2005年12月17日

人間の英知

既に人類の英知がある。これから、はじめさせて貰えばよい。それが人間の英知である。どこから始めるか。最高の英知はドコにあったか。ソクラテス、仏陀、キリスト、孔子。そして、そのそれぞれに何か付与できるものがあるか。いくつも山はある。どの山を登るか。頂上より見る景色は絶景か。自由とはね、如来を知ったときだね。人間レベルでどんなに語っても人間レベルを超えることはない。そうした限界を知って語ることも必要だね。語るというのはね、内容ではないのかも知れない。人格と人格の接触だね。それが魅力となる。雰囲気と言っても良い。くだらない話をしているとね、脳が痛くなるよね。これが、苦悩の原因となるのかな。全てを理解できない。理解できるところからで良いね。魅力ある人生でありたいね。説明は要らない。良いものは良い。何を表現しても自分の表現だね。自分は何の花を咲かせているのか。芍薬、牡丹、・・・。ガーベラ、彼岸花(おぞましい)。蟹の姿を見ると蜘蛛かと思う。好きにはなれない。貝はアカガイ、そのヒモの寿司が食いたいね。やはり、アワビが最高かな。魚の刺身もかみしめると美味しいよ。トロは大トロと言うけれど、カマだね。アラ炊きは、ヒラメが最高さ。美味しさいろいろあるけれど、人間の英知が一番美味しいよ。努力努力と言うけれど、結果、不幸となる努力は悲しい。しかし、努力してるとね、必ず、大いなる力が味方してくれる。だから、世間一般の要領のよさがいけない。間違った方へ導かれる。自分のチカラで例題を解いてね、それが、大いなる存在を喜ばせる、すると、大いなる力が味方についてくれる。試練はあるけれどね、必ず、幸福へと導かれる。試練が大きいとね、喜びも大きいよ。今、安易に成功している方々を師とするとね、地獄へ堕ちるよ。すでに、聖賢は多く存在している。学ぶべきは、聖賢からが良いよ。至りつく世界が違う。往々にして、人間は諦めるね。諦めたらそこが終着駅となるね。魂のレベルはね、良いよ。宇宙の胎蔵界へ入れるよ。極楽だ。低いレベルだとね、来世も、また苦しいよ。 

A・トフラー著『第三の波』が、世に論じられたのは、昭和56年だった。その後、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出た。しかし、その流れは、バブルの崩壊として帰結した。何故か。日本経済に世界が期待したのは、機関車としての牽引力であった。無意識的に、世界は、日本にその能力があることを感づいていた。確かに、その頃、瞬間的にその可能性があった。しかし、日本はその原動力としての核を失っていたのだった。それに気づく者はいなかった。そして、必然として、日本経済は逼迫した。これも、真実を知らしめんが為であったと今は言える。さて、第三の波はITである。そのインフラは整った。いよいよ、日本があらためてその真価を発揮しなくてはならない時を迎えた。真実の中の方便としての時を過ぎて、真実の中の真実の時を迎えたと言うべきか。世界が無意識に日本に期待したのは、当時、世界で最も安全な文化国家であった。何故、日本が最も安全な國であったのか。それは、たとえば、国鉄のダイヤの正確さが象徴となる。日本の勤勉さである。スイスよりも日本の方が安全であったはずである。世界の資産家は、日本のマーケットに期待していたのはそれであった。日本の勤勉さは何故あるか。それは、日本古来の精神にある。スイスでは、庶民は家庭に銃を持っている。個人の安全は個人で守らねばならぬ。日本の家庭には銃はない。また、世界において、最も古い國は日本である。中国五千年と言うが、何度も、王朝が入れ替わっている。ヨーロッパはゲルマン民族大移動後のことである。古代王朝で、その純粋性において、万世一系を誇るのは日本のみである。また、自然の恩恵を受けて、日本こそ、四季(season)の咲き乱れる唯一の國である。これが、日本こそ、最後の楽園であり、また始めの楽園であった所以であり、人類という生命体に秘められていた謎であった。あらゆる記録あるいは物語を分析して、得られる結論である。して、日本史と世界史とが合流して、いよいよ、世界が地球となって、その地球が進むべき道をドコに求めるかとするとき、オリエントの極東日本が、純粋精神の種が、諸神仏によって守護されていた國として浮上する。大和魂は汚れ及び嘘がない。しかるを、西洋文明にかぶれた輩が暫く支配していたことも、反省されて、本来の日本のクラシックが復活する。すると、花咲けば、誰もがその存在に気づく。日本こそ、世界の財産を預けるにふさわしい國として、世界が日本を再認識する。富が、託されるのである。日本が日本古来の精神に目覚め、それを復興する所以である。世界は、意識的に、それに気づく。歴史の流れであったのだ。約束であったのだ。これが、新しい世界の幸福論である。そして、それが、証明されつつある。そのための、試練の時があった。そういう認識で足りると思われるのです。因って、未来は明るい。すでに、日本は日本であり、そのままでよいのですから、苦労はないのです。本来の日本を素朴に表現すればそれで良い。勤勉さと精細さは、技術において、日本に勝る國はないのですから。ありのままの日本で良いのです。それで、本来の価値に基づいた牽引力を発揮できるのです。無理しなくて良いのです。さて、日本はどうあるべきか。  

日面佛、月面佛。日天子、月天子。どちらも佛である。寿命の長い日天子、短い月天子。細く長くとも言うし、太く短くとも言う。一生で食べる量は決まっているとも言う。しかし、佛にしてみれば、一切足りている。プラスでも足りている、マイナスでも足りている。善でも良し、悪でも良し。所詮、人生である。そこを、鈴木大拙氏は、人殺しもいれば、泥棒もいる、だから面白いと。花は哀惜に散り、草は棄嫌に生ふる。それぞれの人生である。佛から見れば平等である。結果、何処へ行くかは別論としても。それで、是諸仏法、諦則がある。苦悩からの脱出、それが仏法。衆生功尽きて大火と焼かるると見るときも、我が此の土は安穏なり、如来の約束である。であるが故に、一切大衆に、救われる道を進んで欲しい。しかし、往々にして、自ら地獄へ赴く。世の説法者も然り、人間である。人間である限り、一切衆生自ら、出ること能わず。それでも、地獄へ向けて、愛とか何とか、知ったようなことを言っている。因って、哀しむべきかな、と。地獄へ急いでいるのをえ知らず、自由とか思っている、悟りを知ったつもりでいる。で、日面佛、月面佛。如来を知って、生きようが死のうが、・・・。悟りとはそうした境涯である。楽であることは格別、保障されている。お金はなくても。世に、説法者ほど思い上がりはいない。言っていることと己の現実が乖離している。偽善の原型。僧であるなら、僧に徹するべし。今、僧がビジネス手段となっている。墓所を売っている。しかし、それは、飽くまでも使用権、制限物権であり、仮のものである。それで、商売している。世の学校教師もそうである。先生と呼ばれるべき人格がない。何故、こんなにまでも、内容がなくなったのか。金銭至上主義の故である。  

君にも、メタ概念としての君がある。それが、神である。


2005年12月16日

草野心平 カエルの冬眠

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