらに、日々の仕事にがんばれば、自ずと悩みは消えて、平穏な日々となります。常々ぼんやりしないで目覚めていることで、次に何を為すべきかわかるようになります。それで悪を離れていることも出来るのです。そして、焦らず、為すべき事を成してゆけば、富も集まってくるのです。不思議ではありますが、心のあり方で富も集まってくるのです。その意味で努力の外です。そしてまじめな自分を偽ることなく、まじめなままに思う本当のことをいい、友のために利益となるように心がけていれば、いつも友が周りにいて助けてくれます。こうしたことを実行すれば、幸せな自分となっているのです。これを体験し、いつも信じていることで、憂いも悩みもない幸せを楽しむことが出来ます。これが本当の幸福論といえるのです。つまり、これが宗教だったのです。だから、無視論者も幸福論という名で宗教者だったのです。ただ、宗教と幸福論とでは、プロとアマとの違いがあるのかも知れません。根本的な差があるかも知れません。しかしいいのです。大いなる力に気づけば、やがて宗教へと至るものです。


苦の愛から楽の愛へ

「愛欲(いとしみ)により、憂いは生まれ、愛欲により、怖れは生まれる、よく恩愛(いとしみ)を離るる人ぞ、永く怖れの根を断たん」。

愛とは何でしょうね。世間で歌われている愛の歌のテーマが愛だと思っていませんか。しかしそれはいとしみですね。いとしみである限り、愛ではない。エゴです。この意味分かりますか。愛とはいとしみではない。愛は愛である。愛に三段階あることを説いたのはパスカルでした。最高愛は神の愛です。いとしみは愛ではない。どういうことでしょうか。神の愛を通して愛である。わかりますか。人間関係において相手を思う時、それが愛としての愛であるのか、それともいとしみとしての愛であるのか。幸不幸の分水嶺です。少し難しいかな。本当に幸せとなる愛と不幸となる愛とがある。離婚するに至る愛が愛であったかどうか。不倫する愛が愛であるのかどうか。英語ではlove。これはゼロも意味している。いとしみは相手のことよりも自分のことに力点がある。愛は相手のことを本当に思っている。世に歌われているテーマとしての愛は本当の愛ではない傾向がある。結果不幸となる。それでは、本当の愛とは何でしょうか。愛は育てていくべきものですね。愛を通してそれぞれが成長していく。また、無償の愛ですね。なかなか難しいですね。しかし、幸せの条件ですね。どうして難しいのでしょうか。自分で勝手に難しくしている。ありのままの素直になれるなら楽です。お互いに。ありのままでいいのです。そのままでいいのです。楽な愛がいいですね。苦の愛はつらい。しかし、それも通って楽へは至るのでしょうか。楽な愛がいいです。出会いにおいてそのような相手がいつか現れるといいですね。そのためにはどうするか。自分が楽な人間となっておくことですね。そうすれば、見合った相手が現れます。所詮、似たもの同士の出会いです。これも一切種智慧でしょうか。ところで、人間のすばらしいところは、変わりうるということです。苦の愛から楽の愛へ。

「廓然無聖:カラ-ッと晴れ渡って、仏臭いありがたいものは何もない。そう分かるならば、そこが達磨ではないか。この地上に限りなく清風が吹いておる。見るもの聞くもの、ことごとく達磨だ。一木一草、達磨でないものはない。見渡すかぎり達磨だらけだ。廓然無聖、何も難しいことはない。そのままだ、そのままがそれだ。照顧脚下。めいめいの中に達磨をさがせ。かけひきのない、飾りのない仏性丸出しの言葉で、相手に触れていくのである。ありのままを失わず、どこまでも趙州自らの心境をありのままに吐露されて、相手を接得されるのである。そこが分からんのは相手がまだ至っておらんからだ。相手にとらわれずに自分の本分を少しも失っておらん。趙州の日常底は常に無心であるからそれができる。自由自在に相手を交わして相手を接得してゆく。何も考えなくとも自然は動いていく。それが至道だ。人間も自然の一部だから、ありのままに生きてさえゆけば、それが至道だ。分別をするから分裂する。至道とは分別をせぬことだ。頭を使わんこと。馬鹿になることじゃ。言葉をひねくりまわして何とするか。ありのままだ。目の前にありのままに羅列しておるのが、至道無難である。見たり聞いたりしゃべったり泣いたり笑ったりするが、何もないということである。相手が悟ろうが悟るまいが、そんなことに頓着はせん。思ったとおりにやってしまう。世間の人が何と言おうが、習慣がどうであろうが、古い思想や古い習慣をブチ壊し、思った通りにやってのけるのじゃ。ありのままに、真理を丸出しにしていくのだ。相手をして、常識を外れ、習慣や人情を超えた、論理を離れた世界があることを知らしめてやることを図るのである。論理を超え、判断を超えた境界を向上の事というのである。真に仏心が分かるならば、世間の権威なぞものの数でもない。この天下に頭を下げるものは何もない。」(山田無文老師)


2006年08月23日

夢実現の道

思いは通る 夢は実現する その間 自分の意志を裏切らないことだ 夢実現は 霊界が 助ける 霊界とは 祖先だ 祖先を大切にする 意志が確かであれば 霊界が動く 祖先が子孫を救う 意志決定したなら 諦めないことだ ひとつひとつの事柄に 手を抜かない このプロセスを通して 人格が形成される この人格形成が 祖先を 喜ばす それが 夢実現の条件だ 作業は 積み木に等しい ひとつひとつ 積み上げていく ひとつ 積み上げて 次に 何を積み上げたらよいか わかる 初めの意志決定が 設計図だ それは ガウディの城の建設に等しい そして 最後に 積み上げるべきものが 来る ジグソーパズルの最後の一枚に等しい 夢は必ず実現する この課程は 一歩ずつだよ 自分の足で 実大地を踏みしめながら 歩くのだよ 獲得すべきは 自信に満ちて 己を表現することができる力だ それが金剛杵だ 何をしてもいい それが 生きるということだよ それが大人となるということだよ そして いろいろな花がある 好きな花ならいいね 嫌いな花はどうするか 無視すればいい 仏陀の無記がそれだった 知らないわけではない 不必要な波は立てぬことだ 自分は 信じる力を開発して 咲けばいい それが 夢実現だよ 自分が自分となる そのほかに道はない

さて、私の夢実現は何だろうか。かつて、中学の頃、中3の二学期期末試験といえば、中学の総まとめの試験といえる。その試験9科目で平均点93.6点をマークした。成績は、9科目中10を8つ並べた。実質記録的には6個であるが、担任の先生より、2科目は譲る意味で9であると直接聞いた。ひとつだけ10でなかったのは国語だった。国語が苦手だった。どうしても我が強かったのであろう。問いに対して予定されていた答えがわからなかったのであろう。しかし、今はそれも克服していると自負している。勉学を得意とする所以である。また、テニスでは、県体選手でもあった。スポーツも或る意味で極めていた。諸々の自信とする所以である。そして、小学校の頃には、授業中に先生よりお金と帳簿を預かって、校内の係の先生を訪ねて印鑑をもらう役もしていた。いろいろな意味で特恵待遇であったといえる。これらの延長で高校でもふつうに勉強していればよかったものを、これが運命の悪戯か、わけのわからない本ばかり読むようになっていた。流行小説など読んではいない。その後は、月の砂漠であった。そして、茲にいたって、日月照らし、風の吹くところまで来た。白隠禅師は文学に長けていた。しかし、彼は文学を捨てた。それも今は理解できる。仏の真実に照らせば、文学など、世迷い事にすぎない。そして、私の夢は何であるか。今思えば、常に、導かれていた。しかし、それに気づいたのは最近のことである。私は、私の人生において、とても重要な体験をさせてもらったような気がしている。それを説くことが私の夢だったのだろうか。その他、何をしてもうまくゆかないのだった。広島に因縁がありすぎるのだった。この地を離れようとしてもだめだった。そして、私には使命があったようである。それよりほかに何かをしようとしてもだめだった。私の生まれた意味はすでに理解しているつもりではある。さて、何をするべきか。思案するところである。平等大慧会に縁があって祖先を供養することを教えて頂いた。私の祖先は桑原である。広島藩では家老であったと聞いていた。しかし、祖父の代にはすでに没落していた。桑原の祖先は、広島中区区役所に眠っていた。除籍謄本一本で六代さかのぼることが出来た。すなわち、覚兵衛、嘉兵衛、千畝(幼名福次郎)、良亮、昭亮(あきのり)、そして私である。千畝の肖像画は私に譲られている。しかし、これまで私にその縁はなかった。これらの祖先を初めて供養した日に芸予地震があった。私は車の中にいたので気づかなかった。運転していたものが何かしたかと言った。呉に入って大きな地震であったことを知った。震度6を記録したのは、呉と河内町だった。河内町役場には、母方の祖先が眠っていた。その時、除籍謄本を請求中であった。すなわち山持(山道)家である。これも明治に没落していた。私が明治を評価できない所以である。私は、亡霊のようであった。青春も人生も奪われたと思っていた。しかし、ここへ来て、日月照らし、風は吹くのだった。その他、不思議な経験が多すぎるのだった。そして、この度、確信を得ている。伊邪那岐伊邪那美以来の黄泉の守護と祖先の導きである。どうにもならぬ。どうしろというのだろう。私の生きる経済空間はない。欺罔に満ちた商行為などできはしない。そのような私に正当な対価を支払うものはいない。奪ってばかりである。すべて奪われた。本気にならせるのか。勝負にならないことを知っての上か。しかし、私を理解するものはいない。私は漂流していた。救助船も来なかった。独力で月の砂漠を泳ぎ切った。そしてたどり着いた。そこは彼岸であった。そして力は得ている。誰も知らない力である。台風をも制御する秘密の力である。とても使い切ることは出来ない力である。勝負する気か。年貢の納め時である。現在本末転倒、本来大和はゆるしはしない。ペリー来航、明治以降、何をしてきたのだ。広島に広島大学がある。かつては文理大学であった。その昔、広島心学もあった。広島高等師範もあった。そして、広島大学の象徴はフェニックスである。すなわち、不死鳥、火の鳥。加護の隹である。すでに羽ばたいた。真実に照らして追って沙汰をなす。江戸無血開城の禅譲を裏切った世間ずいぶん身勝手もはやこれまでである。宇宙自然黄泉が裁く。旧約聖書400年周期説。時は天、時は至れる。


2006年08月22日

善良な庶民人格解放~宣言~

仮定、結論、証明。中学数学である。ここで、公理・定義・定理と仮定を使って、結論へ導く。裁判における判決文の論理、すなわち、三段論法(大前提、小前提、結論)もその例外ではない。すでに人類の英知がある。これは、定理に当たる。これを利用する。大前提は勉学しなくてはならない。勉学を否定した現代日本である。衆愚となってしまった。事実を分析して、大前提に当てはめる。そして、結論を導く。すでに、仏も現れて宇宙の謎を説かれた。それなのに、人間は何時までも愚かさを吹聴している。これでいいのかどうか。バベルの塔を築いてそれでよしとしようとしている。自然の猛威も脅威も否定せんとするかのようである。ここに願力がある。人間の願力ではない。仏の願力である。あるいは如来の願力である。それがロゴスといえる。これらの願力は、たとえば、恐竜の時代を終わらせることも出来た。今、人間の横暴がきわまり、何時までも勝手支配するならどうなるか。それだけの願力が現れて、それを行使するとどうなるか。そして、仏は今も昔も居る。その都度、仏の力を得る。そして、悩む。最終的には慈悲となる。このメカニズムが理解できるであろうか。それが、孫悟空の話の中にある、仏の掌である。仏がその気になれば、人類を滅ぼすのも訳ないことである。そろそろ、本気で懺悔することを考えないか。いつまでも、我見を張ることをしていいのかどうか。このままでは、どうなることか。自然も憂えている。その憂いがどのような現れ方をしているのか。地球温暖化。異常気象が当たり前になっている。この傾向がこのまま続けば、やがて、どうなるか。もう私も疲れている。謎は解いた。これ以上ない謎であった。そして、得た結論は何であったか。すなわち、日月照らし、風の吹く。いろいろな問題が起きる。それをどのように解決するか。大難が中難となり、中難が小難となり、小難が無難となるかどうか。仏の守護とはどういう事か。どうすればそれが得られるのか。それらも体験した。それが修行であった。生まれた時からそうした道を歩いていたように思われる。その間、いわゆる悪もなした。そして、その定めも経験した。すべて、身から出た錆だった。今に経済的には困難を極める。しかしそれでいいと思っている。何よりも性格改造が必要である。人間は変わりうる。どのような自分となるか。それを未来に託す。この世で生まれた意味である。世間一般は何も知らずに自分勝手している。地獄から抜け出ることはない。どれだけお金があっても自由にはなるまい。本当の自由がどういう事であるか。それもわかった。我ある故に我ありである。宇宙と同化した自己である。世間のことはどうでもいいのかもしれない。それで、かつて、禅僧は山にこもったか。ゴミのような人間が多すぎる。真実を前に真実を認めようとしない。それが人間である。真実を前に謙虚さをとりもどさないか。仏の顔も三度までと決まっている。地獄の沙汰も金次第である。何にお金を使うか。仏のために使ってみないか。幸せ必定である。涼しき眼光が何を見抜いているか。世間は知りはしない。さて、いわゆる証明である。これは何か。Aという山とBという山がある。両者はそれぞれ分離独立し、対立している。ここに橋を架ける。その橋が論理の力である。橋がなければ、お互い、通じ合うことは出来ない。それで大砲を撃ち合うことにもなる。橋が架かればお互い理解が出来る。握手も出来る。それがソクラテスの云う対話の手法でもあった。A=B。B=C。しかしまだA=Cではない。AとCは断絶している。相互理解できない。ここにパラメータとしての論理の力がある。これが橋である。一本の丸木橋かもしれない。この橋を渡るのは誰か。勇気を要する。『失われた世界』におけるロックストンの勇気である。勇気はどこから来るか。自信より来る。自信とは何に対する自信であるか。天地に恥じない自己に対する自信である。その自信はどこより来るか。神仏の守護を確信したところより来る。神仏の守護はどのようにして得るか。理入と行入。すなわち勉学と実行より来る。正しく行わなければ結果は出ない。正しく行うにはどうするか。先哲に学ぶ。それを無視して勝手なことをしているのが人間である。さて、論理の力がある。これが証明である。学校で勉学するべきはこの方法論である。得点の大小ではない。こうした方法論を大人となって社会に出て、諸々の問題解決に使えるかどうか。使えなければ無価値である。意味はない。何をしているのか知識人。象牙の塔はさぞ居心地がいいのだろうね。しかし怠惰怠慢すぎないか。この現実を見よ。若い者たちに云う。資格の勉強はいい。どのような勉強をしているのか。ただ漫然とテキストを読んで、問題集を解いているだけではないか。昔より文字は書くべきものである。書いて初めてその内容が自分のものとなる。勉学の基本は、読んで、自分でまとめる。気に入るまでまとめ直すがいい。やがて自分のノートがテキストとなる。市販のテキストは自分のテキストとなって生きる。そのような勉学をしているか。方法を誤っていないか。そして資格は登竜門にすぎない。やがて社会に出れば実力主義である。自分の出来ることは何か。何を守備範囲とするか。出来ないことを社会は要求しない。むしろ足手まといである。出来るものはいくらでもいる。社会の中で自分は何をするのか。何をしたいのか。諸学校はこうした観点から教えているのだろうか。今、世を支配している方々の方法論はいわゆる要領である。ガイドとカンニングでのし上がった方々である(私はガイドを使ったことはない。一、二度は試したことはある。しかしカンニングはしたことはない)。世間は勉学が無駄だと思っている。そうか。富士は何故高いか。裾野があるからである。それは或る意味で無駄である。しかし裾野がなければ富士ではない。富士の美しさもない。それが勉学である。それを否定した。それでこの腐敗と堕落である。何と答弁するか。いつでも相手になる。裾野がちがう。付け焼き刃ではない。仏の行もしている。いつまでも真実を愚弄嘲笑させはしない。また、世のリーダーは無神論者であることを標榜する。それが現代インテリゲンチャの条件であるかのようにいう。愚かもはなはだしい。道元をも否定するか。一休をも良寛をも否定するか。そのようなリーダーに導かれていたとは。何時までも真実は黙ってはいない。日が昇れば夜の星の輝きは見えない。さて、人田を耕すが故に食を得たのが仏陀だった。私は自己は耕したようだ。そろそろ種をまく時節のようである。探していたものは見つかった。もはや本懐である。しかしまだネガティブな部分が残っている。これをも克服できた時、私の思う人生が開けるのだろう。それまで、もうひとがんばりのようだ。未来は明るい。光のある間に光の中を進むことにしよう。これにてこのブログのひとつの使命は終わったように思われる。脱皮だね。さて、今後どのような展開となるか。楽しみであります。幸せな日常へと移行することにしよう。本来あるがままに。

今日はゆっくりしました。宍戸氏のところへ頼んでいたクリーニングを取りに行って、それから、野呂山の中腹へ駐車してラジオを聞いていました。雨が降ってきたので下山し、そして、家に帰って、ゴロゴロとしました。やはり、少し疲れているようです。一昨日は、仕事でお客様を訪問中に脱輪し、初めて、JAFのお世話になりました。とてもいい仕事をしてくださいました。それを見て、パソコン緊急発進の仕事をしたいな、と思いました。また、昨日は仕事先の近くに板金屋さん(SHOWUPShift広島 734-0014広島市南区宇品西2丁目7-21 TEL082-252-4210 FAX082-252-4220 AM9:00~PM8:00火曜定休)を見つけて車の点検をしてもらいました。これで安心です。この板金屋さんの社長さんはとても若くて、とても親切でした。仕事のあるべき形がありました。いい環境の中にいるなと思うのでした。しかし、これから、どうしようと思うのです。幸せの切符は手に入れたように思っています。すなわち、日月照らし、風の吹く。これを具体化しようと思うのです。次なる課題は、我思う故に我ありからの脱却です。すべてを例えば仏に投げ入れての安心です。我の消滅と申しましょうか。これが果たされる頃、生涯の伴侶も現れるのだろうと思うのです。ここまで来た道です。そのまま進むことにするのです。幸せな未来は近い。尋ねた道は間違ってはいなかったようです。おもしろい人生となりました。いつも笑顔がこぼれてくるでしょうか。如是相がそよ風の吹くが如くとなるでしょうか。言葉が詩となる。あるいは歌となる。文章表現がそのまま人格の音色となる。新しく目指すべきところです。散文であるとか詩であるとか歌であるとかの区別は要らない。表も裏もなく素直になれば人格表現そのものが詩となる。そのように思われます。世に様々な作品がありますが、その背後にある人格はどの程度であるのか。これから問われるのです。新しい芸術人格論です。誤魔化しは効きません。あらゆる感動は、人格のまじめより発するのです。小説もしかりです。ところが、世に流布しているものは何か。おのおの反省するべきところです。売れればいいということはありません。現代文化現象があまりにも人類の未来に対して無責任すぎませんか。自分勝手すぎませんか。世を乱しているとは思いませんか。子供たちに悪影響していると思いませんか。ゲームを販売し、かたや勉強せよという。矛盾していませんか。この世の現実を正しく分析し、善と悪の区別が必要な頃ではありませんか。漫画が子供たちの情操教育にどういう効果があるか、測定してみてはいかがですか。このままでは、日本はそして世界も沈没しますよ。あらゆる経済文化現象の背後にある本来残すべき価値に対する欺罔と暴力を見抜きませんか。所詮人間は精神的に弱い存在です。それで贈収賄もある。経理も誤魔化す。どうしてこのようなことになったのか。それはもう問わない。過去は謙虚に反省しましょう。そして今とこれからを真剣に考えるべき頃ではないでしょうか。人間です。英知があります。必ず、この困難な状況を脱却できると思われます。先哲に学びながら新しい時代を切り開くのです。本来大切なものを見直して、作り直すのです。そのためには勇気が少し必要です。しかし大丈夫です。勇気の源はすでにボーリングしてあります。それを使えばいいのです。すでにある力を結集することで、健全な良心と魂を持つ庶民の解放が果たされ、真実の幸福な時代が訪れようとしています。そのための基礎はすでに築かれています。あとは、心ある方々が結集し、力を出していくことです。必ず、未来は切り開かれます。永い歴史の過程で、皆が求めてきた、愛と平和の世の中が実現しようとしています。そのためにはどうするか。議論すべきところです。自分さえよければよいとしてきた政治経済界のリーダーたちもその例外ではありません。刃向かうとどうなるか。淘汰されるだけです。すでに本流の流れはできています。冷静に世の時の流れとその方向をキャッチしてください。人類は十分に学習しました。原爆もそうでした。これよりその学習の成果と真価が問われようとしているのです。すでにユビキタス社会へテイク・オフしているのです。インターネットの普及がそれを加速しています。悪は逃れることはできなくなったのです。善良な庶民人格の解放です。主権在民国民主権が実行されるのです。ここに宣言します。黄泉自然の意志でもあります。黄泉自然が守護しています。ところで、神はいます。それは人間が宇宙自然と一体となった存在です。その存在の意志は実現します。宇宙自然黄泉が実現するのです。人間はそれを知らない。知らないからわからない。認めようとしない。科学で自己満足している。自然現象は科学の外である。神の意志はむしろ感情的である。あえていえばその感性である。その言葉はロゴスである。それが宇宙自然黄泉と感応する。神となって初めて神がわかる。如来でなければ如来はわからない。法華経の中には名宛人としての神の存在が記されてある。世の学者の知らないところである。神を前にして勝手なことはいわない方がいい。ご用心。神も仏も常に実在している。人間には見えないだけである。因って人間である。ご用心。畏れを知らなすぎる。


2006年08月21日

真実の和魂洋才

誰も真実を知らない。たとえば、地球を足で蹴飛ばすよりは法を保つ方が難しいと云われる。法華経に書いてある。それはどういう意味か。ある日突然凶暴な恐竜の時代が終わった。何故だったか。地球を足で蹴飛ばしたからである。法を保つは難しいという。どういう意味か。その気になれば地球を蹴飛ばすところであるが、まだ、法を保つ可能性があるなら、蹴飛ばさないでおこうという大宇宙の意思である。法を保つ主体は何であるか。人間ではない。宇宙自身である。何を思い上がっているのか。人間どもが何をしてきたのか。誰も真実を知らない。道元は茲をこう言っている。昔より仏の縁なきことを恨みよ。それでも人間は悪をなす。悪をなす者に善は分からない。悪とは犠牲を伴うこと。善とは一切犠牲のないことである。どんなに善人ぶってもだめだ。因って善人は善人ではない。英語において間接疑問文は疑問文でないに等しい。すなわち間接疑問文は主語動詞と並ぶ。疑問文は動詞主語と転倒する。疑問文の意味内容を文の一部として使用する際の用法である。さて、悪をなした事実がある。人間である限り悪をなす。そして悪因悪果と決まっている。今更おそい。為した悪に対する結果を待つべきのみである。沙汰あるまで首を洗って待つしかない。天網恢々、逃れることは出来ない。誤魔化せはしない。宇宙の掟である。しかし、茲に仏の慈悲がある。仏とは宇宙の王である。真に懺悔するならゆるすという。その方法がある。どこにあるか。探すべし。少なくとも芥を払うこと三十年にして初めて得てん。世の大人たちよ、罪を認めてはいかがか。これからどう生きるべきか答えは明らかであろう。ところで、幸せはある。福はある。徳もある。やさしい人間関係及び家族関係もある。ある中国の方を嫁に持つ方から聞いた。その姑が云ったそうである。結婚したからには、あなたは、婿ではない。私の子である。そしてその嫁はことごとく身を案じてくれるそうである。これが失われた何か大切なものだ。かつてそれは日本にあり、大和撫子として世界のあこがれだった。今、日本にそれがあるか。だれがこのような日本にしたのか。戦後の経済主導迷妄の故であろう。戦後復興のためにはそれも必要だった。しかし、何時までもこれでいいのか。もはや言い逃れはない。世の中に怪しい宗教が多い。仏説のどこに人を殺してもよいとするくだりがあるか。あるなら、探してくるがいい。キリストも云っている。姦淫する事なかれ。何故か。掟である。人が社会で助け合って生きてゆかなければならない理由がある。自分だけよければよいとする考えはどこから来るのか。身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。それが人間である。この事実をみとめるしかない。そしてここよりの脱却を図る。そのための方法がある。すなわち、菩薩道である。仏所護念することで、仏の守護がある。教菩薩法は開かれている。仏のための故に、きびだんごもある。真実は真実である。善は善である。人間では分からない。必ずエゴが勝つ。そしてその結果、悪である。教えてもらうしかない。幸せは幸せの種をまかねば幸せの結果はない。幸せはある。神仏に守護された状態がそれである。それが真実である。この真実を体験体得して新しい人生が開ける。それまでの人生が世間虚仮であったことを知る。唯仏是真へ至る。しかし今も廃仏毀釈の延長線上にある。何故廃仏毀釈が出来たのだろう。およそ精神の貧困の表れである。それまで培ってきたものを否定する必要があったのだろう。亦、明治は江戸無血開城の禅譲を裏切った。廃藩置県はそれであった。そして愚かな戦争までした。よくもあのような馬鹿げた作戦があったものだ。その当時の指導者たちの相貌を見るがいい。何をか云わん。そしてその後も同じ階層がまだ支配階級を演じている。さらに咲いた花とは何であったか。およそ腐敗堕落の花ではないのか。今に思い知る。ゆるされはしない。何時までも悪の結果が出なかったのは何故だったか。唯、時が至っていなかったからである。相応の覚悟あるべし。所詮本末転倒、日本古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神を知らない階級である。恥を知らない。見直すべき頃である。日本には聖徳太子以来、法華経の種がある。厳然としてある。忘れていただけである。和をもって尊しとなせ。西洋重商主義根性はこの和を乱す。何故か。エゴだから。本来の日本へ帰る頃である。方法手段はいくらでもある。時至り法華経宿王華開花の時節である。宇宙が守護する。暴力と欺罔の時代は終わる。真実のやさしさが芽吹く。強いが故のやさしさである。皆が幸福を享受できる時代が来る。庶民解放は旧約聖書のテーマであった。一部の利益独占は終わる。高級な精神は庶民の中に冥している。神仏はそれを守護する。久遠からの約束である。いつまでも自分勝手自分解釈は通らない。今までの悪は退治される。復古ではない。明るきから明るきへと決定されている。時は流れた。新しい時代の黎明である。真実の知性を愚弄した時代は終わる。刃向かうは刃向かうがいい。黄泉が成敗する。さまよえるオランダ人のごとくとなるであろう。真実に背を向けると生きてはゆけない。地獄に浮沈するしかない。真実を愚弄すればどうなるか。死に神が来る。そしていつまでも苦の生活からの脱却はない。ぼやっとしているがいい。真実はすでに芽を出しその建設を急いでいる。自転する地球の赤道上での速度のように、轟音を出しての猛スピードである。ついてくるものだけが幸せを手にする。悪をなすなら見えはしない。大法輪は転ぜられた。・・・また、羅刹か。永い魂の遍歴の過程である。あらゆる存在がいつかは帰らねばならないところがある。それが宇宙であり真実である。すべては真実を知らしめんがために起こる。一天四海皆帰妙法。一切大衆を救うとはその真実へ帰る道を作ることである。そして物事が成就するには五つの条件がある。時、場所、人、方法、実行である。今、法華経宿王華開花の時を迎えている。そのために世の腐敗も必要であった。場所とは仏所。仏の住所である。人とは今生きている万物の代表としての人間。方法もすでに明かされている。すなわち、閻浮提の大良薬である妙法華経及び御法妙。仏の定めた方法である。ロゴスのなせる技である。のこるは人の実行のみである。何を実行するのか。正しくおこわなければ失敗する。科学法則の通りである。ここに東洋精神と西洋科学との合一がある。真実の和魂洋才がある。世の魑魅魍魎は勝手にするがいい。何を言っても無駄なようだ。そのまま己を担いでいくがいい。しかし、この世の草鞋銭は請求されるよ。あの世へ逝ってからね。ゆるされはしない。腐敗と堕落が世にはびこりすぎた。何を増殖してきたのか。いつまでもそのままでいられるとは思わぬがいい。腐敗と堕落の中で、それに染まることが出来ず、芽も出せず、人生と青春を失った真実が目覚めた。さて、ロシア側の銃撃によって日本の漁船から犠牲者が出た。密漁していたのかどうか。もし密漁であったなら、何も言えない。国際関係を甘く見ない方がいい。勝手な解釈をして密漁などしないがいい。この意味において報道はもっと客観的であるべきではないか。国際関係において誤解を招くだけである。今まで銃撃されなかったことをむしろ幸いとするべきである。国家を無視して自由はない。自分勝手思い上がりである。報道はこの種の配慮はするべきであろう。報道の自由は客観的事実を伝えるによって保障されているのではないのか。解釈あるいは価値判断をはさんでは報道ではないのではないのか。その意味で、ニュースキャスターなど必要ではない。この度の銃撃による犠牲が出たことについては、政府の指導のなかったこと自体、結果予見義務及び結果回避義務違反の過失が政府にあったといえるのではないのか。それは北方領土政策に関して、その緊張関係の重大性において、あまりにも怠慢があったのではなかったか。日本のことを思って政治をしているのだろうか。政権奪取と維持のためだけの政治をしているのではないのか。それが政治の本旨だろうか。こうした観点からの報道は見られない。いつどこから攻められるか分からないよ。愚かな堕落腐敗傾向の故に、日本は隙だらけとなってしまった。経済的にはどうか。外資系大資本の席巻の場だ。日本の企業は図体ばかり大きくて機動性がない。いい餌食だね。とても戦えるような状態ではない。その精神があまりにも戦えるような状態ではない。戦士のそれではない。ところで、派遣社員とそれに準ずる身分は、あまりにも所得にならない。彼女あるいは伴侶どころではない。このあたりをいつまでも放置しているとどうなることか。心配ではある。どういう意味か。目覚めた真実の知性はいつまでも黙ってはいない。腐敗と堕落を憎んでいる。それを助長あるいは傍観するものをゆるせないと思っている。腐敗と堕落の上に眠るものをゆるしはしない。


2006年08月20日

すがすがしき朝

何とすがすがしい朝だろう。これがすがすがしさというものだろう。昨日は、順序がついて、仏さんのところで、懺悔御法妙をいただき贈らせて頂いた。仏所とは仏の住所で、そこで念願すれば、大宇宙に通じると云われている。私が謝ったのは、自分の内面に巣喰う悪魔に負けていたことだった。すべては知らしめんがためであったことはすでに自覚していた。何を知らしめんがためであったのか。真実だった。そして真実とは何であったか。黄泉の守護と祖先の導きだった。そして思い通りとならないのはなぜだったか。身のうちの悪魔に支配されていたからだった。力があってどうして世の中で成就しないか。それもわかった。さて、仏さんの所で無線を使って交通整理もさせてもらった。バス18台の誘導である。仏さんのことをさせてもらって念願することで霊界に聞いてもらえるという。善は仏さんの所にしかないという。それで、この朝のすがすがしさである。このすがすがしさこそ、例えば、スティービーワンダーの世界であると思われる。歴史も日本も感じることが出来る。以前からそうだった。しかし、以前は悪魔に負けていた。これからはちがう。世を支配している魑魅魍魎エゴ、すなわち、諸々の悪魔に分別属累宣言する。悪魔、善魔となれ。


2006年08月18日

子供たちへ

生きることはどういう事だろうね。それはロウソクに灯が点るに等しい。何がきっかけとなるか。そのきっかけが大切だね。それで一生が決まる。君子危うきに近寄らずの意味もここにある。どのロウソクに灯をつけるのか。仏法ではこれを仏縁とする。さて、堕落するのか。真実を楽しむのか。信じることのできる灯が点ったならその灯を消さないように。恋愛関係もしかりだよ。誰もはじめから上手になれない。何度か失敗も成功の元だね。失敗もしなければならない。そしていつか成就するよ。あなたの求めているものは何ですか。それが夢。この世は夢実現。それが人生だね。さて、笑える自分となれるかどうか。なれたら、それを次世代へ伝えていく。そうした営みが人生だね。そしてそこへ至って卒業となる。それで社会人となる。社会で生きてゆける。自分の求めているものが大きければ、それだけ、時間もかかる。能力も必要だ。だけど、必ず、みつかる。諦めないことだ。自分が自分となっていく。それが人生だよ。そしてみんなに迎えてもらえる。よく泳ぎ着いたねと。そこがパラダイスだよ。そしてはじめて自分の人生が開ける。その世界の言葉が分かるようになるんだね。だから、自分を信じて、世の腐敗と愚かさに染まらないようにね。真実の道はある。さて、あなたにとって、真実とは何ですか。夢は何ですか。必ず、この世で実現します。その方法を間違えなければね。しかし、所詮、自分のことは自分でなければ分からない。試行錯誤だ。自分が自分を発見する。その過程には、自己との戦いを含む。内面の悪を倒さないと道は開けない。倒すと道は開ける。その時が蝶として羽ばたくときだよ。花と咲くことだよ。そして持って生まれた種がある。悪の種もあれば、善の種もある。どの種を選択するのかそれは自由だ。世の迷わしに惑わされないように。テレビばかり見てると失敗するよ。ゲームにはまっても。それらは、世の自分勝手な大人たちの罠だよ。彼らはそれで食べている。その犠牲とならないように。そして、真実のサインもある。それをキャッチすることだね。生まれたからには生きる。幸せはある。それをつかみ取る。とてもおもしろいよ。パラダイスはあるよ。自由はあるよ。きっとつかめるよ。digit!掘るべきは自分だよ。自分が掘るべき鉱脈だよ。宝島だよ。何が発見できるかな。世のサラリーマン教師は何をしているのだろうね。それとも所詮子供たちに劣っているのか。教育の問題は教師の問題だね。教師を教育する必要があるね。新たな戦いが始まったね。敵は世の腐敗と悪だ。まず、テレビバラエティ界がターゲットだね。勝手がすぎた。自由をはき違えた。サザンオールスターズもだめだ。アングラエログロは表に出るべきではない。宇宙に秩序がある。掟がある。奪ったものは返してもらう。壊れたものは作り直す。政治及び経済的に利益を独占した方々も同じである。あなたがたの本来の取り分ではない。あなたがたの所行は黄泉及び天にすべて記帳されている。


樹心社刊 住岡夜晃著 『讃嘆の詩』 上巻 p91 より

 大愛にさめたる者は断じて行なう
 学校や児童の嫌いな教員
 寺や宗教のいやな僧侶
 作物の可愛くない農夫
 真理を熟愛せざる学者
 国民と同心一体ならぬ政治家
 そこに真の生活の喜びがあろうか
 竹を割ったような断行があろうか

(同 p88)

 大信決定して 専らにして復専らなれ
 生死苦悩の波高けれども 本願名号弘誓の大船あり
 五濁悪世の闇深けれども 如来の智慧光はるかに照らして
 金剛の信心をして汝にあらせたもう
 汝ただ専らにして復専らなれ
 しからば必ず如来の言の真実を自証して
 久遠劫来の宿業を願力の白道に超克し
 いかなる水火二河の中にあるとも無碍の道味を信嘗し
 正定聚不退の菩薩道を生きるであろう

さて、世の腐敗に対する憤りがどうしてもある。ゆるせないという気持ちがある。ここをどう処理するか。 

大法輪閣版 新訳仏教聖典 p223 より 

「長苦行よ、私は罰と云わない、業と云う、身業、口業、意業の別を立てて、意業を最も重いとしている」。 

同p224 

「もし汝が道理に立って感情に走らないと約束するなら議論してもよい」・・・「然るに茲へ神通を具えて心を思いのままにすることの出来る出家がきて、この那蘭陀を心の恚りによって灰にしようとすれば、それは出来ることであろうか」。「勿論できます。十や二十や五十位の那蘭陀を思いのまま灰にすることが出来ます」。

同p227

「・・・他の仲を裂く語をいわず粗暴な語を慎み、無駄口をやめて正しい時に正しく語る、之が戒である」。

法華経には「悪舌は功徳の種を断ずる」とある。悪因縁は悪の結果しか出ない。放っておくしかない。むしろ関わらぬ方がいい。ただ、騙されている方々もいる。それも因縁だという。行をすればそれぞれの因縁も変わってくる。自分と同種との出会いとなる。それを待つしかないのだろう。自分が変われば世界は変わる。変わるべきは自分である。


2006年08月17日

危惧あるいは杞憂

問題は大正デモクラシーである。この頃、今より自由の空気があったという。その後、昭和になって第二次世界大戦があった。この歴史を繰り返してはならない。その過程で、軍部の横暴があった。たとえば、軍関係の大臣がいて、閣議に出席しなかったことなどがあった。それで、政府はだんだんと軍部を制御できなくなってしまった。こうした傾向があるとするなら、それをどのように制御するべきか。主権在民及び国民主権の名の下に、各国民が制御する。十分に国民レベルの成熟があることと信じる。もし、それがないとどうなるか。推して知るべしですね。だから、勉学もしないといけない。テレビ芸能界の一億総ハクチ化は勘弁してほしい。平生往生だ。普段かように浮かれていたら、有事になって、どうにもならない。テレビ芸能界の現代社会における影響力を謙虚に分析し、自ら律すべきところあると思われる。そうは思わないかな、タケシさん、タモリさん、サンマさん、・・・・・・。あまりに無責任ではないか。あなたがたは、日本及び世界をどのようにしようと思っているのか。子供たちに何を残そうとしているのか。あなたがただけよければいいのか。あなたがたのしてきたことが、どういうことだったか。どれほどの影響力を持っていたことか。衆愚視聴率主義テレビ界の罪は重い。秩序を破壊した。本末転倒腐敗の世の中を作った。本来の価値を愚弄あるいは無視した。あなたがたの無知蒙昧は度をすぎた。本権より不当利得変換一括請求である。お笑いではなく、本気で懺悔してはいかがか。禅の精神は赤子の心でなくては分からない。腐った大人など尊敬されては未来と子供たちが困る。どんなウィルスより恐ろしい腐敗菌がはびこってしまった。健全な魂と善良な庶民は迷惑である。どうしてこのような自由となってしまったのか。日本精神をなきものとしようとしたアメリカの占領政策とそれに乗じて成功したものたちの帰結であるか。悲しいね。暴力と欺罔の世の中となってしまったよ。かつては切り捨てごめんの対象であった魑魅魍魎の跋扈する世の中となってしまった。愚かな支配となったものだね。さて、どうするのかね。どうなるのかね。これからの日本は。このままの微分係数が続けばどういうことになるのかな。考えたことありますか。あなたがたの成功の鉄則は刹那的な要領としてのガイドとカンニングで、自らの勉学と努力を嘲笑した結果とはいえ、とんでもないことになったね。そうした方々の天下だよ。今は。責任はとってもらわねばならない。まるで二条河原の落書きだね。本来の価値をいつまでも笑いものにしていると、知らないよ。そろそろ気づく頃だよ。何が間違っていたかを。自分勝手。漱石も言っていたよ。精神的向上心のない奴は馬鹿だと。『こころ』の中で。あなたがたは精神的向上心を笑いものにしたよね。しかしここまできわまったから、真実が見えてくる。そこに救いがあるね。申し訳ないけれど、真実は真実だ。人間はこのようにして、過去に、仏所破壊もしたし、仏説破壊もしたんだね。そして自分たちの都合のいいように進んできた。しかしそろそろ限界だよ。壊したものはもとに還えさないといけないね。また羅刹の復活か。羅刹とは聖徳太子かもしれないね。敬うべきを敬うことをわすれてしまったね。坊主はサイドビジネスばかりしているし、医者も所得のために医者となる世の中だ。皆西洋重商資本主義の貨幣の奴隷となってしまった。ペリー来航以降日本は狂ったね。日本の金は騙されて粗悪なメキシコ銀と交換された。大東亜戦争も帝国主義列強化しようとしたその帰結だった。貨幣は腐敗しないし増殖するという。何を言うか。狐の木の葉だ。いつまでも何を追いかけているのか。本当に幸せになりたいと思わないのか。本当の幸せの条件は何であるのか。考えるべき時だね。庶民レベルで。貨幣の奴隷である限り、戦争はなくならない。ところで、日本は大丈夫だ。しばらくはね。どういうことか。やっと久方ぶりに日本の魂が確かに復活自覚したからだよ。そしてその使命を覚知したらしい。もはや魑魅魍魎の勝手にはさせない。戦争はさせない。と、羅刹が言っていた。そして、昭和の代に、すなわち、釈迦入滅後2750年後に、シャカムニブツが世に下生されて、これしか救われないという妙法華経が明かされた。名前だけ法華経に伝えられていたが、その内容が明らかとなっている。本当に救われる教えである。私も実践して救われた。事実である。


2006年08月15日

個人主義自己責任の時代

「私は知らないことを知っている」と言ったのはソクラテスでした。無知の知です。彼は対話という手法を使って、若者に真実を伝えようとしていました。彼の理論は彼自身の文章で残されていません。つまり、説かれたのでした。それを集大成したのが、プラトンです。プラトンの弟子がアルキメデスでした。アルキメデスはアレクサンダー大王の家庭教師でした。さて、プラトン全集というのがあって、その中でも有名なのは、国家論です。彼は哲人政治を唱えました。理想的な誰かが政治をするのです。しかし、現実には彼の唱えた哲人政治が具体化したことはありませんね。権力は腐敗するものです。誰か一人に権力が集中すると独裁政治となりがちです。だから、三権分立もあって、民主主義が選択されているのです。しかし民主主義が唯一絶対の制度ではないのです。ほかのどのような制度よりはマシだとするのです。民主主義は多数決を原理とします。多数の中に庶民の意思があるとするのでしょうね。しかし、少数意見を尊重するのが前提です。さらに、戦う民主主義という概念もあります。ところで、第二次世界大戦というのがありました。これについて、もう一つの見方もできます。つまり、後進国家として世界に進出したい、あるいは、合流したい、と思っていたのが、ドイツ、イタリア、日本でした。しかし、世界はすでに先進諸国によって植民地分割ができていました。欧米列強帝国主義が世界を支配していたのです。かれらはいろいろな場面で被支配国をいじめていたのでした。そして日本の国内では、経済が行き詰まって、東北の農村では、若い妹たちが、家計を助けるために、身売りされたりしていました。時の政府はこうした内外の情勢に対して為す術がありませんでした。それで青年将校が立ち上がったのが、2.26事件だったりしたのです。そして、このメカニズムはそのまま平将門の乱あるいは島原の乱でもいえるのかもしれません。つまり、時の権力機構に対する抵抗権の発動だと。しかし、反乱は反乱です。強い権力は鎮圧します。これが成功すると革命です。現実権力関係にはこうしたメカニズムがあるのですね。明治維新を急いだのも、中国に対する英国のアヘン戦争の脅威があったからです。歴史は繰り返すといわれますが、そろそろ、気づく頃です。今、国家による、赤紙による徴兵があったらどうなるでしょうか。黙って従うでしょうか。繰り返された歴史は一方的な権力支配の時代でのことでした。今は違うと思われます。インターネットも整備されてインタラクティブな情報交換の時代となりました。一方的支配は終わっているのです。新しい民主主義がすでにはじまっているのです。そこで、大切なのは、主権在民として、あるいは、シビリアンコントロールとしての庶民の台頭です。ヨーロッパではレジスタンスというのがあって、これは、ベトナム戦争ではゲリラでした。自分たちの国は自分たちが護りそして建設していくべき時代となりました。そのためには、過去の事実を反省し、解決しておかねばなりません。そして、間違えた同じ轍は踏まないことです。今、老人たちは、自分たちの戦争体験の故に、現在の靖国問題その他の空気を心配しています。私は、それほど心配していない。むしろ、自分たちが責任を持って自分たちの国家を考えようとしていると思っています。一方的に支配される悲劇のないように、自分たちで決めていこうとしているのではないでしょうか。そのためには、やはり、民主主義という基盤は破壊されないようにしなければなりません。そして、独裁者には気をつけなくてはなりません。生きていくということがどういう事か。幸せとはどういう事か。それぞれが真剣に考えなくてはならなくなったのですね。すでに時は流れました。個人主義自己責任の時代です。ところで、山本五十六の同期に堀悌吉がいました。海軍兵学校での主席は堀でした。戦争が始まると彼は退役となりました。そして彼の歌が残されています。すなわち、とればうし とらねばもののかずならず すつべきものは 弓矢なりけり。知恵があるなら、手段はいくらでもあります。さて、最近、NHKで南京大虐殺について放送がありました。あったというもの、なかったというもの、意見は分かれていました。しかし、事実は事実です。そして、そこに何を見るのでしょうか。悪としての戦争です。一人暮らし老人話し相手ボランティアをしていた頃、中国大陸からビルマまで、七年間、最前線をトラック部隊で戦い抜いた方のお話を直接聞かせてもらったことがあります。戦争というものがどれほど人間の悪を引き出すのでしょうか。およそ表現に耐えないない内容もありました。日本は中国を侵略しました。事実です。それに対する当然責任があります。しかし、大切なのは、無限責任ではない。世界のどうにもならない潮流があった。無限責任というなら、中国も、かつて元寇で日本を侵略しようとしましたね。これも問うことになる。どこかで決着しないといけません。そして遺恨を消すのです。未来に向けて協力関係を築くためには。責任はひとり日本だけにあるのではないと敢えて申します。勿論、悲しい戦争を開始し、遂行した責任はとらねばならない。結果責任がある。しかし無限責任ではない。憲法解釈と同じように、歴史的に見る必要があるのです。これまでの経験から、未来へ向けて、戦争そのものをなくすることがこれからの課題です。人類もここまで進化したのですから。国家間の紛争も、奪い合う気持ちではなく、譲り合う気持ちがあれば、仕返しの連鎖としての野蛮に堕ちることなく、平和的解決が必ずあります。私はそう信じています。人類の英知の偉大を信じているのです。戦争は指導者の意思決定で開始されます。その指導者をどのようにコントロールするか。ベトナム戦争を終わらせたのは世論でした。庶民の英知が試される時代です。


真実のソルジャー誕生

人生は甘くない 生きることは戦いである 十分にその力は与えられている やさしさとは その厳しさを知った上での やさしさだ ライオンは 一羽のウサギを追うにも 全力を尽くす 生きることの現実を忘れていたか 象牙の塔のインテリゲンチャたちよ 悟りとは この世の現実と対峙して 得られる力 なり そして 次なる戦いが はじまる 真のチャレンジャー あるいは 開拓者 として 正義 自由 は当然か やさしさも 正直であることも なれどそれらを誤魔化して なお 勝ち組とは申すか 必要なるは 勇気 勇気は 自信より 生まれる 自信とは 何に対する自信であるか 己に対する 自信 なり 真に自分を信じられるか その自信はどこより来るか すなわち 日月の守護 を確信する 日月を 裏切らぬ 自己を 確立する ここより 真の自信は 生まれける これをもって 悟りとす 持って生まれた己の能力を信じられるか 日月の前に 恥じるところは ないか ならば 人を欺くなし 真のリーダーの条件である これから 何を 背負わんとするか 人類の未来を 背負わんとするか すでに 戦争は 克服されている 原爆 これから 新しい戦いが はじまる 戦争と殺戮との戦い 内面の戦いに勝利して 次なる戦いだ 愛と平和が 旗印 真実のソルジャー 誕生 である エゴイストたちと戦う 今も昔も変わりはしない 真実 嘘なき 古来大和 武士道精神 今も 生き居る 心身すでに 投げ入れた 本来無一物 内面は制した 自己の悪魔は倒した 内面に 日は 昇った 自分に対する自信を 克ちとった時 新しいステージ あるいは 課題 として 次なる戦い 仮面をかぶった人間の悪 と戦う 覚悟 あるべし いつまでも 涙していても 仕方ない 人は 一人では 生きられぬ 周りが幸せとなって その中にいる 自分も 必ず 幸せである 我 汝を 騙すなし 汝 我を 欺くなし


2006年08月14日

生きている限り

さて 再び 新しいステージが来たようだ それで あらゆるページを閉鎖して 沈黙しようかと 思った だけど 小林秀雄ではあるまいに と思った 何もかも 水に流せたように 思われる 何もかも これで 新しい 日々が はじまりそう その記録として このブログは のこそう と思う どのような 日々と なるのだろう ふつうの 日々と なるのだね もう これで いいのだと 思う 所詮 これで いいのだと 思う すべては 解決したのだと 思う やっと もどれたんだと 思う 少し 時間がかかったけれど まだまだ これからだよ 生きている限り もう無理はしない あるがままでいいね それで 十分だったのだね やっと 生きる術が みつかった すばらしい世界が 開けている それも 自分次第だったなんて 悲しみはさようなら もう いいよね こんなに いい世界が あったなんてね やっと たどりついたね ここが 彼岸だね もう いいよね 


待てば海路の日和あり

待つしかないね 船出はそれからだ ここまで待ったのだから やがて 私の日々がくる (マーラーみたいだね) 本来の自分に もどろう と思う 本来の自分の世界に 帰ろうと思う やっと 帰れそうに 思う それにしても どれだけ 歩いたことだろう やっと 帰るべき世界が 見えてきた 永い旅だった 何千年の旅だったのだろうか いつか 見失った 自己を求めて 孤独な旅だった そのためには 過去を尋ねて 自分なりの解決を しなければならなかった 螺鈿の槍と無銘の扁額の謎 解くには 全てを失わなければならなかった そして 解いた 解いてみると 何であったか 法華経宿王華の一切種智慧だった 如来は如来でなければわからない 仏は仏のみと究了する 身と心はぼろぼろとなった しかし それ故の 黄泉の守護と祖先の導き 好んでしたわけではなかった 命をかけるとは このことだった 生まれながらに 決定されていたようだ そして 未来が開けた それは おだやかさに 満ちていた これで 良かったと 思った 自然が祝福してくれた そして 守護してくれていると 感じた 自然に受容された と思った 自然にゆるされたと思った これが 東洋の自然観だった 自然の一部となる 自然と共に生きる 西洋の野蛮征服観ではない これが古来大和のたおやかさである また 絶対に勝つ仏法の自信の神髄である そして 世間虚仮 を見る 世間を ゆるせないと 思った 世間が 裏切った と思った 今はちがう 通る道である やがて 気づく時が来る 誰にも来る すでに 到達していた方もいた 道元の 空手で足りることを 実感している 何も要らない 本来無一物 自然が 味方となれば 私は 解くべき私の謎は解いた 次は あなた方の番だ 帰ろうではないか 本来古来東洋日本へ ペリーの来航以来狂った道を引き返そうよ そして 本当に幸せの道を 歩み直そう 未来は 明るきから明るきへ 決定されている 仏によって 素直になろう 真実に対して 自分勝手では 失敗するから 貨幣は腐敗しないという そして 貨幣は 増殖するという だから 資本家は貨幣を蓄える それが 資本主義の正体だ 資本家は貨幣の奴隷だ そして 西洋重商主義の淵源としての貨幣の基礎は何か インカの金だね インカは東洋だよ 黄色人種だ 東洋を征服したとでも思っていたか 日本は明治となってさらにそれを追いかけた 東洋が東洋を食うのか 愚だね パラダイムの変換だね 旧約聖書に秘められた400年周期説だ 恐竜化した 西洋資本主義思想の限界が 露呈している このままでは 人類は 生き残れない 大東亜戦争は何であったか 暴走する軍部を何故止められなかったか 明治以降 西洋に合流し野蛮化した精神の帰結ではなかったか 本来古来大和の精神は あのような戦争はしない 重商主義的資本主義である限り 戦争はなくならない 戦争が 最大の消費であるかぎり 悲しい戦争も経験した私たちは 十分に学習した ここに 過去を反省し 解決して 同じ轍を踏むことなく 未来へ向けて 本当の幸せを実現する 社会を 建設する時が 来ている 人類の英知は ここに 結集するべきである 東洋精神は 自然と共存する 自分だけ良ければいいとして 仕返しの繰り返しは 終わらなければならない 人類の福祉のために して 幸せは 周りが幸せである時 その中にいる自分も 必ず 幸せである とする 仏説を 傾聴するべきである

今の私の現実

好むと好まざるとに拘わらず、運命というものがある。私は好んで漂流したわけではなかった。出来ることなら、ふつうでありたかった。しかし宿命としての運命もある。この世で果たさなければならないことがある。勉強も出来た。スポーツもした。限りなくチャンスはあった。しかしすべてヨブ記のように奪われた。何故だったか。知らしめんが為だった。何をであったか。すでにそれらは書いてきた。すなわち黄泉の存在と祖先の導きだった。私は生まれながらにおよそこの世の最大の難問を解かねばならなかったのだろう。およそこの世のことはどうでもよかった。月の砂漠も彷徨った。もう帰ってはこれないと思った。この世の幸せはゆるされないと思った。しかし帰還した。その間、少なくとも芥を払うこと三十年だった。皆から馬鹿だと言われた。しかし見つけたものは何であったか。およそこの世の常識を越えていた。私の右手の親指は明らかに左手の親指より大きい。テニスでそうなった。それほどテニスをした。一ヶ月で靴の底は穴が開いた。グリップの革はバックハンドで打つ親指の所に穴が開いた。それほどしていた。自信もあった。しかし優勝はなかった。二位だった。勉強も自信はあった。いつでも一番はとれると思っていた。しかし勉強しなかった。いわゆる世間での勉強はしなかった。私のしていたことは何であったか。すでに高校の頃より哲学であった。何故勉強しなかったのか。その頃同和教育があった。全校全体集会もあった。全共闘の余波だった。それでしなかった。学校の勉強など馬鹿馬鹿しかった。女子にもよくもてたようだった。しかし相手にしなかった。思う人はいた。三十年後に裏切られた。それで目覚めた。何に目覚めたのか。本来自由に目覚めた。そのような人生だった。高校の頃親友がエロ小説を貸してくれた。読みはしなかった。何を求めていたのだったか。真実だった。何度も人生を踏み外した。しかし生きていた。そしてやがて真実を知ることとなった。それは何であったのか。それを語るべきかどうか。まだ思案している。私の歩んだ人生は特異であった。そしておよそ世間の知らないことを多く経験していた。言うべきではないであろうと思うことが今も多い。しかし真実は垣間見ている。語るべきか否か。時期尚早であるように思われる。生まれながらに予定されていたようにも思われる私の人生だった。そして得た結論は何であったか。真実とは何であったか。それらは既に書いた。今更である。もうそれらについて語ることに辟易している。ふつうに幸せになりたいと思っている。しかし現実はそうはいかない。まるでヨブ記である。すでに神仏の真実は知った。しかし現実は思うようにならない。これも事実である。しかし真実は真実である。例えばコギトエルゴスムである。これ以上どうすればいいのか。どうすれば私の経済となるのか。それがわからない。今に搾取されている。少し疲れている。私を本気にさせたいのだろうか。私は本気になりたくない。あまりにも本気になりたくない。正直なところである。例えば私がバイクで走っていた。裏切ったモノがいた。それに対してバイクで走りながら大声で叫んだ。突然雷雨となり雷が落ちた。あまりに激しい雷雨であった。私は近くの駅にバイクを止めた。阿賀駅だった。そこで雨宿りした。やみそうにない。私は電車で帰宅した。ある日福山へ行った。経済がどうにもならなくて、就職しようと思っていた頃だった。古い知人の誘いであった。福山城で時を過ごした。真っ白な天守閣が雲一つない青空に映えていた。人はいなかった。天守閣の裏側の水銀灯の下で読書しながら夜の八時まで滞在した。城は喜んでいるようだった。そして最終新幹線で帰った。突然糸崎辺りのトンネルの中で新幹線が緊急停車した。11分止まった。やがて動き出した。停電の故だった。糸崎といえば、私が高校の頃に家出のようにして辿り着いたところだった。しかしすぐに思い返して知らない人にお金を借りて夜行列車急行音戸号で引き返したことがあった。またJRといえば父は機関士だった。諸々の因縁がある。語ればおよそ常軌を逸する。そのような私の人生である。さて何処まで話そうか。話すべきか。やはり話せない内容が多すぎる。あまりにも不遜と言われそうである。しかしあらゆる謎は解き終わっている。すなわち日月照らし、風が吹く。この解、誰かわかる者あるか。さて、この世に秘密がある。その一つを開示しよう。この世はジュピターのさじ加減である。なのに人間は自分次第と思っている。この世は神仏の定めた掟がある。それを粗末にしている。だから結果不幸となる。真理を掴んだ者が仏である。あるいは神である。それを大切にしてごらん。彼等に利益を与えてごらん。必ず繁栄する。神仏は自ら経済行為は出来ない。神仏が枯れたらどうなるか。君たちも滅びる。そして神仏は存在する。しかし隠れている。世間は見えない。見えないから世間である。あわれだね。世間自分勝手本末転倒。雲は龍に従う。龍は神仏に従う。わからないだろうね。言わんとするところ。勝手にするがいい。繁栄したら自分の力だと思う。神仏と縁があったからだとは思わない。むしろ裏切る。神仏の慈悲を。一円の利息に右往左往する。奪ってばかりである。守銭奴。それが世間一般である。神仏は利益をどう見るか。狐の木の葉である。そして宵越しの金は持たない。世間は貯める。騙して貯める。そして結果どうなるか。すべての行為と思念は黄泉よりお見抜きお見通しである。それぞれにサンクションがある。決して幸せにはなれない。


2006年08月13日

真実とは何か

真実とは何であったか。東郷元帥は江田島に眠っている。旗艦大和は呉で建造され、呉から出撃した。長門より譲られた。明治憲法は統帥権は天皇にあった。今、主権在民、国民主権。天皇は国民統合の象徴に過ぎない。明治はペリー来航に伴う革命であった。その担い手は下級精神であった。それで江戸無血開城の禅定を裏切った。それが廃仏毀釈であり、廃藩置県であった。明治は文明開化と称して西洋化を目指した。下級精神は何をもって下級というか。本来古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神を知らない階級であった。そして本来古来日本を裏切った。それが第二次世界大戦の帰結であった。当然であった。日本古来大和は無益な戦いはしない。因って神風も吹いた。草薙の剣もあった。庶民を犠牲にすることはなかった。西洋重商主義の利益追求主義に乗じた下級精神及び欺罔を前提とする商人根性の支配の故であった。本来古来大和の精神は潔い。嘘はない。商人根性は明治までは卑しいモノとされた。当然卑しい結果となった。しかし、宿王華の種は遺されていた。正直であるが故に虐げられながら。しかし時は満ちた。真実とは何であったか。黄泉があり、神仏が存在し、正直者のこうべに神は宿ることだった。そしてその精神は庶民に冥していた。隠されていたのである。それが今開花した。事実である。天皇は象徴に過ぎない。象徴とは何の象徴であるのか。国民統合の象徴である。国民とは何か。主権在民である。よって、国民とは庶民である。政治家でも官僚でも資本家でもない。憲法制定権は国民にある。価格はやがて価値に収斂する。概念はやがて真実に収斂する。庶民の中に主権は隠され保持されていた。主権とは何か。あるいは誰か。謎である。真実とは何か。日月照らし、風の吹く。古鏡、大鏡、増鏡。見える世界は見えない世界の映し鏡に過ぎない。世間一般、真実を知っての狼藉か。悟るとは何を悟ることだったのか。神仏の守護と祖先の導きである。これがカクネンムショウだった。起こるべきことは起こる。所詮この世は因と縁。価格はやがて価値に収斂する。ZeinはやがてSollenへ収斂する。自己開発は持って生まれた本来の自己となることだ。今生でそれを超えることは出来ない。それが法華経一切種智慧だった。今生での自己開発の結実を来世に渡す。己が世間を超えている時はどうなるか。芽を出すことは困難を極めることになる。しかし持って生まれた種である。DNAにプログラムがある。世間に染まろうとして染まれない宿命である。商人根性を属性に持たない種はどのようにして今生で生きれば良かったのか。蓮華の前に化生するしかない。自己を信じるしかない。しかしこの信が難しい。世間一般とちがうからである。世間はどうか。テレビで一億総ハクチとなった。自己を羅針盤とするしかないのだが、これがなかなか信じられない。しかしいつかは必ず芽吹く。それが生命力である。黄泉も応援する。祖先も導く。本来古来大和の精神は滅びてはいない。原爆の火にも焼かれてはいない。いつか復活を待っていた。そして一切大衆を救うとする仏と出会うことになっていた。それは過去の反省でもあった。反省とは同じ轍を踏まないことである。そして教育と学問の成果として愛と平和を学んだ。さらに神仏に対する畏敬と謙虚を学んだ。西洋にはない東洋思想の神髄を学んだ。愛するものは愛される。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。どうしようもない現実である。持って生まれたものがある。明治以降の西洋の支配概念に乗じた間違えた平等思想で真実が破壊された。平等即差別を見失った。その帰結が今である。因って恐怖悪世となった。魑魅魍魎エゴの支配となった。一切を愛するべし。お経はそのようにして読誦する。この世に生まれた意味は何であったか。過去の清算である。そして新しい自己を形成し、未来に流す。生きることは命を頂かないと出来ない。生きていること自体が悪である。しかし供養することで相手も成仏する。食べられたものも新たな己の中で生きる。

雲晴れて真昼のごとくこころあれ自ずと君の道は開ける

戦いはやがて自己と対峙するその時のため勉学すなり

世の大人およそ世俗退廃ぞ自己の真実信じて進め

本来の自己をみつけて花は咲くそれを信じて迷わず歩め

花と咲き花と散るらん真実の結実かくも美しくあらめ

到達は未知との遭遇開く鍵手にしてまた歩みはじむる

神仏の守護を勝ち獲て自己となるそれよりほかに真実はなし

ゆく春を惜しむことなく夏はくる再び春を迎えるために

命と出会い挨拶すお久しぶりですねウェルカムようこそこの世へあの世から

時々を大切にすることですね一期一会

人生を魂遍歴と見る時は日月地球皆我が兄弟

宇宙大の視野 宇宙大の人生

見える世はすべて心の反射かな

世界は開ける心次第で

喜びを与えん 喜びを伝えん 八月の月

我汝をだますなし古来大和の心なり

答えとは心にすべて存在す探すべきはおのがこころ

自分の良心に素直になると良いね 惑わされることなく 本来自由だよ

女子供がのさばった本末転倒

躾のない犬は駄目だ

(私の思想は女性蔑視ではない。強くなった女性に迎合する甘えた男性に対して自信を持てと言いたいだけである。)

世の自称大人たちに問う。自信を持って自らの人生を主張できるか。すねに傷もあろう。失敗は失敗と認めてはいかがか。腹を切れとまでは言わない。しかし自ら処すべきことがあるのではないのか。子供たちに何を残すべきか。真剣に考えるべき時である。

ところで、誰もがお墓参りする。何故するのだろうね。祖先供養のためだね。しかし真実の祖先供養になっていない。真実の祖先供養はね、両家の祖先を供養する。父方だけでは足りない。供養の意味は何だろうね。例えば川の流れに例えられる。上流にはいくつもの支流がある。祖先から色々なモノが流れてくる。財産も流れてくれば、恨みも流れてくる。良いものはそのまま頂いて子孫に流せばいい。しかし悪を為した祖先もいる。それが不幸の原因となる。それを清めなくてはならない。それで祖先を集める。集めて供養する。祖先が喜ぶことをする。それは真実のお経で供養しなくてはならない。すなわち霊界にも通じる約束のあるお経典が必要である。それが昭和になって明らかとなった。鎌倉仏教が新仏教なら昭和になって真実の仏教が顕説されても当然であろう。それは法華経に記されていた。釈迦が2750年後に明らかになると記録していたのである。それが昭和のことだった。釈迦の頃には名前だけ伝えられていた。釈迦と共に修行していた方々を哀れに思って、名前だけは教えられていた。その後、その名前だけを大切に伝えられていた。しかしその中身は謎のままだった。時が満ちることが必要だった。途中でそれに気づいたのが日蓮だった。しかし日蓮もその役でないことを知っていた。時が満ちていなかったからである。それが秘すべし秘すべしだった。時は流れた。そして十悪業の支配する世となった。悪の桶が満ちたのである。そして恐怖悪世となった。いよいよ仏自身が自らこの世を救わねばならなくなった。しかし誰もその役を買って出ようとしなかった。シャカムニブツが手を挙げた。そして人間として生まれて、名前だけ伝えられていた真実のお経を世に顕した。それが地獄餓鬼畜生に堕ちず祖先も救われるお経だった。仏がそう約束したが故に。その名は『妙法華経』。このお経で供養しなければ祖先は救われない。救われた祖先は戒めを解かれて自由となる。自由となった祖先が子孫を救う。祖先は皆見えている。子孫を救いたいと思っている。しかし戒められている。過去帳に縛られている。これを自由にする。それが真実の供養である。それではその真実のお経は何処にあるか。探すべし。


2006年08月12日

三藐三菩提

ある禅僧に老夫婦が聞いた。どのようにすれば悟れますか。禅僧はいきなりその老夫婦の頭と頭をぶつけた。思わず痛いと叫んだ。禅僧は言った。そこより入るが良い。この度のこの旅はどの足袋を履こうか。応神天皇が何故祀られているか。経済産業の守護神だった。当時積極的に海外より新しい技術を導入した。民は幸せの程度を増した。広島は昼島だろうか。どうでもよい。昼と夜と。ひさかたの光のどけき椿雨。霧雨に煙る君の艶姿。絹の雨。梓弓、すでに引かれて放たんとす。この矢すでに射抜きたる。的より当たりに来るか。気力で放つもののふの何処へ飛ぶやら知りはせぬ。空矢はすでに新羅を過ぎた。カメラのシャッターも同じこと。被写体の方でシャッターチャンスを待っている。この真実暫く愚弄したのが世間。しかし世間はいつも同じこと。自覚と無自覚。昼と夜。日と月。無理矢理通らず、理は通る。これぞ真実真理であったか。知るには時を要したか。浦島太郎の玉手箱。酒は飲め飲め飲ますもの。飲んで飲ませて時めぐる。御前会議は何処にてあるか。世界は一つアーサー王の円卓だ。世間身勝手ゆるさぬと。誰ぞ勝負を挑むのか。準備万端黄泉も従う。こちらはすでにすべて切り札。どの眷属を使わさん。万軍の主も味方に付いた。どうするのかね。日月照らし、風の吹く。それでも尚刃向かうか。見えない世界はすでに統一平定されている。何をしているのだ世間。羅生門をくぐりたる。生きて帰りて浦島のひとりのもののふ弓を引く梓弓。畏れ知らずに勝負する。もはや時代は経めぐりて。世界は一つ。最終戦争終わりたる内面。まだ刃向かうか。ヨハネの黙示録を見たいのか。尚、黄泉の意思を裏切るか。人間身勝手バベルの塔。それほど愚か人間か。何時までも愚弄できはせぬ。人間真実目覚めたる。常に勝負は真剣の。幸不幸原因ミクロには、夫婦のありかたにあり。これぞ日月、自覚無自覚の格差なり。明かりともりて夫婦なり。何を身勝手何時までも。幸せの基。今も昔もかわらぬを。酒は飲め飲め飲ますもの。飲んで砕けて大海の。さだめかなしも存在の。塩になるかな存在の。清めは何処にあるなりか。自由はあるある自由なり。しかしルールの存在は。ほどを超したる危険ある。因って君子危うきに近寄らず。その限度は何処なるか。始めに渡るモノには制限なし。一人渡りて羊が渡る。黄泉の国より帰りたる。黄泉の世界を平定す。この道誰ぞ歩まん。神仏遭遇悪魔退治。最終戦争何処なる。時代は経めぐりて内面の。第一人者の自由、放っておけ。父も祖父もそうだった。尊祖父もそうであったであろう。掟違わず自由なる。掟違いて何とする。羊は羊、群れを為す。メダカはメダカ、後を追う。自由の前に道はなし。ただ眼前の荒野なる。荒野は無限の可能性。未来は自由が切り開く。今も昔もそうである。頼朝も家康も自由であった。自ら輝く恒星の自由がある。釈迦は明星を見て何を悟ったか。己の何を悟ったのか。昼と夜とである。日と月である。プラスとマイナスで灯は点る。その明かりの大小はそのギャップである。仏を思う。伴侶を思う。子を思う。人の世の常、久遠より変わりはしない。それを見失っていたか。何をもって大人というか。世間身勝手度が過ぎた。ゆるされはしない。しかしこの真実、知るものは少ない。あまりにも当たり前すぎた。当たり前が難しい。仏がいる間はいい。仏の慈悲を目の当たりにする。法がわからなくとも信じられる。仏が滅度してどうなるか。法を保つは難しい。人間は悪に傾く傾向がある。地球を足で蹴飛ばしすよりも難しい。この真実に気づくには種を要する。釈迦は何に目覚めたか。是れすなわち三藐三菩提。我に邪魔するなし。プライバシーの権利とは何か。right to let me be alone!


本当の幸せと平和は教育から

昨夜は仏さんのところでお話を聞いてきました。呉に帰って、海岸に出てみると、いつものように、遠くの製鉄所の煙突に炎が上がりました。そして、ここのところ、アオサギがギャーと一声鳴くのです。今夜ははじめてその姿を見ました。海面をまるでカモメのように滑空していきました。真夜中に何をしているのでしょうか。きっとひとりなのですね。さて、仏さんのお話ですが、私たちが生きている世界はすべてのものが幸せになりたいと思っています。しかし、そうなれません。そうなれない世界に生きているのです。何故でしょうか。この世に悪があるからです。悪がある限り幸せになれないのです。そして私たちはその悪から逃れられません。悪とは自分だけ良ければいいとするところにあります。そして色々としているのです。周りは迷惑を被ります。犠牲となったものは恨みにも思います。仕返しを考えるようになります。この世の中はそうした世界です。・・・というようなお話を聞いてきたのでした。そしてその原因は何でしょうか。それを解消するためにはどうしたらいいのでしょうか。その方法も教えてもらってきました。実践するしかないですね。それは真実の祖先供養と言えるのです。だれもが祖先を供養したいと思っています。しかしその本当の方法はわからないままだったのです。人任せにしたり、地獄餓鬼畜生に堕ちない約束のある真実のお経典での供養ではなかったりでありました。それが説かれています。お釈迦様の時代にはその名前だけは伝えられました。そして2750年後にわかるとのことでした。それも既に過ぎているのです。そして本当に救われるから不思議です。仏さんはすでにお出ましになっておられたのでした。信じられるでしょうか。信じるものは幸いです。世におかしな宗教もあります。しかし真実の宗教もあるのです。すでに行もして実験検証済みです。・・・そして何もかも、馬鹿馬鹿しくなったような気もします。真実を知ったからかも知れません。仏さんのことだけしていれば良いとも言われます。その通りです。しかし仏さんのことって何でしょう。ところで、人生楽しむにしくはありません。しかし、それにしても、我が暮らしは楽にならないですね。じっと手を見る。私の十指はすべて渦を巻いているのにね。戒められたモノです。世俗の幸せは来ないのかな。ちょっぴり寂しい。みんな幸せかな。もう重荷は下ろそうと思います。今度こそ。そして本当に楽になろうと思います。それだけのことはしてきたと思ってる。知る人は知っていますね。それとも知らないのでしょうか。現実の見える世界では誰も知らないようです。少なくとも私の周囲の方々は。おそれを知らぬも甚だしい。見えない世界ではずいぶんとサインをもらっています。知っている人は知っていると信じています。現実はまだまだ努力が足りないのかな。そろそろ勘弁して欲しいところに来ています。私は私を克服できそうです。やっと自分の思う自分となれそうです。ずいぶんと迷ったことでした。惑わされたことでした。しかしもう大丈夫。思うようにして法は超えない自信が生まれました。良かったですね。ここで法とは宇宙の法を含みます。何事も経験を通してであると、森有正氏も言っていました。いくら良いことを言っても声のトーンが悪いと駄目ですね。黄色いお足が見えていますね。ルワンダだったかな。大虐殺がありました。そこから逃れた方がNHKラジオで言っておられました。二度と戦争をさせないと。自分が助かったのは日本で教育を受けていた縁からだったそうです。今ルワンダに最も必要なのが教育だと。教育によって無意味な戦争をしなくて良いことを知る。そして経済的に努力することで幸せになることを知る。それを子供たちに伝えたいと。限られた国内で兄弟喧嘩のような戦争をするのではなく、世界の中で世界に受容されてその中で生きていくことが出来るからと。これが平和の意味ですね。そしてすでに世界は地球となりました。一つの世界です。日本にも戦国時代がありました。世界はまだまだそのような国もありまして。しかしすでに世界はひとつです。その中で兄弟喧嘩のような戦争をしなくてもいいのではないですか。平和に競争できるのではないのですか。お困りの国には援助の手をさしのべましょう。自分たちだけ良ければいいと思っていませんか。仕返しされますね。また仕返ししますね。その繰り返しですね。永遠に戦争するのですか。そろそろ気づく頃ではないでしょうか。もう大航海時代は過ぎましたよ。世界は無限ではありませんよ。世界を地球と見れば戦争なんてできませんね。領土争いの時代ではない。どうして戦争するのですか。犠牲となった者たちの恨みを消しましょう。そして新しく幸せな世界を作ろうではありませんか。ユビキタス社会の建設がその可能性を秘めています。インターネット世界では領土は無限です。悪に対して戦うことよりも、悪の根源を尋ねて解決することを考えませんか。いつまでも愚かだとそろそろ人類も恐竜のように滅びますよ。だれかが巨大隕石を呼ぶかも知れませんよ。天気予報も当たらない人間レベルでは制御できませんよ。そうした宇宙の掟があるのではないですか。それでもまだ自分勝手しますか。魂の遍歴がありまして。魂も六道輪廻するのです。このままでは魂も救われないのです。本当の楽の世界へ渡りませんか。人間だから出来ることですよ。今しなければ将来も同じ輪廻ですね。(2006/08/12 2:28am NHK-AM サッチモの『バラ色の人生』を聞きながら)

2006年08月11日

存在の詩

限りなく 人生は 開かれている 大いなる自然と 黄泉と 祖先と 従順なるは 護られて それが 羊として の 意味だった 自分勝手な 素直など 素直ではない 素直は 人への 素直ではない 神仏への 素直である 何か 間違っていないか 人としての あなたの分際は何か 何者か 世間 思い上がり 勘違い 甚だしい 管理職が どれだけ 偉いのか 馬鹿馬鹿しい 何をしているのだ すでに四民平等 主権在民 人の上に立つ それは仕える懺悔のチャンス 新たな身分階層 資本家支配 あなた方は 何様か 商人根性 欺罔を含む 正直者を騙して 餌食とす システム使えば利益は出る その利益を独占している その利益の淵源はどこか トリック 本来古来 潔し 大和の精神 嘘のない さすれば 神 風吹く 従う いつまでも 黙ってはいない人として 人に 何を 要求しているのか さて 常にある 導き 良心の アンテナで キャッチ して なすべきをなし なさざるべきをなさず それが 衆善奉行 諸悪莫作 善は仏さんのところにありて 修行とは 仏さんのことを させてもらうこと さすれば 悪をなすことのなくて 悪をなすから 困ったことになる 善をなせば 何もない 何もないこと 無事是貴人 所詮 この世は 因と縁 それも 体験なくして わかるまい そうであるなら してみないか 仏さんのこと パスカルも 云っていた 
神の存在する方へ 賭けよ 黄泉の守護ある 祖先の導く 雲は竜に従い 自然が真実に従う 真実とは何か 神仏の存在すること いつか 失われ 忘れかけている 真実 今 再び 蘇る 

私は幼稚園の頃目が見えていなかったらしい。小学校に入って検眼してもらうと0.1だった。それ以下であったかも知れない。そして眼鏡をかけたのは小学校3年生のことだった。それまで、板書を見たことはない。黒板は先生のノートだと思っていた。だから常に耳学問と私のノート上での勉強であったのだろう。幼稚園の頃から外でよく遊んでいた。悪い子でもあったらしい。申し訳ないこともある。私が理由で幼稚園を変わった子もいた。その頃、ほめられたのは、硬筆習字だった。とてもほめられた。しかし、その後、習字とは縁がなかった。小学校中学校を通して、筆を持ったのは、十回にも足らない。そういう時代だった。その後、平等大慧会では、文書は毛筆である。これには秘密もあるが、ここには不問とする。そして毛筆には自信はなかった。しかし先輩に言われた。正憶念している。過去に書いているから大丈夫だと。その通りだった。その後、コンタクトレンズにもお世話になった。高校三年間はそれだった。はじめてそれを装着して中学校の近くの農道でのことだった。木々は光を浴びて輝いていた。その時に葉のクチクラの輝きに感動したのを覚えている。それから先日現場で落下して両足踵骨骨折した。医師からは言われた。不幸中の幸いだと思ってくれと。踵骨で済んだ。守護がなければ、脊髄を損傷していたかも知れなかった。その間、すさまじい病院生活であった。色々なモノを見聞した。長老のようなタクシードライバー。病院経営先兵の婦長。不条理があふれていた。看護師及びリハビリの先生は痛いならベッドで寝ていて良いと言った。担当医師は痛み止めを飲んでもリハビリするように言った。私は壮絶なリハビリをした。ある日婦長が退院許可を取っていることを知った。私は担当医師に頼んだ。病院にいても自宅療養しても同じなら退院させてくれと。私が退院したのは、車椅子から松葉杖になって二日目のことだった。そして、病院での風呂は一度しか入浴していなかった。しかし風呂に入れた時の感動は格別だった。その入院の間私は何をしていたか。毎朝、御経読誦し、過去の会報をノートにまとめた。それは三七の行のつもりでした。すなわち二一日間成就した。さらに七日間と御経にあった。それも成就した。そして知った。普賢菩薩の行であったのだ。すなわち眼根懺悔の行であったのだった。そうしたこともした。さらに色々している。そして今である。その間、台風が来た。広島では風速60メートルであった。また、手術の日には阿賀の工業用水道管が破裂して噴水のように吹き上がった。阿賀といえば、父が学生時代を過ごした地であった。断水の中での手術であった。その頃はまだ自分が汝としての自覚はなかった。しかしそれさえも準備されていたかのようであった。私の行の一端であった。大学の頃には大塚博堂が好きだった。姉から教えてもらった。その後、布施明と小椋佳を足して二で割ったようだと友達には言っていた。ずいぶんと聴いたモノである。その後、ある縁で大塚博堂の秘密を知ることとなった。不思議はそのようにして起こる。とても合理化できない。予定されていたのか。しかし何かが起こるためには条件があった。それを満たして起こるのであった。そしてその後も色々な体験をするのだった。ところで日航の札幌発ジャンボ機が墜落した事件がった。姉と妹はそれに乗る予定であった。しかし予定が変更されていた。その他不思議な出来事は枚挙にいとまない。


2006年08月10日

新しい始まり

庶民の中には明治に葬り去られた上級士族精神を含む。彼らは庶民の中に冥した。その後、台頭したのは本来古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和の精神を知らない階層だった。そして彼らの支配するところとなった。彼らは西洋重商主義の利益追求理念に乗じた。すなわち商人根性だった。本来大和の精神は潔い。嘘はない。しかし商取引行為においては多少の欺罔はゆるされている。すなわち嘘が前提である。何をか云わん。しかし胡蝶の夢も夢ならいつかは覚める。その時を迎えた。このまま腐敗化傾向が続けばどうなることか。現在世の中を微分すればどちらの方向を向いているのか。本来大和に純粋精神がある。しばらく埋もれていた。地蔵菩薩の涌出とはこれを云う。世界人類の秘宝である。今その秘密が開示された。法華経雑華経において秘密守護されていたのだった。すなわち宿王華開花である。またこれが21世紀の約束であった。すなわちインターネットがインフラとして普及し整備され、ユビキタス社会が準備された。ここに新しい時代が建設されようとしている。そしてその精神における指導理念が最後の切り札として開花した。それが純粋精神である。新しい時代はこの精神の復活をもってその方向性が定まった。すでに世界はネット社会としてひとつである。この事実とその本質を知るものは少ない。これを知るものは経験によって知る。インターネット世界社会はすでに始まっている。人類の英知の結実である。これを以てかつての英知の結実であった原爆を克服する。その本質は何であるか。すなわち嘘のない世界である。あらゆる欺罔の通らない世界である。それは一つの世界としての地上ヘブンであり、21世紀新大陸心の大地であるといえる。その建設がすでに始まっている。宇宙ステーション建設はその象徴といえる。地上に建設されつつあるものは何か。すでにそのガイドラインは決定されている。そして人々の英知が結集してその開発が進行中である。新しい時代の方向は定まった。この道を進むしかない。愚かさは排除される。何を言っても無駄である。古い概念は捨て去られた。いつまでも欺罔を手段としてのシステムはつづかない。その意味で容赦ない。健全で善良な庶民の解放の時が来た。正直者が馬鹿を見ることのない未来は近い。日本の使命も明らかである。過去を反省し、過ちは繰り返さない意志を持って、未来は創造的人類の今の英知が築く。これに参加してみないか。真実に合流してみないか。そして参加型の社会となった。誰もが自ら志願し参加できる。その意味で真実平等社会の到来である。古い支配は終わった。人類は明るきから明るきへと決定されている。その意味がこれから明らかとなる。そして実現する。生きていることの幸せを誰もが享受できる時代となる。そのために乗り越えなければならないことがある。すなわち一部独占利益層の古き支配からの脱却である。三十年も一つのことを考え、実践していると、やがて煮詰まる。一つの課題を解決すると新たな課題が来る。次の課題は、音を立てて、回り舞台のごとく来る。ヨハネの黙示録のようである。そして新しいステージとなる。休息はそのつかの間にすぎない。今の課題を仕上げない限り次の課題は来ない。大人となって何をぼんやりしているのだろう。羊となって何が人生か。赤頭巾ちゃん気をつけてである。人生がもったいないよ。この世において成すべき課題は無限である。まず過去を解決する。そして今を築いて良いものを未来に流す。そして未来を創造する。悪など為している暇はない。限りなく信心清浄、眼根懺悔へと近づいていく。それが魂の遍歴としての個々の人生だ。その他のことはすべてそれを知らしめんがためにある。やがて完結し、彼岸を見ることもあるだろう。しかし人間である限りどこまでも漸近線であるだろう。それを解く方法論は漸化式のごとくであるか。それを分析する手段は微分積分のごとくであるか。それを計算する方法は方程式のごとくか。あらゆる問題は、式となり、図形となり、文章となる。そしてそれぞれ解くべき解答がある。人生は山あり谷ありと云われる。よく遊ぶものはよく学ぶと云われる。然りであろう。その時々の精神力が問われる。人間の格差は精神力の格差である。それがスポーツとして顕現するのか、あるいは、芸術、学問、ビジネスとして現れるのか。ここに秘密がある。しばらく無視されていた。欺罔及び暴力手段が勝っていた。愚かなシステムが世を支配していた。資本主義は所詮資本家のための制度である。資本家とならなければいつまでも労働者である。さて、持って生まれた精神力がある。これをどう開発し、維持し、増幅するか。来世へもってゆけるのはこの精神力のみである。人生、楽しむにしくはない。よく学びよく遊べ。何事も徹底することである。かつて勉強ができれば何をしてもいいのねと云われたことがあった。これは毒矢として魂に刺さった。そして、今、その毒矢は抜かれた。そして云う。勉強ができれば何をしても良い。遊ぶエネルギーはそのまま仕事をするエネルギーである。人間の能力差は人格エネルギーの格差である。その力は自信を持つことで発揮できる。自信はどのようにして持つか。何に対する自信であるか。自分に対する自信である。自分の中に棲む悪魔を倒したときにそれは得られる。さて世の母親たちは子供の教育において何か間違ってはいないか。男子を女子にしてしまったのではないのか。子供の教育は何のためにあるのか。それぞれ持って生まれた能力がある。生きてゆくにはその得意とするところ一つで良い。それを見つけるための教育である。それが見つかったなら猪突猛進で良い。人生は必ず開ける。子供の能力は何か。親も知りはしない。それを自分の思いで方向付けていないか。子供は親の期待に応えようとする。しかしそれが自分の持って生まれた本意と乖離していればどうなるか。悲劇となる。親も教師も義務を果たしていない。あまりにも自分の思いを先行させている。それは子供のための教育となっていない。戦後、女性が解放された。その帰結が今である。今、復讐されているのかも知れない。見直すべきことがある。未来へ向けて。ここで云う遊びが世の男の遊びでないことは別論である。それはトリックであり悪魔の罠である。そして宇宙の掟に反する。見える世界と見えない世界。テレビ芸能界はこの罠にはまった。制空権を得たのはラジオだ。ここで云う遊びは人生を真に謳歌する遊びである。良寛の云う遊びである。負けるな一茶ここにありである。乾坤をハラにおさめてもらい水しての遊びである。

もうくだらないことを書くのは止めにしよう 意味がないし 非生産的だ 無価値といえる 山田無文老師だったろうか 書いたことは すべてホゴにすぎないと 云っていた 過去のことなどどうでも良い 過去は 過ちに決まっている 過去は 清めるしかない そして 良いものだけを未来へ流す 大切なのは 今と これからの 幸せだ すでに 宝島は 発見した 株式銘柄の選択は 価値と価格の差に目をつける やがて 価格は価値に収斂する 私の人生は何だったのだろうと思う 生まれたときから ずいぶんと 価値があった いつの頃からか 埋もれてしまった まるで 月の砂漠を 彷徨った 自分で 這い上がらなければ ならなかった そして 這い上がった 這い上がってみて おどろいた 宝島を 発見していた 金剛杵も発掘していたよ 誰もが夢見る 宝島 と 金剛杵 それを手にしたものは 果たして どれだけ いるのだろう 誰か 知っていたのだろうか それとも あたかも ロゼッタ石 あるいは ハムラビ法典だったのか それらの力も 試してみた 絶大だ 仏さんをも超えるかも知れぬ あえて勝負したこともある しかし 二度と 使おうとは思わない さて 価格は価値に収斂する 私の価値は どのように 収斂するのだろう 楽しみだね すでに 宇宙自然生命黄泉は 私の前に 開けている 言葉はロゴスとなって 滅多なことは云えない 詩でも書くしかないのだろうか 世界の秘密も 明らかとなった 成功者たちの マスカレードとパラダイス かれらの王国は トリックの中で 静かに 佇んでいた そして 真実としての 日月照らし 風の吹く これからを どうして 生きてゆこう 価値を 何と 交換しようか 
現実の幸せと 交換しよう 何か失われたものを求めて 私の旅は 最終目的地 に 到達したようだ すなわち 地上ヘブン=世界へ これへの 合流を果たさんと 欲す そして 同じ思いの愛する人と 良い家に住み 良い車に乗って 幸せの形を 作らん と 夢はいつか実現する その夢を語り合い 紡ぎながら 

そして目覚めた。人間はどうしても悪を為す。悪を為せば困ることになる。それで仏さんは考えた。善は仏さんのところにしかない。人間が自ら出づることはない。さて、どうするか。千の塔を建てることをさせる。仏さんのことをしていれば悪を為すことはない。宇宙自然生命の守護がある。それが宇宙の約束である。仏さんのことをさせてもらうことが修行であった。自分勝手をすることが悪だった。これが仏さんの子を思う慈悲だった。何をお手本とするのか。仏さんのことをさせてもらう。やがて神力を得る。人が神となる。神は存在する。あなどることなかれ。さからうことなかれ。修行して得た力である。金剛杵を手にしている。黄泉も従う。人類の開発するべき最後の究極の力である。そのためには種を要する。生まれながらの種を要する。人間の身勝手もはやゆるしはしない。


2006年08月09日

新しい武士道及び騎士道精神

問題は何だろうね。願いが愛と平和であることは確かであるとして。それも手段にすぎないとして。目的は、人々の生命人生生活としてのライフだとして。戦争はやはり駄目だ。どんなことがあっても。かつて戦いは何のためにあったのだろうね。覇権をとるためだった。そして一騎打ちから集団歩兵となった。その後どうなったか。第一次世界大戦で航空機が使われるようになった。制空権を握った者が勝つ時代となった。その後はどうか。レーダーだった。そして今はどうか。情報だね。そして問題は情報とは何か。どのような情報を基に戦いをしているのか。確かな情報を得ている者が存在しているのかどうか。誤爆は絶えない。天気予報は当たらない。どうも真実の情報は誰も掴んではいないね。真実って何だろう。宇宙自然の法則だね。それは雲竜。どういう意味だろうか。知る人ぞ知る。それでいい。それが宝島だ。要は何が真実であったか。謎はつきないね。秘密は開示される。求める者には。求めずして勝手なことをしても駄目だ。そして戦争は良くない。かつて戦争は軍隊同士だった。軍隊であれば仕方ない。戦わねばならぬ。しかし庶民はちがうだろ。何をしているんだろうね。原爆はどう合理化しても戦争法違反だった。使わざるを得なかったほどであったとしても。原爆を急いだ要因の一つにソビエトの進軍もあった。使わせた日本はやはりすごかったね。玉砕精神。しかし、それも反省克服しないといけないね。人類の願いのために。それから、特効攻撃は日本のお家芸ではなかった。レイテ海戦だったろうか。アメリカ雷撃機部隊が日本連合艦隊を発見した。本来なら応援を頼むところだ。しかし彼等は重い機体でそのまま急降下爆撃をした。特効攻撃だった。何が言いたいか。日本武士の精神もアメリカソルジャーの精神も本質は同じだ。戦士の魂は共通している。武士道はそのまま騎士道である。しかし、現代の戦争に武士道及び騎士道はないね。問題はここにある。庶民を殺戮することはゆるせない。新しい武士道及び騎士道精神だ。戦わねばならないね。武器は何か。ペンは剣より強し。ロゴスとなった言葉がある。仏道修行の成果である金剛杵もある。さて、どうするか。かつて覇権がとれたのは暴力の故ではなかった。常々大義名分があった。それは庶民の生活を確保することにあった。何故か。この世に生まれた意味がある。それは魂の遍歴としていつかは辿り着かねばならぬものがあるからである。それは何か。真実。真実とは何か。神仏との邂逅。誰もがこの道をいつかはたどらなければならない。そういうことになっている。そして何が得られるのか。真実幸福論。皆幸せになりたいと思っている。それが権力かと思った。そのために武力も開発した。金力で支配できるかと思った。しかし駄目だった。それでは何が究極の手段であったのか。法力だった。法力とは何か。神仏に受容祝福されて得る力。すでにそれに気づいている者たちはいた。キリストもソクラテスもそうだった。釈迦も孔子もそうだった。その記録が遺されている。最近ではトルストイもそうであったろう。人類の英知の成果である。それを無視して、世間は何をしているのだろう。問題はここにある。アメリカの祈りがある。それはそのまま世界の祈りでもある筈である。日本はアメリカに何を学ぶべきだろう。日本国憲法は人類の宝だよ。アメリカから押しつけられたのではない。人類の願いの表現だったのだよ。アメリカは十分配慮してくれたではないか。明治憲法の改正としてくれたではないか。押しつけではない。人類は進化している。これから未来へどのように進むのか。人類の英知を尊重して進むしかない。何を何時までも勝手なことをしているのだろう。宇宙自然生命に掟がある。それを見つめてみないか。何時のことだったろうか。朝、二隻の掃海艇だったのだろうか先導されて、一隻の潜水艦が入港した。そしてパオーと鳴った後、一隻の護衛艦が入港した。4003だった。民間の船がその前を横切る。そしてゆっくりと申し訳なさそうに大きなグレーの船体は入港するのだった。私はそこにある悲しさをもって眺めていた。本末転倒を見ていた。国家なくして自由はない。自分勝手が自由ではない。太陽王だったろうか。朕は国家也。名言である。望月の・・・。その頃、民は繁栄した。現代支配階層魑魅魍魎エゴは去らねばならぬ。宇宙自然生命の掟に反した。現在主権在民。その意味を実現しなくてはならない。一部の利益階層の主権ではない。


2006年08月08日

お金は使うべし

大乗とはどう意味であったのか。それは素直従順であるということだった。素直従順とは何であったか。何に対してであったのか。宇宙自然生命黄泉に掟或いは導きがある。常々そのサインが出ている。それに素直であるということだ。それが大乗である。そして大丈夫となる。聖母マリアが処女受胎とはどういう意味か。これはマリアは美しく完璧であるが真実を知らない。すなわち自分がキリストを生んだがキリストの真実を知らない。これが処女受胎の意味だったのではないか。またかぐや姫は月に帰る。これはどういうことか。世間に染まれなかったということである。そして真実のまま真実へとどまった。禅に於いては赤子のようでなければ禅はわからないという。浦島太郎が竜宮城から帰って玉手箱を開けた。すると白い煙が出て白髪となった。これはどういう意味か。真実を知るには経験を要する。白髪となる頃やっとその時が来る。年を重ねればそれだけで偉いか。そのようなことはない。孫の方が後から生まれている。それだけ魂の遍歴は長い。同じ親から生まれても真実を継受するのは一人である。これをもって直系である。真実を知るものが現れたとしてそれは親も知らない。兄弟姉妹はなおさらである。真実はある。それは何か。大乗である。大乗とは何か。素直であることで救われる乗り物である。そしてどのような状態となるのか。大いなる力の作ったサイボーグとなる。大いなる力の計画である。これに身と心を投げ入れる。すると改造される。即ち、救われる。すべての事象が意味を持つようになる。すべての事象が己に対するサインとなる。これが鏡である。世界は己を映す鏡となる。やがてすべてが成就する。そして宇宙自然生命の掟に身を任せて十分であると知る。その意味で運命は決まっている。あらゆる条件を満たした時の運命がある。そして日月照らし、風が吹く。さらにオートマチックに気づく。これに反することで不幸となることに気づく。天の岩戸が開く。何もかもが自分であることに気づく。軒の玉水の音も。そうした救われている自分を発見する。しかし現実は法則通りである。お金儲けをしなければお金はない。お金がなければ世俗的幸せはない。このギャップを如何せん。いくら魂は救われても現実が救われなければ幸せではない。現実を救うのは自分自身である。そのための教えもある。しかし魂の教えは世間にこれまで無かった。あったのだけれど誰も探そうとしない。そして世俗的な教えだけを実践した。しかしそれでは当然不幸であった。本当の幸せは何か。魂も現実もどちらも救われることだ。魂が救われていなければ現実も救われない。現実が救われなければやはり悲しい。そして21世紀幸福論の約束は両者の救いがあることである。これまではどちらかの救いであった。だからどちらも幸福とはいえなかった。本当の幸せが見えてきた。これから何を為すべきかもわかった。自分を救うのは自分である。それでは、何をするべきか。およそ見当がつく。この世に生まれたからには幸せにならなければ意味がない。魂も救い、現実も救う。もうひとがんばりだ。日月照らし、風の吹く。これが魂の救われた状態だ。お金持ちになる。これが現実の救われた状態だ。すなわち、成仏とはこれだった。これが大乗に乗るということだ。そして必ず救われるという約束がある。良かったですね。未来は明るき明るきへ決定されている。仏さんによって決められた。昭和のことだった。21世紀の約束である。雑魚のまま食い物にされて終わりたくはないね。しかしお金持ちの意味についてもう少し考えてみる必要がある。お金は使うべきものだ。貨幣は腐らないという。そして増殖するという。だから使わないで貯めておくのだと。インカの金を基礎として始まった西洋重商主義のパラダイムだ。それでどうなったのだろう。スタグフレーションの次にデフレが来た。これはお金を使わないでいたからだね。そして経済活動そのものが貨幣の蓄積とそれを欺罔的に奪取するシステムとなった。これでは悪循環だろう。本当にデフレから脱却したいなら、このあたりを、根本的に考え直してはどうか。あまりにも自分勝手な経済行為をしていないか。物にはお金を払うがサポート或いはサービスには払おうとしない。すでにサポートサービス社会だよ。これでは経済も腐るに決まっている。お金は使うべきものだよ。貯め込むべきでない。そうしないといつまでも活性化しない。デフレも解消しないよ。このままいくら悪智恵を働かせても駄目だね。商売のメカニズムそのものの反省が必要なようだ。既存の利益しか増殖できないではないか。どうなってるんだ。何時までもそうした身分社会でいいのかね。既得権者のためだけの制度であることの本質に庶民が気づくとどうなるか。革命を見たいのかな。見たくないよね。だったら考えようよ。持っている方々はお金を使うべし。正統な代価を支払うべし。それはできる。何故か。日々の食は与えられている。お金を貯め込むのはユダヤだ。つまり本来の国家を持たない流浪の民だ。仮に国家を持っても根がない。国家を信用していない。卑弥呼の系譜邪馬台国大和日本はちがう。信頼して良い。決して素直で健全な国民を裏切ることはない。悲しい戦争もあった。それはペリー来航に乗じた下級精神による革命支配だったからだ。彼等は古来大和の精神を無視した。そして文明開化と称して古来大和の精神を葬ろうとした。廃仏毀釈だった。江戸無血開城の禅定をも裏切った。廃藩置県だった。大戦の敗戦は当然だった。正統ではないが故に神風は吹かなかった。しかしいつまでもそうはいかない。古来大和に本権がある。歴史がちがう。大安心の源泉である。それが目覚めて自覚した。世界にとっても最後の切り札となる。日本復活である。これを国粋主義というか。日本人だったら誰もが感じる真実がある。忘れていただけだ。思い出すだけで良い。これを民族主義と揶揄するか。何をもってするか。何時の世も敵はいる。しかしこの度は事情がちがう。古来の約束が果たされた。天の岩戸が開いた。日本人であることに自信と誇りをもつべし。そして勇気もわいてくる。この道しか残されてはいない。すでに実験検証済みである。旧約聖書に400年周期説が秘められていた。歴史を思い出すが良い。節目には誰が現れたか。頼朝は伊豆に隠されていた。そして貴族化した平家を滅ぼした。家康は晩年になって天下を取った。どちらも大いなる力の計画であったと言える。しかしミクロには頼朝でなくてもよかった。家康でなくても良かった。古来日本の種は何処に秘密保持されているかわからない。咲いてみなければわからない。頼朝でなくても別の頼朝が現れたことだろう。家康もそうだ。そしてすべてのことは真実を知らしめんことにある。真実に気づくための個々の人生である。それなのに何が経済か。笑わせるでない。さて仏法も進化している。すでに救世者の修業の時代に入っている。宇宙自然生命黄泉としての法は容赦なく進化している。盲目の民は見えない。そして勝手なことをしている。すでに救世者は現れて世界の方向付けをしたのかも知れぬ。大きな仕事をしたものである。それにしてはお金がない。おそらく天徳となっているのであろう。もう一つの時が満ちた時返還されるのだろう。何時のことだろうか。楽しみではある。本権は常に守護される。宇宙自然生命黄泉が守護する。


幸せって何だろう

戦いは終わった。自己との戦いだった。孤独な戦いだった。三十年戦争の終結である。それは真実を求めての旅だった。いくつも試練はあった。乗り越えたようだ。そして大地が広がっている。心の平和の大地である。ここが桃源郷だった。この知を得るために彷徨わねばならない。誰に教えてもらったわけではない。それは冒険だった。何かに導かれていた。そして確かに辿り着いた。その時々のエンライトメントはあった。しかし真実ではなかった。真実とは何であったか。すなわち日月照らし風の吹く。新しい大地は開けた。この世の幸せを求めて人は旅をしている。何かに成功することで人生は開ける。しかし究極の幸せとは何であろう。どんなに成功してもそれは得られない。信じることが出来る世界はあるのだろうか。いつも裏切られたと思う。しかしそれも試練。それを乗り越える。真実はある。信じることの出来る世界はある。皆それを求めて旅をしている。一つの成功が次の旅をもたらす。その時々に実力が試される。そしてその過程で実力は磨かれている。その時魂も磨かれている。様々な花がある。自分の花を咲かせることで世界に合流する。世界はいつも見守っている。強く咲きなさいって。何をしても良いのだよ。自由だよ。それを拒んでいるのは自分だった。この自分を解き放つ。そして飛び立つ。しかし往々にして世間の成功例は世俗的だ。大衆におもねっている。芸能界などあだ花だ。見るに堪えない。自分はどう咲くか。自ら信じる道を進むしかない。お手本など無い。あるとすれば過去からの蓄積された人類の英知だ。世間ではこれを無視している。探そうともしない。宝島は何処にあるのだろう。すべては自己の経験の中にある。それは過去からの魂の遍歴でもある。ここに気づくには時を要する。時の経過を要する。過去をトレースしなければならない。所詮この世の生も通過点にすぎない。一つ間違うと奈落の底に堕ちる。渡らねばならない千尋の谷にかかった一本の丸木橋がある。これを見つける。しかし渡るには勇気を要する。そして何よりも条件がある。それが身心清浄。これなくしては渡れない。何度か試みる。何度も失敗する。しかし諦めないことだ。この世で為すべき究極の冒険がある。内面の冒険である。ここを戦い抜く。身とは殺盗婬。心とは不善を念ずる。最大の敵である。これを倒す。方法はいくらでもある。最後に自分に勝つ。これが宇宙最終大戦争だよ。そして勝利する。克己だね。すると大地が開ける。心の大地。神々の祝福がある。自然がほほえむ。やってみないか。しかし簡単ではない。だれも試みようとしない。それはそれで仕方ない。棲んでいる階梯がちがう。だけどその種をもって生まれた者たちがいる。そうした方々に呼びかけたい。誰もがその可能性を秘めている。それに気づいて欲しい。それを無視しないで欲しい。そうした種が宝だよ。あまりにもそうした種が芽を出せない時代だった。盲目の時代だった。欲得に目がくらんでいた。生きるということがどういうことか。見つめ直す必要があるね。過去からの続きだよ。過去やり残したことがある。それをこの世でしあげていく。代々の約束だ。人々の夢とか願いとか祈りとか。真剣に考えなくてはならないね。いつまでも粗末には出来ない。幸せって何だろうね。作っていくものだね。人間にはそれが出来る。すばらしい能力がある。それを何に使っているのか。世間は地獄を作ってるね。しかし喜びの世界はあるよ。ベートーベンの至りついた世界だ。


新しいムーブメント

要は本質を見抜く力である。芸術もスポーツも宗教もビジネスも、およそ人間行為はそうである。そしてそこに理入と行入がある。理論だけではだめだ。実践だけでもだめだ。その両方に於いて為すべきことがある。何をしても良い自由がある。何をしても良い平等がある。しかしそこで何を為したか。結果はちがう。ちがう結果を同じと思う。それが世間である。フィールドは世界となった。歴史の流れである。日本も世界に合流した。東洋と西洋が合一する。かつて人類の始まりは一つだった。その後大陸が分裂したように人類も分裂した。そして幾世紀か時は流れた。そして再び合一しようとしている。この度の合一はどういう意味を持っているか。東洋と西洋との合一である。西洋は西洋で進化した。東洋は東洋で進化した。西洋は東洋を知らない。東洋は西洋を知らない。あたかも日月である。物質に於いて西洋の優位がある。精神に於いて東洋の優位がある。そのそれぞれが互いに認め合い尊重する。そして和合する。西洋は貨幣の価値を認めた。そしてその上にパラダイムがある。日本の粋は宵越しの金は持たない。しかし反省する頃となった。何をもってパラダイムとするか。西洋の良いところと東洋の良いところとを合一する。アウフヘーベンである。そして新しい価値が生まれた。さて、理論として、手の内はいくらさらしても良い。理論と実践はちがう。理論は知っても実践できる者は少ない。実践はあっても理論を知らない者は多い。情報はインターネットの普及により共有の時代となった。それを実践して成功する時代となった。それで良いのである。これも時代のムーブメントである。そして個としての実力時代となった。世にインターネットが普及した。その本質を知るものがどれだけいるだろうか。幾多の実験の結果である。世界の知性が参加した結果である。およそ見えない世界である。しかし、インターネットは完成した。その実質を知るものは少ない。ところで、インターネットは普及した。それは見えないが、見えない世界即ち黄泉ではない。これは別論である。感じてはいるだろう。しかし未知との遭遇を経験した者がどれだけいるか。その経験者こそ選ばれた存在である。あるいは提督である。アーサー王の円卓の騎士である。世界にどれだけいるだろう。日本にいるだろうか。しかし事実である。要は事柄の本質を知るものたちである。世の政治家及び学者のレベルを遙かに超えている。さらに見えない世界を知るものは少ない。すでに知性によって制空権は得られた。ラジオとインターネットだ。これが今の現実である。どうしようもならない。自得自覚あるのみ。誰もがその可能性を秘めている。しかしそれを知ることは希である。それとは何か。シークレットである。少なくとも芥を払うこと三十年の身心清浄がある。多少の傷はある。それも何事も経験しなければわからないからである。世間一般の想像の及ばない世界である。しかし有る。見えない世界に通じる文字がある。それは仏さんから頂く。それが仏所菩提樹御供養誓願許可である。仏さんの決めたことである。自分勝手にして通じることではない。何事も条件がある。仏さんの決めた条件がある。それを無視するのが世間である。さて世界が一つであるとして、それはどういう意味か。本来の王国の復活である。それは見えない世界でのことである。すなわち宿王華開花だ。それは世界的な出来事である。西洋と東洋の合一の結果、再び、本来の価値が蘇る。精神に於いて一が形成された。これから再び永い歴史が始まる。世界は一つとなった。精神的価値に於いて。それに刃向かうなら刃向かうが良い。淘汰される。宇宙の掟である。そのための最後の切り札も目覚めた。そして選択があった。すなわち、愛と平和だった。戦争と殺戮の選択もあったことを忘れてはならない。ゆるすことでゆるされることを知ったからである。そのためには永い時を要した。少なからず試練を要した。しかし人類の英知に導かれていた。世間は何も知らない。知らずに大きなことを言っている。まるで亡霊であるのに。自覚していないが故に。何をか。日月照らし、風の吹く真実である。これより新しい時代である。万軍の主も見参である。味方に付いている。これを信じることが出来るか。信じる者は幸いである。疑う者はいる。それも仕方ない。釈迦の時代もそうだった。しかし真実は真実である。黄泉が守護する。因って実現する。黄泉も待っていた。何をか。最後の切り札が目覚める時を。そしてそれは果たされた。


2006年08月04日

未来へ

既に何度か気づいていた。それはすでに三十年前もそうだった。しかしとても怖いことであった。しかし今は確信している。それは何か。地上ヘブン=世界論である。すでに世界は一つである。その間、私は何をしてきたか。知る人は知る。それでいい。悟りの歌などどうでもいい。今生きている現実から逃れはしない。これをいかに楽しむか。チョコレート工場が何処にあるのか。誰も知らない。しかし知っているのもは知っている。現実社会である。王国である。それがまた共和制でもある。支離滅裂かな。それでいい。迷いはしない。惑わされはしない。自由は自由が切り開く。扇の的は射抜かれている。誰が何と言ってもである。こうして新しい時代が始まる。過去は過去。振り向けばロトとなる。信じた道を進むしかない。常にそうなのだ。自分が何者であるか。これが最後の難問であった。それも解かれた。導かれていたとしかいえない。何度か間違いもあった。しかし治癒すべき軽微な瑕疵であった。幸いである。しかし常々の選択を間違うとどうなるか。世界が狂う。そうした選択もある。ここに何を選択したか。愛と平和である。これでいいのである。しかし選択の自由の概念も開発されてどのくらい経つだろう。暫く怠惰であったようだ。読むべき本も読んでいない。人類の英知である。人類の選択である。アルビン・トフラーの新刊書を読んでみたくなった。日本の舵が切られるのだろう。すでに切られたのだろうか。合流するべきへ合流する。寄らば大樹は正しい。卑賤な思いによる選択ではない。人類の選択がある。その為のインフラも出来ている。若い間は反体制も良い。いつまでもそれでは単なる野蛮である。洗練された感性がある。その感性で時々の選択が為される。それで良い。常に時代の分析は必要である。それは知性を要する。見えない世界と見える世界がある。その両方をもって実相という。これを知るものは少ない。また、これに影響を与える者はさらに少ない。魔法使いたちとは彼らのことだろうか。ゲド戦記もロード・オブ・ザ・リングもナルニア王国物語もテーマは共通している。それはニーベルングの指輪のテーマでもあった。見えない世界はいつもある。見える世界はどうか。戦争と平和。トルストイは何故自らの芸術性を否定し、イワンの馬鹿を書いたのか。パスカルはメモリアルの後科学者から神秘家となった。パンセは如何に庶民に神の存在を知らしめんとするかの草稿だった。キリストはどうして磔に甘んじたか。ソクラテスはどうして毒杯を仰いだか。真実を知っていたからである。真実とは何か。それは未知との遭遇である。そして何を知るのか。未来は今の思念と行為で決定されることである。そこへ至るまでの青春である。そこから大人の世界である。腐敗は仕方ない。それも彼らの運命である。この腐敗の中でどのようにして自分の花を咲かせるか。二十年後という小説もあった。人生がそのまま旅であり人格形成であり、魂の遍歴である。来世へもっていけるのはこの軌跡である。奇跡も起こる。今こうして生きていることこそ奇跡である。とてつもなく可能性を秘めたチャンスである。このチャンスをどう生かすのか。人生そのものが作品である。一枚のペルシア絨毯である。個々の作品はその時々の一里塚にすぎない。世界は常に見守っている。何処に誰が宝島を発見するのか。そして祝福するべきアスリートの出現を待っている。世界は常にそうである。今も昔も変わりはしない。日本も世界への合流を果たした。明治には文明開化をするも100年は遅れていると言われた。そのギャップを埋めたようだ。すでにフィールドは世界である。それでいい。十分に戦おう。日本もやっと世界に認められた。これを肌で感じる者は少ない。知るものはさらに少ない。卑弥呼の系譜は世界の大富豪の系譜に合流する。そのサインが具体化しつつある。さぁ、行こう。チャンスは平等である。しかしそのチャンスで何を掴むか。それが次のチャンスを決定する。そして究極は何か。21世紀真実幸福論である。すなわち日月照らし、風の吹く。この幸せを掴む者は少ない。チャンスを生かせない者が多い。堕落腐敗が待っている。一つ間違えば奈落の底である。真実はある。行ってみたいと思わないか。地上ヘブンへ。扉は何処にでもある。無門である。自分が信じて飛び込むしかあるまい。すでに多くの成功者はそうして生まれている。私も知っている。しかし私は世に出ない。しばらくは菩薩、彼岸への渡し守である。


不思議について

やっと世界が見えてきたような気がします。人間がどのようにして生きているのか。歴史はどのようにして流れるのか。どうして戦争があるのか。経済活動がどのように展開するのか。成功はどのようにして訪れるのか。どのようにしてスターは生まれるのか。そして生まれたスターの運命はどうなるのか。芥川龍之介も自殺した。円谷選手も。何故だったのか。三島由紀夫はどうして割腹したのか。彼の思いの人は誰だったのか。そして思うのです。諸行無常と。祇園精舎の鐘は今も鳴っています。しかし聞こえませんね。耳を澄ますことを忘れたからです。そよ風が吹いています。風を感じることが出来ますか。そっと善の玄題を唱えます。すると無風のはずが風が吹いて参ります。守護してくれている祖先或いは諸精霊からの応答でしょうか。世間は世間です。染まることはない。自由とは何でしょうね。生きるとは何でしょうね。その応えも見つかったように思われるのです。永い旅路でした。しかしこれで良かったと思います。ヨブ記のお話も本当です。あらゆる試練は真実を知らしめんが為でありました。真実とは何だったのでしょうか。それは神仏との邂逅と祝福です。人類の永遠の夢ですね。しかし古来その道は説かれていたのでした。

そしてあらゆる試練を成就する時、神仏はその姿を現します。それは自得自覚あるのみです。冷暖自知ですね。だからと現実は変わりはしません。しかし真実が現れているのです。不思議とはこれですね。わらしべ長者というのがありますが、古来の成功物語です。そして舌切り雀。嘘を言ってはおしまいです。夢は破れます。どんなことがあっても裏切らないことです。太宰治は走れメロスで友情を説きました。しかし彼の人生は何だったのでしょうか。入水するなら一人ですればいいのです。靖国神社の問題があります。私にとってはどうでもいい。靖国神社は明治政府の創建です。明治は大義名分がなかった。それで錦の旗も創作した。当然です。ペリーの来航に乗じた下級精神の革命だったのですから。何をもって下級というか。日本古来の伝統を知らなかった。即ち正統ではなかった。それで廃仏毀釈もあった。古来大和の精神を知らなかったから出来た。また廃藩置県もした。これは江戸無血開城の禅譲に対する裏切りだった。革命という者は恐ろしい。伝統も禮もない。信長が京都を目指した理由もここにある。彼自身正統大和となりたかった。しかし明治は古来卑弥呼の系譜邪馬台国大和を滅ぼしたかに見えた。その帰結が第二次世界大戦の敗戦だった。神風は吹かなかった。それが正統大和ではない証明だった。かつて大和は神風が吹いた。草薙の剣もあった。しかしその後も日本は西洋重商主義に溺れた。その帰結がバブルの崩壊だった。それでもまだ明治の末裔は気づいていない。しかし救いはある。正統大和の種は遺されていた。法華経雑華経の中で。それが主権在民の隠された意味でもある。今その花が咲こうとしている。これが宿王華開花。さて、靖国神社は明治の創建である。明治の末裔にとってはまさに氏神だ。しかしね、神社は日本全国津々浦々どこにでもある。靖国だけが神社ではない。そして維新に殉じた英霊を祀っている神社だってある。靖国だけどうしてこだわるのか。その理由も明らかとなった。だから、私にとってはどうでもいいのです。それからA級戦犯はA級戦犯です。散華した特攻隊員及び犠牲となった庶民に責任はない。A級戦犯は戦争を意思決定し導いた責任が厳然として当然ある。この当然の意味は重い。法律上当然ではない。それ以上である。戦争は時のリーダーの意思決定で起こる。責任はとらねばなるまい。昔、武士には切腹があった。武士に関してはあらゆる現代解釈が消極的である。無理もない。明治維新以降の現体制であるからね。しかし、それは本来の武士の精神を知らないからだよ。武士たるもの、精神修養を果たしている。さまなくば武士とはいえない。それを知らないから勝手な解釈をしている。切腹も己に自信があったから出来たのだよ。それさえも知らない。これ以上、日本の精神を愚弄させはしない。城塞は我一人としても。さて、自分に対する自信は回復した。何をしても自由である。良い時代である。自分を裏切っていたのは自分であった。申し訳ないことだった。誰が悪いのでもない。自分が自分を信じないのが良くなかった。中学の頃だったろうか。女の体育の先生がとても買いかぶってくれた。スポーツ万能だと思ったらしい。そのように扱ってくれた。しかし目が悪い私はそれまで自信はなかった。今思う。万能である。


2006年08月03日

ロード・オブ・ザ・リング

さて、この映画、ストーリーがおもしろいですね。映像もきれいです。しかしオークでしょうかゾンビめいたメイクについてゆけませんね。日本人の感性として。心の悪の表現でしょうが、あまり見たくない。アクセントと言うには露出度が大きい。見るものの潜在的悪を喚起するに十分ではないでしょうか。つまり教育的ではない。健全な精神に対して悪い作用がありすぎます。吉田健一も言っていました。この世は血塗れではなくてと。やさしさですべてが解決します。かような映画を作って悦に入っている傾向では世界に戦争はなくなりませんね。もっと美しくてすがすがしいものがあります。日本にはあります。生きることが経済活動を伴うとして売れればいいとする精神には限界があります。それを喜ぶ大衆傾向を利用するだけで利益追求が図られる。どうかなって思います。限られた時間の中で出来ることはそう多くありません。この世のすべての本を読むことは出来ませんね。すべての映画も見ることは出来ません。やがて帰らねばならない私たちです。未来はこの世の生き方で決まります。生きている間に何を為すべきか。もっと問われて良いのではないでしょうか。見つけるべきものがあるのではないですか。かつて禅僧は何故山にこもったか。そして何を見つけていたか。日本には本来の価値があります。それが見失われていることは否めない。経済活動を優先するが故にそれが見えなくなっている。探すことも忘れている。経済的豊かさの中で精神がすさんでいる。子供たちは無意識に何を求めているのでしょうか。いろいろな傾向があるのは仕方ない。世の成功例があまりに経済に偏りすぎた。日本には野口英世もいれば、二宮尊徳もいる。こうした清貧でありながら何かを掴んだ努力傾向が見向きもされない。日本も世の末でしょうか。そうではない。本来の価値は生きている。高山植物のように。くらしがどのようにあるべきか。もっと考えて良いですね。未来を作るのは今生きている私たちです。どのような花を咲かせ、どのような結実をし、どのような種を未来に蒔くのか。万物の霊長人間に託されているのですね。人間である限り、弱さがある。それはこの映画も言っている誘惑に負けること。この試練に耐えて真実との邂逅もある。すばらしい世界が開ける。そして弱さを克服するたびに幸せが何であるかを知ることになる。幸せに生きて良いのです。ここまで人類は辿り着いたのです。幾多の試練もありました。かぎりなくやさしく、かぎりなくうつくしく。人類の夢です。夢は何時か実現します。ダビンチの夢もかないました。日々試練はあります。それも何か大切なことを知らしめんが為です。この試練に耐えて強くなれる。暴力的な強さではない。それはすでに克服されている。しかし暴力と詐欺が横行している。生きることはどういうことか。水清ければ魚棲まずとは言われる。確かにそうですね。食べなくては生きてゆけない。しかし食べることも感謝があれば食べられたものも成仏する。供養しておけばいいんやと仏さんは言われた。その供養の仕方も教えてくださっている。供養すれば良いのです。そして日々を楽しめばいい。楽しむことってどういうことか考える必要がありますね。憂いのないことはどのようにして得られるのか。しかし世間は食べたものを供養しようなんて発想がそもそもない。幸せの条件を欠いている。知らず識らずに恨みをかっている。食べられたものに犠牲となった恨みがないわけではない。痛めつけられた岩石だってそうです。だって、岩石だって、元素レベルでは生きている。万物同根。すべて生きている。それらから恨まれて幸せはない。それらが供養されて喜ぶことで始めて私たちも幸せの環境に生きることになる。悪とは犠牲のあること。善とは一切犠牲のないこと。と仏さんは言われた。そして一切大衆を救うと仰った。そう決めたんやと。


2006年08月02日

大安心はどこから来るのか

迷いは去った。迷いが去った時、自覚が来た。何が自覚だったのだろう。全肯定の自分自身だった。自己の感性がそままで良いことを知った。これまでは疑っていた。疑っていたのは自分自身だった。善も悪もありはしない。自分の心が勝手にそう思っているだけだった。あるのは因としての心と結果としての現実だった。心のままに現実は実現するのだった。迷う心があれば現実も確固としない。明確な意思があれば、現実はそのように構築される。こうした夢としての感性とそれを実現する知性がある。それは誰もがあるものと思っていた。ちがっていた。一部のものたちだけの感性と知性だった。これを自覚するまでは何もすることは出来なかった。これを探して永い青春だった。自覚することで始めて機能する力がある。ここに、この感性と知性をもって新たな共通因数が見いだされた。新たな価値基準といっても良い。過去数千年来、人類が探し求めてきたものだった。それは、クラシック音楽及び文学、あるいは物語として結晶していた。個々の魂の育んだ宝石としての作品だった。そして、詩は詩人をもって呈すべし。剣は剣客をもって呈すべし。あるいは、人を見て法は説け。無価値なものたちにいくら云ってもわかりはしない。勝手なことを言わすだけである。貶め始めるだけである。それが人間だ。自分にわからなければ必ず無視あるいは愚弄冒涜する。さて存在としての新しい指標が見いだされた。そして自由が解き放たれた。自由の解放である。自由は自由が切り開く。真実の自由が開かれた。それが、21世紀の約束だった。新しい物語が始まろうとしている。数千年来の人類の夢の探索の時代は終わった。究極のアイテムは見いだされた。だれが見いだしたのか。だれもが欲しいと願っていたものだった。それは神仏との邂逅とその祝福だった。この間、修行を要した。概念と思念だけでは手に入りはしない。物語としての夢ではない。事実として、あるいは、経験として得たものだ。疑いの時代は去った 確信の時代がはじまる。自覚の時代といって良い。何を確信しているのか。このままでよい自分自身をである。それが何であるのか。そして、その力を得てこれからどうなるのか。だれもわからない。それでいいのである。未来は今によって決まる。人々の個々の思念と行為で決まる。滅びたいのか。それとも繁栄したいのか。今、時代のベクトルはどちらを向いているか。正そうとは思わないか。幸せになりたいと思わないか。どのようにすればいいのだろう。おのおの身と心のあり方が問われている。精神の自由がある。精神に於いて何を思い描いても良い。精神に触れ得ないものはない。しかしこの自由の運転がなかなか難しい。自覚を得ることを要するからである。何を自覚するのか。真実をだ。何が真実が。修行しなければわからない。問題意識を持っていれば、日常にヒントは転がっている。そのチャンスを逃さないことだ。世に重要なことは何か。自分勝手に解釈した皮相価値の奴隷となっていないか。禅者は言う。二十四時にこき使われていると。二十四時を使い倒せ。主体的に生きることである。己に自信があって始めて出来る。どのようにしてその自信を自分のものとするのか。自己との戦いに勝利してである。その戦いとは何か。世間の無視愚弄し来たる本来の価値がある。すなわち心である。21世紀は『心の時代』といわれて久しい。しかし世間はこの言葉も忘れたように見える。誰もが迷っている。不安を抱いている。そうでないものがいるか。大安心は、どこからくるのか。生きるということはどういうことだったのか。人類の究極の夢は何であったのか。それは神仏との邂逅を果たし、神仏に認められ、祝福され、思いが現実に常にあるいは永遠に実現する力を得ることではなかったか。それはある。あることを経験として確かに知っただけで十分である。その力は今行使するべきではない。その力を垣間見るのはその力が存在することを知らしめんが為である。皆がその力を獲得する時がいつか来る。必ず来る。だれもがこの力があることを知った時、生命体の真実の幸福の時代となる。それは必ず来る。宇宙のシナリオである。まだ一部の者たちが勝手し放題の世の中である。しかし未来は近い。すでに地球も50数億年経過した。ところで日本は卑弥呼の系譜邪馬台国大和。それを裏切ったのはペリー来航に乗じて支配している本末転倒の方々。第二次世界大戦の敗戦とバブルの崩壊はその帰結。まだ気づかないまま恐竜化してしまった。ネズミの如く個として荒野にひっそりとかくれていた宿王華。それが大和の心。さて、「アルハは、自分が唯一絶対の選ばれし者であることを知り、運命を受け入れる」(別冊宝島『僕たちの好きなゲド戦記』p75)。これが卑弥呼の系譜邪馬台国大和宿王華。だれもがこの種をDNAに持っている。それが日本人だよ。さて自分を解放するのは自分自身である。自分のことは自分でなければわかりはしない。あらゆる心理学も虚妄である。この迷宮から逃れた時自由となる。翼を得たに等しい。自由な大空を滑空することになる。あらゆる無価値に気づく。そして宝石としての価値が見えてくる。それだけを手にして大空を飛べ。誰も自分のことはわかりはしない。わかってもらおうなどと思う必要はない。自分を知るのは自分のみ。その自分を解き放て。その時、自信がある。自信があって始めて何事も怖れない勇気がある。そして信じる自分との人生が始まる。黄泉が守護する。祖先が導く。真実である。若者たちに告げる。怠惰な大人の言うことなど相手にするな。信じた自分を生きよ。さて、自覚は果たした。その証明もした。もはやこれ以上言うべきこともない。これからどうしよう。平凡に、これまでどおり、生きてゆくことにしよう。能力はある。あるいはあった。しかし開花させることはなかった。戒められてもいたのだろう。二度と失敗できないからだったのだろうか。しかし自分を見つけるのに時間がかかった。かかりすぎたのかも知れない。しかし間に合ったようだ。間に合った。


精神の横綱

さて、言うべきことはすべて言わせてもらったようです。これで心は晴れました。何とも仕方ない重荷を背負っていたものです。何時の頃からか、明治を亡きものにする、と言っていたこともありました。それも果たしたのかも知れません。このようなことを考えていたなんて、今思うと馬鹿馬鹿しいですね。みんなそのようなこととは無関係にそれぞれに幸せに生きているというのに。このようなことを思っていては日常生活なんて出来るわけがありません。しかしこのようなこともあるのです。しかしこれもあったからこそ、失われた何か大切なことも見つかりました。もう大丈夫。完璧な自信を取り戻したようです。生きていて良かったですね。そして、何も考える必要はないのです。無駄なことはね。その時々の問題解決に専念すればいいのです。その意味で目的的行為論です。目的のないことは無価値といえます。結果無価値と行為無価値の対立が刑法理論にはありますが、道義的責任を問うためには後者が必要です。刑法を発動するのは前者だけで良いですね。時代は推移して目的的無価値ということがある。これは結果無価値と行為無価値を含みさらに個々の行為の向けられた目的を要素とする。新しい刑法理論ですが、その内容が定義できなくて、実務では採用されていませんね。しかし、目的的行為論は正しい理論であるように思われます。犯罪行為を考える時、目的の無価値を評価して良いのではないでしょうか。正しい目的がないものは無価値として。社会防衛の観点からも、戦う民主主義としての観点からも、目的は考慮して良い。そして生きる目的は何か。ただ遊んで楽しんでという方もいます。しかしその前に為すべきことがあるのでした。さて、笑顔がこぼれて参ります。根本解決が出来たからでしょうか。もはや思い煩うことはありません。宝石も結晶を成就することで宝石となります。結晶したからにはゴールです。後戻りはありません。横綱です。精神に於いて横綱とは何でしょう。道元の言う薪から灰となれば、後戻りはありません。人として生まれて何となるのか。何と結晶するのか。かつての自分が思い描いた通りの人生となるものです。楽しいですね。笑みがこぼれてただ存在しているだけで良い。これがベートーベンの至った歓喜の歌であり、般若心経のギャーティでしょうか。そして、それからはその時々の個々の課題をゆっくりと、しかし、確実に仕上げながらの人生です。もはや言うべきことも思うこともありません。これより楽しくこの人生を謳歌することにいたします。真実の伴侶或いは恋人も現れることでしょう。失われた人生を取り戻すつもりです。若さとは年齢ではありませんね。夢のあることが若いということですね。カール・ベームも言いました。私の音楽に若さが無くなったら言ってくれ、いつでも指揮壇を降りると。八十歳でのことでした。若さとは情熱を失わないことですね。情熱は自分に自信があることで、何歳になっても保ち続けることが出来ます。ただ年齢が若いだけでの若さに負けるわけにはゆきません。ピカソも五十歳にして青春を知ったといわれています。人生に定年なんてありません。生きている限り現役です。生きている限り若くありたいものです。しかし人生に於いて過ぎ越し生き方が問われるのも事実です。何時までも精神に於いて若さを保つ。それしかないですね。そうして、人生は限りなく夢がある。楽しい。


2006年08月01日

やさしさの周波数の獲得

仏さんのところでお経さんをあげてきました。帰りには空腹なので、24h自動販売機でホットドック。車中で食べました。そして眠くなったので途中で仮眠。そして帰ってきました。朝日を拝することもできました。いくつか念願もさせてもらいました。念願は妙法華経の音声に乗って見えない世界に届くといわれています。届くまでに二日かかるとか。思いが通ることが最高の幸せといわれています。どうして思いが通るのでしょうか。おそらく祖先がかわいい子孫のために奔走してくれているのでしょうね。見えない世界は見える世界と同じだといいます。見えない世界での御順序があって始めて見える世界でのことが決まると。さて心の優しさの獲得の旅の始まりです。持って生まれた激しさをどのように鎮魂するか。道元のいう薪が灰となるとはこの意味もあったのでしょうか。禅では草木悉皆成仏といいます。おそらく一人の人間が悟りを開いたとします。それは宇宙自然生命黄泉祖先との邂逅とその祝福に浴することで大歓喜を得ることにあるのでしょう。それは宇宙自然生命黄泉祖先の周波数と同調できたからでありましょう。そして自らもその世界に入る。大死であります。そして現実に戻ってくる。するとその周波数を発することで自分もその世界の住人になれたことに気づく。それですべてが足りていることを知る。大安心です。不安などありません。善の意思は通り実現していくのです。少なくとも自分の周波数の及ぶ範囲に於いては。しかし世界は悪の周波数で満ちている。善の周波数と悪の周波数の戦いとなります。しかしまだまだ悪の周波数の支配が強い。まるで恐竜と小さなほ乳類との戦いです。それで足下を見て一隅を照らすことに徹することになる。時代が何時か追いついてくれることを願いながら。これが代々の祖師の気持ちではなかったでしょうか。そしてそれを知るには方法がある。それが祖先の供養だったのです。供養とは相手が喜ぶことをすること。祖先は何を喜ぶのでしょうか。自分たちの存在を認めてくれることです。そして親には三つあるといわれています。小の親は産みの親。中の親が育ての親。つまり食べたもの。諸精霊。大の親が仏さん。正しい教えを説いてくださる。この三つの親を供養することで開眼するのです。ある日突然気づくのです。そして代々の教えが正しかったことを知るのです。知って始めて悟るのです。それから新しい日々が始まるのです。自分には厳しく。それが上求菩提。人には優しく。それが下化衆生。皆通っていく道です。周囲の人の苦しみはかつての自分の苦しみです。だから人にやさしくできるのです。人の悲しみは自分の悲しみだったのです。こうしてやさしさを知るのです。何もかもゆるせる時が来ます。ゆるした時、自分もゆるされているのです。それはこのように達観できた時です。すべて自分と同根です。岩石の姿も過去の自分の姿です。それらを通って人間にまで辿り着きました。これで終わりではありません。人間としての課題があるのです。それを果たすと次のステージが訪れますね。ひとつひとつ課題を仕上げることで次の課題が来るのです。学校における進級とおなじですね。しかし何時の頃からかこうした階梯を踏むことを忘れてしまった。それが世間の横行ですね。そして大人だと思っている。腐敗堕落を以て。来世ではまた低いレベルから出直しとも知らないで。来世はあるのです。どこから始めますか。岩石からですか。これは地獄です。植物からですか。これは餓鬼です。畜生ですか。阿修羅ですか。阿修羅が戦争です。戦争となれば地獄も餓鬼も畜生も出てくるといわれています。ところで、地獄の岩石の成仏もあるといわれています。それが宝石ですね。皆から大切にしてもらえる。どの階梯でも成仏はある。人間に於いても成仏はある。平等即差別とはこのことです。この人間に生まれてどう生きるのか問われているのです。しかし無理をすることはありません。自然に草木が育つように課題を仕上げていけばいい。やがてやさしさを知ることでしょう。それですべてが解決するのです。自然も喜んでくれるのです。今、何かがおかしい。天災、人災、地災とある。最もおかしいのは何でしょうね。人災。人の心がどこかで道を間違えたのです。間違えたのなら引き返せばいい。そして歩み直せばいい。しかし間違いを間違いと気づかないとそれもできません。世間はそれに気づけない段階に陥っているのではないですか。さて、やさしさの周波数を取り戻す。取り戻したならそれを発するだけで良い。道路もアスファルトも喜んでくれるように生活すればいい。それが虫も殺さないとする不傷害の生き方です。殺さないのは虫だけではないですね。それを虫たちもいろいろと進化したのはその方が便利だったからだと皮相的な科学で片づけて良いものかどうか。何故進化したのでしょうね。きっとご褒美だったのですね。個々の進化は個々の課題を仕上げて次の課題へ進むパスポートだったのでしょうね。さて、道路もアスファルトも空気も殺さぬようにやさしく存在する。すると周囲におだやかさの中での幸せが寄ってくるようになる。これが一隅を照らすということだったのではないですか。草木悉皆成仏ということですね。そして神仏との邂逅と祝福を得るためには祖先を救い出さねばならない。救われた祖先が子孫を守護する。黄泉の定めです。 人として生まれてきた意味は何でしょう。そして何を為すべきなのでしょう。それを成して自由です。そして何をしても宜しい。懺悔成就です。生まれた使命達成です。そして一人悟りを開けば六親眷属が成仏するといわれています。覚兵衛、嘉兵衛、千畝、良亮、昭亮、ご照覧あるか。(2006/08/01 11:03am NHK-FM 『紀州道成寺』を聞きながら・・・藤原道長の寺)真実は世のあらゆる解釈の及ぶところではない。もののあはれあるのみ。挙す。天上天下唯我独尊。この意味を解釈するものあるか。由緒、縁起、縁。ペリー来航以来忘れ来たるものあり。江戸無血開城、譲りたるものの思いを裏切りしものたちの天下は終わる。


おだやかさへ

今、裏の海岸へ出てみました。いつものコンビニでコーヒーを買って、いつもの席に坐って海を見ていました。しばらくすると遠くの製鉄所の煙突からガスバーナーのような大きな炎が二度上がるのでした。ふと何か反射したのでしょうか、一瞬、飛行物体が輝きました。鳥だったのでしょうか。そういえば、少し前に、アオサギが一声鳴いたようでした。しかしそれは電飾光のような輝きで動きは直線的でした。距離はそう遠くありませんでした。結局何であったのか謎です。

天空には星の瞬くのを見ました。二三、港に、船が出入りしました。少し沖を一隻の船が横切っていきました。午前二時頃のことでした。暫く修行をしていません。今ある程度のエンライトメントがあるとしたなら、ここ数年の修行の結果でしょうか。その間、様々な体験をさせてもらいました。おそらくかなりの修行をさせてもらいました。仏さんの言うことは本当だと思うに至るに十分でした。今から出かけて仏さんのところでお経さんを上げてこようと思っています。そして再び写経もしようと。一つの幸せを思って念願したいこともあります。感謝したいところもあります。お礼を申し上げたくも思うのです。そして少なからず気づきがあったのではありましたが、まだまだと思うのは、まだ頭脳に力が入っている。これを取り除いて、本当に楽になれるように思われて参りました。懺悔としての精錬は終わったのかも知れません。精神は美しく穏やかに結晶できるでしょうか。それがこれからの成仏の姿のように思われてきました。おだやかで良いのだと。すべては解決したのだと。そのように思われるのです。さて、文は人です。あるいは音楽です。仏さんは教えを説かれた。それが文字となって遺されました。説は音声です。音声こそ大切です。周波数そのものです。言わねばわからないところがありますね。やさしさへの旅路が始まろうとしています。何もかも失ったようでした。まるでヨブ記でした。しかしそれも導かれてのことだったようです。仏の方へ投げ入れることの実践だったのでした。そして何が無益で何が真実であるのか見えてくるのでした。結局、世間虚仮、唯仏是真。諸悪莫作、衆善奉行。悪因悪果、善因善果。因と縁と果。教、行、証。理入と行入。信を持って入ることを得たり。この信が難しいですね。どこかで自分解釈してしまう。自己が清浄となって結晶することができるかどうか。行のしどころです。そして行とはこの現実下でのこと。山にこもるのではない。出家するのでもない。五欲を断ぜずにありのままの自分に自信が持てるかどうか。さてしばらく私の文章も殺伐としておりました。精神が何かにささくれだっていたようです。真実を垣間見たからには、そしてその力を自分に感じたからには、この道を進むことが、

正しいことの証明ですね。幸せになって良いんだと思うようになりました。これからの進んでいく方向が見えてきたようです。すなわち、おだやかさへ。何かを恨んでいた自分がありました。もはやそれも感謝です。何もかもがここへ至るための条件であり、試練でありました。そしてそうした条件と試練を確かに果たしたのです。それは間違いないことだと思うのです。日々、その証明も頂いているのです。そして、今思うことは、日々の思念と行為が未来を決めるとして、例えば思うところの幸せを実現したいと。すでに取り付けた黄泉からの守護に恥じないように。そして存在そのものが存在するだけで、何も言わずともやさしい周波数を発することで、すべてがおだやかさへ同調して、真実のやさしさが実現し、世界がそれに同調して、愛と平和を手段としたくらしが確立できたらいいな、と思うのです。自分がおだやかであることで世界がおだやかさへ収斂するとすると、こんなにすばらしいことってないですね。


縁について

仏さんは仏縁を言う。仏さんと縁があることで善が始まるとする。善は仏さんのところにしかないとする。すべてを仏さんに預けよとする。これを受容できるかどうか。信をもって入ることができるとする。信じるとは仏さんを信じることである。これができない。だから修行も中途半端となる。何事も徹底しなければ成就しない。いい加減にごまかせる世界ではない。詐欺と暴力は人為である。これはこれで実現する。しかしおよそ掟に反する。それなりのサンクションがある。情報理論はすべての事象が0,1で記述できるということだった。絵画も音楽もである。それはすでにコンピュータによって実現された。コンピュータは道具にすぎない。万能の機械ではない。プログラムに規定される。情報理論がコンピュータではない。コンピュータが情報理論の実現に最も適した道具であったにすぎない。ここを錯覚するからコンピュータへの期待過度となる。特に初心の方にこうした誤謬が多い。コンピュータを操作するには勉強も必要だ。さて、縁である。株式投資も要素としての縁がある。岡部氏の理論は投資家を考慮しない。それは彼の理論では重要な要素ではない。あくまでも投機的であるが故である。その他の理論も投資家を問題にしていない。しかし会社の業績は何に最も起因するか。経営者の資質であろう。同じ環境で経営者による力量は否定できない。企業の命運は経営者の手腕とスタッフの手腕にかかっている。それぞれがそれぞれの部署で最善を為せばその企業は必ず成功するだろう。企業は人なりといわれる所以である。また企業は組織なりといわれる所以である。今企業構造はフラットになった。経費節減のためである。コンピュータの出現で可能となった。合理化が進んだ。例えば一台のパソコンでワンフロア分の事務処理能力がある。それで企業は合理化する。有能な人材だけ残していく。その他の業務は外注となる。人件費及び労務管理が最もかさばるからである。派遣社員はそうして生まれた。外国人労働者もそうである。事実上経済的身分差別である。しかし往々にして企業の選択眼は正しくないこともある。本当に有能な人間がむしろ外野にいることもある。企業の目の付け所は潜在的能力を評価できない。多くの才能が埋もれている。また派遣社員の身分では仕事自体が意欲を喚起しない。いつまでも派遣社員の身分に甘んじるべきではない。もっと創造的でおもしろい仕事はいくらでもある。なければ自分で創り出すだけの気概も欲しい。需要を喚起するだけのね。そして企業は組織が重い。企業に属している限り己の能力は十全に発揮できない。無意味な人間関係を考慮しなければならなかったりする。非生産的である。個人で企業と戦える時代となった。そしてその為のインフラも整備されている。若者たちは虐げられて久しい。今頃になって若い就労者を募っている。有能な若者がそう多くいるわけではない。学校の成績が社会に出ると役に立たないという。自分を基準にするとそうなるね。一番をとったことがないものに一番の気持ちがわかるものか。その気になればいつでもとれる。勝手なことをいうでない。ただ、価値基準がちがう。世の興味とするところに興味がないだけだ。例えば、ソクラテス、釈迦、キリスト、孔子のいいたかったことは何かと考えたことがあるか。それでも無価値というか。さて、縁である。おもしろい話がある。あるJR支線で客離れが顕著となった。三年前からのことである。ある存在が車に乗り始めた頃からのことである。株式投資も縁である。会社を育てるに等しい。ある存在がある会社に投資したとする。その人の縁が神秘的だったとしたらどういうことになるか。植物は太陽の光で育つ。会社だってそうしたことがある。そうした存在と縁があれば伸びる。そうした存在に見限られれば枯れる。このようなことがあるとおもしろいね。しかし振り返ってみるとあるかも知れぬ。会社レベルだけではない。国家レベルでもあるかも知れぬ。歴史レベルでもあるかも知れぬ。誰に好かれるのか。誰に見限られるのか。重要な縁である。祖先に好かれるのか。神仏に好かれるのか。あるいは嫌われるのか。よくよく考えて良いことかも知れぬ。国鉄が民営化された。NTTも。郵便局も。どこかで縁が切れたのかも知れぬ。そして国家との究極の縁があるとする。それは何だろうね。主権在民だ。世のリーダーたちではない。ところで、仏さんも修行して仏となった。そうして間違いのない方法論を残した。そしてそれも筏にすぎないとする。渡りきるためのね。それなのにいつまでもしがみついている。しかし世の僧侶たちは何だ。ビジネスマン以上にビジネスしてるね。これも本末転倒か。仏さんの意思とはおよそかけ離れた裕福さがあるね。制度を利用することしか考えていない。本来の目的は何だろうね。そして古鏡ということがある。大鏡も増鏡もある。古墳からは鏡が出土する。大円鏡智という言葉もある。鏡って何だろう。時代が鏡だ。何の鏡だろう。何が映っているのだろう。映った像は本末転倒だ。左右逆転だ。おもしろいね。魔法使いサリーの鏡もあったね。ま、いいか。私のタイムラグは埋まったようだ。空白の三十年が埋まった。あるいはタイムマシンで逆戻りだ。失ったものはすべて返してくれる風の声に聞いたことがある。ユーミンだったかな。その証明だろうか。美しい人にめぐり逢ったよ。かつての轍は踏まない。失敗はしない。失われていた自己を取り戻したようだ。過去がつながった。未来へ。永き冬でしたねとその頃の思い出が言ってくれた。