2006年04月29日

明るい時代の始まり

心の大地は開かれた。それはかつて大航海時代に地球はまるいと信じたに等しい。ソクラテス、キリスト、仏陀、孔子は何が言いたかったのか。それを求めての旅だった。何度かあきらめかけたこともあった。しかしその都度導かれていた。やがて運命のごとくついにはたどり着かなければならなかったのだった。誰もが知っていることだと思っていた。違っていた。感じてはいるがわかってはいなかった。一つの旅が終わった。新しい時代の一里塚となった。世界はすでに気づいている。日本も気づいている。世界は動いている。日本も動き始めた。新しい時代である。気づいていないのは世間一般である。仕方ない。これをもってあはれである。昔より縁なきことを恨みよと道元も云っている。一つの旅を終えると次の旅が始まる。エーゲ海の青さも見えてくる。ギリシアの哲人たちは何を夢に描いていたのか。エロスであった。それは理趣経である。世の低いレベルのそれではない。そのまま胎蔵界である。すなわち宇宙に受容された状態である。力は金剛界である。それが仏法は必ず勝つとするところである。ここに宇宙の秘密がある。自然は神、神の守護する境涯がある。数千年来の秘密である。それが法華経世界である。真実開花。沈みかけていた太陽が昇った。明るい時代の始まりである。風はどこから吹いてくるか。よく見るがいい。ビートルズもインスピレーションを音楽にしたに過ぎない。夢迷いごとである。時は流れた。エクスパイア!宇宙自然が守護している。天下無敵である。呼吸を意識して感じているか。涼しい頭脳が満ちてくる。日本の本来の黎明の時を迎えた。日本の実力が発揮される時を迎えた。古来本来日本復活である。元帥総司令官も見えない世界で着任している。万軍の主=自然も味方につけた。腐った世に未練はない。自由は自由が切り開く。地上ヘブンは開かれている。疑うものは疑えばいい。逆らうものは逆らうがいい。風よ吹きたければ吹け。雨よ降りたければ降れ。優しい風雨となるか。おのおのの問題である。常寂光。感性はこころが制御する。知識は役に立ちはしない。知識を心で感じる。認識となる。役に立つ。これが学問である。世間衆愚学校教育のあずかり知らぬところである。何を教えていくのか。情操。日本の世界に冠とするところである。さて鶴は恩返しをする。人間はしない。自分の欲得だけである。すべて奪おうとする。しかし六祖の鉄鉢、奪えはしない。小生の大和魂:祖父のけんついを経ている。しょうしょうのけんついではない。代々のけんついである。勝負するなら勝負する。すでに準備は整っている。魑魅魍魎及び悪魔諸氏の横暴もはや勘弁なし。


天は自ら助くるものを助く

さあ、もうマイナスなことを言うのはやめましょう。悪舌は功徳の種を断ずると法華経にあるのですから。楽しいことばかりの人生もあります。歓喜奉行。到彼岸。至り得て帰り来たれば別事なし。何も変わってはいません。しかし自分が自覚自得することで自分を取り巻く世界は確かに変わっているのです。何事も憂えることはないのです。大乗で大丈夫となるのです。本当でした。しかし冷暖自治。自得獲得するしかないのです。説明不能です。説明しなくていいのです。やがて周囲も気づくのです。周囲も掬われますからね。自らを掬う。門はたたかねば開けてもらえません。たたけば開けてもらえます。善哉善哉。ギャーティギャーティ。喜びの歌です。このような世界があったなんて。幸せ。真実証明21世紀幸福論。天は自ら助くるものを助く。生まれてきてよかったと言えることが幸せであるということですね。それぞれの花を咲かせることが幸せですね。どのような花でもいい。自己実現の花です。大きな木となるには大きな根が必要です。大器晩成。時は待つべきものかな。あらゆる事象が真実開花に向けて準備されていました。ビジネスは食を得るための手段。ビジネスが目的となっては寂しすぎますね。目的は暮らしでなければならない。幸せな暮らしが実現できるかどうか。持って生まれた種が開花するかどうか。そのための教育及び福祉制度。殺伐とした現代社会において本来の目的を見つけることは難しい。花と咲けば世間も気づきます。花と咲くまで時間がかかることもあります。しかし咲けばいい。その意味で生まれながらに平等です。しかし平等即差別。それぞれの花はちがう。このちがうことが看過されていたのです。日面仏。月面仏。命の長い仏。命の短い仏。それぞれ仏。自由と平等は対立概念です。規制緩和はアメリカ主導の自由主義。しかしそれでフィールドは世界に開かれたのですが、いわゆる勝ち組と負け組を作ってしまった。これより高きものは低くし低きものは高くするべきでしょうか。真実アウフヘーベン平等開始でしょうか。本来の幸せは自分だけが幸せであることでは実現しない。周りが幸せであるとき初めてその中にいる自分も必ず幸せであるのですから。喜び世界はあります。はやく皆がここへ至るべきです。何か一つでいいから自信を持つことです。そのための学校教育です。社会に出れば自由です。そのための制度は確立されています。学校では社会に出て生きる力を育成する。生まれてきてよかったと言える人生を歩めるように。それは正直善良であることで人に好かれることです。個々の人間の心のあり方が現実に反射していくのですから。悪をなして喜びはありません。地獄に堕ちるのです。地獄に堕ちるとはこころの故です。心身清浄の価値を見直すべきですね。日本古来の美徳です。嘘と暴力がはびこりすぎた。その淵源はテレビと漫画及び週刊誌の衆愚野蛮です。経済至上主義ではますます殺伐となります。その意味ではNHKは民放化するべきではないでしょうね。本来の価値及び情緒(じょうしょ)を持続するための準公共機関性は維持するべきでしょうね。また国立大学も維持するべきでした。本来の価値及び情緒のために。財政のしわよせをここに持ってくるのは間違いではなかったでしょうか。所詮日本古来本来価値及び情緒のわからない方々の結実でしょうか。いずれにしても時代は流れて主権は在民。その深い本当の意義は誰も知らないのだけれどね。その理由ももはや言う必要もないけれど。知るべきものが知ったのだからそれでいいのです。天はすでに受容です。しかし真実証明は果たされました。数千年来の出来事です。知っても知らなくても。よい時代が開けました。ある存在の生まれてきた使命が果たされました。蓮華の前に化生です。あらゆる腐敗もそのために必要でした。善財童子も月の砂漠より帰還するにはこの時を待たねばならなかったのでした。羅刹も。歴史流れて日月そろいました。明るくなりました。法華経真実宿王華徳大菩薩。黄泉より帰還したソクラテス及びキリストは同じ轍は踏みません。見えない世界で彼らは復活しています。いつまでも本来の価値は黙っていません。はびこりし衆愚の終わりです。そして新しい時代が始まるのです。これが歴代の秘密約束でした。21世紀心の大地は開かれました。優しさですべてが解決する時代です。善かったですね。すでに始まっています。


2006年04月28日

21世紀人間文章文学論

何もかも大地のように受け止めることだね。運命をも。ゆるすとかゆるさないではない。所詮人間の営みだものね。縁というものがある。誰と結ばれているか。繁栄するもしないもその縁が作用している。存在は日々の思念と行為とによって進化する。それぞれの属性が花開く。そして結実する。それぞれどの花と縁があるか。重要な問題である。気づかないままその縁を粗末にしている。そしてどうなるか。誰もそのメカニズムを知らない。しかし有る。善の縁、悪の縁。仏法は原因と縁とをのみ問題とする。善悪は人間の計らいである。本来善も悪もない。どの花が咲くか、それだけである。しかし花は哀惜に散り草は棄嫌に生うる。昔より縁なきを恨みよと道元は云う。さて縁によってその属性が決まる。原因とは種。持って生まれたものである。ここにホームページにおけるリンクの秘密もある。どのホームページとリンクしているか。すなわち縁があるか。繁栄する縁があるか。滅亡する縁があるか。おのおのよく考えなければならない。そして存在はその現存中の修行によってその属性が進化する。進化した属性の縁を繁茂させるといいね。ところで直観ということがよく言われる。確かに知性も手段に過ぎない。感性こそ生きる技術だよ。つまりフィーリング。磨くべきところだね。すなわちデザイン感覚だ。人生も然りだね。美しいものは美しい。何もかも大地のように受け止めることだ。その時貧乏神が金持ち神になったという例が事実としてある。つまり神仏の意思に合致する。守護される。繁栄する。これが成仏の姿である。ところで芥川龍之介に『蜘蛛の糸』がある。天上界より地獄界へ蜘蛛の糸が垂れている。カンダタはその糸を見つけた。そしてその糸を上った。しかし自分だけ助かろうとしたときその糸は切れた。これは正しい。しかしこの糸は本来切れはしない。自分を信じることができればね。天上界はある。すらすらといく世界である。上流社会である。河を渡って彼岸へ行く。上流を渡れば簡単である。何の障害もない。河幅が広い下流あるいは激流を渡るのは難しい。その難しいところを渡ろうとしている。渡れはしない。渡れはしない現実を人生だと思っている。悲しいね。上流とは何か。優しい人間世界だ。はやくそこへ至る。その地図はどこにあるか。内面の道である。内面において悪性を焼き払い嘘のない晴れやかな自己を確立する。蜘蛛の糸、切れはしない。真実へ向けて飛び込むがいい。必ず掬ってもらえる。悪の泥沼から早く抜け出したいね。それがユダヤ人の大富豪の教えでもある。世界の秘密である。本来裕福は金銭的なものではない。西洋ではそうであるようだ。東洋では違う。むしろ精神的である。しばらく忘れていたね。行雲流水。幸運をつかむ秘訣は何か。早くみつかるといいね。歓喜奉行。人生の醍醐味は尽きない。 お金がほしければお金を追求するがいい。しかしお金だけでは人生の幸福はつかめない。人生は宝島発見の旅である。真実の宝島は何だろうね。その地図はどこにあるのだろうね。人類の英知の中にある。この島を見つけたら誰のもとに帰るか。君の幸せ?だれかを見つけて新しい旅が始まる。あらゆることが進化する。一つの旅を終えて次の旅が始まる。脱皮する頃もある。古いコートは脱ぐ。幸せ世界は順々に開ける。順序。すぎこし人生を振り向かない。ロトになるよ。さて善良な人に対して世間の扱いはどうか。今にキリストの磔に等しい。善良な人に対して世間は何をしているのだろう。トルストイはドストエフスキーのムイシsキン公爵をしてもっとも美しい人間を描いたと絶賛した。その美しさとは何であったか。一般世間は知らない。ばかばかしさの中で犬死にしないように。人間の姿をしているが犬猫にも劣る人間が多い。悪魔はその存在がバレルと尻尾を巻いて逃げまどう。真実と真実を発見し真実に受容された存在を愚弄しないことだね。自分はわからなくても真実は有る。わからないから愚弄する。説明しても言葉が通じない。愚かなことである。これまではそれも通った。真実が目覚めていなかったからね。しかしこれからは違う。廬山煙雨。淅江潮。未だ到らざれば、千万感消せず。到り得て、帰り来たれば別事なし。廬山の煙雨。淅江の潮。蘇東坡 (1036~1101)軽いタッチの会話の成立する上流世界がある。おろかな世界は言葉遣いは丁寧だが心が腐っている。勉学の足りない故である。学問はするべきものだよ。しかし往々にして勉学努力学問を愚弄している方々の世間一般社会である。真実を知らず求めようともせず自分勝手わがまま気ままをフローとか言って善良なものを支配しようとしている一般企業社会である。例文規定は覆る。そして消費者も同じ論理である。蝸牛と蝸牛の戦いだ。滅亡への漸近線だね。自覚したものたちにとってはお先にちょいとごめんだね。蝸牛たちはしばらくそうして戦っているがいい。空から翼あるものから狙われているのも知らないままに。人類はいつまでも愚かではない。羽のようにかるくありたいね。 教育こそ日本の資産だよ。教育界よ目覚めよ。かつて学校へは警察も入らなかった。西洋において大学はどのようにして生まれたか。大学には自治があった。教育界の怠慢が目に余る。NHK-FMからマーチめいたクラシックが流れている(2006/04/28 7:30am)。朝日がカーテンに明るく反射している。ツバメが囀っている。空気は凛としている。人通りはない。いい朝である。言葉そのものが音楽となる。楽音。文章の音楽化。新しい文章論。発見し構築するべき21世紀文章のソナタ形式。もののあはれからをかしへ。あたらしくひらかれたるかこころなるこの人生也たのしむしくなし。自己の悪性が焼き尽くされ新しく精錬空洞化されてぞこころが鐘となりてなりひびく。文章の鐘の音千差万別、億差兆別。 自己の鐘、いかなる音なる、如是相の、等しからざる、音のするなる。文字は仏也。文は人也。人が火となる。そして灰となる。それでいい。道元も云っている。燃え尽きよ。遺恨のこすことあることなし。やりたいことをすればいい。自由である。しかしサンクションある。それだけのことである。いぎたなき文章を書いて文章と思っている流行作家がいる。それを読んでいる読者がいる。文章も書けないものたちが大きなことを言っている。おかしいね。人間文章文学論。本は買って読むべきものだよ。話せばわかる?わかりはしない。言葉が通じないのである。だからソクラテスは毒杯を仰ぎキリストは磔に甘んじた。今も変わりはしない。


2006年04月27日

自由は自由が切り開く

自由は自由が切り開く。そして自由を獲得する。自由とは何か。自得したものの自覚である。自由は換言すると自信である。本当の自信があるか。その自信の根拠は何か。神仏の守護である。何があっても大丈夫というそれである。代々の約束である。一世代や二世代で得られるものではない。しばらく見失われていた。理由は敗戦の故である。しかし戦後六十年もすれば根がある限り芽吹く時が来る。その時が来た。その間はびこりしは何か。およそ覚悟あるべし。我思う故に我あり。人間は考える葦である。しかしその葦を通して宇宙をみる。我思う故に宇宙あり。事実がその証明である。どうにもならぬものがある。今までは自覚されていなかった。自覚されればすべてがわかる。しかしわかりはしない。すなわち秘密がある。その秘密とは何か。映画 『2001年宇宙の旅』エピローグ老人の日常が壊された。壊したのは誰か。宇宙の秘密である。自然とは何か。地球の表層である。それはある存在の魂と連動する。何をもってわがまま勝手気ままするか。それほどまでにバベルの塔を築いて何を思うか。何も思っていない。思いは実現する。神仏に認められるなら。何を思わせるのか。人類の滅亡か。それほどまで反逆するか。畏れを知らぬ。ヨハネの黙示録をみたいのか。羅刹はまだ腹を空かせているらしい。羅刹の願いは何であるのか。人類は回答を迫られている。法華経の真実の種が開花している。いつまで待たせるのかと神々も憂えている。万軍の主も見参である。かれが号令すればどうなるか。黄泉が動く。すでに全軍配備は完了している。疑うものは疑うがいい。逆らうものは逆らえばいい。肘は外に曲がらぬ。歴代の約束である。勝負にならない。かれの選択が正しければ太陽が反応する。かれも己を自覚した。地球の運転を始めたか。常々自然のセンサーが働いている。人間レベルは嘘が多すぎる。方便は仏の故である。何を思い上がっているのか。かつてキリストを磔にした人間である。同じ論理で人間は今も世の営みをしている。自分勝手裏切るのが人間の常である。何故バブルは崩壊したか。ある存在を裏切り続けたからである。本来心身清浄。これを成就して如来の神力である。その火はもはや点灯した。かつて人間のために天より火をとってきた神がいた。今人類のために何をとってきたか。神々の意思である。たがわば淘汰される。新しい時代の黎明である。もはや現実がどうにもならないであろう。おのおのすぎこし人生の結実である。来世に出直すがいい。今生で間に合うは幸いである。おのおの観念するべし。あきらむるべし。ひとりきてこの世の秘密の開門を我が人生悔いはあらむを。BGMはバックハウスのベートーベンピアノ協奏曲『皇帝』。正常回帰平定。開始である。理論はすでに構築されている。実存存在による実践体験経験証明もされている。定理は証明されれば人間の英知となる。二千年来の人類の夢が開花する。科学は手段であって目的ではない。西洋文明は見える世界、東洋文明が見えない世界を司る。新オリエントヘレニズムの夜明けである。新知行合一。すでに世界は一つである。大象は行くに小径を歩まぬ。隻手の鐘が鳴っている。


2006年04月26日

歓喜奉行について

菩薩になると菩薩の世界が開ける。なにもかもがすらりすらりといく境涯が開ける。ナマズのぬらりくらりである。それを瓢箪の底でとるようなものである。喜びと楽しみは尽きない。何をしても楽しい。何をしても嬉しい。歓喜奉行である。自分が変わることで世界は開ける。皆仲良く幸せになっていい。小鳥のような生活があっていい。苦が苦を生む。楽が楽を生む。すべて自分次第である。自分の持つ周波数は何か。喜びの周波数を発しているかどうか。愚かであってはわからない。自覚して得る周波数である。宇宙自然の周波数である。


2006年04月25日

自分が変わることで世界が変わる

自分が変わることで世界が変わる。個々の相手の対応が変わるだけではない。出会いそのものが変わる。周囲世界が開ける。所詮世界は自分に応じた世界でしかない。君子危うきに近寄ることはない。害悪をなすものもいなくなる。自分次第である。軽くなっていく。軽くなっていけばいい。ギャーティ・・・。般若心経の呪である。行けり、行けり、われは行けり。喜び世界は自分が変わることで訪れる。もともとすぐそばに手をさしのべてくれている。その世界を気づけない自分がいるだけである。一切軽く取りなすことでよい。


人間の尊厳について

すがすがしい朝である。きょうもいいことがたくさんありますように。人生は自分探しの旅だね。どのような自分を見つけるのか。あるいは形成するのか。醍醐味はつきない。いろいろな人がいる。もって生まれた花を咲かせるだけである。教育の基本理念は間違っていた。教育はもって生まれた花を咲かせることを手伝うことにある。もって生まれた属性には悪もある。それらは精錬する。やがて人格が珠となって輝く。長い時を要する育成もある。一般に高貴な花は時間がかかる。大器晩成である。それを世間一般は自分を基準にするものだから本来の価値を知らない。むしろ粗末にした。西洋文化は物質的にはすぐれているが精神的には東洋の文化の方が上だ。このあたりを看過しすぎた。世の現在支配階級の罪である。おのおの自覚するべき時である。自覚なき者は淘汰される。黄泉の意思である。いつまでもおろか支配は通らない。あらゆる因縁が解決して初めて自由である。この自由は自得自証冷暖自知である。わからないものにはわからない。わかるまでは。わからないのにわかったつもりでいるのが世間一般である。それを恥とも思わず勝手気まましている。自然が怒って当然だ。いつまでもそのような愚かな精神が通るはずがない。宇宙自然の秩序に反するからである。それでもまだわからないのが世間一般である。因ってあはれである。事実としてバブルも招いた。愚かな戦争もしている。いつまでも時代錯誤していてどうするのか。時は流れている。時代も進化している。いつの理論で議論しているのか。新しい時代は始まっている。その理念も説かれている。人類の進むべき方向も明らかである。何をしているのか。知識人。自分の身は安住できてもあなた方の子供たちにその保障はない。なすべきことは多い。急げ。ベートーベンの言った言葉である。これは正しい。しかし信念とは嘘より危険な真実であるはニーチェである。このような悪魔のささやきに惑わされてはならない。晴れの精神がある。カクネンムショウである。宇宙自然がほほえむ。これを知って悟りである。どんなことがあっても守護される。不思議なほどに。その実体はむしろ不合理である。科学科学というが不合理こそ真実である。不条理という言葉もある。しかし不条理ではない。不条理は神仏の守護を知らないものたちの言うことである。条理はある。それが宇宙自然の摂理である。いつまでも世迷い言を言っていてどうするのか。自分勝手な解釈をしていてどうするのか。太陽は東から昇る。人間の力でその運行を変えることはできない。そろそろばかばかしさの中から脱却の頃だ。みな美しく生きていい。みな幸せになっていい。そのための方法論は何か。すでに説かれている。人類の英知である。いい加減にした方がいい。あまりにも愚かである。貪、瞋、痴。仏の説く三悪である。痴とは真実に対して知らないことである。真実とは何か。そのための条件とは何か。真実は宇宙自然に秩序があり、魂と宇宙自然は連動しており、この世は見えない世界の真実を知らしめんがための鏡であり、神仏に受容され認められて守護されるという事実があることである。条件とは心身清浄。もって生まれた悪性を精錬し珠となって輝くことである。これを妨げるのが妄念=嘘である。これが地獄の門。珠と輝けば黄泉も気づく。万軍の主も味方する。そのメカニズムはむしろ不合理である。西洋科学理念に限界がある。かれらは黄泉を知らない。知らないが故に罪を重ねている。罪とは宇宙自然の秩序に反することである。反すればサンクションがある。そして右往左往している。モーゼが杖をついたときなぜ海が割れたのか。偶然ではない。民を救うは宇宙自然の意思である。ここに盛者必衰の理がある。モーゼに杖を地につかせないように。仏の顔も三度までである。仏の堪忍袋の緒も切れる。仏の真実は世の浮かれた絵のようではない。むしろヨハネの黙示録である。禅においては一を聞いて十を知るようでなければ禅はわからないという。仏は愚を嫌う。世間一般、あまりに愚かである。本来の価値を無視あるいは看過し自分勝手している。三十年前、事実として、経済社会は一個の本来の価値を無視し捨てた。凧の糸が切れた。その後その凧はどうしたか。幾たびか下る蒼龍の窟。一人で真実を探した。そして龍の如意宝珠をとってきた。真実を前にもはや言い逃れはない。犯した罪に対してはおのおの首を洗って待つがいい。断罪はある。宇宙自然の掟である。爾の時が来ている。善財童子が幾千年の旅を終えたからである。宇宙自然の真実を発見して。二千年来の万軍の主も見参している。久遠実成の釈迦牟尼仏もすでに世に現れている。知っても知らなくても。黄泉が意思実現する時を迎えている。それでも真実に対して粗末反逆するか。痛い目に遭わなければわからぬか。犬畜生はたたかねばわからぬ。万物の霊長人間の尊厳は那辺にあるか。 自分勝手がすぎる。思い違い勘違い思い上がり。謙虚と敬虔。特にテレビ及び芸能界に日本の美徳と使命を見失いわがまま勝手きままし放題をする衆愚支配事実がある。これが日本及び世界を惑わしている。


2006年04月24日

解釈について

鋭い目をした人がいる。まどろんだ目をしている人がいる。その目でその人の格が現れる。しかし鋭い目をした人と涼しい目をした人とどちらが覿面提示電光石火であるか。勝負してみる?隻手の音を聞いているかどうか。勝負は構えたときにすでに決まっている。生き馬の目を抜く鋭い目をした人の時代は終わった。涼しい目をしたやさしい人の時代である。悟りを得ているかどうか。悟りを得ていると自ら言えるか。何を持って勝手気まましているのか。何を持って。さて大乗。よい乗り物だ。神仏が守護する。想像以上にすばらしい。ノアの箱船でもある。空飛ぶ絨毯でもある。誰もが手に入れることができる。但し条件がある。心身清浄及び修行。少なくとも三十年を要する。さて神仏に守護されるとはどういうことか。その実体はどうか。意識していなくてもすべてが生きる。いっさい無駄はない。あらかじめ計算したわけでなくとも。すなわちこれが生かされているということである。そのようになっている。計らいなど要らない。計らうとむしろその部分においておかしくなる。日々時々刻々精一杯考えて実行すればよい。己のもって生まれた本文を尽くせばよい。やがて帳尻は合う。ご順序ということである。ご指導ということである。ところで、平等など誰が言い出したのだろう。これでつけあがりのさばるものが多くでた。平等なんてない。皆ちがう。違いにおいてそれぞれ平等に生きる権利があるというべきである。平等概念の位置するべき階梯を誤って解釈している。むしろ逆差別現象としての本末転倒となった。皆同じとする考えは正さねばならぬ。悪鬼はびこることになる。言葉が足らぬか。言えないことも多くある。おのおの解釈するべし。それぞれの段階において解釈は違う。詩は詩人をもって呈すべし。剣は剣客をもって呈すべし。複雑な世の中となった。本来はシンプルである。誰がこの混迷を招いたのか。我思う故に我あり。この真意を言えるものがいるか。この世をば・・・。誇張ではない。世の解釈は皆誤っている。知らぬこと故仕方ないか。解釈は自ずから己のレベルに起因する限界がある。誕生仏とは何を意味しているか。目覚めた自己の自己表現である!あるレベルを超えると自証自得するしかない。目覚めたものにとってはあらゆる意見がたわごとである。真実とは目覚めた存在へ向けて風が吹くことである。もはや一切虚言自分勝手わがまま解釈は通らぬ。アインシュタインもその比ではない。彼は言った。いつか自分の理論を超えるときがくると。今来ている。本来今。音楽が売れるかどうか。作曲家でも作詞家でもない。編曲者の力だね。歌手は思い上がらないように。制度は作るもの。新しい環境があるならそれに適応する。アポロ11号が月面に着陸した。アームストロング船長は言った。この一歩は小さな一歩だが人類にとって大きな一歩であると。母船はイーグルだったろうか。文化形成の象徴だった。過ちは過ちと認めて反省する。同じ轍は踏まない。ここに人間の尊厳がある。すでに世界は一つである。皆楽しんで生活していい。21世紀の約束は果たされた。ある存在が目覚めることによって世界が目覚めた。ほんの少し遅れたけれどね。すでに日本も動き始めた。世界は動いている。人間の営み=文化は淘汰される。悪及び腐敗は浄化される。そしてよきものだけがのこる。その名はクラシック。クラシックの精神というものがある。代々伝えられし精神である。しばらく見失われていた。しかし伏流のごとくその姿を現すときがある。今その時である。ベートーベンにはバイオリン協奏曲は一曲しかない。ピアニッシモは極限制御されたもの。フォルテは自由思い通りであってしかも法を超えない。人生もしかり。美しさと感動の条件である。人生はかくも美しい。一般レベルを超えた高周波がある。音楽は精神の表現である。よい意味での緊張感の連続である。一般人は聞くことに耐えることがない。耐えてやがてそのよさがわかる。


2006年04月23日

人生とは己の本文を尽くすこと

本文を尽くすこと、それが人生である。今生では今生の課題がある。前世からの宿題である。これを果たして次の人生がある。その課題を果たしているかどうか。十の力を持って生まれたものが五しか果たさなかったなら来世に遺恨を残す。五の力を持って生まれたものが五を果たせば満点合格である。来世ではより楽な境涯へと生まれるだろう。その過程は当然試練である。それぞれの人生である。しかしいつも邪魔はいる。今邪魔が世を支配している。清浄の価値を笑いものにする輩である。本文を尽くそうとしてもその土壌がない。雑草のはびこること限りなしだ。どうしたものだろう。ところでインターネットの真実を知っているものがどれだけいるだろうか。或いは、通信の本当の意味真実を知っているものが。祖父は亡くなる前にしきりに電話受話器を取って私にサインしていた。その意味は何だったのか。私も苦しんだ。今は判然としている。いずれにしてもあまりふざけないほうがいい。魑魅魍魎がふざけすぎている現世の中である。仏の顔も三度まで。仏の堪忍袋も切れるときには切れる。久しぶりに映画『トップガン』を見た。おもしろかった。極めるべき道はいくらでもある。広島心学。あるクレジット会社に尋ねた。業種は何ですか。クレジットカード業です。高利貸しですね。法律に基づいています。裁判所に出ると覆るよ。事実は事実である。会社が法の解釈をするではないよね。不当利得は現実利益において返還である。正当行為の外形を持つ脱法行為は違法である。 さて日本は腐敗した。腐敗したのは精神だった。物質的には豊かである。それは敗戦による自信の喪失の結果だった。ペリー来航以来の結実であった。そろそろ幕を閉じ新しいステージのはじまりである。新しいステージはすでに始まっている。これから六十年後によかったといえるようにしなければならない。耕すことはできている。21世紀こころの大地だ。今、種まきの時節である。


2006年04月22日

敵は本能寺にあり

敵は己の本能にある。人間が人間であるための条件は何か。本能の制御である。しかし下手な倫理ではない。法華経は五欲を断ぜずと宣言している。本能をも従えるということである。陰と陽。プラスとマイナス。合して力となる。見えない世界と見える世界がある。両方を合する。新知行合一。理入と行入。即非の論理。理論はすでに過去よりある。しかしこれを知るものは少ない。実行し体験するものはさらに少ない。しかるをこれを知らずして世間は大きなことを言っている。知っているなら言うがいい。勝手がすぎる。人間として生きるということはどういうことか。動物性丸出しではない。さりとて動物でないのでもない。自分で決めることだ。やがてわかる。今生で間に合うといいね。いずれにしても宇宙自然の秩序に反しすぎた。バベルの塔。事実である。さて、吉田健一氏がただ生きている人間とそうでない人間とがいると書いていた。かつてただ生きているのでは意味がないと思っていた。生きることには意味があると思っていたのだった。ダルマ西来意ということがある。何故ダルマはわざわざ西域より来たのか。これはただ来たのだった。こうした意味もやがて明らかになる。それぞれの魂の階梯においてみるべきものはちがう。ただ生きていい。行雲流水である。


低金利化のもたらしたもの

お金を払わずにサービスを受けようとする傾向が常態化している。しかし、今、資本主義だよ。何故このようなことになったのか。 銀行の低金利化の故だね。サービスが無料化した。世間も無意識にサービスに対する支払い感覚を失った。銀行の低金利はひとえにバブルの消化のためだった。選択を誤ったのかもしれない。お金が回ることを忘れてしまった。自分さえよければよいとするからである。過剰無料サービスが目立つ。また巧妙な詐欺であったりする。それをビジネスと称している。悪徳を積むばかりだ。低いレベルでの雑草が支配している。大衆の低い意識レベルに迎合しすぎた。そしてどうにもならなくなっている。腐った部分は外科的処方も必要かもしれない。庶民の心の傷は深い。ある二人の僧が口論をしていた。旗がはためくのは何故であるか。風が吹くからか。一人の覚者がそこに居合わした。彼は言った。旗がはためくのは、各人の心がざわめいているからではないのか。自然現象は各人の心の反射である。魂と宇宙は連動している。心と自然は連動している。心ざわめくとき旗がはためく。これが諸法実相である。禅は仏心宗であるという。

ところで、人生はやがて日々真剣勝負となる。鈴木正三。命を落とすことはなくなったが、日々の果たし合いの積み重ねで運命が変わる。たとえば営業こそ最前線である。営業はお客との果たし合いである。しかし世の風潮はお客様は神様であるとする。どんなことがあってもお客に迎合することが強要されている。それでいいのかどうか。それでお客がつけあがることをゆるしているのではないのか。お客であれば何でも通ると思っていないか。お客の横暴がある。それをゆるす社会に誰がしたのか。民主主義は善良な庶民の制度である。しかし現実に支配している階層は何か。庶民は単なる餌食でしかない。そして仕事の名で食を得ていくのであるが、何があってもお客に頭を下げるとするは商人主義である。昔は切り捨てごめんもあった。何故あったのか。つけあがるものに対して言葉が通じないからであった。そして前提があった。武士は商人ではない。高潔をもって自負していた。商人のごとく嘘を当然としていなかった。今はどうか。人間であることをたてに嘘を当然とする。間違えた人間性である。 動物性が人間性と思っている。西洋堕落文化の影響である。

自分で意識したわけではなかったが、やくざな渡世だった。何度か地獄も見た。最大の敵は自分自身である。この自分に勝って自由を得る。そのためには空閑に住する必要がある。世間はどうか。就職と称して自己との戦いを放棄する。そして世間常識を多数として真実に目覚めることなくこの世を去る。それが人生だと思っている。悲しいね。自己との戦いを終えて世間に出ると、日々真剣勝負となる。しかし、空閑で生きたものにとって真実に対する迷いとまどいはない。真実とは神仏の事である。魂と宇宙が連動し、心と自然が連動している事実である。心身に恥じるところなくして神仏に受容され守護される。思いが亨る。道が開ける。日に日に新たに知恵の泉がわき出でる。尽きることのない喜びの日々が展開する。21世紀の大鉱脈である。真実幸福論である。瓢箪から駒が出る。何でも薬籠中の薬となる。常に微風を感じていることができるかどうか。呼吸を意識していることができるかどうか。あらゆる主人公となれるかどうか。ポジションをどこにとるか。河口の猟場において、アオサギにはアオサギのポジションがある。信頼の原則がある。相手に対して当然期待できることを信頼した場合過失を問わない。しかしこの前提も崩れた。相手に対する期待が機能jしなくなった。自分さえよければよいとする風潮が世の常識となったからである。真実は周りが幸せになればその中にいる自分も必ず幸せである。己の中において三十年戦争は終息した。熾烈な戦いであった。真実を求めての内面の道であった。幾たびか下る蒼龍の窟であった。そして勝利した。龍の如意宝珠も取ってきた。真実証明も知った。もはや敵はない。黄泉が守護している。宮本武蔵など問題ではない。誰が勝負するのか。もはやゆるしはしない。小林秀雄は身を切らせて骨を切った。しかし魂までは切れなかった。魂を得たものは誰か。魂を得るとはどういうことか。冷暖自知。得てみなければわからない。さて高利貸しとかパチンコとか。明らかに深層心理の弱点をついて消費者庶民を餌食にしている。違法であろう。それを野放しにしている。あるいは助長し保護している。献金でももらっているからか。悪銭身につかず。汚れた金で何をしているのか。汚れた金で得た地位がどれほどのものか。同じ姿をしているが犬畜生にも劣る人間が多い。人間であるが故に尊厳である。犬畜生に尊厳はない。人間となる可能性があるが故に尊厳があるというべきか。人生は多かれ少なかれ代々の連続である。親の人生の延長である。悪性もある。これを焼き尽くし精錬する。そして珠としての自己が輝き始める。子供の頃の差がそのまま持って生まれた人格の差である。それを覆した今である。罪は重い。おのおの処した人生の結実の頃である。今、時代が結実する。人生は日々戦いである。果し合いである。女子供の出る幕はない。それに尾を振る男など用はない。The pen is mighter than the sword. 武器はペンの時代である。つまらぬ理念が世の常識となりすぎた。それを看過した知識階層の罪がある。さて、敵は本能寺にあり。敵は倒した。自由を得た。その間のこと悔いはない。求めうる最大の勝利とその褒章がある。何もかもが美しい。人のあはれなあらゆる欠点もかわいく見える。それぞれ生きている。それぞれの人生である。ばかばかしさの中で犬死しないための方法序説は完結した。

赤つつじほそき雨ふる音もなく


2006年04月20日

真実に対して謙虚であること

自分より上は見えない。見えないのに、自分解釈して上を否定する。それで不幸が始まる。認めるべきを認めることが出来ない。ただ信じるしかない。わかるまでは。それなのに自分解釈していく。これがあはれである。どうしようもない。しかし、真実は真実である。黄泉の認めた秩序及び掟がある。合理的ではない。科学的でもない。どうにもならないことがある。知る人ぞ知る世界である。別にこれ以上期待もしない。それぞれの運命である。求めれば得られる。いつかは。求めれば道が開ける。ひとつひとつ課題を成就することによって。それでも自分解釈して真実を否定している。どうかしてるよ。衆生病む故に我病むは維摩居士。それも病む間はね。病むことはいつか癒える。今生で癒えるかどうか。求めればその方法もわかる。求めなければいつまでもわからない。わかっていないのにわかったようなことをいう。世間の常識が真実ではない。真実は真実である。だからといってわがまま勝手をするのではない。帝則に従う。世の解釈の及ぶところではない。知れば迷い、知らねば迷う法の道である。何が佛の実なるらんである。佛とは十力を得た存在である。それは、オール10である。そうそういるものではない。既存の方法を超えて自ら編み出す力を持っている。それが問題解決能力である。もはや迷いも惑いもない。自信もあれば勇気もある。それを世の常識論で否定する。それが人間レベルの限界である。上には上がある。真実に対して、謙虚であればいい。それでも逆らう。反逆する。勝手する。そしてどうなるか。法則通り淘汰される。佛とは慈悲と智慧を獲得した存在だ。そして黄泉に認められ受容されて守護される。黄泉はその存在を通して自己実現する。黄泉もその存在が目覚めるのを待つ。黄泉が養い育てた存在である。幾多の教育的艱難辛苦もある。黄泉はその存在が必ず開花することを知っている。それで忍耐強く育みながら待つ。釈迦牟尼佛に対する多寳佛である。見える世界は見えない世界の反射だ。仏法は必ず勝つとする。その真意は何か。何故勝つのか。黄泉が力を貸すからである。佛は人間の進化最終段階である。如来の人力を獲得した存在である。宇宙を統治する宇宙有無開閉の力である。しかしその力を得て行使することはない。何度か試してその力を知ったからには、その力を行使するまでもないことを知る。その力を得てその意味もわかる。個々の人間存在形式はその力と合流するに至る過程に過ぎない。所詮人間の至るべき最終段階である。すなわち意思実現である。だが、完全に佛となることは生きている間は出来ない。あの世へ逝ってから佛となる約束はある。人間の身を持っているからである。失敗も少なからずある。しかし守護されている。それで大難は中難となり中難は小難となり小難は無難となる。それでいい。は虫類から人間となった。は虫類の痕跡のある人間は多い。つまり修行中だ。人間となってもその目は迷っている。迷いの晴れた目は少ない。しかし迷いの晴れた者は存在している。しかし迷いの晴れた目をしていてもなお迷っている。勉学修学が足りないからだ。惜しいね。いい目をしているのに。ものいえば唇寂し秋の風となる。「彼の中に佛います。名を多寳という。」それぞれが仏性を持っている。それが目覚め開花すれば善い方へ思い通りとなる。すなわち多寳の種である。「佛我を第一なりと説きたまう。我今自ら智に於て疑惑して了(さと)ること能わず。是れ究竟の法とや為(せ)ん。是れ諸行の道とやせん。」佛とは自分が自分に勝って佛となる。我第一とする所以である。疑惑の間は悟りはない。仏法は人間レベルの最終段階である。仏法の道こそ人間の歩むべき最高の道である。この真実を最初に見つけたのは釈迦牟尼佛だった。その後も多くの佛が輩出した。釈迦以前にも佛はいた。しかし、世間一般にはいつもこれが見えないのである。そうした世間に対しては忍あるのみか。


2006年04月19日

知足について

自分が何者かを知って自分に満足する。知足とは我慢とか諦念ではない。小林秀雄は己の分際を知ることをいう。それは、神仏の前に、謙虚となる。またソクラテスは汝自身を知れという。自分が何者かを知ることは、禅のテーマである。さて、自分は何者か。どういう力を持っているのか。各々修行のしどころである。人生の目的はここにある。ある少年がいた。小学2年生の頃であったろうか。その子ははじめて喧嘩で殴られた。半年も経たないうちに相手の子は防火水槽で溺れた。その子が成人してある女の姉がその子に対してひどいことをした。その女は半年も経たないうちに癌に倒れた。また、ある会社の専務が交通事故保険の支払いに於てひどい仕打ちをした。同じく半年も経たないうちにその専務は癌に倒れた。何を意味しているか。かわいい子を黄泉の護る実体である。新日本靈異記である。さて、佛は仏縁をいう。しかし佛と雖も間違うこともある。たとえば、ある佛は日本の株価は1/4まで下がると申していた。しかし、それは違っていた。何故か。その佛を超える佛が現れたからである。何を意味しているか。無記。


2006年04月17日

目が開く時

失ったものはすべて返してあげるといつか天の声を聞いたことがある。それは本当だった。しかし、時を待たねばならなかった。その時とは、目が開く時だった。家康の旗頭は厭離穢土。江戸は穢土である。すべては導かれている。あらゆる事象が知らしめんが為である。条件を満たせばだれもが必ず幸せになれる。これが真実であり真理である。持って生まれた生を懸命に生きる。本来善も惡もない。あるは自分解釈だ。ありはしない。しかし花は哀惜に散り、草は棄嫌に生うる。柳の如く、風に任せて生きる。林羅山の座右の銘:風は来る楊柳の辺。月は至る梧桐の上。要は波風を立てないことですね。無理をしない。邪魔をしない。すらすらといく境涯がある。仏法は必ず勝つとするところである。しかし世の流行歌とかは現在自分実存を認めることを歌い、それもって愛としているようだが、低いレベルで止まろうとしている。上求菩提、下化衆生。やはり向上心がないと人生とならない。諦めと慰めでは何事も成就解決しないよ。あやまることでゆるされるという。見えない世界でもこの法則はあてはまる。しかし、ただあやまればいいというのではない。償う必要がある。問題は相手に遺恨を残させないことだ。だから、お金で償うはお金で償う。生命身体自由で償うは生命身体自由で償う。言葉だけではダメだ。実体を要する。そして、反省する。反省とは同じ轍を踏まないこと。それなのに、唯あやまればいいと思っている。本当の謝ることをしないでいる。さらに、同じ罪を犯していく。地獄必定だ。謝ることに対しても自分解釈している。間違っている。結局心身清浄を以てゴールとする。あやまることで懺悔となり、やがて、心身清浄となる。心身清浄となれば、黄泉がみとめてくれる。そしてすべてがわかる。絶対の真実であり、真理である。わからないから認めない。だが有る。慈悲と智慧。生きるということはどういうことか。仏陀もそれを説いたにすぎない。それとは日々歓喜奉行。考えるだけではダメだ。実際に役に立つことを要する。世の学者達に対しては不当利得返還請求の頃だね。さて、世界が平和でありますように。日々が穏やかでありますように。Japan as No.1が伏流し、世のために本格的な始動の頃である。自己との戦いは最終戦争であり、それに勝利した存在は古来日本に居る。万軍の主も認め稽首する。誰もその戦いさえ知らず、さらに勝利したものは少ない。 風見鶏など相手にしない。風は存在に対して吹く。自然に対して逆らうものは淘汰される。畏れを知らぬはあはれである。 天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す(酒中十詠序)。 大西良慶老師が言っていた。キリストも観音菩薩であると。キリストは復活して救われた。救われたものが救うものとなる。羅刹に身を投げた釈迦を救ったのは帝釈天であった。 人生は旅である。行き交う旅人である。会うは別れのはじめなり。さりとて悲しむことはない。別れてまた出会いがある。そうしたものである。出会うためには別れなければならない。そして別れる時には君に捧ぐ一輪の花である。すなわち良い思い出を残す。手向けだ。一つの課題を終えると次の課題が現れる。人生とはそうして限りなく向上していく。階層を上昇していく。選ばれた存在にインスピレーションは来る。それをキャッチする。それを表現する。芸術となる。インスピレーションは何処から来るか。風の如く吹いてくる。耳を澄ませば聞こえる。エクスパイアする存在を歌にする。歌とはそうしたものである。そして悲しい歌しか聞こえない時を過ぎる時節も到来する。


2006年04月16日

無記あるいは無視について

仏陀に無記がある。言えばかえって混乱の種となることがある。そのような場合には敢えて無視する。そして、相手はわからないままである。しかし、ここに慈悲がある。いつかはわかる。わからないのはあはれである。ところで、性格の問題がある。どうしようもない。生まれによる差別は制度上よくないが、持って生まれた種は種である。馬に念仏に等しい。わからないものにはわからない。敢えて言っても無駄である。むしろ混乱の種となる。云わぬが花というこもある。また、云えないことが多すぎる。真実の故にである。云わなくとも良い。目と目でわかるレベルがある。真実は真実である。味方は味方である。どこに合流するべきか。各々の判断である。持って生まれた種であるが、それぞれ歴代の属性がある。悪しき属性を焼き尽くす。よろしき属性のみが残る。人格形成、すなわち、人生である。 世の教育者達よ、身を恥ずるべし。知識の切り売りが教育ではない。習うとは、親鳥が飛んでみせる。巣より雛は親鳥の羽ばたく時の羽の白いのを見る。すなわち、習うのである。教えるのではない。子供達は習うのである。教えると思うは傲慢である。やって見せ云って聞かせてさせてみてほめてやらねば人は動かじ(山本五十六)。至言である。五体満足。至福である。何事も自分次第である。宇宙のはじめよりそうである。あらゆる理論が遅れている。嘘がないこと。唯一の条件である。女は生来嘘つきである。弱き故にである。男は嘘をつかぬを以て男である。本末転倒。男も嘘をついている。方便は佛の領分である。嘘も方便となる。佛にあらずんば嘘は嘘である。何を錯覚しているのか。至道無難簡単明瞭明明白。煩うべきことなど何もない。カクネンムショウ。法則通り。一切種智慧。悪果は甘んずるよりほかにない。やがて癒える。治癒すべき軽微なる瑕疵なれば。重大明白な結果惡にはその処方に外科的手術を要する。何を云わんとするか。推して知るべし。身心不恥。即是也人間好時節。ところで、日本的経営として、年功序列及び終身雇用があった。今これらは古いという。確かに日本が世界をフィールドに戦う場合は機動力をそぎ、足かせとなる。規制緩和をすることで、個人が世界で戦える。しかし、問題は、誰もが世界選手ではない。その他を犠牲にしてしまう。犠牲を伴うことは惡であり、必ず滅びる。全体の幸せの中で個の幸せはある。世界がフィールドとなって、そのための規制緩和であるが、他の犠牲を当然としているのではない。古来日本の蓄積されたノウハウはノウハウである。それを古いとして看過するは、後進文化的傲慢である。ここに新たなパラダイム・アウフヘーベンがある。考えるべき所である。富士は何故高いか。裾野があるからである。日本のあるべき姿がある。世のセレブ勝ち組理論は裾野を無視した滅びの理論である。自己の利益だけを考えて見えざる神の手が働くのではない。配慮が足りない。知的21世紀真実幸福論の開始である。自由経済と社会経済の単純二者択一ではない。現実は複雑である。どうバランスするかである。それが制度であり、国策である。真実の自由民主主義実現の時である。個人的老後を考えて資産を蓄え、政治をしているようでは埒は開かない。社会が豊かになれば、その中で個は鳥の如く食は与えられ十分に生きてゆける。真実社会展望論である。徳は天徳、天に積め。個人的財などたかがしれている。国家なくして自由はない。思い違いしている方が多い。智慧のつかいどころがある。
2006年04月14日


大丈夫について

すべての存在は自分を認めて貰いたいと思っている。自分の思いをわかって欲しいと思っている。裏切られたくないと思っている。相手のためとなるのであれば命さえ差し出す。そして恨むことはない。それは国家のためであったり、真実のためであったりである。犠牲となって食されたものもその例外ではない。あらゆる犠牲と散った命がそうである。それを粗末にしている。やがて堪忍袋の緒も切れる。それは惡の満つる時である。その時では遅い。ただあやまることでゆるされる。供養とは相手の喜ぶことをすることだが、犠牲となって散った命諸精霊達の喜ぶこととは何か。いつまでも無視できぬ。いつまでも傲慢野蛮自分勝手身勝手わがまま気まま自分計算ではいられない。人間としてのあるべき姿、為すべきこと、傾向がある。それが文明国家であり、人間文化である。いつまでもわがまま身勝手気まま愚か自分計算階層の支配するところではない。脅迫詐欺欺罔自分勝手自分計算身勝手わがまま気ままは去るべし。悪ふざけの時代は終わった。本来の秩序に帰するべし。天下自然宇宙絶対秩序の鉄槌の下る前に。身とは殺盗婬、心とは不善を念ずる。身で犯して罪は身に帰る。心で犯した罪は心に帰る。今身に覚えがなくとも前世の罪が帰ってくる。真実である。真実は違(たが)うことはない。勉学、学問するべきことはここである。ここを成就して自信を獲得することが出来る。何をしても大丈夫となる。本来の人格魂が目覚める時である。ツバメがやってきている。朝一番小鳥がさえずった。夜が明けようとしている。櫻が咲いた。今年の櫻はことのほか美しい。青い空と白い雲。のどかな風景が晴れやかに開けた。ところで、社会に於て虐げられた存在がある。天草四郎時貞あるいはジャンヌダルクが現れたらどうするんだろうね。平将門だって黙ってはいない。キリストが現れたらどうなるだろう。あまりにも盲目だね。企業が利益追求を図る時、人々の最低限の暮らしの保障ということが要素としてない。利益追求の名の下に、首の締めあいこゲームはさぞ辛かろう。本末転倒の故の資本主義競争理論、仕方なきことか。何に智慧を絞っているのか不可解ではある。人の暮らしを考えて経営すれば繁栄する。他の犠牲の上に、刹那的自己利益のみ追求するはどうなるか。およそ知れている。時代の波にのみ込まれ、藻くずと消えるに決まっている。気をつけて考え、行動し、ものを言わないと、あとで泣くことになる。人間精神の品格が問われる時を迎えている。


2006年04月12日

真実について

所詮人生は戦いである。何との戦いであるか。自己との戦いである。そして自己に勝利する。その過程は『十牛図』に書いてある。勝利するとどうなるか。如来を知ることになる。如来への居住をゆるされる。如来とは何であるかは『法華経』に書いてある。誰もその入口さえ知らない。そして勝手気ままな解釈で生きている。亨るわけがない。宇宙自然の掟がある。真実清浄である。宇宙自然の秩序がある。破れば罪である。皆罪を犯している。懺悔するしかない。それをも知らない。知らないまま危うい道を歩んでいる。いとあはれ。真実に反すればどうなるか。法則通り死への道となる。それでも居直っている。自分が正しいと思っている。どうかしてるね。知っても知らなくても真実は真実である。人間は何をしているんだろうね。

何もかもどうでも良いといえばどうでも良い。生きていくとはどういうことだろうね。 NASAは月面に2tのロケットを激突させて1tの塵を発生させ、月面に氷があるかどうか実験するという。月面での有人探査のためで、月面に水があれば燃料に利用できる可能性があるという。人間の科学がバベルの塔に過ぎないことにまだ気づいていない。自然へ対しての罪がわかっていないね。ダイナマイトが基礎の文明だ。ノーベル賞如きでゆるされはしない。やはり、人類は滅ぶのだろうかね。自然を征服することは出来ない。あまりにも後進文明の故か傲慢だね。先住民を征服したからといって自然は征服できないよ。ベクトルが違う。決して。日本も征服されるところだったね。しかしそうはいかない。ヒロシマへ原爆を落として日本の神を殺すつもりでいた。だけど日本は神の國である。出雲の頃からね。大和も出雲が怖い。神が護っている。わかるかな。戦後六十年、日本は復活した。神及び自然、地球の意思に即してのみ繁栄はある。これに反すれば滅びる。神は自然。自然は地球。地球は宇宙の子。滅ぶのはどちらだろうね。秩序がある。地球と人間。そして宇宙。奢らない方が良いと思う。自然及び地球は人間が幸せを掴むことを願っている。自然及び地球に反逆することは予定していない。自然及び地球がこの事実を認識すると何が起こるかわからない。いつまでも神も黙ってはいない。宇宙は自然及び地球そして人間の魂と連動している。これに戦いを挑むのか。ばかげている。やはり恐竜の滅びる時を迎えている。淘汰だ。新しい鼠たちがすでに準備を始めている。ノアの箱船に乗ろうね。搭乗条件は心身清浄善良庶民であること。お金がなくて善かったですね。詐欺脅迫の悪いことをしなければお金は儲からない今の制度ですよ。見えない世界では、未来は明るいと決定されている。昨日でこのブログも休止しようかと思っていた。もう書くのを止めようと思っていた。しかし書くべきことはあるのかも知れない。思いの丈を書くべきなのかも知れない。しかしその内容はおよそ過激であろう。さて、どうするか。まだまだ遠慮している。 KUREの櫻は満開である。

ボランティアをしていた頃があった。特別養護老人ホームでシーツ交換をしたり、老人との話し相手ボランティアをしていた。その後、 ヘルパー制度が出来て止めた。ダウン症を持つ親の思いは、その子を通して人間がどうあるべきかを知る。本当のやさしさを知る。何も知らない輩が世間でセレブとかいっている。原爆及び枯れ葉剤、そして地雷、何をしているのか。障害者を作ってどうするのか。重すぎる罪である。惡とは犠牲を伴うことである。あらゆる勝ち組達は恐ろしい犠牲の上で薄氷を踏んでいる。一切の犠牲という時、それは岩石に対する犠牲をも含む。恨んでいるであろう。報復はある。時が満ちる時にね。覚悟は出来ているんだろうね。供養して謝ればゆるされる。供養とは相手が喜ぶことをすることであると聞いているが、祖先とか犠牲となった諸精霊に対する供養はどうするか。供養には真実のお経典がある。見えない世界にも通じる唯一のお経典といわれている。『妙法華経』であり、20世紀になって顕説された。鎌倉新仏教があった。仏教も進化している。人間の計らいを超えたところで真実は大河の如く流れている。世の民は知らずに罪を日々重ねている。そしてやがてその結実を迎える。惡の満つる時である。自ら蒔いた結果を収穫する。漁労、狩猟、農耕、その営みは、今も昔も精神も、見える世界も見えない世界も変わりはしない。春風の吹いて憂いの無き時ぞ我こそあらめ宇宙なぐさむ。

しばらく書きつづったこのブログで真実は伝えた。やはり、本日を以てしばらく沈黙する。沈黙するのは、このブログに於てである。閉鎖あるは削除も考えた。しかしそれはしないでおこう。後に続くものにとっての一里塚となるかも知れないからである。別にこのブログがなくても宇宙自然との交信は出来る。古来大和の秘密である。真実を垣間見せただけである。真実は真実である。神は存在する。もはや世迷い言が通る時節は終わった。王の目、王の耳は健在である。自然が神であり、地球である。それはむしろ感情で動く。不合理である。しかし秩序がある。観念されたい。見えない世界を見つけ、それに対して修行し、受容され、守護される。黄泉はその存在を通して意思実現する。黄泉もこの時を待っていた。万軍の主も見参し、味方についた。真実證明。畏るべし。これより真実に対する愚かさと勝手な惡の計らいは通らない。各々探すべきものを探すべし。各々の問題である。

さて、沈黙するとかしないとか、そうしたことに囚われる必要もない。書きたければ書けばいいし、書きたくなければ書かないがいい。昨年の11月26日より始めて毎日書いてきた(2月2日よりこのブログに移転した)。ある意味で義務と課していた。その意識もなくなった。プライバシーの権利とは、the right to let me be alone であるが、個人の尊厳の故である。その意味で、自己の存在は他者とは関係がないといえる。自由である。関係があるとすれば黄泉=見えない世界との関係である。何事にも囚われることはない。本来無一物。無である。空である。無であるとか空であるとかにも囚われることはない。カクネンムショウ。閑事の心頭にかかることなくんばすなわち人間の好時節。それでいい。しかしここへ至る道はそう簡単ではない。喜捨しなくてはならないものがある。例えばすべての財産を地蔵尊に喜捨する必要がある。自ら空ずるべきものがある。空ずれば、やがて黄泉よりの贈り物が来る。それで満たされるかどうか。人生の目的はここにあるといえる。生まれてきた意味はここにあるといえる。さて書くことは大切なことである。手紙にしても日記にしても書くことの意味は何か。書く行為に於て嘘はない。身心が浄化されていく。黄泉もその文字を見てその存在の意思を知る。そして実現するべく動く。真実である故であるなら実現する。裏切りはゆるされない。はじめに言葉ありきは万人にとって真実である。やがてロゴスとなる。これが不思議であり、真実である。因って手紙は書くべし。日記はつけるべし。文字は大切にするべし。ところで、最近服装の乱れた若者が多い。だらしない服装が目立つ。それはそのまま精神の表現である。同じく看板及び会社名に意味のわからない表現が多い。これがトレンドと思っている。堕落と愚かの現れに過ぎない。己に自信のなさに過ぎない。流行に踊らされる傾向を表象しているに過ぎない。教育者及び知的階層は何を指導しているのか。世間の愚かな傾向に負けてどうするのか。迎合してどうするのか。罪を助長する点に於て傍観者は加担者と同罪である。消極的か積極的かのちがいがあるだけである。実質に於て差はない。責任を逃れることは出来ない。今までのような姑息卑怯な責任転嫁も通らぬ。未遂は既遂と罪の重さに於て変わりはしない。減刑は別論である。社会をどう考えているのか。これ以上腐敗させては祖先及び祖国に対して申し訳なかろう。あるべき社会制度は作るべきものである。 テレビ芸能界などの衆愚風潮支配するところではない。欺罔に満ちた腐敗経済界の関与するべき所でもない。ところで人間精神の力は測り知れない。精神力をみくびらないがいい。開発された精神の力を以てすれば黄泉も動く。古来大和魂である。草薙の剣を振るうと風が起こった。真実の記録である。自然と魂は連動する。第二次世界大戦で日本が負けたのはこの古来蓄積されていた精神が不足していたからであった。古来大和魂を知らないものたちのばかげた戦争遂行であった。時代の正義がなかった。世の認識とは違うかも知れない。申し訳ないが明治はペリー来航に伴う下級武士による革命であった。下級武士であるが故に古来蓄積されていた日本の精神に於て足りないものがあった。しかし、時代の運命として世界が武力戦争という形態を反省するためには仕方なかったと言える。問題はその下劣な精神が今も世を支配していることである。これが現在支配階層である経済界の限界である。世を乱している根本理由である。このままでは日本が滅ぶ。世界も滅ぶ。しかし古来大和魂はそれほどヤワではない。必ず復活する。その時を迎えている。未来のためにである。時は流れた。黄泉も動く。万軍の主も見参である。人間の武力など及ばない。権力は権力によって滅ぶ。武力は武力によって滅ぶ。金力は金力によって滅ぶ。権力は市民革命によって反省された。武力は原爆によって反省された。今バブルによって金力が反省されつつある。反省とは同じ轍を踏まないことである。時代がシフトしようとしている。未来に向けて。人類の英知の蓄積と科学技術の十分な進歩がそれを可能とする時を迎えている。新しい時代の黎明である。恐竜の時代からほ乳類の時代へシフトしたように。本当の幸せを庶民レベルがくらしとして享受する時代が始まろうとしている。古来祖先たちの願いであったことが実現しようとしている。21世紀の約束として。未来は明るいということの意味である。神の見えざる手が働くとする理論は嘘だった。それは善良な市民を前提としていた。今、その前提が崩れている。会社が利益追求のためにのみ存在するという時、下部構造である経済界が支配階層になることは予定されていなかった。西洋の没落が説かれて久しい。19世紀末にすでに資本主義は腐敗していた。なのに、今も同じ理論で世の中が動いている。ここに人類としての怠慢がある。知識階層の身分に安住し、腐敗を傍観し、結果助長した罪がある。


2006年04月11日

独祝

人生は面白い。生まれた意味は十分にある。道元の云う灰となることが成佛であり、何事も使い切ることである。命もそうだ。命をもったいないことをすると無念ということになる。この意味で惜しむべきものである。しかし、命を賭けなければ何事も成就しない。 生きることを知るためには人生を賭けなければならない。いい加減な世の成功者どもに用はない。真理真実はある。知らないだけである。探そうとしないだけである。世の不思議は不思議ではない。当然である。黄泉の意思はある。姿が見えないが黄泉はある。黄泉にも秩序がある。黄泉はこの世の化体を通して動く。本当である。どう動くかは動いてみないとわからない。しかしある存在のみが知る證明が常々ある。生まれた時からあった。気づかなかっただけであった。気づけばそうだった。ここに自覚することの大事がある。これが悟るということである。悟れば一男子、大丈夫である。主人公となる。勝負に勝つための方法はいくつもある。物理的強制力だけが力ではない。究極の力は何か。万軍の主を味方につけることである。ためには条件がある。すなわち心身清浄である。この辺りはただ自得するのみである。高い木、低い木がある。高い木は低い木のことがわかる。低い木は高い木のことはわからない。しかし本末転倒。低い木が勝手なことをしている世の中である。高い木が自覚していなかった。高い木が低い木として懸命に生きようとしていた。しかし所詮高い木は高い木である。死に瀕した。白鳥の湖である。醜いアヒルの子はやがて自らその真実を知る時が来る。そして気づいた。自らがどんな木であったかを。秩序が何故秩序であるのか。今まではそれも通った。これからは違う。高い木が自覚したからである。知る人ぞ知る秩序である。本来の価値が還ってくる。因って観念するべし。畏るべし。黄泉の意思である。もはや勘弁ならぬ。それほどまでに本末転倒、勝手が過ぎた。どうしようもない。アメリカが何故世界の警察であるのか。民主主義の故である。それは、 ワシントンによるプロテスタントの解放から始まり、リンカーンによる奴隷の解放で決定づけられた。徳川家康が天下を統一した。厭離穢土が旗印だった。やはり庶民の解放があった。民は平和であった。今最終戦争は何処であったのか。精神世界。その覇者は何者か。時代は代わる。時も変化する。時と共に戦争形態も変わった。目に見えない世界での最終戦争であった。すでに黄泉での戦いは終わり平定されている。大将棋。都詰めである。鳶が鷹を生む?そのような馬鹿なことはあり得ない。勝手が過ぎる。鳶は死肉しか探さない。鷹は生きた獲物しか探さない。狩りの形が違う。鳶は鳶であり、鷹は鷹である。ハゲタカはハゲタカである。鷲は鷲である。雑草は雑草であり、雑魚は雑魚である。一切種智慧。是諸法華経宿王華。雑華経=泥の中で咲く蓮華。蓮華の前に化生する。空閑は荒野である。新しい精神の地蔵菩薩たちが地より涌出する。復古主義ではない。明るい未来の黎明である。これからである。出発。腐った世に未練はない。コギトエルゴスム。我思う故に我有り。どういう意味か。我とは魂。魂はイコール宇宙。我思う故に宇宙有り。魂と宇宙は連動している。地上の魂と宇宙は一体である。宇宙も生きている。地上の魂を通して生きている。もはやたわけた戯れ言の時代ではない。何故キリストは磔に甘んじたか。世の虚妄に対する真実真理=黄泉の秩序を知っていたからである。宇宙自然に認められ守護される命の実体を知っていたからである。世の民の真実を知らず勝手気まま恣の性向がどうにもならないことを知っていたからである。老子の曲がりくねった老木は何故切られずに生を全うしたか。それはそのまま菩提樹であり、やがて真実を悟る運命にあったからである。そして、それは『ニーベルングの指輪』のトネリコの木であった。日の下一の槍は螺鈿の槍である。象徴とは何か。何の象徴であるのか。歴史現実は象徴の連続に過ぎない。常に実体は見えない世界にある。現実はその象徴である。今も昔もそうである。これが真実真理である。見えない世界に存在がある。諸作家の白鳥の歌が何故美しいか。処した人生の結実であるからである。人生は旅である。何を探し求めての旅であるのか。それぞれの問題である。何があっても恨むことなかれ。自ら蒔いた種であり、その結実である。今日は私の誕生日である。私の人生は運命通りであったと云える。満五十歳となった。独祝。雨が降っている。大雨洪水警報が出ている。しかし、やさしく降っている。


2006年04月10日

21世紀宇宙自然生命真実幸福論

君子危うきに近寄らず。社会の中では制御が効かない。すでにシステムが出来ている。巻き込まれないことが第一だね。マイウェイ。唯我独尊。すでにできあがったシステムはもはやどうにもならない。彼らの思うつぼだ。ところで、べームとウィーンフィルの演奏が好きだった。ベームは云った。私の音楽に若さが無くなったら云ってください、その時、私は式壇をおります、と。若さって何だろうね。永遠の情熱だね。愛のパワーとも云える。この情熱があって、人は何か仕事が出来る。さて、何を仕事とするのだろう。他者との関係ではなく、黄泉との関係での使命がある。他者との関係は或る意味でどうでも良い。見えない世界との関係に於て勝利者となれるかどうか。見えない世界を従えることが出来るかどうか。常々サインはある。そのサインを見落とさないように。日々真実経験ですね。真剣勝負です。因って甘えはゆるされない。社会に出れば七人の敵がいる。すると、三人の味方がいることになるかな。四方八方と上下合わせて十方が世界である。当たるも八卦当たらぬも八卦。当たっても八方である。あとの二方が残る。四柱推命で云う空亡である。この二方から攻められればひとたまりもない。運命的な弱点である。この二方を固める。何を以て固めるのか。仏法でである。21世紀真実安国論。仏法の極意は勝負に於て必ず勝つことにある。王法の極意は必ず儲ける。この極意は今も昔も日本にある。今、日本にしかない。粗末に出来ない。これで強くなれますね。見えない世界に守護されるとはどういうことか。見えない世界に守護された存在を通して世界が動く。宇宙生命の神秘である。神秘は知らないものにとっては神秘であるが、知る者にとっては当然である。これを以て畏るべしとは云う。人間は誰もが生まれながらにしてこの資質を持っている。万物の霊長と言われる所以である。しかし、自覚することを要する。それが悟りである。この自覚を促すためにあらゆることが起こる。何度でもわかるまで起こる。法則通りに起こる。はやく気づけよとばかりに。一つの課題が解決されるまで、何度でも度を増して起こる。これが因縁である。最後の因縁が神仏との邂逅である。古来の約束である。これが最終戦争だね。これに勝利する。すると見えない世界に受容される。見えない世界が守護することが始まる。永遠の幸せを得る。21世紀宇宙自然生命真実幸福論である。敵はいなくなる。草木瓦礫を含むあらゆる存在が喜び敬礼する。思い違い勘違い人間だけが反逆する。しかし、自然の前に淘汰される。モーゼのついた杖の如く、意思が亨る。不思議が起こる。台風をも制御する。実験證明済みである。如来は如来にしかわからない。その実体を伝えていたのが法華経であった。如来は如来にならなければわからない。あらゆる解釈が当たるも八卦状態である。しかし如来は如来を知ってそれを使うことはない。使うべき必要を認めないからである。唯教えを以て示す。自己との関係は見えない世界との一対一の関係である。この関係を成就することが悟りである。悟りは自己一身の問題である。他者との関係はある意味でどうでも良い。心身清浄を以て是の関係は成就する。大和の秘密である。これを伝える。ここに日本の使命がある。 大和魂、大和撫子の復活である。世界のために。宇宙のために。これを以て十分に生きてゆける。これを以て貿易(むやく)するべしとの法華経の教えとするところである。真実に目覚めた存在が現れることで、身分に安住し恣にしてきた方々の時代が終わった。あらゆる惡が裁かれる。天網恢々逃れることは出来ない。今までは暴かれることの無かった惡が暴かれる。時は満ちたからである。世界は一部の方々のためにあるのではない。健全な精神と善良な庶民のためにある。そのための制度である。制度の一つとしての民主主義である。民主主義が絶対に正しいのではない。他のどの制度よりも相対的に優れているに過ぎない。民主主義は常に衆愚制化する危険を孕んでいる。これを自覚して制御する。目的はくらしである。制度そのものではない。こうした本来の価値が余りにも看過されてきた。今、こうした本来の価値を見直すべき時が始まっている。拝金主義が反省される。古来、人間はパンのみにて生きるのではない。権力は権力によって滅び、武力は武力によって滅び、金力は金力によって滅びる。ただ法力あるのみ。新しい仏説である。権力は市民革命によって反省された。武力は原爆によって反省された。今、バブルによって金力が反省されつつある。しかし同じ轍を踏もうとしている。何故か。それぞれの諸リーダーに自覚がないからである。法力とは、自己の存在が宇宙自然に受容され、守護されて、その意思が亨り、宇宙自然がその為に動き、思いが実現することである。この真実が証明された。旧約聖書の目的は庶民の解放にある。奴隷の解放が果たされてすでに時は流れた。神は高きを低くし、低きを高くするために来る。復讐は神のするところである。神とは地球自然の化体といえる。聖書の約束である。旧約聖書に400年周期説が秘められていた。古墳時代~平安時代~鎌倉幕府~関ヶ原の戦い~今。また久遠実成の時でもあるという。二千年来の約束の時でもある。ある存在もために目覚めている。万軍の主も味方についている。恐れることはない。真実が実現する稀有なる時代である。新しきものたちのはじまりの時代である。未来は今の思念と行為の結果である。現実は今の連続である。今を大切にする。未来は明るい。仏陀が食を乞うた。働かないのに何故食を乞うのかとなじられた。仏陀は云った。人田を耕作している。人生は旅である。何を見つけるのか。また人生は一個の植物の一生に等しい。一切種智慧。何の花を咲かせ結実するのか。晩年が結実である。結実して種を得る。その時はじめて自分が何者であったかがわかる。一生を経た結果である。畳の上で往生できるかどうか。処してきた人生の結果である。人生の収穫は何か。金銭ではなかろう。また男が種、女は畑である。何の種をどの畑に蒔くのか。操の価値。処女受胎。その意味は何か。正直者の頭に神は宿る。処女にして神の子が生まれる。原罪。罪とは何か。操を破ること。その後の一生はその懺悔となる。教育の原点。 テレビ芸能界は何を流布しているのか。その罪は重大である。そして、人生は楽しむに足りる。永遠の生命を知り、見えない世界に守護されて楽となる。祖先も気づく。祖先が喜ぶ。世界が喜ぶ。宇宙も喜ぶ。自己の本体は魂である。魂と宇宙とが連動している。無垢清浄となって星の如く魂が輝く。その輝きを以て黄泉がその存在に気づく。自己の花を咲かせるとはこれである。敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花。数千年来の敷島の國人の櫻花咲く。宇宙自然生命無限軌道に乗れ。代々の魂の遍歴がある。その一部としての今である。 「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」、奥の細道が見つかったね。わかったね。禅譲。祖父良亮から直伝の精神がある。根本大和魂である。昔、国造。時の国家グランドデザインは藤原不比等。日本史には謎が多い。謎のままである。西郷隆盛もそのひとつである。勝手な解釈をして知ったようなことを言ってもらっては困る。惑わすだけである。自覚された真実はぶれはしない。


2006年04月09日

宇宙の意思

穏やかな日々、良い時代ですね。何事も自分次第。鬼となるのも佛となるのも。自分が変われば周囲が変わる。世界が変わる。宇宙も変わる。宇宙の意思はやさしい。みんな幸せになって良いんだと思っている。はやく幸せになろうねって。魂の遍歴があって、ここまで時は流れた。多くの試練があってそれぞれここまで辿り着いた。21世紀です。それなのに、自分勝手が過ぎた方々もいる。真実宇宙の意思を知らなかったのだから仕方ないとしても。罪は罪。償うしかない。世の諸リーダー達の年貢の納め時だね。失敗に対する責任は取ってもらう。幕を引いてもらわねばならない。去ってもらわねばならない。そして真実のリーダーが現れるステージが始まる。存在の周波数がある。それを発見し開発する。すると動植物も喜び挨拶する。庶民のレベルでそれが可能になりました。21世紀の意味です。人間もここまで進化したのです。人生で一番大切なことは何でしょうね。宇宙の意思を知り、それに同調すること。やさしさの周波数を獲得すること。天下統一?宇宙との同調!草木瓦礫を含む生命体としてのあるべき形。やさしさの周波数。知らしめんが為にすべてのことは起こる。黄泉もこの時を待っていた。黄泉も喜んでいる。良い時代ですね。これで皆幸せになりますね。宇宙旅行とか深海探査とかあるけれど、心の底を探査して、宇宙の真実を知ることは、ある存在を通して果たされた。大航海時代が、地球は丸いと信じた方々によって始まったように、心のあり方がやさしさにあると信じた方々によって新しいステージが始まっている。宇宙も存在として生きている。 大いなる心として存在している。魂が宇宙と連動している。宇宙の意思がある。はやく気づいて欲しいと思っている。やさしさですべてが解決する。やさしさとは、すべてを育むやさしい周波数を発見し、開発し、同調することである。世の諸リーダー達は間違っていた。間違いは間違いである。季節。season. 我は海の子。地球の子。魂。宇宙。地球は宇宙の子。真説21世紀真実宇宙生命論。万物の霊長。宇宙も人間存在によって共に生きている。宇宙も進化している。宇宙に意思がある。存在がゐる。永遠の中の今。埴谷雄高『死靈』?死靈より生き霊のほうが恐ろしい。思いを残さぬことだ。情念はその周波数によって周囲を変える。宇宙はそれをも浄化して生きている。海の浄化作用に対する宇宙の浄化作用がある。自然は地球レベル。自然を支配するのは神。宇宙を支配するのは佛。言葉がないから、佛としか云いようがないのだけれど。佛の意思はやさしさ。やさしさとは宇宙の周波数を発見し、開発し、同調すること。そして宇宙の意思を知る。秩序。親子。本末転倒、秩序に対する自分勝手反逆の世の中。宇宙はそれをも無言に受容している。それをも浄化して、皆の幸せを願っている。地上大地としての母。天上宇宙としての父。主。神に対する父。親の思いは子にはわからない。わからなかった。しかし、今、わかる時を迎えた。時は満ちた。真実の発見。神仏自然宇宙との邂逅。真実真理の発見。時代が変わる。心身清浄。鐘のごとく空ぜられて鳴る。ゴーン。不滅の魂の音。悲しみの音ではない。悲しみの智慧ではない。時代は明るきから明るきへ決定された。喜び世界が始まった。恐竜の時代が終わってネズミから始まったほ乳類のように、やさしい世界が始まった。恐怖よさようなら。不安よさらば。心身清浄、代々身心、恥じるところ無し。身心の傷は治癒した。痕跡はあるかも知れないけれど。人類の象徴・淵源としてね。存在の試練があった。そして存在の使命が果たされた。真実の発見が果たされた。幾たびも下った蒼龍の窟。そして真実を得た。人間に最も近い遺伝子構造はネズミですね。人間の本来の形への回帰。そして新しい始まり。発する声を恥ずるべし。これより魂の品格が問われる。しばらく世を支配した者たちは淘汰される。黄泉の意思である。黄泉の秩序が復興する。資本主義はカルバンから始まった。欲得を正当化するものだった。カルバンの罪は重い。

人生は鳥のように生きればいい。新しい形である。


2006年04月08日

生命の発見

世に達人は存在する。目覚めているかどうかである。何に目覚めているのか。黄泉にである。因って死をも恐れない(だからといって死に急ぎはしない、成佛とは何事も使い切ることと知っている。因ってこの意味で命を惜しみ、大切にする。往生である。自己の本分を尽くし、従容(しょうよう)として死を待つ。道元もいう灰となることを知っている。思いを残さない)。生命として存続することを知っているからである。あたかもこの人生は海に対する波に過ぎないと。生命は海、個々の人生は波である。魂不滅の法則と云うべきか。さて、善の住人の世界はある。昔もあった。今もある。この世界の居住をゆるされるのは、唯、自覚することを要する。信じるに値する自分であるかどうかである。自分が自分を信じるのである。そうすることで黄泉も信じてくれる。すると黄泉が守護し、黄泉が動き、思いが実現する。すべてが明鏡止水となって円満解決する。自分としてはあれこれと算段は要らぬ。計らいが要らぬ。シンプル is the best ! が成立する。何事も負担をかけないことだ。相手に対して。わかりやすいのがいい。大人に成るというのは独立を自覚することだ。他者の邪魔をしないことだ。それぞれが独立自尊して生きている。仕事にしたってそうだ。自分の仕事をこなし、職としている。そして食を得ている。狩りである。農耕である。労力の結果としての賃金である。しかしこの賃金体系が狂ってきているね。労力に比例していないね。能力にはもっと比例していないね。何故か。盗みに値する詐欺及び暴力的方法で所得を得る方法が蔓延っているからだね。それはそれで仕方ないとして、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす。そして、這い上がってきた子のみ育てる。我が子のために美田を買わず、かわいい子には旅をさせよ。我に艱難辛苦を。それを通ってのシンプルであり、わかりやすさである。複雑を通ってのシンプルである。はじめよりシンプルでそのままなのは、単なる愚かである。そして唯我独尊、すなわち自立である。エゴではない。自己と黄泉との一対一の関係に於て、勝利すべきは自己に対してである。自分自身との戦いに勝利する。この戦いが最終戦争である。これに勝利する時、黄泉がこれを認めれば、それより黄泉が味方につく。子供の頃よりそうである。しかし、この真実になかなか気づけない。気づかしめんが為に様々なことが起こる。しかし気づけない。気づいたならそれを以て貿易(むやく)すべしとは法華経の教えである。宇宙のパスポートだ。必ず亨る。日々は真剣勝負であり、日々強くなっていく。それは発見の連続となる。そして笑顔がこぼれるようになる。眞の勝利者の誕生となる。何を思い煩うことがあろう。現成公案を知るところとなる。黄泉に任せることが出来るかどうか。心身清浄を以てできる。世界を変えることが出来る。自分自身が変わることによって。証明済みである。不思議が起こる。すべて自分次第である。天は自ら助くる者を助く。宇宙の意思がある。宇宙の周波数がある。これに同調すること。宇宙の意思は存在の意思である。宇宙も変わる。この時、真実の幸せを知る。自分勝手は宇宙の意思に反する。因って結果は悲劇となる。あらゆるmuseはインスピレーションに過ぎない。エクスピレーションがある。エクスパイアしているのが存在である。自らを解き放つ。自由である。そしてエクスパイアする存在となる。役に立つのかどうか。何を仕事とするのか。詐欺暴力ではあるまい。一休の禅は良寛にはわからない。ゴミはゴミである。身分に安住し怠惰怠慢をかこち、身勝手な大人達の決して与り知らないところである。日本人として恥も忘れてしまった。そうした方々が世を支配している。しかし自己を一つの芸術作品として生きる。美的人生哲学。さて、自分の花を咲かすことにしよう。この世に一つしかない花である。後世のための一里塚となって。花と咲いて独尊となる。他者は自己とは関係ない。関係は唯一見えない世界に対してである。因って自立。他者は他者で見えない世界との関係がある。唯我独尊である。生命の発見である。さて、芥を払うこと三十年を要した。君が為幾たびか下った蒼龍の窟であった。この三十年の歳月、長すぎたのか、あるいは、短すぎたのか。しかし、確かに自覚は得た。真実が目覚めた。真実を前にいい加減なことは云わないが良い。王の目、王の耳に等しい。よほどの覚悟してものを申すべし。真実はきまぐれである。真実の感情を以て黄泉は動く。昔より如来の真実である。最も尊敬すべき存在に対してその存在を無視して恣にした事実もはやゆるしがたい。黄泉は今この時を待っていたのである。何時までも真実に反しての勝手気ままは一切通らぬ。開発されるべき諸神通力はある。人類に於て最も遅れて開発されるべきものが明らかとなった。すなわち、21世紀こころの大地である。社会は本来やさしい。味方の群れに合流できればね。敵は自分の心にある。自分の心が本能寺である。河口に於て水鳥が潮の満ちるのを待っている。アオサギもいれば白鷺もいる。カモメもいる。河岸には鳩もいれば雀もいる。さらに背後にカラスも鳴いている。そして電車が鉄橋を渡る音がして、遠くから工場の音が風に乗って聞こえてくる。人間の営みと鳥の営み。自然の中に共存している。よく見ればなずな花咲くかきねかな。


2006年04月07日

すべてはやさしさで解決することについて

地球も生まれた時から激しい環境を経て、今、はじめより比べると地殻は比較的安定していると云える。しかし、マグマは対流し、多くの地震も発生している。やはり地殻は変動している。人工のヒートアイランド現象及び地球温暖化の影響も出始めている。安定しきってはいない。今後どのような変化があるのか、誰も予測できない。しかし、地球もおだやかさへ向かって進行していることは確かである。地球も齢を重ねている。さて、存在として、見えない世界と自分との一対一の関係であることが明らかとなった。そして、目的は見えない世界に受容され、守護されることにあるが、それを以て、世を支配することにあるのではない。おだやかさの中で幸せな暮らしを実現し、享受することにある。人間の見果てぬ夢はこれであったに違いない。自分の住環境はすべて自分が作っている。自分がおだやかであり、涼しい頭脳で余裕を以て臨むなら、すべてが思い通りのおだやかさの中で推移する。辛い現実を呼ぶのは自分であり、幸せの現実を呼ぶのも自分である。この時、やさしさですべてが解決すると云えるのは、自分が常にやさしくあれば、周囲環境もやさしく応答するからである。悪いのはすべて自分であり、善いことはすべて佛さんの故であると教えてもらったが、真実は、自分が悟り、おだやかとなることで、周囲環境すべてが救われるとき、仏さんさえ救われると云える。自分次第とはこういうことであり、自分と見えない世界との関係が成立することで、自分と他者との関係も成就する。やさしくなれることは幸せの条件であり、これが21世紀真実幸福論と云える。本当の幸せの形が見えてきた。何か失われた大切なものを求めての旅だった。始まったのは高校の頃だった。やっと見つかった。シャカとか孔子とか、キリストとかソクラテス、彼らの云いたかったことが何であったか知りたかったのであろう。本当の真実、真理が知りたかったのであろう。そうした旅だった。それが成就した。不思議な体験もいくつかあった。世の与り知らぬ世界の旅だった。世のレベルをはるかに超えた旅だった。しかし、今振り返り云えるのは、見えない世界に導かれてのことだった。そして得た結論、衆生本来佛なり。だれもが佛への旅をしている。幾世代もかけて。これからも続く。今生で至れば吉。

ところで巷には、本来大和魂を生きる存在が多くいる。彼らは単なる庶民の姿なれど、閥を以て世に蔓延る根無しのセレブ諸君とはその類を異にする。日本が大丈夫の所以であり、思い上がりの方々のご用心を促すところなり。


2006年04月06日

文理眞正

ゲゲゲの鬼太郎という漫画がある。お化けのポストに手紙を入れるとどこかで鬼太郎の下駄の音がするという。これは本当である。経験した方はいるだろうか。手紙を書く行為がそのまま黄泉に見られている。黄泉はその手紙の内容を実現しようとする。不思議である。文理眞正というべきか。よって、あだや嘘は文字にしないことである。これが見えない世界からの守護としての応答である。自分を偽らないこと。夢は実現する。すべては自分次第である。悲しい日々とするのも、楽しく豊かな日々とするのも。先ず、気持ちを起こすことだよ。起菩提心だ。種を蒔く。やがて芽が出て葉が出て花が咲き実となる。実となって種が出来る。その時、蒔いた種が何の種であったのかわかる。自分自身が何であったのかわかる。それまではわからない。これが時が満ちるという意味だね。やがてわかる時が来る。その時に、自分が何をしてきたのかもわかる。そして、その真実は何であったのか。後悔先に立たずとはこれであり、その時、泣くのか笑うのか。最後に笑う者が一番よく笑う。その時泣いても遅い。おろかであるか。あるいは賢くあるか。その時、決定される。人生は楽しむにしくなし。本当の桃源郷に至れるかどうか。大いなる賭である。その時々の選択が次の選択を呼ぶ。一つ間違うとすべてが狂う。間違えたなら、間違えたところまで戻って歩み直せばいい。これが反省といえる。幸せは自分の歩んだ道の結果である。若いうちは悩みもある。それも試練の一つである。間違えなければ吉。人生は楽へ至る道である。究極は神仏との邂逅といえる。かつて多くの先達の歩んだ道である。この世に楽はある。これを解脱涅槃ともいう。即身成仏ともいう。確かにこれはある。一度目にすれば決して疑いはない。人生の艶姿(あですがた)である。見えない世界と自分との一対一の関係である。人生を賭けて求めるに足りる。しかし、この道、はなはだ険峻である。断崖絶壁、千尋の谷にかかる一本の丸木橋を渡るに等しい。勇気の要るところである。真実に対して恥じることのない自分を信じるしかない。嘘も方便という。これは至り着いてからのことである。至り着く前は嘘である。佛でなければ方便はない。佛となれば嘘も方便である。それまではすべて思い違い勘違いでしかない。隻手の音である。見えない世界に認められ受容され祝福されて守護があるかどうか。生きている間にこの実験及び成就があるかどうか。死んでからでは遅い。この世に生を受けた最大の課題である。生きている間に成就するべき最大の課題である。これを以て一大事因縁という。自分が知らないからといって無いのではない。有る。山の頂上から見る景色は頂上を極めてはじめて知ることが出来る。途中から見る景色はその一部でしかない。すべてを見渡すことは出来ない。ここに謙虚さが生じる所以がある。頂上へ至って敬虔を知る。歩むべし。歩む価値はある。黄泉は待っている。そして期待している。あの世へ逝ってからでは遅い。あの世での地位は現世の処し方で決まる。生きながらにしてあの世の秩序を知ることも出来る。これが大死一番である。絶後に蘇るである。黄泉に還るのである。心身清浄を以て成就する。世間虚仮、唯佛是眞。おろそかなかるべし。時は満ちた。道は成就した。開門するべきは自己の心の扉である。さすれば、モーゼの如く、道は開ける。黄泉が導く。疑うこと無し。歩むべし。 手紙は書くべし。書いたその量が人生を決定する。質は自ずから精錬される。世迷い言の浮き世に流さるることなかれ。 テレビなど見る事なかれ。どのようなドラマもどのようなドキュメントも同じテーマの一冊の本にしかず。五木寛之の一冊の本がサマセット・モーム『人間の絆』一ページで足りる。本を読むとはそういうことであり、やがて本も卒業する。そしてカクネンムショウが開ける。いくら資料を駆使しても解けぬ謎がある。正憶念とは何か。魂のレコードがある。当事者しかわからぬレコードがある。山田無文老師は言っていた。学者にはカクネンムショウはわからぬと。

ところで、「このごろ人間的、人間的と言う場合に、何を人間的と言うかというと、動物と共通のものを人間的と言っているらしい。・・・たとえ食えなくても、自分は食を絶って死のうとも、人間として尽くすべき道があるはず。その法則を忘れて、他の生物と同じようになることを進歩だと考える。とんでもないことだ。正三が人間になれと言っていることは、犬やサルのまねをしろということではない。・・・そうしてせめて人間になりなさいと言っているのは、神の世界、仏の世界を信ずる正しい人間になりなさい、人格に対するものは人格だ。人格は動物とは相対さない。人間に対するものは人間、そういうふうになりなさい、と言っているわけである」(大法輪閣刊、大森曹玄著『驢鞍橋(ろあんきょう)講話』 p143-144)。諸学者にこの種の信ありや?知はあれども信はあらずであろう。


2006年04月05日

ゴッドハンド

それぞれの悟りがある。自覚すれば悟りである。いろいろな花があるように様々な悟りがある。それぞれの花である。勉学の目的は何か。知識を得ることではない。得た知識を活用して生きる手段とすることである。それぞれ才能がある。それぞれの才能である。それを見つけ開発し磨く。例えば、一つの仕事があるとする。誰がしても成就できるわけではない。その人がすれば成就する。それぞれの適材適所がある。それぞれ必ず何かある。教育の目的はそれを見つけることにある。知識の切り売りが教育ではない。教育者の奢りと怠慢がここにある。自己の生きる道を探し見つけ出す。そのための勉学である。見つけたならそれまでの課程で得たものがすべて生きてくる。楽しからず哉。同じパソコンを直すとする。ある人がすると直らない。ある人がすると直る。不思議である。ゴッドハンドである。これが職人である。職人は必ず手工業である。何故か。手を通して職人の持つ固有の周波数が伝搬する。それで作品となる。大量機械生産の決して及ばない世界である。この意味で日本は世界一である。職人芸の国である。新幹線の流線型は今もハンマーでたたく。一般レベルを超えた世界がある。インターネットがそれである。知る人ぞ知る。知らない人は知らない。それなのにわかったつもりでいる世間一般。思い違い勘違い。事実真実に反する。このとき、おろか、あわれである。


身心脱落

力を抜いて生きてゆける。何があっても水に流していく。自分の務めは最大限実現していく。惡舌はもういらない。無駄なだけだから。何の役にも立たないのだから。他者を責めることもない。必要ない。他者は他者の人生だものね。人生はそれぞれの蒔いた種とその結実にすぎない。身心脱落。脱落身心。楽な境涯が開けている。一切不障害。一切種智慧。何事も水に流す。それでいい。それぞれの道だから。それぞれの運命だから。それぞれの来世だものね。喜んでいる人がいる。悲しんでいる人がいる。どれも自分の姿だ。やさしくあることですべては解決する。 shouldはいらない。そのままでいいね。すべてゆるすことでゆるされる。こころも日々進化している。いつでもやり直せる。リズミカルな日々が開けて、楽な境涯が始まっている。何事もすらすらといく境涯がある。自分を規定しているのは自分だ。その規定を解き放て。自由空間が待ってるよ。大いなる導きに制御されてゐることに気づく。自分を解き放ち、自由を飛べ。何事も囚われることはない。すずやかな頭脳で生きてゆけ。一切をゆるす自分が生まれている。そしてゆるされていることに気づくのだ。生まれてきて良かった。ただ生きている。希望とか願いとか、実現している。厳しい現実に負けはしない。幸せになりたいね。幸せになれるね。惡の華も生きる権利はあるのかも知れない。惡を為したくて為しているのではないね。惡に生まれたことを恨んでるかな。悪魔も掬われたいと思っている。害悪為せばそのサンクションある。害悪為さねば惡の華もゆるされる。それ以上でもそれ以下でもない。生きるということはどういう事だろうね。共存。和平。一切衆生悉有仏性。いつか至る。今は惡でも。目指すべき古里はるか春の風。


2006年04月04日

神国日本

日本列島は生きている。その姿は龍。口は鹿児島。心臓は広島。龍が目覚めている。雲竜。雲は龍にしたがう。雨は天。雲とは天の云う。雲自在通天王。神は示し申す。申すは申(サル)。神国日本、復活である。本来の神が居所(ゐどころ)を得ている。まだ鳥居はないけれどね。さて、法華経に曰く、「若し法華経を持たんは 其の身甚だ清浄なること 彼の浄瑠璃の如くにして 衆生皆見んと憙わん 又浄明なる鏡に 悉く色像見るが如く 菩薩浄身に於て 皆世の所有を見ん 唯獨自ら明了にして 餘人の見ざる所ならん 三千世界の中の 一切の諸の群明 天・人・阿修羅 地獄・餓鬼・畜生 是の如き 諸の色像 皆身中に於て現ぜん 諸天等の宮殿 乃ち有頂に至る 鐵圍及び彌樓 摩訶彌樓山 諸の大海水等 皆身中に於て現ぜん 諸佛及び聲聞 佛子・菩薩等の 若しは獨若しは衆にあって 説法する 悉く皆現ぜん 未だ無漏法性の 妙身を得ずと雖も 清浄の常の體を以て 一切中に於て現ぜん」(平楽寺書店版『訓讀妙法蓮華経并開結』p315)。ここに何を見るか。ロゴスである。ロゴスを得る資格及びロゴスの実体である。各々覚悟し、自覚されたい。清浄を以てのみ救いはあると知るべし。黄泉の掟である。ところで格差社会となった。しかし、それは経済に於てのみである。経済は下部構造に過ぎない。お金で幸福が買えるか。影をなくしたペーターの話がある。自然財(空気、水)がお金で買えるか。何を馬鹿な議論をしているのか。お金の亡者はお金地獄から脱することは出来ぬ。永遠にお金の地獄に浮沈するがいい。本来の幸せはない。つかの間の安らぎもない。西洋成功理論の限界である。お金がそれほど欲しいのか。世の知識層のお里が知れる。そろそろ真実に目覚めては如何か。そして議論しては如何か。世の放送界も経済だけを流布してどうするのか。まだ経済が幸せだと思っているのか。愚かもほどがあろう。さて心頭滅却すれば火もまたすずしと古来云われている。頭を使っていてはダメだと言われる。心が大切だと云われる。赤子のようなこころにならなければ真実はわからぬと云う。しかし、こころを問題にしている間はまだ遠い。こころもなくなる。無心である。そして善処方を考える。美となる。鳥はさえずっている。花は咲いている。そよ風が吹いている。露。明明白。関!どちらの方向を選択し進むのか。大和魂、大和撫子。


2006年04月03日

新しい幸福論~21世紀こころの大地

惡はゆるされないのであるが、それは黄泉との関係であって、自分との関係に於てはゆるしていくということがある。悟りは自己一身の問題というのがこれだ。自分と見えない世界との関係であって、自分と他者との関係ではない。他者は他者で見えない世界との関係がある。これが佛は自分のためにのみ法を説くとする親鸞の感慨である。自分が見えない世界に認められるかどうかだけが問題であって、自分と他者との関係は、或る意味でどうでもよい。だから惡はゆるされないのであるが、自分との関係ではゆるしていくことになる。ゆるしていくというのは、掬っていくということでもある。その意味で救うのではない。自分を救うのは見えない世界との関係における自分自身であって、神も自ら助くるものを助く。掬うとはつまり見えない世界との関係があることを知らしめることである。これが功徳ともなる。これが菩薩道である。また悟る者が一人いれば自分の六親眷属が皆救われるという。見えない世界から認められるのであるから当然といえる。黄泉にいる祖先も掬われる。魂レベルの遍歴での出来事である。それで、現実に於て畏れるところ無くひょうひょうと生きてゆけることになる。行雲流水が成立するのである。生きていて良かったと云えることになる。こうした遍歴は代々の積み重ねである。因って祖先が大切である。祖先の供養をどうするか。妙法華経で供養すると聞いている。供養とは相手が喜ぶことをすることだと聞いている。museである。供養されると祖先も喜ぶ。喜んだ祖先は子孫を護る。護られた子孫は導かれて悟りへの道を歩む。間違えれば痛い目に遭わしてでも真実を知らしめんとする。祖先も護るべき子孫を選ぶ。選ばれた子孫は試練に耐えて悟りに至る。それは神仏との邂逅である。失われた何か大切なものとはこれであった。何千年来のことかも知れない。あるいは久遠からの代々の出来事である。魂の遍歴である。さて、宗教は人間として生きていく上での基礎だ。自ら無宗教者を任ずるは自ら人間であることの基礎を否定することになる。非人である。宗教の話をすると例えば屋台から追い出される。別にかまいはしないけれど。しかしそうした方々の世の中であるね。そして愚痴ばかり言っている。悟ると一切がありがたい。愚痴などない。楽ばかりだ。金銭的現実生活は辛いけれどね。しかし、世の中の愚痴の人は心が可哀想だね。やはり開拓するべきはこころの大地だね。21世紀の約束が始まったね。新しいフロンティアが見えてきた。新しいパイオニアの時代が始まった。宝物は幸福だ。ヒルティの幸福論もあった。アランの幸福論もあった。しかし現実に幸福を手にした者はいなかった。幸福はある。いよいよ幸福が手に入る時代となった。誰が新大陸を発見するのだろう。すでに発見している住人もいる。良い時代の開闢です。よかったですね。黎明はすでに始まった。これで笑顔もこぼれてくるね。また、復讐するのは神であるという聖書の理由もわかるね。他者との処し方も。自分の代々の魂の遍歴が何であるかわかるとどう生きたらいいのかもわかるね。生命の神秘も理解できる。宇宙と現実とがあって、その関係に於て代々の魂としての自分がいる。現人生の目的も見えてきたね。魂のために自分自身を大切にしようね。自身を大切にすることは孔子も云っている。見えない世界と自分そして他者とのメカニズムですね。こうした魂の真実が純粋に伝えられている日本、その使命は何だろうね。大和の諸君、幸いあれ。
ところで、子育てだけれど、子供に対しては、厳しく教育する方が正解だと思われる。何かあまりにも間違っているのではないか。躾を甘やかすと犬もつけあがるよ。世の親も自信のないところだとは思うが、子供達からすれば、厳しく躾られたいというのが本音かも知れないよ。勿論、子供達の将来を思っての厳しさだ。

学習期の読書は乱読を要する。ある程度読書が進むと、読みたければ読めばよいし、面白くなければ読まなくて良い。初めはページツーページで読むべきだが、ある程度読むことを知れば、何処から読んでもかまわない(斜め読みとか三行読みとか云うが、そのようなことはどうでもよい)。ところで読むべきものが無くなったら、その時から著作が始まる。これらのことは吉田健一氏の云っていたことである。ところで、ブログ及びHP上の文章も著作権の保護はある。何が云いたいかわかるかな。 請求書を回そうかな。どうでもいいけれど。値つかないか。

とにかく目覚めた黄泉が動き始めている。ご用心。黄泉は気まぐれだよ。

罪を憎んで人を憎まずということについて。人間には様々な属性がある。罪に当たる部分がその一つとしてあったとする。結果の重大性に於てその罪を償うが、生命で償うこともあれば身体自由財産で償うこともある。ところで、国家及び社会或いは他者に対して犯した罪は法的に裁かれる。自分自身が困るだけの罪もある。法は関与しない。若者のシンナー中毒がその例である。さて、それを教育的に治そうとする。みんなが心配していると云って。それで治ると思うこと自体が甘い。その部分はゴミである。しかしその部分である。世の教育的配慮はその子に対してその部分を以て人格そのものを論理として否定している。ゴミの部分はその部分だけであるのに。ここに欺瞞がある。ゴミの部分は焼くしかない。その部分を焼けば、その他の良い部分はそのままで良い。問題にするべきはそのゴミの部分だけである。しかし世の教育論者は人格そのものを問題にしている。間違ってるね。甘いね。ピンポイントでゴミの部分を焼く。子供達はそれで立ち直る。人格全体の問題ではない。教育のピンぼけである。人格の問題ではない。シンナーで人格を否定されることを子供達は望んではいない。シンナーに依存している部分だけを問題とするべきである。この点に於て世の処し方が偽善であることに気づいていない。教育者ぶって何を云っているのか。いつまでも問題解決にならないではないか。慰め事ではなにも解決しない。諸価値に対する自覚を促すこと。結果は問わない。結果に於て問題があれば補填すればいい。目的と手段を明確にすることができることが自覚することと云える。例えば職業は手段である。目的はくらしである。世の教育論が何を云いたいのか私にはわからない。概念としての言葉はあるが、実体がない。具体的内容がない。中身がない。結局子供達を惑わしているだけだ。あるというなら云ってみるが良い。妄念を公共電波で流布してどうするのか。世の中で幸せに生きている者はいる。それを自分勝手に人生は悲劇でしかないと思っている。だから自殺したりシンナーに依存する。かれらは方法を間違っているだけだ。道元は云う。昔より縁なきことを恨みよ。どういう意味か。自分で自分を規定している。妄念の中で浮沈している。妄念が妄念を指導している。

さて、日日是好日(にちにちこれこうにち)。閑事の心頭にかかることなくんば、すなわち、人間の好時節。こだわることはない。惑わされることもない。気にすることはない。あらゆる道徳規律に縛られることもない。何をしても自由である。思い通りにして法を超えることはない。何故か。神仏及び祖先の守護のある故にである。日々時々刻々、笑顔がこぼれてくる。妙好人の境涯が開ける。究極の幸福である。ただし、現実は厳しい。過去の種がまだ開花しているからである。しかし未来は明るい。明るきから明るきへ決定されている。善の種を蒔くからである。大切なのは今である。今の思念と行為が未来を決める。善の種を蒔けば善の花が咲く。惡の種を蒔けば惡の花が咲く。何事も法則通りである。自分勝手ではない。善の種を選択するのか。惡の種を選択するのか。選択の自由は自分にある。万物の霊長たる所以である。是諸仏法。一切種智慧。何を以て頭脳を使うのか。何を以て心を制御するか。どのようにして手段を集めるのか。何を以て心を労し疲弊するか。貪、瞋、痴。三悪である。解脱涅槃の現実化。修行を要する。すなわち努力を要する。世の勝ち組達は貪、瞋、痴が群れを為しての故に過ぎない。しかし方法を誤った。もはや君たちの理念は通らない。黄泉の意思である。真実が目覚めている。宇宙自然生命が動き出した。真理である。人間の属性の中で最も偉大なものが最も遅れて開発された。21世紀である。楽な境涯が開けている。すでにその道は開かれた。後に続くべし。モーゼが杖を地についた。海が開けた。これはそのまま自己の心の開門である。あらゆる物語は知らしめんが為にであった。クラシックの所以である。真実が秘せられて伝えられていたのである。もはや愚かでは存続できない。活眼開くべし。良い意味での個人主義?概念はあった。すなわち名づけられていた。しかしそれが実現されるのは今からである。すなわち説かれたのである。今より実行あるのみ。実行なければ結実なし。未来は近い。過去を振り返ることはない。前進あるのみである。人間は前に歩くことしかできない。限りなく理想を求めて行くべく運命づけられている。過去は失敗の連続である。それは反省して克服するだけである。償うべきは償うだけである。何時までも過去を問題にしても何も解決しない。過去に縛られていることがすなわち地獄である。日々新たな課題が現れる。一つ一つ解決する。一つを解決すれば新たな課題がまた現れる。それでいい。解決しなければ、解決するまで、その度を増して何度でも現れる。これが因縁である。世の知識階層は何も解決していない。だから問題が大きくなっている。傍観していては同じである。何のための頭脳であるのか。いつまでも身分に安住していては共に滅びる。何時までも怠惰ではいられない。周りが幸せになればその中にいる自分も幸せである。世の成功理論は自分だけが幸せになればいいという論理である。いつか共に沈む。考えるべき事は何か。推して知るべし。各々の問題である。世書の目的も庶民の解放であった。新大陸。ジョージ・ワシントンはプロテスタントを解放した。リンカーンは奴隷を解放した。アマルダ海鮮で勝利したのは海賊キャプテン・ドレイクだった。今、庶民が解放される。庶民とは、健全な魂をもつ善良な方々である。社会は庶民のためのシステムである。暴力と欺瞞を手段とする傲慢なエゴは敵である。善良であるが故に嘘が言えないかれらを欺罔し、かれらの泣き寝入りを前提に蔓延った。それが世のセレブであり、勝ち組である。善良であれば負け組になる。嘘を言わなければ利得はない。そうした現在社会である。法は社会のためにある。宇宙自然生命の意思である。これに反すれば淘汰される。神は高きを低くし、低きを高くするために来る。今まではこうした真実も現実化しなかった。何故か。しかるべき存在が目覚め自覚していなかったからである。しかるべき存在とは何か。ロゴスを持つ存在である。ロゴスとは何か。言葉が現実化する。何故現実化するのか。黄泉が彼を通して動き、意思実現するからである。その存在が目覚めた。自覚を成就した。畏るべしとはこれであった。お客様は神様である?そのような馬鹿なことはない。お客様の中に神がいるかも知れぬ。神を叩くとどうなるか。死に神が来る。神とは何か。心身清浄を成就し神仏に受容され守護された存在である。神へ至る道も示されている。神の前にもはやたわけた戯れ言は通らない。万軍の主もご照覧である。生まれながらにして持っている種がある。蒔くべき種は何か。何の花を咲かせるのか。春である。生まれてきた意味を知ること、そして、それを成就すること。それぞれ使命がある。そして秩序がある。見えない世界の秩序は見える世界と同じである。見える世界は見えない世界の反射である。反射であるからには虚像である。逆である。因って現実は常に本末転倒している。


2006年04月02日

馬鹿馬鹿しい世の中

消費者は如何に金銭的に刹那的な利得を得るかのみを考えて行動している。それを心理学的に利用してビジネス社会が進行している。あまりにも不毛な日常ではないか。何のために精神を労し疲弊するか。使うべき頭脳を何に使っているのか。空しいばかりであろう。それが幸せか。それが勝ち組か。もはやこのようなことを指摘するのも馬鹿馬鹿しい。派遣社員の実体を知っているか。有給休暇はない。 社会保険はない。交通費は自腹。100円パーキングも自腹。ボーナスはない。例えば技術のみに対しての賃金体系の筈が、現場営業及び事務処理も強要されている。しかもこれらのことに対してペナルティもある。しかし、事務経費及び営業手当あるいは危険手当はない。どう考えても納得いかない。クレジットの利息制限法を超えている高利が納得いかないようにね。泣き寝入りが前提となっている。これが姑息卑怯商売根性である。強く出ればすぐにへつらい尾を振る。しかし搾取されている。二重三重に搾取されている。これを利用するは企業の不当利得である。これを野放しにするは、身分に安住する労働基準監督署の怠慢である。公務員も一枚の試験に合格しただけの地位でありお里は知れている。しかし、経済基盤が回復し、派遣社員も減少するだろう。その時、基礎を派遣社員においていた企業は地獄を見る。ペナルティと称して業者を泣かせ、廉価に商品を納入せしめ、群がる消費者を煽って大安売りをしていたダイエーのようにね。また裏で高利貸しに資金供与する銀行は永遠に高利貸しの地獄から抜け出せない。ラスコリーニコフが笑ってるぜ。馬鹿馬鹿しい世の中だね。何に頭を使っているのか。騙すことで利得することしか能がないのか。規制緩和を推し進めた経済主義権力の下に、取引行為の名で欺罔行為を以てシステムを複雑化し、真実を見えなくし、商人の天下となった。そして究極はメジャー及びアメリカ商業資本の思うつぼとなった。西洋重商主義の基礎は何であったか。例えばインカの金である。日本もぺりー以降その波に飲み込まれた。しかしそろそろ浮上する。悪銭身につかず。思い知るね。お金などキツネの木の葉にも劣る。お金が人間社会に現れたのは何時だったか。封建時代には商人にしか用がなかった。商売の原理は何か。嘘である。カルヴァンの罪は重いね。孫子の兵法も敵を欺くことがその第一だ。人間は知れている。かつて日本の武士は名を名乗ることから始めた。世の勝ち組達がどのような声をしているか。お里が知れている。今個人情報保護で何を保護するのか。何を隠すのか。お里である。馬鹿馬鹿しいね。よほどスネに傷があるのだろうね。本末転倒。どういう意味か。本来大和の精神は正正堂堂明明白晴天白日威風堂堂。恥ずかしくはないか。それでも日本人か。なよなよした男が多すぎる。烏合の衆。こざかしい権キツネばかりが大きな顔をしている。君たちの時代は終わったよ。黄泉の意思だ。賓主歴然。あまりにも無視し愚弄した。その方の罪が問われる。さて善良なる故に嘘の言えず泣き寝入りであるかのような方々へ、・・・負けるな一茶これにあり。目の輝きが自己の格の高さを証明している。発する声が心の真実を露呈している。すべて顔に書いてある。その格の高さが意味を持つ時代を迎えている。真実清浄。今までは看過されたことではあった。衆愚の数の論理支配によってであった。しかしその支配も終わった。時代の微分傾向は方向転換した。何故か。生まれながらにして自覚するべき存在が自覚を実現したからである。本来の価値がその生命を得たからである。地中に埋もれていた諸価値が目覚めた。事実現象は見えない世界が支配する。これまでのたわけた戯言はもはやその存在根拠を失った。首を洗って待つがいい。黄泉が動き始めた。調べはついている。ダイヤモンドに何故価値があるか。何故希少であるのか。クオリティ!詐欺と暴力が恣に蔓延った。しかしその傾向も極大に達して収束へと回帰する。詐欺と暴力が清掃され、真実の花が咲く時を迎えた。今その時である。かつて仁義なき戦いがあった。誰の意思であったか。ある存在の意思であった。何故あったのか。ある存在のために環境が整備されたのであった。今再びスケールを変えて環境が整備される。地球規模である。黄泉の意思である。万軍の主も馳せ参じている。黄泉に於て配備は完了している。実体のない嘘=妄念の花が詐欺と暴力である。各々その大小に於て観念するべし。黄泉或いは真実に対する裏切りの事実がある。ゆるされはしない。悪人正機説?惡のまま往生はない。惡を自覚し反省することで成仏する。勝手な解釈をしていないか。親鸞の解釈は親鸞でなければわからない。耳に手を当ててみるがいい。血流の音がする。内燃機関の音である。


2006年04月01日

思い通りということについて

これから孤島へ行かなければならなくなったとする。一冊だけ本を持って行ってもよいことになった。さて何を持って行くか。西洋においては聖書を選択する知識人が多い。日本においては道元である。さて、道元にしても法華経にしてもその解釈および解説が数多ある。ほとんど正鵠を得ている。九分九厘は当たっている。しかしとどのつまりがちがう。何故か。道元および法華経の経験がないからである。そのとどのつまりとは何か。ロゴスである。自ら発する言葉がロゴスとなるとはどういうことか。不合理でありながら実現するといふことである。これを以て思い通りとする。思い通りとは思いが通ることであるが、悪では通らない。神仏がゆるさぬ。これを以て畏るべし。魂の代々の遍歴の結果である。魂にも格の差がある。開発するべきところである。自ら以て生まれた種である。このチカラは自覚することを以て成就する。