2005/12/19

仏法の神髄(真理)

「そのとき、僧たちよ、かの尊きマハー=アビジュニャー=アビブ如来は、かれら幾千万億というブラフマンたちと、王子である十六人の息子たちの懇請するところを知って、そのとき三回回転して、十二の外形をもつ教えの車輪を回したが、この車輪は沙門によっても、婆羅門によっても、あるいは神や悪魔やブラフマンによっても、またそのほかの誰によっても、この世においては二度と回すことのできないものであった。その教えとは、『これが苦悩(苦)である。これが苦悩の原因(集)である。これが苦悩の絶滅(滅)である。これが苦悩の絶滅に至る道(道)である。』という神聖な真理である。また、かの如来は縁起の展開を詳細に説明した。すなわち、無知(無明)が原因で生活活動(行)があり、生活活動のために対象を識別する作用(識)が生じ、対象を識別する作用があるために名称と形状(名色)が識別され、名称と形状のよりどころとしての六種の感官(六入)があり、六種の感官が働くためには対象に接触すること(触)がなければならない。対象に接触するためには心のはたらき(受)がなければならないし、心がはたらくためには欲望の満足を強く求める心(愛)が起こらねばならぬ。欲望の満足を強く求める心の原因として深く思いこむ心(取)がなければならない。深く思いこみ具体的に固執する原因は自己の生存(有)であり、自己の生存の原因はこの世に生まれること(生)であり、この世に生まれたが故に老と死(老死)とか憂いとか悲しみとか苦しみとか不安とか悩みとかが一緒に生ずるのである。このようにして、苦悩の大きな塊の全体が起こるのである。従って、無知を滅することによって生活活動はなくなり、生活活動をなくすることによって対象を識別する作用は起こらず、対象を識別する作用が起こらなければ名称と形状はなくなり、名称と形状がなくなれば、それを識別する六種の感官は不用となり、六種の感官をなくすれば対象に接触することは不必要となり、対象に接触することがなければ、心のはたらきは起こらない。心のはたらきがなければ、欲望の満足を強く求める心はなくなり、欲望の満足を求めることがなくなれば自己の存在は問題とならず、自己の存在を否定すれば生まれることがなくなる。そして、生まれることがなければ、老も死も、憂いも、悲しみも、苦しみも、不快も、悩みも、すべてなくなるのだ。このようにして、苦悩の大きな魂の全体がなくなるのである。」(岩波文庫『法華経(中)』p55-57 「化城喩品」)  

これが、仏陀の悟りとしての真理であった。この世の、生老病死の苦悩からの解放が彼のテーマであった。そして、難行苦行したが、解結はなかった。しかし、その難行苦行を通っていたが故に、靜慮という手段に至った。そして、気づいた。仏陀が、見つけてくれた真理である。私たちは、ここから始めれば良い。この理を真に知るための業がある。そして、この真理を体験的に知ることこそ、人類の永遠の夢であった。しかし、私たち一般は、この真理の存在さえ知らず、あるいは、知ろうともせず、認めようともせず、エネルギーを刹那的快楽に使用している。愛(情熱、パッション、孔子の公憤)はエネルギーの根元であるが、それを使う目的を誤って自分解釈し、その必然として、法則通り、生老病死という地獄へと再び赴く。悲しき存在である。せっかく人間として生まれて、生老病死の原因とメカニズムを学び、それより解脱する手段としての方法(業)も見つけて貰っていて、その方法は、難行苦行ではなく、普通に生活しながら、つまり、五欲を断ぜずして、五衰より三楽へ上昇できるチャンスを得ているのに、六道を輪廻してしまう。これを以て「悲」と言う。気づけないのである。人間に生まれた意味は、この真理を知り、自分たちも、仏陀と同じ安楽を得ることにあったはずであり、過去において、それを恋いこがれ、憧れていたはずであったのに、である。たとえば、ここに言う、自分の存在を否定することの意味にしても、自分解釈して、取り違えている。不生、不死についてもである。自分の存在を否定するとは、むしろ、自分を大肯定することである。これを以て、仏語は、人間の言葉を超えている。人間が人間である限り、その解釈を間違う。因って、体験的に悟るより他はない。ここに、理入を得て、行入の必要がある。それは、祖先の供養とか、菩薩として生活してみるとか、仏を讃えるとか、真理としての法を讃えるとかである。そうして、この自然が、たとえば、『十牛図』の第九番のように、還現する。「花は紅、柳は緑」である。そして、第十番は、世間に帰る。これを以て、「廬山は煙雨、淅江は潮。未だ到らざれば、千万感消せず。到り得て、帰り来たれば、別事なし。」(『廬山は煙雨、淅江は潮』蘇東坡)である。至る前も現実、後も現実。同じ現実であるが、違う。「大死一番絶後に蘇る」。難行荒行苦行は要らない。しかし、これより他に、真の幸福へ至る乗物はない。過去より諸聖賢の証明しているところであり、経験を通して、自得するところである。そして、この真理の内容と、そこへ至る方法が、秘められていた國が日本であった。世界そして人類の秘宝である。もはや、疑いはない。かつてあった、仏国土、あるいは、楽園の建設である。悪の根は抜く、善の種を蒔く。これが仏の一大事であった。始めに戻る。一から始める。ごわさんである。(御和讃?破産?七五三→1?・・・?・・・『遠野物語』だったろうか。著者は言った。「ピピッ」、その時、鳥が鳴いてくれなかったなら狂っていた、と。)